ヒロシマ平和映画祭 Hiroshima Peace Film Festival

2013年12月、第5回開催!

今回は、過去上映作品のなかから、「今こそ、もう一度」な作品プラスαを上映予定。

ヒロシマ平和映画祭2013 12月に開催

2013年12月、第5回開催。 今年のテーマは「異郷の記憶」。 毎回50本近い作品を上映してきて第5回なので、今回は過去上映作品のなかから、「今こそ、もう一度」な作品を20本程度にプラスαな企画をしようともぞもぞしています。 一部プログラムの隠れテーマは「日本を取り戻す!」です(笑)。

下宿屋のオヤジ、バラカツを揚げながらごちる。

2009-04-06 04:11:17 | 日記
春です。
我が家には、常に高校生がふたり下宿しています。
広島県は広いので、県北(ケンホク、広島県北部)や島嶼部から毎年、高校に通うために下宿する子たちがやって来るのです。

数年前に私がこちらに帰ってきてからも、もう数人が卒業していきました。
学校がどうの、若者がどうの、親がどうのとか言いますが、うちに来るのは本人も家族もまあまとも。
世間で騒がれているのがウソみたいです。
まあ、たまに夜遊びするのとか、食べ物の好き嫌いがあるのもいますが、ごく普通でしょう。

今年は、三次から来ていた女の子が卒業して、竹原から野球をやっている子が来ました。
彼が来た初日の夜は、バラトンカツを作りました。
豚バラブロックを買ってきて、スーパーのスライスよりは厚めに切って叩いて揚げる。
ロースカツとはまったく違う食感です。
うちの歴代の下宿人には好評のようです。
ソースカツ丼をするなら、絶対こっちの方がいいです。
最近では、薄切り肉を重ねて「ミルフィーユかつ」「ミルカツ」なんてこともいいますね。
チーズとか大葉とかはさんだりしていると、だんだん工作気分にもなって来て楽しいです。
というか、名前はともかくむかしからあったような気もしますが。

さて、実は我が家は被爆直後からずっと下宿人がいる家のようです。
家業の関係もあり、もともと他人が出入りしている家でもあったようで、祖母が世話好きだったのもあるようです。
しかし、大黒柱が死んで、とりあえず家があるということで、というのもあったのでしょう。
いろいろ聞き取りとかやると、被爆・終戦直後に、他人同士で一緒に住んだという話はよく聞きます。
また、日本中で未亡人になった方々が旅館をやったという話も最近どこかで読みました。
旅館の朝食の多くが家庭料理の延長なのはそのせいなのだとか。
広島菜も、京菜をもとに未亡人たちが改良して生みだしたとも聞きます。

小津安二郎の戦後第一作『長屋紳士録』(1947年)には、戦災孤児たちが登場します。
長屋のタフな、やや偏屈気味なおばちゃんが「あたしたちもギスギスしてるよ」と嘆きます。
お父さんとはぐれた子供を預かるうちに、母性愛というよりも長屋愛とでもべきある種の感情に目覚めていく感じなんですね。
映画の終わった向こう側で彼女はどういう人生を送ったのか。
なかなか余韻のある映画です。

一方で、カラダを売って生き延びるしかない女性たちも数多くいました。
「こんな女に誰がした」という名フレーズで知られる名曲「星の流れに」があります。
背景を知らずに聞くと単なる愚痴っぽい演歌とうけとられかねませんが、そうした女性の手記がもとになっています。

体験や記憶を封印・忘却し、そのことによってしか生きられないということ。
「復興」という言葉の裏には、そうした重苦しい記憶と忘却がはりつきます。
記憶を忘却したことの記憶とでもいえばいいでしょうか、そうした苦さもあるはずです。
すぐに気持ちや考えを切り替えて、というワケにいくはずがない。
逞しいとか、そうかもしれませんが、そうせざるをえなかった。
ある時期のこの街で生まれ育つということは、身内に必ずいただろう被爆者や彼/彼女につらなる多くの死者とともに生きる経験であったはず。
私の祖母もそうでしたが、戦前の日本軍の悪口はいっぱい言っていましたが、被爆体験そのものやそれ以降のことは語りませんでした。

祖母の抱えていた苦さを考え直したきっかけは、広島に帰ってきて、やたらと「復興」が売りにされていることに驚いたことでした。
なんら戦後の復興に関わってもいない人たちが、広島の復興を騙っているようにしか見えません。
そういうと言い過ぎでしょうか。
しかし、どこか売り物にするかのように、他の国々や地域に、あたかも良心的であるかのごとくに介入するのを見ていると、強い違和感を持たざるをえません。
一見、善意のかたまりのようにもみえますが、これだけ傲慢でデリカシーのない行為はない、とすら思います。
その手前で一度踏みとどまることが、体験の継承などといういう前に、私たちが他者の体験に近づくということではないのか。
また、よく言われるように、ほんとうに何が必要なのか、冷静に考えることが「支援」なのではないか…。

被爆の記憶が風化しているなどと言いながら、「復興」を売り物にするということの矛盾。
すでに記憶が操作されている証左そのものではないのか。
この街で、沈黙のなかで生き抜いてきた人たちは苦々しい思いを持っている。
私はそのように感じています。

建造物の集合体でしかない都市計画や、個々人を制約する社会システムとしては、「復興」はありえても、それはルールの押しつけになる可能性もあります。
いくらでも「復興」できるから戦争してもよしというふうに取れるだけではなく、むしろ「復興」を先に政治経済的にプログラム化して、戦争を仕掛けているようにすら見えます。

戦争のおそろしさは、個々人のレベルでは「復興」なんて絶対にできないことにある。
そんな厳然たる現実をどのように受け止めるべきか。
というよりも、癒えることのない傷を抱え込むというか、その傷とつきあいながら、他者からはすぐにわからない日常の襞ともいうべき、傷そのものも含めて、ある種の文化となっていくのではないか。

私がパートタイムというべき下宿のオヤジであるのも、日本中の旅館で出される朝食も、そんな「傷の文化」のなかに生きているということなのかもしれません。

(メタ某グ00一番星)


パールハーバーとヒロシマの<あいだ>から

2009-04-06 02:11:35 | 主催イベント
てれれさんのイベントに行き、わあわあとトークして、太田川のほとりにも出て軽く花見もして帰りました。
作品群もですが、トークもかなりおもしろかったです。

ところで、選定試写会ですが、実際に上映にこぎつけられるかどうかともかく「勉強」も兼ねて観ていこうという感じです。

第一回は、アメリカの戦時期~戦後直後のフィルム・ノワールを観ます。
(次回以降、同時期の日本映画、各種ドキュメンタリーなどなどを考えています)
案内で簡潔に書いたように「パールハーバーとヒロシマのあいだの映画史」です。
が、この後にレッドパージが来ますし、その前には、ハリウッドへの亡命や移民があります。
また、この「あいだ」はもちろん、1941年から45年という時間軸だけでも、日米間というだけでもありません。

「フィルム・ノワール」というのはフランス語です。
フランス人が名づけたアメリカの一大娯楽映画のジャンル。
犯罪や暴力を扱った「暗黒(街)映画」というふうにも日本語にされたりします。
まあ、現在の日本の刑事モノや二時間ドラマの原型と言ってもいいでしょう。

フィルム・ノワールとパールハーバーの関係については、最近、映画史的な研究も出てきていて非常に興味深いです。
近年出ている研究書の類いも、Blackout、Street with No Name、More Than Night、Somewhere in the Night、Out of the Past、In a Lonely Streetなどなど、映画タイトルそのままやもじったものなど、実にカッコいいのですが、この巨大ジャンルの奥深さを伝えてくれています。
不安や恐怖がどのように形象化されるのか。
犯罪や暴力の映画のなかで、女性がどのような役割でどう描かれるのか。
一応、そういう四本。

『マルタの鷹』原作者ダシェル・ハメットの『赤い収穫』(『血の収穫』)については、前日のシャリバリ地下大学で読書会もやりますので、なら、ちょうどいいかというのもあって。
いわゆるハードボイルド小説の始祖であるハメットと共産党入党、さらに赤狩りでの排斥といったことはいろいろと考えさせられます。

彼に大きな影響を与えたパートナーでもあった劇作家リリアン・ヘルマンという人がいます。
彼女の作品で、日本で最も知られているのは、オードリー・ヘップバーンとシャーリー・マクレーン共演、ウイリアム・ワイラー監督『噂の二人』(1961年。原題は原作と同じ「子供の時間」)でしょうか。
ひとりの子どものふとしたウソから「同性愛者」という噂を立てられる、ふたりの女性教師の悲劇です。
原作自体は戦前のもので、1936年に一度、ワイラーも先に映画化しているのですが、『噂の二人』に、赤狩りの恐怖を読み込むことも可能ではないかと。
ちなみに、この映画化の年に、ハメットは亡くなっています。

(東)