月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

116.都東側の三条小鍛冶-祇園に組み込まれた小鍛冶-(月刊「祭」2019.6月26号)

2019-06-29 04:50:28 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
小鍛冶シリーズ再びです。
ここでは、三条小鍛冶宗近の伝承が祇園会と結びついた理由について考えます。

●時代が変わった三条小鍛冶宗近(詳しくは111号)
三条小鍛冶宗近が生きたとされる時代は、1367年頃は後鳥羽院(1180-1239)番鍛冶として記述されていました。ところが、応永三十年(1423)の奥書をもつ「観智院本銘尽」では
「一条院御宇 宗近 三条のこかちといふ 後とはいんの御つるきうきまるといふ太刀作、少納◻︎(言)入道しんせい(藤原通憲)のこきつね 同し作なり」
と、相槌稲荷伝承の設定に似たものとして語られています。
一条帝は980年〜1011年、永延時代存命な天皇なので、小鍛冶もまた永延の刀鍛冶として語られるようになりました。そして、小鍛冶が藤原家伝来の小狐の刀鍛冶としても語られるようになりました。
そして、小鍛冶が永延時代の刀鍛冶として語られるようになったことが、後に祇園会と小鍛冶が結びつくきっかけにもなったと考えられます。

●九世紀末の祇園社
では、小鍛冶が生きたと「された」時代に祇園社はどのようなことが起きていたのでしょうか。


天延時代
『日本紀略』天延二年四月七日条*29
「以祇園。天台別院」

とあるように、祇園社は藤原氏の氏寺興福寺の末寺から天台(延暦寺)別院となりました。
この頃の延暦寺は、座主の良原を中心に他の教団を圧し、末寺や荘園も増加し、世俗的にも強大な存在となっていました。ですが、檀越であった摂関家の援助に負うところが大きかったようです(編・青木和夫ほか『日本史大辞典6』(平凡社)1994)。

そして、
『日本紀略』天延三年(975)六月十五日条には、
「十五日丙辰。被公家始自今年。被奉走馬并勅楽東遊等御幣感神院。是則去年秋疱瘡御脳有此御願。」
昨年秋の疱瘡の悩みの祈願のために、公家が(祇園)感神院で走馬、東遊等、御幣を奉ずるのを今年より始められたとあります。「公家」の中心となったのは、祇園社が昨年まで氏寺・興福寺の末寺であったこと、昨年より祇園社が自分たちが経済の後ろ立てとなった延暦寺別院だったことを考えると、藤原氏であると考えられます。かつての氏の長者・時平が作った道真の怨霊であったと考えるのが自然でしょう。
しかもその六年前(安和二年、969)、当時の氏の長者であった藤原伊尹の時代に安和の変がおき、源高明が太宰府に左遷されました。天禄二年(971)には罪を許されて帰京し、そして祇園会が定例化された年の八月には封300戸が与えられます。
源高明の太宰府への左遷劇もかつての道真を想起させたことでしょう。高明の帰京、封の付与はそのような悪いイメージを払拭し、祇園会の定例化で道真の怨霊を慰撫したと考えて差し支えない。。。?と思います。多分。いやもしかしたら、ひょっとしたら、。




天延時代別伝
元亭三年(1323)頃成立した、社務執行晴顕筆の祇園社の歴史を記した『社家条々記録』によると、
「天延二年六月十四日、被始行御霊会、即被寄附高辻東洞院方四町於旅所之敷地、号大政所、当社一円進止神領也」
とあり、天延二年(974)に御旅所が設置されたとあります。
「日本紀略」より一年早いですが、祇園会が定例化による御旅所の設置伝承と言えるでしょう。
 そして、江戸時代に祇園社に伝わる社伝を集めた『祇園社記』にもその御旅所についての記述が見られます。その文は以下のとおりです。
「当社古文書云、円融院天延二年五月下旬、以先祖助正居宅高辻東洞院為御旅所、可有神幸之由有信託之上、後園有狐堺、蜘蛛糸引延及当社神殿、所司等怖之、尋行引通助正宅畢、仍所司等経 奏聞之劇、以助正神主、以居宅可為御旅所之由被 宣下之、祭礼之濫觴之也、自余以来不交異姓、十三代相続、于今無相違神職也云々、保元馬上 差始之、助正、助次、友次、友正、友延、友吉、友助、助氏、助重、助直、助貞、亀壽丸、顕友」

 蜘蛛の糸を手繰っていくと現在の御旅所である助正の居宅で糸が終わっており、神託どおりそこを社殿とした。助正の子孫がその社の神主となりそれを世襲しているといった内容の文章です。


これらのことから、江戸時代まで、祇園会の定例化が天延期になされたことは伝わっていたことがわかります。
祇園会の定例化は、小鍛冶が活躍したとされる永延時代にもかなり近くなります。このような祇園会定例化の史実や伝承が伝わり続けたことにより、小鍛冶の伝承が長刀鉾の長刀製作伝承につながっていったと思われます。






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