春です。
我が家には、常に高校生がふたり下宿しています。
広島県は広いので、県北(ケンホク、広島県北部)や島嶼部から毎年、高校に通うために下宿する子たちがやって来るのです。
数年前に私がこちらに帰ってきてからも、もう数人が卒業していきました。
学校がどうの、若者がどうの、親がどうのとか言いますが、うちに来るのは本人も家族もまあまとも。
世間で騒がれているのがウソみたいです。
まあ、たまに夜遊びするのとか、食べ物の好き嫌いがあるのもいますが、ごく普通でしょう。
今年は、三次から来ていた女の子が卒業して、竹原から野球をやっている子が来ました。
彼が来た初日の夜は、バラトンカツを作りました。
豚バラブロックを買ってきて、スーパーのスライスよりは厚めに切って叩いて揚げる。
ロースカツとはまったく違う食感です。
うちの歴代の下宿人には好評のようです。
ソースカツ丼をするなら、絶対こっちの方がいいです。
最近では、薄切り肉を重ねて「ミルフィーユかつ」「ミルカツ」なんてこともいいますね。
チーズとか大葉とかはさんだりしていると、だんだん工作気分にもなって来て楽しいです。
というか、名前はともかくむかしからあったような気もしますが。
さて、実は我が家は被爆直後からずっと下宿人がいる家のようです。
家業の関係もあり、もともと他人が出入りしている家でもあったようで、祖母が世話好きだったのもあるようです。
しかし、大黒柱が死んで、とりあえず家があるということで、というのもあったのでしょう。
いろいろ聞き取りとかやると、被爆・終戦直後に、他人同士で一緒に住んだという話はよく聞きます。
また、日本中で未亡人になった方々が旅館をやったという話も最近どこかで読みました。
旅館の朝食の多くが家庭料理の延長なのはそのせいなのだとか。
広島菜も、京菜をもとに未亡人たちが改良して生みだしたとも聞きます。
小津安二郎の戦後第一作『長屋紳士録』(1947年)には、戦災孤児たちが登場します。
長屋のタフな、やや偏屈気味なおばちゃんが「あたしたちもギスギスしてるよ」と嘆きます。
お父さんとはぐれた子供を預かるうちに、母性愛というよりも長屋愛とでもべきある種の感情に目覚めていく感じなんですね。
映画の終わった向こう側で彼女はどういう人生を送ったのか。
なかなか余韻のある映画です。
一方で、カラダを売って生き延びるしかない女性たちも数多くいました。
「こんな女に誰がした」という名フレーズで知られる名曲「星の流れに」があります。
背景を知らずに聞くと単なる愚痴っぽい演歌とうけとられかねませんが、そうした女性の手記がもとになっています。
体験や記憶を封印・忘却し、そのことによってしか生きられないということ。
「復興」という言葉の裏には、そうした重苦しい記憶と忘却がはりつきます。
記憶を忘却したことの記憶とでもいえばいいでしょうか、そうした苦さもあるはずです。
すぐに気持ちや考えを切り替えて、というワケにいくはずがない。
逞しいとか、そうかもしれませんが、そうせざるをえなかった。
ある時期のこの街で生まれ育つということは、身内に必ずいただろう被爆者や彼/彼女につらなる多くの死者とともに生きる経験であったはず。
私の祖母もそうでしたが、戦前の日本軍の悪口はいっぱい言っていましたが、被爆体験そのものやそれ以降のことは語りませんでした。
祖母の抱えていた苦さを考え直したきっかけは、広島に帰ってきて、やたらと「復興」が売りにされていることに驚いたことでした。
なんら戦後の復興に関わってもいない人たちが、広島の復興を騙っているようにしか見えません。
そういうと言い過ぎでしょうか。
しかし、どこか売り物にするかのように、他の国々や地域に、あたかも良心的であるかのごとくに介入するのを見ていると、強い違和感を持たざるをえません。
一見、善意のかたまりのようにもみえますが、これだけ傲慢でデリカシーのない行為はない、とすら思います。
その手前で一度踏みとどまることが、体験の継承などといういう前に、私たちが他者の体験に近づくということではないのか。
また、よく言われるように、ほんとうに何が必要なのか、冷静に考えることが「支援」なのではないか…。
被爆の記憶が風化しているなどと言いながら、「復興」を売り物にするということの矛盾。
すでに記憶が操作されている証左そのものではないのか。
この街で、沈黙のなかで生き抜いてきた人たちは苦々しい思いを持っている。
私はそのように感じています。
建造物の集合体でしかない都市計画や、個々人を制約する社会システムとしては、「復興」はありえても、それはルールの押しつけになる可能性もあります。
いくらでも「復興」できるから戦争してもよしというふうに取れるだけではなく、むしろ「復興」を先に政治経済的にプログラム化して、戦争を仕掛けているようにすら見えます。
戦争のおそろしさは、個々人のレベルでは「復興」なんて絶対にできないことにある。
そんな厳然たる現実をどのように受け止めるべきか。
というよりも、癒えることのない傷を抱え込むというか、その傷とつきあいながら、他者からはすぐにわからない日常の襞ともいうべき、傷そのものも含めて、ある種の文化となっていくのではないか。
私がパートタイムというべき下宿のオヤジであるのも、日本中の旅館で出される朝食も、そんな「傷の文化」のなかに生きているということなのかもしれません。
(メタ某グ00一番星)