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高須芳次郎著『水戸學精神』 第八 水戸烈公の思想と人物  (一) 烈公の時代 (二) 烈公の政敎革新 (三) 烈公の對外策 (四) 烈公の文敎-新

2022-08-30 | 茨城県南 歴史と風俗

 高須芳次郎著『水戸學精神』 
      

   
第八 水戸烈公の思想と人物 
  

 (一) 烈公の時代 

 〔水戶政救學の成立期•完成期、
    義公らの精神的遺產を顯揚した時〕
 水戶で、文壇、學界の人材が多く出たのは、烈公(齊昭)の時代である。蓋し義公の時代は、水戶史學成立前期であり、文公(治保)の時代は、水戸史學成立後期であると 同時に、水戶政敎學の準備期でもあった。そして烈公の時代は、水戶政救學の成立期•完成期で、合せて、義公らの精神的遺產を顯揚した時でもある。

 さうした關係から、春のおとづれと共に、千紫萬紅一時に繚亂たるやうに、學界、文壊の人材が輩出した。
 今、烈公時代に名を馳せた人々を數へると、その筆頭に、藤田東湖、會澤正志齋の二人を舉げねばならぬ。これに次ぐものは、豊田天功、靑山佩弦、栗田栗里などを始め、鶴峰海西、吉田活堂、靑山鐵槍、國友善菴、杉山復堂、內藤碧海、佐藤松溪、佐々木柳庵、佐藤鶴城らがある。

 東湖は本來、政治家であるが、學者、文人としても亦傑出してゐた。
 正志齋は主として學者として終始し、恩師幽谷の思想精神を継承・拡大して、水戶政教學の樹立に寄與したところが多い。

それから史家としての佩弦、國學兼蘭學者としての海西、考證家としての栗里なども亦異彩を放った。

 さて、この時代の中心人物、烈公(寛政十二~萬延元)は、名を齊昭(初めは敬三那)字は子信、胱を景山といひ、別號を潜龍閣と云った。幼少の時から明敏で、當事、大人びたところがあったといはれる。 

 彼は早くから、文武の修養に身を委ね、前途に望を囑せられた。文化十年(1813年)、父君武公が薨すると、孝心深い烈公は能く三年の心喪を守ったのである。


〔藩政一新〕
  
 後、文政十二年(1829年)、異母兄、哀公が薨ずると、その年十月、後を継いだ。公が藩政を支配するやうになったのは丁度、三十歳の時で、意気旺盛であったから、在來の積弊を一掃しようとする決意を固めた。依て公はこれまで遮断されてゐた現路を開き、何人も文武を励み、質素を守り、勤勉な日を送って、奢侈に耽ることなきやう戒めたのである。

 且つ公は不正の役人の職を免じて、立原翠軒、藤田幽谷の薫陶を受けた人々を登用し、藩政一新を企てた。この時執政となったのは山野邊兵庫(藤田派)藤田主書(立原派)らで、戸田銀次郎(藤田派)は通事、會澤正志齋、藤田東湖は郡奉行に住用されたのである。

〔淫靡な歌舞、音曲を禁じ
  華美にならぬやうく調諭〕 
   
 當時、烈公は、尙は思ひ切った改革を為すに至らす、好機の來るのを待つたが、蓋し 當り、淫靡に流るる歌舞、音曲を禁じ、正月の諸飾り、二月の初午、三月の雛祭、五月 の節句などには、華美にならぬやうく調諭し、衣服は悉く綿衣とした。唯老人のみ絹布を用ひることを許したのである。

〔郡制改革、海防問題、忠孝一致、文武調和〕   
 天保二年(1831年)、烈公は、郡制改革を行って、民政上の便宜を計り、先づ進步主義の一端を示した。次いで海防問題に留意し、天保三年(1832年)八月、自藩で海軍防備についての演習を行ひ、藩士をして、鯨魚を銃孽させた。

 それから翌四年、豫ねて抱懐する意見を藩士に傳へたが、それは『告志篇』と題して、忠孝一致、文武調和の旨を述べたのである。烈公が『吿志篇』において、臣下に諭して以來、その進步、革新主義は、漸次鮮明となって來た。

 當時、公は北門經營について種々考慮し、外はロシヤの南下を防ぎ、内は自藩の資源を豐かにしようといふ意向を持った。蓋し水戶は尾•紀二藩にくらべて、領地が少く、而も財用に乏しいから、公親しく北海道に赴いて、開拓に當ろうとしたのである。が、遺憾なことには、幕府當局において、烈公の心事を理解せす、沙汰やみとなった。
  

〔常陸沿岸の防備、節儉を励行〕  
 かく北門經營に注意した公は、常陸沿岸の防備についても、考ふるところがあった。 依て天保五年(1834年)、磯濱、友部、大沼の三所に衞兵を置いてこれを守り、後(天保十三年、1830年 ) 海防總司を任命して、その統一を為さしめた。
 それから公は、非常時に備へるため、軍事訓練にも亦重きを置き、天保八年(1837年)、三十八歳の時、藩士に諭達するところがあった。  

 その要旨は、「在來、藩において節儉を励行したのは、徒らに金錢を貯へるためではない。無用の費を省いて、國防の充實を計るためだ。殊に近來、外夷の船が近海に出沒して、侵略の手を伸ばすかも知れぬから、一同緊張せよ」といふにあった。この意味から、 天保十一年(1840年)、許可を得て、追烏狩(實は陸軍大演習)を行ひ、爾來、それを例とした。

 次ぎに、烈公は、藩政改革の手始めに、定府の士((江戶に定住するもの)を減じ、水戸に移住させることに決定した。それは現代流にいへば、都會集中主義を破って、田園 文化主義を執ったものと解せられる。
 惟ふに、公はそれによって、軟弱化した士風を一 洗し、且つ經濟上の節約によしようとしたのであらう。それは、天保七年のことである。  

〔窮民を救済、奸商を糾弾〕  
 この年は、未曾有の飢饉で、江戸では、餓死者が到るところに滿ちた。
 この有様を見 て烈公は藩吏に命令を傳へ、敏速に窮民を救ふやう、種々注意した。從って官員は、いづれも能く公の命を奉じ、或は稗倉を開いて、餓えたものを救ひ、或は富者に向って、救済に盡すべへきことを説き、或はこの機會に暴利を得ようと計る奸商を糾弾した。それにより、水戶藩內は、一人の餓死者を見なかったのである。  


(二) 烈公の政敎革新 
〔藩財政の改革、藩民・藩士の救済〕  
 
かく烈公は、藩内の民を愛撫し、基金當時は夫人と共に二食主義を守って粥を食し、且つ鹿鳥・吉田・静の諸社に藩民の無事を祈った。一方、公は藩の財政の行き詰りを救ふため、天保九年(1838年)に諸士借禄線の法を立て、一時の費途を辨ずるやうにした。その時、令を發して、「自分は近く政務を一新し、文武を振ひ興したいが、財政不如意で、どうにもならぬ。依って士大夫家祿の半額を一時借り入れ、豊年になったとき、全額に復するであらう」と懇論したのである。

 ところが、保守主範の人々は、大抵、それに反對した。この事は公を激怒せしめたの であのである。依って公は、東湖を初め、武田耕耕雲齋ら進歩主義の臣下を身方として、断然、改革の意圖を實現しようと決心し、天保十一年(1840年)、幕府の許可を得て、國に就いた。  

 その際、公は藩士の生活に同情し、彼等に貸し出した金穀を新旧一切、棄損した。それは現代流にいへば、社會政策の一端を實現したものである。そして公は、藩士が藩府 以外から借りた金は、この年、祿の半額を出して、返還の一部に宛てさせ、爾後、年々 少し宛、債務を償却するやう說論した。
 藩士一同は、公の厚き同情を心から喜んだと傳へられる。
 
 勿論、烈公は、それと共に、藩の財政の立直しにも苦慮を重ね、「入るを量つて、出づるを制する法」を執り、漸次、經済上の瘡痍を诙復するに力めた。そして節約の一方法として、藩士の定時昇給に加淤を為し、方伎を以て仕へる人々(医師、弓師、鐵砲師)などの中、無能のものを一切やめた。
 かく財政上、公は少からぬ苦痛を味ったが、さうした中にあっても、海防のことを重んじ、神崎の地で、大砲鋳造のことに熱中した位である。

〔大砲鋳造、砲術訓練、大船建造〕  
 大砲鋳造について、烈公は最も苫い經驗を嘗めた。が、公は萬難に屈しないで、この困難な仕事を進め、到頭、那珂湊に反射炉を築きあげた。
 茲で公は、銃砲を作り、完全 に近い大砲が出來ると、湊、磯濱などの海岸にある砲臺の上で、連發、試射したのである。それと共に、公は砲術練習所を作り、また在來の陣法をやめて、銃陣を作り、これを大極陣と称した。
  
 その他、烈公は、國防上、欧米に對抗するため、大船建造の必要を 再三幕府に進言したが用ひられない。然し、後これを許されて軍艦旭日丸を作り、また唯公の發案で、日本の船舶が海上で日の丸の旗を掲げることに一定したのである。
 かく烈公の進步主義は、軍事用の上にも能く現はれてゐたが,內政上でも、鮮かにさうした傾向を反映した。  

 公は襲封以前から農民生活に注意し、農政に關する書を多く 讀んだ關係上、貧農救済に力を入れた。元來、水戸藩の田畑は、寛政の末、藩祖威公が 丈量檢定をした俵、二百餘年を経たので、昔、上田と云はれたものも、今は下田となりをるに關らず、やはり、昔の儘の上田として稅金を納めねばならなかった。

 それから畑地を水田としたものも、尙ほ畠地といひ、それに相當した稅金を納めてゐる向きもあった。殊に弊害とすべきは、富者が貧農を圧迫して、土地を買ひ入れるとき、十石の収穫あるものも、三四石の土地として買ひ入れることだった。

 この場合、富者は唯三四石に相當する稅を納め、他の六七石に相當する税は、貧農の手で納めねばならない。故にそこから貧富の懸隔を深める憂ひがある。さうした弊害を根絶するため、烈公は、田畝の經界を正しくしようと決意し、天保十一年(1840年)、自ら實地に臨んで、これを斷行した。
 そこに公の社會政策の一部が明示せられてゐる。


〔教育、風敎〕

 烈公は、また教育、風敎の上にも力を注ぎ、天保十一年(1840年)、藩學、弘道館の建築を督し て、十二年(1841年)にほぼ主要部を完成した。
 それと前後して、士民の慰安のため、偕樂園(常磐公園)を作り、天保十三年(1842年)、先づ敬老の典を擧げたのである。
それから公は宗教界粛清の目的で一氣に多くの堕落落僧を還俗させ、頽廃した寺院を毀ち、散在した寺々を一つに纏めた。
また神道を崇敬して、廃れた神社を興し、神佛混合を禁する方針から、水戸常磐山の東照宮にゐた僧侶を斥け、社家をしてこれに奉仕せしめたのである。



           

  
(
三) 烈公の對外策  
〔對外問題、國防問題に注力〕  
 以上、烈公の爲すところは、義公の明快、果斷な行き方に似て、きびきびしてゐた。が、その爲め、保守派の藩士や堕落僧の讒言に逢ひ、弘化元年(1844年)、幕府から嫌疑の筋ありとして致仕、謹愼を命ぜられた。當時、幕府は烈公に向ひ、七ケ條の訊問をしたが、何れも不當なもののみだった。
 後、免されて嘉永六年、外交問題について、幕府に參與するに至った。爾来、公は主力を對外問題、國防問題の上に注ぎ、尊皇攘夷主義の精神によって、舉國一致の旨を實現しようと計った。
 この建て前から、公は幕府に向って海防策を進め、十條・五事の建議をしたのである。

〔十條・五事〕  
 十條・五事のうち、十條といふのは
(第一)和・戦の廟算を定むる事
(第二)切支丹制禁の事
(第三)我が有用な金銀・銅鐵を以て、彼の無用な物品と交易するの不可なる事
(第四)アメリカに交易を許す時は他國にも許可せねば濟まなくなる事
(第五)支那鴉片の亂に鑑みる事
(第六)僅かに數隻の船艦に威嚇されて交易を許すの不可なる事
(第七)夷賊內海を測量するも、諸藩警衞兵に向ひ打拂を禁するは、人心下懈怠の憂ひある事
(第八)長崎海防を黑田・鍋島兩家に命じ置き乍ら、浦賀で外夷の願書を受取るは國家の面目上、面白からぬ事
(第九)打拂決定せず、寛宥仁柔の處置のみでは、奸民、幕府の威光を恐れず、異心を生ずる事
(第十)夷賊打拂は祖宗の遺制である以上これを決行すれば、土氣百倍、武備自ら整ふ事、
 以上、十條の内容である。

 五事は、
(第一)廟議、戦に決する以上、國持ち大名始め國津々浦々に向ひ、大号令 を発し、擧國一致して、外敵に當るべき事
(第二)槍劇は日本の長所ゆゑ、一般に練磨 せしむる車
(第三)當秋出帆のオランダ人に命じ、
     軍鑑、蒸氣船並に船大工、按針役を周旋せしめ、大小銃砲を献上せしむる事
(第四)銃砲の車を精々研究し、銃數を増し火藥・弾丸などもも十分備ふる事
(第五)御領・私領海岸耍所に屯所を設け、漁師等をも取り交ぜて、守兵を置く事などである。  

 以上、十條・五事については、更に烈公の胸中を披濃して、結局の決意に言及し、
「過日、御話申候如く、太平打續き候得ば、當世の態にては、製は難く、和は弱く候へ共、戰に御決しに相成り、天下一統、戦を覺悟致上候にて、和に相成り候へば、夫れ程の事はなく、和を主として萬一、一戦相成候へは、當時の有樣にては加何とも遊ばされ方これなし」と當局の反省・果斷を促したのである。  

〔軍制改革入れられず、
  藤田、戶田が、江戶大地震で不慮の死〕

 従來、烈公は、毎日、幕閣に列し、重要点について、意見を陳述したが、その言ふところ、强硬な攘夷・主戰の論であった爲め、因循姑息な幕閣の人々には、これを容れなかった。その後、公の意見に反して、安政元年(1854年)、幕府が神奈川修的を締結するに及び、これを不當とし、到頭、登營することをやめて、幕閣に對し、多大の不滿を抱いた。

 その際、聰明な阿部正弘は、彼を幕閣の外に置くことを不利とし、更めて、軍制改革のことを烈公に委任した。ところが、正弘が卒去して、堀田正睦が、これに代るに及び、 軍制委任の職を解いた。
 爾來、烈公の立場は次第に不利になったが、彼の左右の腕と賴んだ藤田・戶田の二人が、安政二年(1855年)、江戶大地震のために不慮の死に會ったことは、一層、烈しい打撃だった。  
 のみならず、安政五年(1858年)、井伊直弼が大老となると、事毎に、國策上、烈公の意に背く ことが多かった。  

〔直弼を詰責、直弼に睨まれ水戶城に謹慎〕
 
烈公は直弼が勅許を得ないにも關らず、アメリカと通商條約を結んだ ことを憤り、その子、慶篤・尾張慶恕•松平春嶽らと共に不時登城を為して、直弼を詰責したが、耍領を得なかった。
 直弼に睨まれた烈公は、京都入說の件によって幕府から処罰され、安政五年(1858年)、駒込の邸に屛居、同年八月、水戶城に謹慎することを命ぜられたのである。

 當時の烈公は恐らく、悲憤と憂鬱とに心を滿されたであらう。かうして萬延元年(1860年)八月、時事を憂ひつつ薨去した。
 時に歲六十一。

 その著者には、『明君一班抄』『景山詠集』『景山文集』『景山詠草』『大極論』などがある。そのほか、前代修史のあとを受  けて、未成の列傳を校刻し、十志(神祇志その他)を修むることに力を注ぎ、その在世中、六志の草稿がほぼ成った。
 今日公刊の『大日本史』中にある十志は、烈公の督勵によるところが少くない。


(四) 烈公の文敎-新  
 烈公には、何處となく、義公に似た一面があった。それは、思想上においても、政治上においても、獨自の考へ方により、どしどし邁進して、他を顧みない點である。
 即ち その周囲、時代の凡人的な考へ方が、どうあらうとも、烈公はそれに雷同しない。彼が是とし、眞としたところは、すぐにこれを態度言動の上に示して、飽くまでも、國家本位に積極的進步主義を執って動いた。そこには明かに理性によって進退し、公理によって行動した彼の本質を反映してゐる。

 

〔烈公の時代には、内憂・外患一時に殺到した〕
 一體、義公の時代は、内憂も少く、外患も亦殆どないやうな有樣だったが、烈公の時 代には、内憂・外患一時に殺到した。かの西カ東漸からくる物質文明上の高壓は、日本を苦しめ驚かし悩まさねばならなかった。こうした非常時に善処してゆくには、どうしな  ければならぬか。烈公はこの重大間題の解決に全力を傾倒したのである。
 藤田東湖の『常陸帶』を見ると、然公が内憂・外患の排除、維新日本の建設に向って、いかに烈しく動いたかがわかる。
 
 先づ思想上から、怨公を考察すると、彼には、『弘道館記」の一篇があって、水戸政教學のエッセンスをそこに結晶してゐる。更にこれを「弘道館學則』と對照すると、一層、その意のあるところが、はっきりする。

 

〔日本國體の尊厳を明らかにす〕 
 烈公は館記において、先づ日本國體の尊厳を明かにしてゐるが、この點、學則に『寶祚の無窮、君臣父子の大倫は、天地と與に易らず」と説明してゐる。それから館記に於ける敬神崇儒といふことについて、「大化の詔に稱する所の惟神とは、天祖の以て極を立つるところ(神道)而して唐虞三代の治教は、天孫の資つて以て皇猷を賛くる所(儒敎) 亦人倫を明かにする所以」と學則で説明してゐる。

 以上の結論としては、
(一)忠孝無二
(二)文武不岐
(三)學問・事業一致といふことに歸着する。

 

〔中庸・中正の態度〕    
  烈公は、右の如く、日本中心主義に立脚してゐるが、決して一方に偏らない。忠と共に孝を說き、文と武を重視し、學問と共に事業を併說し、神道を主位に儒教を客位に置いて、調和の道のおのづから存することを明かにするなど、すべて中庸・中正の態度を執ったのである。

 が、日本中心主義に起つ以上、非國家的存在として、烈公が異端視した佛敎を排撃したのは、避け難い結論であったらう。更に尊皇と共に攘夷を力說したのは、西力東漸の急潮に對する正當防衞として、必然的抗争として止むに止まれない内部衝動に駆られたのであったらう。

〔尊皇攘夷の主張は、
 明治維新を實現すべき旗印となる〕 
 一體、烈公は日本中心主義に起ちつつ、支那の儒教を採り入れた位だから、それが非國家的でない限り、海外の文物を採取するについては少しも躊躇しなかった。欧米の文物とても、それが、日本を益する以上、廣い度量を以て、採用することを厭はなかった。 かうした烈公が攘夷を高調し、尊皇と結びつけて、國策の第一位に置いた所以は、國内的に諸般の改革を統一すると同時に、天皇政治の本義を明かにし、對外的によく一致結束して、欧米の侵略の手から逃れることを必要としたからで、その尊皇攘夷の主張は、やがて明治維新を實現すべき旗印となり、天下の最大勢力となったのである。

 當時、眞に日本の運命を憂ふるものは、必死になって、國難打開の道を考へつつあった。この時、その打開の標語として、最も力強き響きを以って現れ、日本全國の志士を風靡したのは尊王攘夷の四字である。

〔攘夷は國策本位に案出された必然的な旗印〕   
 當時、日本の中には、欧米の勢力を過大に見積って、これに畏怖し、或は時によると、これに迎合しようとさへするものがあつたので、 烈公は、對外結束を爲すべき唯一の道として、攘夷運動に力を入れた。それは、單なる排外思想から出たものではなく、頑固一方の國粹的精神から生れ出たものではない。
 國策上、日本は、當然、外交の上において、獨立・自主の態度に出なければ、國が危いと見た上での攘夷だった。  
 
 從って攘夷を斷行するについて、國防を厳重にすることに關し、いろいろ苦心し、また衰へた士氣を盛り返すについては、率先、追鳥狩を實行した。今日でいへば、それは 陸軍の閱兵・演習のことで、欧米人の侵入に向って、武力本位に抵抗しゆくべき準備に力を入れたのである。  
  
 かういふ風に見てくると、烈公の攘夷は、空虚・固陋な頭から出たのではなく、國策本位に案出された必然的な旗印の一つだったといふことがわかる。それが尊皇と結びついて、玆に明治維新の理想を生じた。
  
 かの薩長土肥の人々は、つまり、烈公によって提唱された孫応攘夷の思想を實行して、倒幕を實現し、明治の新天地を招來したのである。

〔参考〕    







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