ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

我が国の最高随筆のひとつ枕草子の素晴らしい感性

2019年08月02日 | 清少納言
我が国の最高随筆のひとつ枕草子
は素晴らしい感性だ。

をかしの明るく豊かな感覚だ。 

月のいと明かきのところみてそうだ

月のいと明かきに、川をわたれば、牛の歩むままに水晶などのわれたるやうに、水の散りたるこそをかしけれ

いまの言葉にすると

月のとても明るい晩に牛車で
川を渡ると、牛が歩くのに
つれて水晶などが砕けたように、
水しぶきが散ったのは美しいものだ。

さすが我が国最高随筆のひとつ枕草子だ

建国2679年のわが国だ

われら日本の天皇家皇室のシンボル 菊の御紋章の中編

2019年08月02日 | われら日本の天皇家の菊の御紋章
われら日本の天皇家皇室のシンボル 菊の御紋章

 鎌倉時代に承久の乱で有名な第82代後鳥羽天皇陛下がことのほか
菊を愛しました。
、衣服や調度品、懐紙、車、刀剣等にまで菊紋をお使いになったのです。

 その後も第89代後深草天皇陛下、
第90代亀山天皇陛下、
第91代後宇多天皇陛下などが菊紋を自らの印として継承なさいました。

われら日本の天皇家皇室のシンボル 菊の御紋章の前半

2019年08月02日 | われら日本の天皇家の菊の御紋章
われら日本の天皇家皇室のシンボル 菊の御紋章

 各種スポーツの天皇杯優勝カップや
天皇陛下より賜る品々に必ずといってよいほど付いている紋章。
みなさんもよく目にすることと思います。

菊紋は、われら日本の皇室を表したシンボル(家紋)なのです。

 菊は、われら日本で最も愛されている花の一つです。

 正全て「菊」が使用されています。

「春は桜、秋は菊」という言葉にあるように、菊は我々日本人にとって非常に馴染み深いものです。

毎年秋、全国各地でその美しさを競う菊花展や、今や秋の風物詩として語られる菊人形などがありますね。

 菊を愛でる習慣は、
われら日本に昔から存在しました。

延喜五年(905年)に撰せられた
『古今和歌集』のなかには、菊を詠じた詩作が多数収められています。

 平安時代中期に紫式部の著した
『源氏物語』内でも、秋の菊についての記述がみられます。

また、元禄十一年(1698年)に
書かれた貝原益軒(かいばらえきけん)の『花譜』(かふ)によると、
当時日本には既に200種類以上の菊があったそうです。さらに、陰暦の9月は、「菊月」と呼ばれます。

 菊はもともと日本在来のものではなく、中国から薬用として
第16代仁徳天皇陛下の頃に伝わりました。

当時の中国には、菊のエキスが溶け込んだ水を飲んだ村人たちが百歳以上の長寿を得られ、菊花酒を飲んだ子供が八百歳を数えたという伝説がありました。

 それがわれら日本に伝わり、平安初期に五節句の一つである
9月9日「重陽の節句」として、菊に関する行事が宮廷に定着しました。

それは、菊の花を浮かべた酒を酌み交わしながら歌を詠むことや、

前日(9月8日)の夜に菊の花に綿をかぶせ、
一夜明けた朝に菊露の染み込んだ綿で身を拭うといった儀式のことをさします。

 元来皇室の御紋は、「日月」(じつげつ)でした。
現在でも天皇が即位なさる際には、「日の丸」と「月」がそれぞれ錦の御旗に掲げられます。太陽は天照大御神、月は月読尊(つくよみのみこと)を表しています。

国学を通して国を守った貢献者

2019年08月02日 | 国学
江戸時代中期(18世紀中頃)
われら国を本来の姿に戻そうとなりました。

儒教や仏教を取り除いて
日本固有の精神を深く研究しようとする国学が生まれました。

わかりやすくは「本来の日本を取り戻そう」という研究です。

われら日本に固有のものとして神道があります。
神道こそが唯一の自分たちのものです。

一方、仏教や儒教は外国のもので日本になかったものです。
仏教と儒教は異教です。

国学者の多くは
この仏教と儒教をやめようとなりました。
儒教も中国が一番の考えでめちゃくちゃです。
当然ですね。

代表的な国学者である本居宣長公も
仏教と儒教を除いて神道に戻していこうしました。

国学者

人物業績・思想著作

契沖(けいちゅう)
万葉集の研究万葉代匠記
(まんようだいしょうき)

荷田春満
(かだのあずままろ)万葉集の研究

賀茂真淵
(かものまぶち)万葉集の研究
ますらおぶり
高く直き心万葉考

本居宣長
(もとおりのりなが)
古事記と源氏物語の研究
たをやめぶり
惟神の道
漢意と真心古事記伝
源氏物語玉の小櫛

平田篤胤
(ひらたあつたね)復古神道-

五人の国士である国学者
はこの順番に時代が下っており、
この順番に思想を引き継いでいます。

国学者の端である契沖と次の荷田春満は万葉集の研究にとどまりました。

賀茂真淵と本居宣長は万葉集と古事記の研究を通して
外来の仏教と儒教を排除しました。

最後の平田篤胤は仏教と儒教を徹底的に排除しました。

平田篤胤の思想である
復古神道は幕末の尊王攘夷の明治維新に
につながっていきました。

国学を通して国を守った貢献者ですね。

古事記と日本書紀の二つの最高の正当な國の歴史書を総称して記紀と呼ぶ

2019年08月02日 | 古事記と日本書紀 総称は記紀
天武天皇陛下が二つとも指揮した。
記紀の作成である。
本来のちゃんとしたものを記して
残そうということだ。

悪事を働いた蘇我氏の横暴が
蘇我氏が高い地位を正当しているのが我慢できなかった天武天皇陛下は
正当に戻した。

その二つの最高の正当な國の歴史書が
記紀である。

記紀(きき)とは、
『古事記』と『日本書紀』との
総称である。
『古事記』の「記」と『日本書紀』の「紀」を併せて「記紀」という。

両書とも奈良時代に編纂された。

わが國の神話と
古代の正当な国史を伝えている。
最高に重要な歴史書である。
序盤は神話からはじまる。
執筆年代に近づくにつれ歴史書としての性格が強くなる。

素晴らしい歴史書です。
国民がみんな読んでほしいものです。