ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

高須芳次郎著『水戸學精神』第六 藤田幽谷の人物と思想 (五) 幽谷の育英事業及び修史 (六) 幽谷の藩政に對する貢獻 (七) 幽谷が憤慨した外人の跋扈 (八) 東湖に吿げた幽谷の胸中

2022-08-26 | 茨城県南 歴史と風俗

高須芳次郎著『水戸學精神』 
   
  
第六 藤田幽谷の人物と思想  
    

 

(五) 幽谷の育英事業及び修史 
  爾來閉居三年の後(寛政十一年(1799年)十二月)彼は、潮く赦に逢った。やがて元の如く、彰考館勤務となり、編修事務に勵精した。それは、二十六歲の時である。 その後、二年の日子は、夢のやうに過ぎた。

 やがて享和二年(1802年)、二十九歳になると、學舍を作って、青藍社といひ、子弟をあつめて 儒學その他を講じた。幽谷の學殖•文才は、夙に一藩の知ったところであったから、從遊する青年は漸く多かった。

 かうして彼は育英事業によって、その胸中磊塊の気を洩し、縦横に古今の思想・學說を論じた。幽谷平生の主張が他日、大いに伸びたのは、主として青藍社の人々が、その指導により思想上に活動したからでわる。
 時にその年(享和二年、1802年)十二月、幽谷は急に文公の召命に接し、あわただしく、江戸に上った。十八日、小石川の藩邸に着くと、二日の後、すぐに文公に謁することを許された。

 蓋しその頃、文公は、義公の遺志を継いで『大日本史』の完成に力を注がうと思ひたち、第一に幽谷の手腕・力量に最も多く期待したのである。當時、本記・列傳は出來てゐたが、志表の方面が兎角角、遅れ勝ちになり、これを取り舞める上に、特別の力を注がねばならない。それ故、幽谷の文才・學識に俟たねばならないところが少からずあった。

 かくて幽谷は、當日(十二月二十日)史臣高橋坦室らと文公に謁して下問に接し、詳しく、修史の趣旨及び中古以來の歴史を述べ、且つ史館の沿革についてもいろ話說した。次いで幽谷は、新たに文公の命を受けて、『大日本史』刊修のことを、嘱任されたのである。

 その際、幽谷は、「不肖その任に堪へませぬ。他に適切な人をお用ひありたい」と再三、固辞したが、許されない。依って彼は率直に當面の意想を披歴し、「水戸では、現在、老儒、宿學に乏しうございませぬから、私のやうな、年若く、才識の少いものが大切な修史事業の局に當るのは、僭越且つ不當と存じます。何卒、臣の申すところと嘉納せられ、先輩を重用せらるるやう、只管願ひ上げ奉ります」と至誠を面に現はして言葉をつくした。 

 文公は、その旨を諒としたが、他に適材がないので、結局、幽谷は、高橋担室と共に 最至難とされた『大日本史』志表編修の局に常ることとなり、翌年(享和三年、1803年)江戸に移って、この方面の仕事に全心を打ちこむに至った。

 幽谷が史館在勤中、尙ほ記すべきことは、
(一)史臣高橋坦室が文公の存意として、論贊削除のことを主張・建言したについて賛意を表したこと、
(二)修志繼續の項を決定した上などにある。

 元來、『大日本史』の論賛は、支那の『史記』の體裁に依って、安積潜泊が起草したのである。
それは、文章・内容共に立派であったが、一家の私選たる『大日本史』で皇室の上に言及したリ、或は褒貶の点を朝廷に加へたりするのは穏當でないといふ評判がおった。

 文公は、この點を憂ひ、論賛削除を必要としたのであるが、高橋坦室は、この點に共嗚して、賛意を上書したのである。これについて幽谷も、「事に據つて直書すれば、勸懲の意がおのづから現はれる。これを論賛に俟つの必要はない」と坦室に告げ、賛意を表したのである。この事は、後、實現されて、『大日本史』から論賛を削 り去るに至った。

 それから修志の事は、義公時代からの根本精神で、本紀・列傳と相俟って、文明史の役目を全うするといふ意味を以ってゐた。それ故、文公は、是非、志類を編修すべき必要を感じ、立原翠軒・高橋坦室及び幽谷らを召して、その旨を傳へた。
 ところが、翠軒は、後、紀傳の完成•上木を急務として志類を廃すべき說を主張したのである。史臣の多くは、これに反對し、幽谷も、公議の上から、止むなく、この說に反封した。
 双方、論議の末,幽谷の主張は容れられ、志類編修のことに決した。が、これがために、爾来、幽谷派と翠軒派との對立・抗争を見るに至った一主因を為した。

 その後、文公薨じて、武公の時代となったが、幽谷は、益々士臣として重用せられ、文化四年(1807年)、彰考館總裁の椅子についたのである。  

(六) 幽谷の藩政に對する貢獻
  文政五年(1822年)、幽谷は、彰考館總裁の職にゐたが、濱田郡奉行を兼ね、暫く外に出ることなった。それは三十五歳の時である。これより先、彼は貧しい農民らを救ふために、寛政十一年(1799年)、『勸農或問』上下二卷を書き、支那經濟學の原理ともいふべき利用・厚生・正徳の意義を勸農の上に活用した。

 その中には、富める農民の兼併の弊害を論じ、限田法の必要を力說した。卽ち富めるものが無暗に貧農の田畠を併合して、我儘を働くことを排したのである。 

 かうした關係から、幽谷が濱田郡奉行になると、平生の所僞を直ちに行はうと考へ、 限田法の實現に邁進しようとした。が、これを濱田郡で實行すると、他の郡にも少からぬ影響を及ぼすといふので、手强い抗議が外部から起った。その爲め、幽谷は所信を實行することが出來ないで、不滿の中に、郡宰の職を辞したのである。

 かうした關係から、幽谷は、再び水戶の史館に歸つて、編修事務を總裁することに專ら力を注ぐやうになった。そして文化十年(1813年)、江戶に召し出されて、『大日本史』の件につき、種々議するところがあつた。
 滞留數箇月の後、水戶に歸ったが、當時、彼は、武公の信任を受け、通事の職に進んだのである。幽谷はその知遇に感じ、武公のために、熱心、政弊を一掃して、革新の實を擧げようと鋭意した。

 蓋し武公は、度量が大きく、よく臣下の諫めを容れ、政治上、粛清の實を全うしたいと考へてゐたのである。依って幽谷は、率直にその信ずるところを述べたが、要路の諸臣は、偷安・姑息を喜んで、幽谷の直言を蛇蝎のやうに忌み、折さへあれぱ、幽谷を敬遠しようと計った。

 この消息は、武公も能く知り、力めて、幽谷の直進しようとするのを抑へて、彼等小人の罠にかからぬやう、幽谷にも親しく諭すところがあった。こんな具合だから、幽谷はその滿腹の經綸を何處にも施すべき術も、折もなく、止むを得ず、修史方面に力を專注しつつ、ぢっと不滿の感情を抑へてゐたのである。  

 さうしたうちにあっても、幽谷は、尚ほ前途に一復の光明を認め、武公によって、政治上における改革を實現して、行き詰つた藩政に新生命を注入しようと心がけた。
 ところが、文化十三年(1816年)、賴みの綱と思ってゐた武公が薨じたので、折角の志も水泡に帰して了った。當時、幽谷は泣いて、「天は未だ威公・義光の意忐を十分に實現することを許さぬのであらうか。有爲なわが君の生命を奪ひ去る事が、餘りに早すぎるではないか」と浩嘆したと傳へられる。

 やがて哀公の時代になると、幽谷は江戶に召し出され、その初政について、いろいろ思ふところを率直に献策した。當時は所謂大御所(徳川家齊)の時代で、平和の空氣が 濃厚であったと同時に、頽廃の氣が到るところに滿ちた。

 幕府においては、賄賂が公行して、風俗も大分くづれ、萬事、情實によって左右さるるやうな具合になってゐた。水戶の如きも、さうした惡影響を免れることが出來ぬので、剛健、質實の士風も次第に軟化しはじめようとした。幽谷は、心窃かにこれを憂ひ、斷乎として、陋俗・軟風を打破らねばならぬと切思したのである。  

(七) 幽谷が憤慨した外人の跋扈  
 折柄、一方では、外交國難が漸く深刻さを加へて來た。文化五年(1808年)には、イギリスの船が浦賀に來り、同七年(1810年)には、東海方面に出沒して、軽舸を下し、その一隊のものが常陸多賀郡大津村の海岸へ姿を現はしたのである。それと見た村民は、すぐ彼等を捕へ、官に屈け出た。  

 この事が、イギリス船に知れると、度々、帆をあげて海岸に近づき、時に大砲を放つて、海邊の民を驚かし、人心恟々たる有樣だった。以上の趣が幕府の耳にはいると、代官古山善吉、通譯吉雄忠次郎らを大津村に派遣した。
 
 その時、「外夷が侵入した」といって、非常に激昂してゐた水戶士民は、幕府が攘夷令を斷行して、イギリス船を焼き拂ひ、イギリス人を誅するであらうと思つてゐた。ところが、古山らは、寛大な態度以って彼等に臨み、間もなく、イギリス人を放免したので、ひどく失望して了ったのである。  

 これより先、幽谷は、右の事情を聞いて、心から慨嘆し、突如、傍らにゐた息、東湖に向ひ、「お前は死ぬのは嫌か」と聲をかけた。その意外な言葉を耳にして、東湖は一寸、首を傾けたが、やがて凛とした調子で、
「私は決して死を恐れませぬ。が現在、父上がをらるる以上、日夕お側にをりたいから、無意義に死ぬことを好みません。けれども父上が今、意義あることのために死せよと仰せらるるなら、立所にこの生命を捧げませう」と答へた。 

 かくと聞いて、幽谷は双眼に暗淚を浮べ、「今、お前の快い返事を聞いて嬉しく忠ふ。實は、こんなことをいふのは、外でもない。この頃、年々、外夷どもが、わが神國日本の邊海を荒らし廻り、時には、大砲を鳴らして、無邪氣な漁民を驚かして、得意になつてゐる。且つ彼等は、日本を侵略しようといふ野心を抱いてゐるのだ。實に傲慢、無禮の至りではないか」と幽谷は激昂したが、更に語氣を強め、
「彼奴らに向つては、當然、 攘夷令を適用してこれを塵殺しなければならぬのに、幕府當局は、姑息に甘んじて、唯 眼前の安を貪り、嚴重に彼奴らを處分しようとしない、大抵の場合、放還するのが常だ、 こんなことでは、わが神國日本に一人の男子もをらぬといって差支へあるまい。何たる腑甲斐なきことか。自分は何よりそれを恥ぢ、且つ憤ってゐる。依って今、イギリス人が大津の濱へ來た機會を逃さず、汝を派遣しようと思ふのだ」と云って、胸中、動かすことの出來ぬ決心を示した。  

(八) 東湖に吿げた幽谷の胸中 
 東湖は、父の様子を見て、吾知らず緊張した。幽谷は、その表情を見て、滿足らしい調子で、「汝はこれから大津の濱へ出かけて、そっとその邊の様子を偵察し、萬一、今度も亦、イギリス人を放免するが如き處置を執るなら、斬って斬って斬りまくれ!そして上陸したイギリス人を殺して了ふがよい。かく目的を達したら、官に自首して制裁を受けるべきだ。それは一時の權宜だが、神州の正氣を發揚することが出來よう。自分は不幸にして女子が多く、男子はお前ばかりぢや。お前が亡くなれば繼嗣を失ふわけだが、國家のためには、それも止むを得ないと覺悟した。お前は後事を氣にせずに元氣よく出かけてくれ」と励ました。

 かうして東湖は、「委細拜承いたしました」と云って、急いで出かけようとするところへ飛報が來た。
「イギリス人は放免された」といふのである。この時、幽谷の憤りは正に絕頂に達した。
「こんなことでは、斷じていけない。どうしても、神州の恥を雪がねばならぬ。また水戸の恥をも雪がねぱならぬ。大津は、水戶の領地で、そこには防備が施されてをり、わが將士がこれを守ってゐるのだ。そして今度の大事を生じたについて幕府に急吿したに對し、當局では、唯一介の使を派して軽々しく一切を處置したのは、言語道斷である。水戸の君公や老臣らがその不當について何ら抗議しないのは奇怪至極ではないか。自分はこれを默視してをれない。これから出かけて、途上に幕吏を邀へ、大義のあるところを說いて、詰實しよう。 もう濟んで了ったことは、致方がないとしても、神州の元氣を振ひ興す一助とならう」と考へた。

  
 それから幽谷は、藩の執政、興津氏のもとへゆき、意のあるところを告げた。が、當事者は、幽谷の考へと同じでない。「外交の事は史臣たちの容喙を許さぬ」と云って、幽谷の請ひを撥ねつけた。けれども幽谷は尙ほ屈せず、史上の事例を引いて、堂々、大義の存するところを說き、彼の主張の正しいわけを明かにした。

 かうなると當事者も、幽谷の主張を無視するわけにゆかぬので、幽谷に向ひ、その感想を記錄して差出すやう命じた。この事について、幽谷は、家に歸ってから東湖に所懷を吿げ、
「古來、武士が命を受けて、他國へ使者として赴くときは、唯命令を受けるに留まり、その言葉のすべてについて、必ずしも指令を受けぬ。要するに、相手に應じ、機に應じて、按配斟酌するのだ。ところが、今はじめからそれを定めてかかるやうな行き方を藩において為すのは、矛盾ぢやないか。然しながら、事、國家に關する以上、出來るだけ自分も盡さねばならぬ」と云った。

 かうして幽谷は、徹夜、その主張を記錄し、藩の當事者へ差出したのである。が、當事者は躊躇して、容易に幽谷の文書を幕府に差出さうとしない。その中、時の移りゆく儘に、古山らは城下を通りすぎ去ったので、もうどうすることも出來ぬ。折角、幽谷の心づくしも、丸で畫餅に歸したのである。

 
 

  

〔参考〕 






 

 

 

 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 高須芳次郎著『水戸學精神』... | トップ | 高須芳次郎著『水戸學精神』... »
最新の画像もっと見る

茨城県南 歴史と風俗」カテゴリの最新記事