ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

聖帝明治天皇陛下の好きだった蓄音機と新聞

2019年08月06日 | 聖帝の明治天皇陛下
聖帝明治天皇陛下の好きだった蓄音機と新聞

 明治天皇陛下の趣味の一つは、
手回し蓄音機で音楽を聴くことでした。

陛下に仕えるものによれば

《近頃流行のラジオ、あれを聞くたびに「あぁ、今少しご在世が長かったら、あんなに蓄音機がお好きだった聖上(おかみ)のお耳にせめて一回でも……」と年寄りの繰り言をするのです。聖上は、それはそれは蓄音機がお好きでした》

 明治天皇陛下が初めて蓄音機を見たのは、明治36年の第5回内国勧業博覧会でのことでした。
このとき、宝生九郎の吹き込んだ謡曲を聴いてハマってしまいました。
ちなみに明治40年には、「蓄音機」という題で、こんな句を詠んでいます。

  末までも きかまほしきを たくはへし 声のたゆるが 惜しくもあるかな

 明治天皇陛下は新聞も大好きでした。

《聖上は下情に通じるための手段として、
全国の新聞という新聞に目を通していました。
聖上に差し出す新聞は普通のもので、ただ消毒しているだけが違いです。
新聞をご覧になった後は、必ず保存していました。
 おそばの者たちが
「新聞がだんだんと増えてきて、倉の中がいっぱいで、もう置き場所がなくて困ってしまう」
と言っていたこともあります》

#明治天皇陛下
#聖帝

第四十一代持統天皇陛下の功績

2019年08月06日 | 第四十一代持統天皇陛下の功績
第四十一代持統天皇陛下の功績は

国号を倭から日本に正式変更したことです。

大嘗祭だいじょうさいの制度的確立
天皇陛下が即位してからは一度行う
儀式です。

皇太子制度の成立

譲位の慣例化
でますます皇室天皇家を安定的なものにしました。

庚寅年籍(こういんねんじゃく)を作成したこと。
天智天皇陛下のあとにつくられた二番目戸籍ですが、本格的な戸籍としてはじめてでした。

残念なことは
持統天皇陛下は藤原不比等を登用し、藤原氏の台頭を許してしまったことがあります。

持統天皇陛下の功績はたくさんありますね。

皇紀2679年わが国繁栄

大帝明治天皇陛下はとても物を大切にする倹約家だった

2019年08月06日 | 大帝明治天皇陛下
大帝明治天皇陛下はとても物を大切にする倹約家だった

明治天皇陛下はとても
倹約家だったと言われています。

日野西資博(元侍従・宮中顧問官、子爵)がこう証言しています。

《大帝は非常に質素でした。

机の硯箱は鹿児島産で、竹を2つ割りにして中を黒塗りにした粗末なものでしたが、何十年とご使用になりました。
墨にいたっては磨り減りすぎて、手に墨汁がつくまでお使いになりました。

 各省から奏上された書類は、ワイシャツや襦袢を入れた白ボール紙の空き箱を使っていました。

机の上には緋羅紗のテーブル掛けがかけてありましたが、
いつの間にか、たばこの火でたくさんの焼け跡ができていました。
それでも、とうとう取り替えを許しませんでした》

 節約のため、避暑や避寒には生涯、ほとんど出かけていません。

「自分が移動すると人手も経費も膨大に
かかるのが嫌だから」とお仕えのものに語っています。

大帝明治天皇陛下はとても物を大切にする倹約家だったのですね。

皇紀2679年わが国繁栄

聖帝の明治天皇陛下の幼少時代はいたずらっこ

2019年08月06日 | 聖帝の明治天皇陛下
第122代の天皇である明治天皇陛下は、孝明天皇の第2皇子として
嘉永5年(1852)11月3日に
生まれました。

11月3日は戦前、明治節として休日でしたが、現在は文化の日祝祭日と
なっています。

●幼少時代は「いたずらっ子」

 万延元年(1860)、明治天皇陛下
が9歳のときに宮中に入った
樹下範子(掌侍取扱)が
幼少時の堅苦しい生活について語っています。

当時の日常は、朝7時頃起き、
御膳を召し上がった後、
身支度をされ、白粉までおつけになりました。
髪は稚児髷で、お召し物は
模様のある縫いの振り袖、まるでお姫様のような格好でした。

 昼の食事がすむと、お召し替えです。

本紋の緋綸子(ひりんず)の御衣、白絹の御袴という鮮やかな姿で御所に参内なさいます。

そして、午後3時頃まで
お父様の孝明天皇のそばにいらっしゃいました。

御所では毎日2首の歌を詠み、
手習いをなさいました。
夜はだいたい9時頃お休みになりました。

 実際の明治天皇陛下は
「おいた」ばかりする
いたずらっ子でした。
明治18年から宮中に奉公した藪嘉根子(元掌侍)の証言。

《聖上(おかみ)は
小さいときから非常に勝ち気で、稚児を相手に
戦事(いくさごと)をする際も、自ら木の太刀を持って勇ましく切り合い、決して負けることはなかったと聞いています。

したがって、「おいた」もなかなか激しく、そこへ私の兄の亀吉が
相手になって、ずいぶん女官の方々を困らせたそうです。

 女官の後ろから水をかけて驚かせたり、呉服所の人々が大切に縁側に飾っておいた万年青(おもと)の葉を、ハサミでちょん切って
坊主にしてしまったり、
廊下はいつも「おいた」で大騒ぎだったそうです。

こういうお話は国父われわれの皇帝、天皇陛下が親しみを感じられて嬉しいですね。