ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

筑波山麓 国指定史跡 「小田城跡」

2013-09-09 | 筑波山地域ジオパーク

小田城跡   
 小田城跡は、中世と呼ばれる鎌倉時代から戦国時代にかけて、常陸国(現在の茨城県の大部分)南部を支配した小田氏の居城跡である。
 小田城跡は、その歴史的重要性及び遺存度の特徴から1935(昭和10)年6月7日に約21.5haが国の史跡指定を受けた。

   


      

小田氏と小田城 

 小田氏は小田城歴代の主として、常陸南部に勢カを持った一族である。
 同氏の祖、八田矢口家は源頼朝の信任が厚く、最初の常陸守護に任じられた。
 建久4(1193)年には多気氏を失脚させ、常陸における地位を安定させた。
 しかしその安定期も短く、北条氏の進出により所領は縮少し、
守護職も正和4(1315)年までには完全に失った。
 

 小田氏が小田を本拠とした時期は、初代の八田矢口家から、
あるいは小田を名乗りはじめる4代時知からなどの諸説がある。 


 勢カ回復を目指す7代治久は、元弘3(1333)年の鎌倉幕府滅亡時に後醍醐天皇の建武新政府に参加、
南北朝分裂時には南朝方についた。

 暦応元(1338)年に南朝方の重臣である北畠親房を迎えたことにより、小田城は関東地方の南朝方の一大拠点となった。  
 親房の有名な著書『神皇正統記』はこの時に執筆された。 

 8代孝朝の代には足利氏への忠誠から旧領の大半を回復したが、
鎌倉幕府に反抗した小山若犬丸をかくまったために討伐を受け、再び忍従を強いられることになった。 
 



  

  しかし、翌年から北朝軍の攻撃を受け、暦応4(1341)年に治久は降伏、北朝方に従った。
 戦国時代には、13代、治孝が弟顕家に殺害されるという一族の内紛を経て、
14代政治は再び勢カを拡大させ江戸・大橡・結城氏などと戦った。 


 後北条氏の北関東進出が激しくなると、15代氏治は、当初佐竹氏とともに上杉氏を後楯に対抗したが、
後に後北条氏と結んだ(永禄5年=1562年)。 


 この同盟の前後、弘治2(1556)年には後北条氏の後援を得た結城氏により、
永禄7(1564)年には上杉・佐竹氏により、小田城は落城した。

 氏治はそのつど士浦城へ逃れ奪還を繰り返したが、
永禄12(1569)年に手這坂の戦いで佐竹・真壁氏に敗れた以後は奪還は果たせなかった。

         

 
 天正11(1583)年に氏治は、佐竹義重に一時降伏(天正18=1590年)には再び反旗をひるがえしたが奪還は果たせず、慶長6(1601)年に頼った結城氏の国替えで越前(福井県)に移り、彼の地で没した。

 
   

 小田氏が小田城を失った後は佐竹氏客将の梶原政景、佐竹氏一族・小場義成の居城となったことがあったが、
慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田移封により廃城となった。

 その後は一時幕府領となり陣屋が置かれたこともあった。 


   

 
 
(参照資料)

  つくば市教育委員会 「国指定史跡小田城跡」 平成22年2月  


 【関連記事】 
 
大町桂月 『秋の筑波山』、自動車のない時代の登山は大変だった!  

 国指定史跡「小田城跡」と周辺の遺跡       

 つくば市小田の国指定史跡「小田城跡」発掘調査の概  



この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ガマの油売り口上〔技法〕奇... | トップ | つくば市小田 国指定史跡「... »
最新の画像もっと見る

筑波山地域ジオパーク」カテゴリの最新記事