加西市北条町住吉神社の祭のルーツを摂津住吉大社に見る試みの第二弾です。
まずは前稿でも取り上げた住吉名勝図会の記述から見ていきます。
●三月八日 大乗会(参考コトバンク、ウィキペディア)
大乗会には四基の神輿が出されました。ですが、これは、境内に頓宮を設けた境内巡行だったようです。頓宮に神輿を据えた後、各種「楽」を奏されますが、興味深い内容もあるので少し引用してみます(引用部分斜体字。斜体字でないもの、アラビア数字は管理人の挿入)
「その後社僧開式を両官に進む 次に巫女部隊に上り供養を供舞り終て楽所乱声を発し1振鉾 次に曽利古
↑この図は曽利古の舞です。
-中略- 次に 2菩薩舞鳥蝶次に3講読師次に4散花行道渋河鳥-中略-神輿還御-中略-永禄元亀の比当社の神領却略せられ伶人は散亡してさしも久しかりし舞楽絶たりき されとも5天王寺より伶人を請し、-中略-寛保二年壬戌ふたたひ天王寺より伶人を請し例年舞楽執行せることいまにいたる」
1振鉾
鉾を持った舞人が初めは左(東)方から、つぎは右(西)方から出てきて舞い、最後は双方が舞います。魔除けの意味をもっと言います。鉾を持って東西の舞人が魔を祓うところは、北条の龍王舞に共通します。
2菩薩舞 3講読師
神仏習合している様子がこの時代には見られます。講読師はここでは大乗経について講じたと思われます。菩薩舞は菩薩面を被っての舞となります。
4散花行道渋河鳥 5天王寺より
参考サイトによると、渋河鳥は円仁が引声念仏の横笛により吹き伝えたと「教訓抄」に書いてあるそうです。引声念仏の笛で行道がなされることから考えると、それは練り供養のようなものだったと考えられます。
さらに、天王寺は西門の鳥居の向こうの海の日没を浄土に見立てる日想観の場でもありました。これらのことを考えると、住吉の行道はやはり練り供養的なものと考えることができるでしょう。
●「住吉大社神代記」に書かれた酒見北条
延暦八年(789)に書かれたとされる「住吉大社神代記」には、北条の住吉神社とみられる記述が残っています。しかし、ボンクラ祭ブロガー御用達引用元ウィキペディアによると、中村一晴氏が(「平安期における大明神号の成立とその意義」『佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇』第37巻、佛教大学2009年)において、この書物の製作年代は元慶三年(879年)以降の天暦(947年から957年)および)長保年代(999年から1003年)以前であると指摘し、支持されているようです。
そこには、
「凡太神宮 所在九箇所」とあり、摂津国の三社、住吉大社と西成郡の坐間社、菟原郡の住吉社(現神戸市東灘区本住吉神社)についで、「播磨国加茂郡酒見住吉社」と酒見北条の住吉神社の存在を指摘しています。
「住吉大社神代記」が中村氏の言う通りならば、9世紀から10世紀の成立ということになります。そうなると北条住吉神社の社伝に伝わる、8世紀創建と摂津住吉社領であったこと、鎌倉時代には住吉別宮となっていたことも真実味を帯びてきます。別宮としての縁から、北条住吉神社も住吉大社の祭を踏襲していると言えるでしょう。
●再び京都祇園祭の鶏鉾について
2014年の記事に鶏鉾の天王像である住吉明神とその下にある鶏は、北条節句祭りを踏襲したのではないかと考えました。
ですが、住吉大社でも闘鶏があったことを考えると、住吉大社のものをモデルにしたのかもしれません。
まずは前稿でも取り上げた住吉名勝図会の記述から見ていきます。
●三月八日 大乗会(参考コトバンク、ウィキペディア)
大乗会には四基の神輿が出されました。ですが、これは、境内に頓宮を設けた境内巡行だったようです。頓宮に神輿を据えた後、各種「楽」を奏されますが、興味深い内容もあるので少し引用してみます(引用部分斜体字。斜体字でないもの、アラビア数字は管理人の挿入)
「その後社僧開式を両官に進む 次に巫女部隊に上り供養を供舞り終て楽所乱声を発し1振鉾 次に曽利古
↑この図は曽利古の舞です。
-中略- 次に 2菩薩舞鳥蝶次に3講読師次に4散花行道渋河鳥-中略-神輿還御-中略-永禄元亀の比当社の神領却略せられ伶人は散亡してさしも久しかりし舞楽絶たりき されとも5天王寺より伶人を請し、-中略-寛保二年壬戌ふたたひ天王寺より伶人を請し例年舞楽執行せることいまにいたる」
1振鉾
鉾を持った舞人が初めは左(東)方から、つぎは右(西)方から出てきて舞い、最後は双方が舞います。魔除けの意味をもっと言います。鉾を持って東西の舞人が魔を祓うところは、北条の龍王舞に共通します。
2菩薩舞 3講読師
神仏習合している様子がこの時代には見られます。講読師はここでは大乗経について講じたと思われます。菩薩舞は菩薩面を被っての舞となります。
4散花行道渋河鳥 5天王寺より
参考サイトによると、渋河鳥は円仁が引声念仏の横笛により吹き伝えたと「教訓抄」に書いてあるそうです。引声念仏の笛で行道がなされることから考えると、それは練り供養のようなものだったと考えられます。
さらに、天王寺は西門の鳥居の向こうの海の日没を浄土に見立てる日想観の場でもありました。これらのことを考えると、住吉の行道はやはり練り供養的なものと考えることができるでしょう。
●「住吉大社神代記」に書かれた酒見北条
延暦八年(789)に書かれたとされる「住吉大社神代記」には、北条の住吉神社とみられる記述が残っています。しかし、ボンクラ祭ブロガー御用達引用元ウィキペディアによると、中村一晴氏が(「平安期における大明神号の成立とその意義」『佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇』第37巻、佛教大学2009年)において、この書物の製作年代は元慶三年(879年)以降の天暦(947年から957年)および)長保年代(999年から1003年)以前であると指摘し、支持されているようです。
そこには、
「凡太神宮 所在九箇所」とあり、摂津国の三社、住吉大社と西成郡の坐間社、菟原郡の住吉社(現神戸市東灘区本住吉神社)についで、「播磨国加茂郡酒見住吉社」と酒見北条の住吉神社の存在を指摘しています。
「住吉大社神代記」が中村氏の言う通りならば、9世紀から10世紀の成立ということになります。そうなると北条住吉神社の社伝に伝わる、8世紀創建と摂津住吉社領であったこと、鎌倉時代には住吉別宮となっていたことも真実味を帯びてきます。別宮としての縁から、北条住吉神社も住吉大社の祭を踏襲していると言えるでしょう。
●再び京都祇園祭の鶏鉾について
2014年の記事に鶏鉾の天王像である住吉明神とその下にある鶏は、北条節句祭りを踏襲したのではないかと考えました。
ですが、住吉大社でも闘鶏があったことを考えると、住吉大社のものをモデルにしたのかもしれません。
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