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鉄砲の伝来と普及 小田氏治、大田勢の鉄砲に驚き小田城の奪還ならず没落

2014-04-03 | 茨城県南 歴史と風俗

             (佐久間好雄監修 『土浦・石岡・つくばの歴史』 郷土出版社

〔名門・小田氏〕
  鎌倉時代から約400年、八田知家から15代続いた名門・小田氏は、1548(天文17)年に政治が没し、15代氏冶が家督を継いだ。
 氏冶が活躍した時代は、種子島に伝来した鉄砲が鉄砲鍛冶の手によって模倣銃の製造に成功し全国各地の戦国大名へ普及しつつあった時代である。

1569(永禄12)年10月、小田氏治は太田勢に奪われた所領を奪回するための阿竹氏の最前線で太田氏が守る片野城を攻撃した。
 大田勢は 手這坂で防戦につとめたたが、この戦いで、当地方で初めて鉄砲が使用され小田勢は敗北した。
 その後、小田氏治は本拠地・小田領の回復を図ったがならず小田氏は滅亡した。 

鉄砲の伝来と普及
種子島に鉄砲伝来

 1543(天文12)年、種子島に来たポルトガル人が初めて鉄砲をもたらした。島主種子島時尭(ときたか)はこの新来の武器の威力に驚嘆して譲り受け家臣にその操作や製法を習わせたが、のち根来(ねどろ)寺の僧や堺の橘屋又三郎によって近.畿方面にも伝えられたといわねる。 

 ちょうどこのころ、豊後に来た明の使節・鄭舜功が親しく検分した録《日本一観》に「手銃、初め仏郎機(フランキ・・・・ポルトガルのこと)国にいず。
 国の商人初めて種子島の恵に所作をならう。次いで即ち棒津、平戸、豊後、和泉、泉州堺を通じてこれを作る。」とあって、
ポルトガル人が初めて製法を種子島に伝えて10年後には貿易港坊津、平戸、豊後、泉州堺など各地で製作されたことが分かる。
 

 鉄砲は最初に伝来し製作された土地の名にちなんで、後年《種子島》と呼ばれるようになったが、短銃でなく、ポルトガル語でエスピンガルダ、英語に訳してアーキバスと呼んだ火縄鳥銃であった。 

鉄砲伝来の翌年、模倣の鉄砲出現 
 種子島に云わって鉄砲を模倣して製造するものが現れた。
 その最初の中心軸は、矢板金兵衛の種子島、芝辻清右衛門の根来寺門前町、善兵衛ら3人を中心とする近江国国友村で、いずれも刀工の技術をもって翌1544年には完全にヨーロッパ製のアーキバス(火縄長銃)を模倣、製作することができた。 

鉄砲国内各地へ伝播 
 まだ鉄砲が珍しい時期、大名たちはこぞって領地確保のために室町将軍家に鉄砲や大砲を進上していた。
 鉄砲は、当初、戦争の道具というより贈答品としての価値が大きかったが、合戦で有効性が認められると、ちょうど戦国時代であったので諸侯は競ってこの新来の利器の獲得に狂奔した。

 1553年(天正22)、将軍足利義輝が鍛冶を召し寄せ鉄砲を鋳造させ、これを上野新田金山城主横瀬成繁に贈った。
 彼はまた近衛稙家をして手紙を種子島時尭に送らせて硝薬の法を問わせ、細川春元もまた本能寺の僧を介して種子島から鉄砲を得ている。
 また、この頃、六角承禎が甲賀の士豪黒川与次郎から鉄砲を贈られるなど、鉄砲が国内各地に流転いていた。

合戦に鉄砲が登場
 こうして鉄砲は実戦に使用されることになったので、毛利元就は1567(永禄10)年に家臣に書を送って鉄砲を警戒すべきことを戒めたが、長曽我部元親が四国の経路をすすめたところにも幾度か鉄砲戦があったと伝えられ、彼が1580(天正8)年に出した掟書には、自分の軍隊の強化のためその独占を図っている。

鉄砲鍛冶工業の発展 
 時代とともにその需要が増加するに従い、鍛冶の組合が大きくなり、矢板金兵衛の末葉は薩摩鉄砲鍛冶として、芝辻家は堺鉄砲鍛冶として有名かつ盛大となり、とくに国友鉄砲鍛冶は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の保護奨励によって数百人より成る工業部落を形成するまでになった。

 また、諸大名がその城下町に鉄砲鍛冶工業を起こすようになり、上記3箇所の技術者を誘致または招聘し技術を育成した。

鉄砲の組織的使用、鉄砲隊の出現 
 1575(天正3)年5月21日、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり戦いが勃発した・・・・・篠の戦い(長篠の合戦・長篠合戦ともいう。

 この戦いで武田軍は、織田軍の鉄砲で甚大な被害を受け敗北した。
 織田軍は、当時最新兵器であった鉄砲を3000丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行したため、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成すすべも無く殲滅させられたとの説がある。

                堺の鉄砲鍛冶工房と店   

              
                                       (平凡社『世界大百科事典 15』)  


佐竹と小田の対立、氏治の時代
1548(天文17)年に政治が没し。氏治が家督を相続した。
 氏治は、その生涯の多くを戦陣に費やしたが、小田氏の所領は縮小の一途をたどった。

 1556(弘治2)年に北条氏康、結城政勝らによって小田氏領の西北端の支城海老島城(明野町)が攻略され、氏治はいったん土浦に逃れた。
 また、氏治は北関東への進攻をめざす北条氏に従ったため、佐竹氏との関係も悪化した。

 佐竹義重は佐竹19代の当主で、1564(永禄7)年、父義昭の隠居で家督を相続した。

 1566(永禄9)年2月、上杉謙信は北条氏と協調していた小田氏討伐に『佐竹同心2百騎』などと関東諸大名に軍役を要求し、準備を進めた。
 北条氏も対抗のため与党に対戦の準備を指示したので、北関東全体が上杉と北条の対立抗争の場隣、諸勢力はいずれかと結んで自己勢力の安全と拡大に専念した。

 佐竹義重は、小田氏に決定的打撃を与えるため、旧小田領の片野城(八郷町片野)と柿岡城(八郷町柿岡)を、名将の誉れ高い大田資正(江戸城を築いた大田道灌の子孫、別名大田三楽)・梶原政景父子に預け、対抗の拠点とした。 

 1569(永禄12)年1月、佐竹義重は小田氏の海老島城を攻撃し、武士の習い「乱暴・狼藉・放火」をして小田氏の戦闘能力を低下させたため城を守る平塚刑部大輔は降伏した。
 

 同年5月、佐竹義重の「小田仕置」の結果、佐竹氏の支城となった小田城は、太田資正(のちに梶原政景)に与えられた。
 この頃、若森(つくば市)で夏作物を中心に「乱暴・狼藉・放火」を行った。 
 

 同年10月、小田氏治が年来の合戦で失った所領を回復しようと、佐竹氏の最前線で太田氏が守備する片野城を攻撃した。 
 大田勢は柿岡城兵や真壁久幹と共に、手這坂(八郷町)において防戦に努めた。
 このとき大田氏が鉄砲を使用した。 

 
小田勢は、戦闘方法の変化で布陣が混乱し、多数の死傷者を出し、帰路も阻止されたので支城・土浦に走った。
 小田氏治の晩年、小田氏の領国は最大になった。
 その支配領域は、常陸の約3分の1に及んだ。

               小田氏領国図 
        (佐久間好雄監修 『土浦・石岡・つくばの歴史』 郷土出版社)


小田氏 大晦日の酒宴, 鉄砲に驚く
 時は1572(元亀3)年の大晦日、小田氏が酒を酌み交わし夜更けまで歌のやり取りをしている隙を大田資正は小田城を攻撃した。にわかに敵襲だ。

 城内は皆、ヘベレケにっ酔いつぶれていたので、弓よ、刀と探しても弓も刀もなく、馬一頭に3人もとび乗る始末。文字通りの支離減裂になって城壁をのりこえ、堀を泳いで逃げだした。城主も逃げて出し土浦市の木田余城に難を避けた。

 大田資正勢は大喜び、名刀、名馬もとり放題、金銀財宝も思う在分よこどりして引き揚げた。
城には大田勢の番兵が残っていたが、2月下旬の大雪の夜、小田勢が逆襲して城をとりもどした。

 小田氏治は、なんとかして、この仇を打ちたいと考えた。
特に真壁氏幹が許せなかった。
数年前までは小田家の家臣であったにもかかわらず、小田城を攻めたからだ。

「目にものみせてくれようぞ」と氏治は、1573(天正元)年4月下旬、4千余騎をひきつれ、筑波山の尾根つづきである青柳山を越えて、新治郡八郷町小幡の村落に入った。

 小幡は真壁の領分だったので小田勢は民家に火をつけて乱暴を働き、気勢をあげた。 


 それから湯袋山を越えて真壁に押し寄せる予定だったが、柿岡城の梶原資晴、片野城の大田資正らが、時ならぬ火事をみて、小田勢の進撃を知り、そうはさせぬと、駆けつけた。 

 だが、小田勢の4千余騎に対し大田資正勢は4,5百騎で兵力足らずで、真壁に急ぎの伝令を走らせ、引いたり押したりして時を稼いだ。

 たまたま近くに荒れはてた古屋敷があったので、小田勢が寄せてくれば、その屋敷に逃げ、小田勢が退けば打って出た。

 これを4、5回くり返しているうちに、湯袋山の彼方に真壁勢の旗ざしものが見えはじめた。
氏治は「あれこそ、ねらいの敵ぞ。大田資正ごとぎは、ほおっておけ、一同、湯袋へ!」と命令、小田勢は湯袋めがけて陣形を立て直した。

 一帯は、山間の狭い平地で、4千余騎がひしめきあって身動ぎもできない状況にあった。
そこへ真壁勢が一斉に矢を放った。

 小田勢は、これをものともせず真壁勢に向かって突進、いよいよ白兵戦かと思われた時、小田勢の頭上でドドーンと音がして後方の武士がバタバタ倒れた。
真壁の別動隊が山上から鉄砲を撃ったのだ。 

 これには、さすがの小田勢も驚き、一瞬にして陣形は崩れ退却を始め小田城へと逃げ出した。小田勢は敵が鉄砲などを持っていたとは夢にも思っていなかったので、新しい兵器の威力に驚き敗走した。

 当時、和歌山県の根来寺では鉄砲や火薬を作っていた。
真壁氏幹が使った鉄砲は根来寺から買ってきた、わずかに8丁だけ、湯袋合戦の時には根来寺の僧大蔵坊が指導して小田勢を破った。

小田領の回復ならず、小田氏滅亡
その時、大田資正、梶原資景の親子は、軍勢をまとめて古屋敷にこもり、小田と真壁の合戦をみていた。
 両軍が疲れたころ、横合いから打って出て、小田勢を撃破する作戦であった。
 

 ところが、小田勢は鉄砲を恐れて総退却をはじめたので、大田資正親子は逃げる小田勢には目もくれず、先まわりして小田城へ向かった。そして、城の近くまでくると、いっせいに鐙(あぶみ)をふみ、馬に鞭を当てて、喚声を上げながら大手門をめざした。


 城の番呉たちは「味方が負けて帰ったぞ」と、あわてて城門を開いた。
 大田資正勢は「しめた」とばかり、城内になだれ込み、番兵をなで切りにして城を占領、城門を固くしめて旗を何本も押し立てた。

 氏治は切歯扼腕、兵を集めて城の奪回を期したが、後方から真壁勢が追って来たため新治郡新治村の藤沢城に遁走した。

 大田資正親子は「今度こそ、小田城はおれたちのものだ。絶対に手離さぬ」と、多数の番兵を置き備えを固めた。

 小田勢の逆襲を見張るため城内に高い櫓(やぐら)を築き城壁を修理、堀も浚って深くした。敵が遠くに見えれば、狼煙をあげ、近くに来たら早鐘をたたき、これを合図に片野、柿岡、真壁、北条などから援兵をくり出した。

 このため、氏治の子の小田守治らが軍勢を率いて攻めても、小田城はなかなか取り戻せなかった。


 それどころか、常陸太田の佐竹義重らが一万数千騎を出して小田攻撃に加わったので、1573(天正元)年10月、まず藤沢城が落ちた。

 氏治らは逃げて土浦城に篭城、時には佐竹勢を撃破したこともあった、多勢に無勢で抗しきれなかった。
 その上、佐竹の鉄砲隊に攻めたてられて、1574(天正2)年2月27日ついに土浦城も攻め落された。
   

 氏治と守治は城と運命をともにするつもりだったが、家臣2人が「身代りにたって敵をあざむきますから、落ちのびて下さいまし」と言ってきかないので、やむをえず福島県白河郡へ逃げた。佐竹勢はニセ者とも気づかず「小田親子を打ちとったり!」と大喜びだった。 

 その後、1589(天正17)年11月、氏治らは再び常陸に舞い戻り、筑波郡豊里町の手子生(てごまる)城に立て篭もり、昔の家来たちを呼び集め再起の旗をあげた。 

 大田資正をはじめ、佐竹方の武将たちは「氏治らは土浦城で死んだはずだったが・・・・・」と驚いたが軍勢をくり出し反撃に出た。

 小田勢は最後の力をふりしほって戦ったが力尽きた。
 時に1590(天正18)年1月、鎌倉時代から約400年、八田知家から15代続いた名門も、ここに滅亡した。

〔注〕鉄砲の使用
 当地方で鉄砲を初めて使った戦いについて、豊崎 卓・瀬谷義彦著『県史シリーズ8 茨城県の歴史8』では、1569(永禄12)年10月の手這坂の戦いが最初となっているが、木村繁著『筑波山』では、1573(天正元)年の湯袋の合戦で初めて使われたとなっている。
共に440年も前の話である。 

 いずれにしても、1570年頃、筑波の地における合戦において少数ながらも新兵器であった鉄砲が使用されたこと、敗者の小田氏よりも佐竹氏・太田氏のほうが装備、戦法で一歩先んじていたことが分かる。
     


参考文献 
 監修/佐久間好雄『土浦・石岡・つくばの歴史』郷土出版社
 平凡社『世界大百科事典⑮』1968年 
 豊崎 卓・瀬谷義彦著『歴史シリーズ8 茨城県の歴史』山川出版社 昭和62年8月 
 木村繁著『筑波山』崙書房 1977年10月  

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