ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

神仏分離と筑波山の廃仏毀釈

2020-05-01 | 茨城県南 歴史と風俗

神と仏の関係、仏教伝来以来、暫らくは神仏習合

〔仏教伝来の時代〕
 仏教が日木に伝わったとき、仏は蕃神、他神、仏紙、他国神などと呼ばれたというが、神仏の接近交渉は仏教伝来の当初からすでに生じていたといわれている。
 この本地垂迹説にもとづき神仏を区別せず、配祀することを神仏習合という。
 
 
 神道は多神教的性格を持っているので仏教と衝突することが少なく、神道は先進国の文化を背景に持った仏教を、むしろ積極的に摂取したといわれ、神仏の接触交渉は早くから、しかも自然に行われたようである。

〔推古天皇の頃〕
 仏教を保護することに厚かった推古天皇(在位592~628)は詔して、「今、朕が世にあたり神祀(じんき)を祭祀(いわ)うこと、豈(あに)怠り有らんや)」(日本書紀)と言ったと伝えていいるが神仏の併信は信仰に矛盾するものでなかった。
 

 大化改新に力を尽くした中臣(藤原)鎌足は神祇伯を辞して仏教信者となったが、彼は神道と仏教とは合致するものであるという信念をもっていたようである。
 また天武天皇(在位673~686)は諸々の神祇に雨を祈らせるとともに、三宝(仏・法・僧)にも祈らせており、仏教が日本に伝わって以来、飛島時代をして神仏の関係は接近調和の過程をたどっていった。

〔奈良・平安時代〕
 奈良時代に入ると、この接近調和がますます緊密になって神仏を一連の結合においてみる思想が生ずるようになった。即ち、神明が仏法をよろこび、たっとぶということが説かれるようになった。すでに文武天皇(在位697~707)の時に伊勢大神宮寺があつたともいわれるが、天平の頃から数十年間に神宮寺の建立の例はかなりの数に達している。

 しかしこうした神が仏法をよろこび、たっとぶという神仏関係は、たとえ神が仏法を擁護する力を持っていたとしても、まだ神仏同体ではなかった。神はまだ迷夢から脱しない存在で、仏法によって解脱を求める人間的存在と変わるものではなく、仏どころか、菩薩にも達しない存在であった。

 神に菩薩号をつけることは延暦の初め頃(8世紀後期)に始まったとされる。それまでに成るには更に深い神仏関係の接近調和が心要であった。
 平安時代になり、その初期にまだ神が仏法をよろこび、たっとび、仏法を擁護したという説が行われていたが、中期になると、単に菩薩の位にまで進んだというだけではなく、神は権現という号でよばれるまでになった。
 権現は菩薩なり仏が権(かり)に神として垂迹の化身を現すことであり、この場合の神はあきらかに菩薩であり、また仏であって、神の地位はもはや迷える存在ではなくなった。

 権現は菩薩なり、仏なりがそのまま化身を現じたものであり、この関係にあっては化身を現ずるものと、現ぜられだものとは同格であり、すなわち菩薩と神、仏と神とは同体であるということになるのである。

 神仏の接近調和は極限においては遂に神仏同体まて高められるに至ったが、これは言いかえれば本地垂迹説で、平安中期以後、次第に発達し、次の鎌倉時代になって教理上の組織を持つようになるものであった。

〔鎌倉時代、南北朝時代〕
 鎌倉時代になると祭主や禰宜で出家をし、寺を建立したたちも出てくるようになり、内宮の本地は胎蔵界大日如来、外宮の本地は金剛界大日如来であるといわれるような説も現れるようになった。

 南北朝のころになると、「大日本は神国なり」(神皇正統記)というような思想や神本仏迹的な木地垂迹説も現れたが、いずれにしても南北朝町時代と進むにつれて神仏の関係は教理的にはますよす精密になって言った。

 吉田兼倶は「仏教は万法の花実となり、儒教は万法の枝葉となり、神道は万法の根本となる」というような神・儒・仏の3教を根葉花実を配した論や、山王一実神道の詳しい神仏論や、法華神道の三十番神の論などが唱えられたりした。

神仏分離の動き
 仏教が日本に伝来した当初は物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われたが、仏教が浸透していくことによってこのような動きは見られなくなった。戦国時代および安土桃山時代では、小西行長などキリシタン大名が支配した地域で、神社・仏閣などが焼き払われた。

 江戸時代になると江戸幕府が儒学を奨励し。宋学の興隆を促したことから、にわかに、この関係は一変して、仏教排斥の傾向となった。

 江戸時代前期においては、池田光政や保科正之などの諸大名が、その領内において仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策を採った。

 この時代の神道家の多くは仏教を斥けて神儒習合の神道や、この神儒習合から儒教を除いた復古神道を主張した。
 林羅山や熊沢蕃山らは神儒一致を唱え、仏教を排斥し。
 本居宜長や平田篤胤らは儒仏とも排斥した。

〔水戸藩の動向〕
 徳川光圀の指導によって行われた水戸藩の廃仏は規模が大きく、領内の半分の寺が廃された。
 更に徳川光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなり、徳川斉昭は水戸学学者である藤田東湖・会沢正志斎らとともにより一層厳しい弾圧を加え始めた。
 

                   
          
 文化・文政時代になると異国船の水戸領接近が多くなった。特に文政7年(1824年)5月末、大津浜へ英国人12人が上陸したため、まるで戦争がはじまるような騒ぎであった。水戸藩は武備充実の一環として、斉昭は天保13年(1842年)藤田東湖ら図って、領内寺院で由緒の浅い仏像や梵鐘を納入させて、大砲の鋳造に役立てた。
 

 仏像をつぶすことに反対する者があったが、これを押し切って実行した。
 これはそれまでも大砲の鋳造を盛んにおこなっていたので、領内の銅が払底して困っていたからである。しかし、改革派のやりかたは寺院側の反感が高まり、斉昭失脚の大きな原因の一つとなった。 

〔江戸時代後期〕
 江戸時代後期に勃興した国学においても神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。

 江戸時代の思想の大勢は積極的な仏教排斥へ向かっていった。殊に平田篤胤の仏教攻撃は痛烈で、その復古神道の理論は明治維新の神仏分離のもとをなすに至った。


明治期の神仏分離と廃仏毀釈
 明治期の廃仏毀釈は、大政奉還後に成立した新政府によって慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発せられた太政官布告(通称「神仏分離令」)、および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策を拡大解釈し暴走した民衆をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊などを指している。

 明治政府の神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた破壊活動を引き起こした。
 

 神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。 

 明治4年正月5日(1871年2月23日)付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。 

 明治政府は神道を国家統合の基幹にしようと意図した。一部の国学者主導のもと、仏教は外来の宗教であるとして、それまでさまざまな特権を持っていた仏教勢力の財産や地位を剥奪した。僧侶の下に置かれていた神官の一部には、「廃仏毀釈」運動を起こし、寺院を破壊し、土地を接収する者もいた。
 

 また、僧侶の中には神官や兵士となる者や、寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた。 

     

 廃仏毀釈の徹底度に、地域により大きな差があったのは、主に国学の普及の度合いの差による。平田篤胤派の国学や水戸学による神仏習合への不純視が、仏教の排斥につながった。
 廃仏毀釈は、神道を国教化する運動へと結びついてゆき、神道を国家統合の基幹にしようとした政府の動きと呼応して国家神道の発端ともなった。 

 一方で、廃仏毀釈が全国的に起こったのは、江戸時代、寺社奉行による寺請制度による寺院を通じた民衆管理が法制化され、寺檀制度下における寺院による管理・統制への神官・権力から与えられた特権に安住した仏教界の腐敗に対する民衆の反発などが背景にあった。
 

 下図は、摂州大阪高津の人、森 幸
安が筑波に来て実見しものを宝暦5年(1755年)に描いた「筑波山下画図」である。誇張があり建造物の距離・間隔は正確とは言えないが往時の盛観がしのばれる。

          

 図中央の本堂、その左側の三層塔、薬師堂、聖徳太子堂、本堂の北側の八角堂、経堂は残っていない。図左下の宝蔵・方丈及び書院も残っていない。現在、駐車場になっている所であろう。 


筑波山の廃仏毀釈
 江戸時代に御筑波山は仏教一色に塗り変えられて、筑波山中にあった男体山・女体山を初めとする数多くの神社は別当寺である護持院の管理下に置かれた。
 また、神主や禰宜などの神官はいなく、通常の神事は護持院の院代の指揮の下に衆徒寺や僧や神官が行ってきた。

 この筑波から仏教的要素を除去して神仏を分離することは容易ではなかった。筑波山の支配権をめぐる神仏の紛争は混乱したが、廃仏毀釈はももっと大きな傷跡を筑波に残した。 

 殿輩と神官は全面的に対立していたが、仏像・仏具の除去は続けられていた。
門前町の筑波町民にとっては、大御堂を初めとする諸堂塔を破却すれば、参詣者が来なくなり生活できなくなるので、その存続を願って嘆願書を殿輩を通して若森県(廃藩置県後に設けられたこの地域を管轄する”県”)に提出した。しかし、殿輩達はこれを握りつぶして提出しなかった。 

 2年3月から各所の小堂の仏具・仏像の整理が始まり、10月には6丁目の金剛力士像が取り片付けられた。翌年6月に大御堂境内の堂塔、8月に本堂が破却された。  

 これを中心になって進めたのは、殿輩と町役人であった。
 殿輩達は祭主や復飾神官への不を廃仏に向け、過激な行動に出た。
 筑波に知足院中禅寺に代わる寺院の再興が認められず、仏教関係の全部を護国寺に引き渡さなければならなかったために、廃仏は徹底的に行われた。 

 町民の中には批判的な者も多く屋根葺棟梁の勇吉は
 「筑波山の大すへびと相成候事も承知しながら、
  引破りし事ども是皆後世仏ばつをもかへり見ず、
  己々が私よくもふけニか々りての事也。
  此の頃皆人のしる所なり。
  是まで観音のかげにて露命そふぞくせしを、
  誠に非道無二の者共也。」と記している。 

 殿輩の中にも破却に反対した者もいたが、阻止はできなかった。 

 3年6月から仏具類・仏像などは全部護国寺へ引渡すことになり2人の役僧が引取に来た。8月になり、大御堂ら仏像・仏具類を撤去する作業にとりかかった。
 神社側では大御堂を初めいくつもの堂を破却し、本尊を焼き捨てることにしたが、護国寺の僧は黙止出来ず300両を出して引き取った。 

 宝筐印塔・大仏・金剛力士・地蔵菩薩なの唐銅類は商人に売却しようとしたので、潰し値段740両で護国寺が買い取った。護国寺は4340両の受取分あったが、仏具や唐銅類の換算金を差引かれて入手したのは141両と米300俵であった。 

 大御堂は8月23日から9月末までかかり、200両を使って取り壊した。
 銅瓦は売却され、材木は町内の家々へ:れた。薪・下駄・水風呂にされ、板に挽いて売り出す者もおり、閏10月末までにはきれいになくなった。 

 大仏は9月ごろ筑波を引き出し、土浦の霞ヶ浦の岸に12月まで置かれた。船に積む人がなかったのである。しばらく過ぎて船に載せ護国寺へ運んだという。
 仏器・仏像は護国寺のほかに猿島郡生子村(猿島町)万蔵院、新治郡村(桜村)東福寺に、鐘楼は近くの泉村慶竜寺に売却された。 

 仏典や記録類も焼却された。本尊の千手観音も護国寺に移されたが、後に筑波に返されて再興された大御堂に安置された。六丁目鳥居の「天地開筑波神社」の額も同12月に取り外された。 

 衆徒寺などの仏像・仏器は一時塔の上というところに運んでおき、5年8月に戸長らが表して焼却した。衆徒寺は町民に売却された。不動院は17両、三明院は9両である。 

 破却を免れて筑波山神社に継がれたのは仁王門・神橋・日枝神社・春日神社・厳島神社等ごく僅かである。明治12年(1879年)5月、筑波町大御堂跡地で大博覧会が開催され、寛永期頃の燦然とした面影はどこもなくなり、多くの文化財は失われた。


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〔参考文献〕 
 『今残る郷土の文化遺産 つくばの古絵図』 財団法人日本地図センター
 『筑波町史(上巻・下巻)』 
 『茨城県の歴史』 瀬谷義彦・豊崎卓共著、山川出版社 
 『筑波山』 木村繁著、崙書房 
 『世界大百科事典 12』 平凡社 
  リーフレット『筑波山大御堂』 


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