小田城跡
小田城跡は、中世と呼ばれる鎌倉時代から戦国時代にかけて、常陸国(現在の茨城県の大部分)南部を支配した小田氏の居城跡である。
小田城跡は、その歴史的重要性及び遺存度の特徴から1935(昭和10)年6月7日に約21.5haが国の史跡指定を受けた。
小田氏と小田城
小田氏は小田城歴代の主として、常陸南部に勢カを持った一族である。
同氏の祖、八田矢口家は源頼朝の信任が厚く、最初の常陸守護に任じられた。
建久4(1193)年には多気氏を失脚させ、常陸における地位を安定させた。
しかしその安定期も短く、北条氏の進出により所領は縮少し、
守護職も正和4(1315)年までには完全に失った。
小田氏が小田を本拠とした時期は、初代の八田矢口家から、
あるいは小田を名乗りはじめる4代時知からなどの諸説がある。
勢カ回復を目指す7代治久は、元弘3(1333)年の鎌倉幕府滅亡時に後醍醐天皇の建武新政府に参加、
南北朝分裂時には南朝方についた。
暦応元(1338)年に南朝方の重臣である北畠親房を迎えたことにより、小田城は関東地方の南朝方の一大拠点となった。
親房の有名な著書『神皇正統記』はこの時に執筆された。
8代孝朝の代には足利氏への忠誠から旧領の大半を回復したが、
鎌倉幕府に反抗した小山若犬丸をかくまったために討伐を受け、再び忍従を強いられることになった。
しかし、翌年から北朝軍の攻撃を受け、暦応4(1341)年に治久は降伏、北朝方に従った。
戦国時代には、13代、治孝が弟顕家に殺害されるという一族の内紛を経て、
14代政治は再び勢カを拡大させ江戸・大橡・結城氏などと戦った。
後北条氏の北関東進出が激しくなると、15代氏治は、当初佐竹氏とともに上杉氏を後楯に対抗したが、
後に後北条氏と結んだ(永禄5年=1562年)。
この同盟の前後、弘治2(1556)年には後北条氏の後援を得た結城氏により、
永禄7(1564)年には上杉・佐竹氏により、小田城は落城した。
氏治はそのつど士浦城へ逃れ奪還を繰り返したが、
永禄12(1569)年に手這坂の戦いで佐竹・真壁氏に敗れた以後は奪還は果たせなかった。
天正11(1583)年に氏治は、佐竹義重に一時降伏(天正18=1590年)には再び反旗をひるがえしたが奪還は果たせず、慶長6(1601)年に頼った結城氏の国替えで越前(福井県)に移り、彼の地で没した。
小田氏が小田城を失った後は佐竹氏客将の梶原政景、佐竹氏一族・小場義成の居城となったことがあったが、
慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田移封により廃城となった。
その後は一時幕府領となり陣屋が置かれたこともあった。
(参照資料)
つくば市教育委員会 「国指定史跡小田城跡」 平成22年2月
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