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高須芳次郎著『水戸學精神』第六 藤田幽谷の人物と思想 (九) 幽谷の對外策 (十) 教育家としての幽谷  

2022-08-27 | 茨城県南 歴史と風俗

高須芳次郎著『水戸學精神』
 

第六 藤田幽谷の人物と思想 


(九) 幽谷の對外策 
〔対外硬の考え〕
 その後、幽谷は、外交國難排除について、始終、心思をつくし、
その對策に關し、率直に建言しようとした。
が、當局では、平地に波瀾を起すやうに考へ、一向、幽谷の爲さんとするところに共鳴しない。
かうして、幽谷はその對外硬の精神を實現することが出來なかった。

 唯せめてものこととして、聊か幽谷自ら慰むるところがあったのは、
對外硬の考へを門下らに吿げて、彼等の發奮を促し得た點にある。

 この事について、幽谷は、その所信を披瀝し、
「苟くも神國日本を守るには、その軍隊を强からしめねばならない。
 それには士民をして勇あらしめ、嚮ふところを正しく知らしめることを要する。
若しよく時勢上、情弱に傾く弊害を去り、仁義を重んじ、名節を尊ばしむるならぱ、
士民は、喜んで、長上のために一命を投げ出すであらう。
今、ロシヤの日本侵略策は、年一年、巧妙適切になってゆく。
それに對していつも受身になってはいけない。
當方から積極的に彼を屈服せしめねばならぬ」と云った。


それから幽谷は、一步を進めて、
「かの寛永における天草一揆の如きは、まだ戰國時代を去ること、遠からぬ際に起り、
到るところ、極めて物騷だった。
平生、手剛い大小名などはこの事につけ込んで、野心を逞しうしようと考へ、
驍將や勇卒などの中には、畳の上で死ぬのをいやがる風さへある場合だった。
故に幕府は落著いた態度を執り、一揆を鎭めたのである。
ところが、今日はさういふ場合とはちがふ。
多年の平和のため、士民は宴遊に耽り、士風は軟化して了った。
だから、たとひ、勇氣を鼓舞作興しても、
尚ほ振はないであらうことに注意しなくてはならぬ」
と云った。

 次に幽谷は、かう述べてゐる。

 昔、元寇の役に當り、北條氏は、斷然、蒙古の使節を斬って、
日本政府の威容と決心とを示し、天下を擧げて、
强大な蒙古を相手とする用意をした。
それ故、人心、おのづから内に奮ひ立ち、擧國一致の實をあげて、
十萬の敵を西海に殲すことが出來た。
今、外夷どもが、わが日本へ使を流して爲すところを見ると、
或は、甘言好餌を以て我を誘ひ、或は恫喝威嚇を事としてゐる、
かかる權變を以て、我に向ふ外夷らを扱ふには、生やさしい態度を以てすることが出來ない。
何となれば、そのため、神國日本の士氣を損するからである。

 かう幽谷は考へて、硬直な態度のもとに外交國難を一排しようと熱中した。そこに

  高須芳次郎著『水戸學精神』の166~167頁 欠落  

て辞職して閑地に着いたら、専心、著述に沒頭しようと考へた。
ところが、俄かに中風を病み、文政九年(1826年)十二月卒去したのである。
時に年五十三。 

 蓋し幽谷が比較的に早く世を去ったわけは、
不遇を飲酒にまぎらして、不知不識のうちにひどく健康を害ねたからであったらう。
封建治下の門閥主義で固められた世にゐては、幽谷の如く、
卓拔の見識を有し、所信に向つて、只管進まうとするものは、到底、 容れるべき餘地がない。
且つ彼の晩年の不遇は、彼が周囲にその有力な知己を得なかったことにもよるところが多かったであらう。

〔幽谷の人物は、豪邁で、嚴正〕 
 東湖及び正志齋の語るところによると、幽谷の人物は、豪邁で、嚴正たった。
正志斎の碑文中に「狀貌奇偉」とあるから、帆采だけ見ても、非凡人たることが分る様子だつた。
彼は平生、少しもその容をくづさず、冬期は寒いからと云って、焼を擁して、あぐらをかくことなく、
夏期は暑いからといつて、肌をぬぐやうなこともなかった。
それ故 幽谷夫人は、殆ど三十年間、一緒に暮したが、一度も、幽谷の情容を見たことがない。

 ある時のこと、幽谷の高弟、杉山復堂が幽谷を訪うて快く一緒に酒を飲んだとき、
戯れに「先生、酒宴の時だけは、あぐらをなされては、どうですか。でないと、窮屈ですから……」といふと、
幽谷は微笑して、彼堂の云ふ儘に膝をくづしたさうである。
恐らく嚴正な彼も陶酔気分になると、自然、打ちくつろいだのであらう。

正志斎の記述によると、
「客に對して酒を命じ、節を撃って髙歌し、以て其の憂鬱の氣を洩す」とあるから、
酒間は、例外であったらう。

 幽谷は、四十歳の頃から頭髪が白くなった。
從って、その奇異の容貌と相俟って,早くから老大家に見ゆる風格を備へたのであらう。
彼は、家を治めてゆくについて、一糸紊れないと云ふやうな點があった。

 平生、理財に心を用ひ、學者の陷り易い浪費をしなかったので、
知人中には、幽谷を吝嗇の人と誤り思ったものもあるが、
幽谷は金銭に執着する人でなく、
それを以て、金に窮したものを救ひ、貧しいものを助けた。
かうして 彼の貯書は、大方、この方面に注ぎこまれ、餘財なきに至ったと傳へられてゐる。

 

(十) 教育家としての幽谷  
 最後に青藍會長としての幽谷を素描したいと思ふ。
旣述した如く、青藍會を作ったのは幽谷二十九歳の時である。
爾来、五十三歳に至る迄、二十余年間、門下の人材を養成
することに力を盡し、
少からぬ名士をその門から出した。

 彼の門弟中、嶄然、頭角を現はしたのは、會澤正志齋(伯民)であるが、
その他、飛田逸民、吉田活堂、岡崎槐陰、 吉成南園、杉山復堂など、水戶政敎學に貢獻した人たちがゐる。

〔幽谷の教育法〕  
 幽谷の教育法については、正志索の『及門遺範』にその要領を書いてあるが、
詳しくその面目に觸れるところ迄にはいってゐない。
 總じて、幽谷は、德有を第一位に置き、次ぎに智育に及んだ。
それと共に、德育を施すについても、抽象的なことのみを云はないで歴史上の事例を敎へて、
これを具體化してゆく用意を怠らない。

 且つ「いかに書を讀むべきか」といふ點については、
幽谷自身の經驗によってこれを說き、人物を實成してゆく大體の方針を速成主義よりも、
晩戒主義に置いたのである。  

 それらによって見ても、幽谷が當時の固定した保守的教育法に甘んじないで、
彼獨自の見識に基づき、生きた教育法を行はうとしたことが分る。

 それに、幽谷は、門下の靑少年に專ら學術のみを敎へ、
時事問題、殊に政治上の事柄は、概ね耳に入れなかったといはれる。
蓋し青少年の時代は、感情に制せられて、兎角、政治の得失・是非を論爭し、
學術の講究を疎かにするの傾向が多いからである。

 幽谷の教方法の大體は、以上の如くであるが、
その德育における重點は、日本園體の尊嚴を門下一同に明識せしめ、
次ぎに忠孝一本の旨を徹底、浸透するにあった。

 『及門遺範』にはこの事に及んで、
「先生、尢も君臣の義を重んす。恒に人に語って日く、
天祖統を垂れ、天孫継承、三器を奉じて、宇內に照臨したまふ。
皇統緜緜、天壤と興に窮まりなし。
實に天祖の命ずる所の如し、是れ神州の四海萬國に冠たる所以にして天祖に天孫天と一なり。
世々相襲ぎて天津日高と就す。
謄極は之を日嗣と謂ふ。
神天合一、殷、周、天と配して尚ほ天と二となるを免れざるものと同じからず。
先生の國體を論ずること、其の大旨此の如し」と記してゐる。

 

〔日本國體の尊嚴、忠義の精神を力說〕   
 當時の教育家は、大抵、支那風の道徳を教へるのを主眼とし、
幽谷の如く、明確に日本國體の尊嚴を門下に教へたものは少い。
そこに、幽谷の優れた考へ方が現はれてゐる。

 且つ幽谷は、忠孝一本の旨を教へるについても、ただこれ口先で説いたのではない。
彼自身先づこれを實踐してから、門下に語ったのである。
彼は、十歲以後、志を改めて、よく兩親に仕へ、
父卒したときは、三年間の心喪を守り、
また『保健大記』(栗山 潜鋒著)を讀んで感奮し、
『正名論』の一篇に忠義の精神を力說した。 
卽ち彼の忠孝說は、唯よい加滅に體裁を繕ふために說いたのではない。  

 それから幽谷が敎科目を授ける順序として、どんな讀本を子弟に授けたかといふと、
初步のものには先づ『孝經』を授けた。
この點は、當時、一般の教育家と異ってゐたのである。

それ故、『及門遺範』では、
「世俗、儒を業とするもの、久しく五山僧徒の陋習を承けて、幼童をして文選を誦せしむ。
先生は則ち先づ孝經を授く」と云つてゐる。

 それから正志齋は、
『孝經』の次ぎに、四書五經を授けて、大要を知らしめ、門弟らがほぼ内容を知ると、
『史記』『左傳』『國語』『漢書』などを授け、
道德と共に史的知識を與へて活教育に資した。  

[讀本のみを排し開發的・實踐的な教育、
  世界萬國の形勢に說く〕 

 無論、幽谷は、さうした讀本のみを形式的に教授するの皮相に墜せず。
或は親しく、歴史上の美談を語り、或は前賢の詩文を高唱して、旺んに門弟の志気を鼓舞し、
或は世界萬國の形勢に說き及び、或は政治・法律・禮樂の沿革を語るといふ風で、懇切に門下を導いた。

 かうして幽谷は、徳育を補ふに智育を以てし、門下の個性に卽して、
それぞれ快適に發達しゆくやう、開發的・實踐的な教へ方をしたのである。
幽谷が教育家として、いかに時流を拔いてゐたかは、
以上說くところによっても、その一半を推認することが出來ようと思ふ。

 『及門遺範』には、幽谷が正志齋らに告げた言葉を耍領よく記してゐるが、
さうした言葉のうちには、當時、保守的・固陋的な學者たちが、
及ぶことの出來ないやうな卓見が閃めいてゐた。

 幽谷の言葉のうちで、
「學者は君子たらんことを學ぶ。儒者たらんことを學ぶにあらず」といふが如き、
或は「古へは文武一途、未だ嘗て分つて以て二となさず」といふが如き、
更に「好んで書を読み、甚だ解するを求めず」といひ、
「咀嚼の二字は讀書の要訣なり」といひし如き、
確かに幽谷の優れた見解を示してゐる。

 近世教育史を編むものは、水戸における第一流の敎育家、幽谷の存在を明かにしなければならぬ。
嘗て水戶學派中、史學方面に傑出した栗田栗里(寬)(二四九五~二五五九) は、
「世人、東湖先生・正志齋先生を称すれども、
未だ幽谷先生を知らざるもの多し。
幽谷あらずんぱ、焉ぞ東湖・正志齋あるを得んや」と話つたといふ。

 それは、吉田彌平氏(前東京高師敎授)が親しく、栗里から聞いたところである。
栗里のいふところは、適切に陶谷の地位を明かにしたものと思ふ。
幽谷については、まだまだ今後、明確・詳密に研究せられねばならないのである。



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