月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

113.都東側の三条小鍛冶-小鍛冶と祇園、もう一つの小狐伝承-(月刊「祭」2019.6月22号)

2019-06-23 14:37:36 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●小鍛冶と祇園
祇園会の長刀鉾に小狐を打ったとも言われる小鍛冶の伝説が結びついたのでしょうか。

●感神院新宮
粟田神社付近は小鍛冶の邸宅跡と伝わっています。そして、粟田神社はかつては感神院新宮などと呼ばれていました。感神院とは祇園感神院、つまり祇園社のことで、史実の真偽は別として、江戸期に信じられていた小鍛冶という人物は祇園系の神社のお膝元で刀を打っていたことになります。そうなると、長刀鉾の伝説と結びつくのもある意味自然なことと言えるでしょう。





●「戴恩記」の小狐伝承
相槌稲荷伝承によれば一条帝の時代に三条小鍛冶が作ったという小狐には、もう一つの伝承が生まれました。
「戴恩記」天和二年(1682)には、
天子には三種の神器有。臣下には三宝あり。三宝と申は、一には大織冠の御影、二には恵亮和尚の遊ばされし、紺紙金泥の法華経、三には小狐の太刀なり。此小狐の太刀と申すは、菅承相百千の雷となり、朝廷を恨み奉り、本院の時平公を殺し、晝夜雨風やまず。おそらしかりし此のなかにも、猶はたゝお神のおびたゞしく御殿さくる計になりさかりし時、御門大いにさはがせ給ひ、『今日の番神はいかなる神にておはするぞ』と貞信公にとはせたまへば、御はかしのつかゞしらに、白狐の現じ給ふを見て、『御心安くおぼしめされね。稲荷の大明神の御番にておはす』と答へ給ひければ、程なく神もなりやませたまひ、雨も晴れはべしとなり。其御太刀を小狐の太刀とは申侍る。
と、小狐の太刀は、大織冠御影(鎌足の絵?像)、恵亮和尚の持っていた紺地金泥の法華経と共に臣下三宝の一つとなっていました。そしてその刀を持っていたのは一条帝(980-1011) よりさらに時代を上る藤原忠平(880-949)です。時平を祟り殺した道真の霊を恐れた御門(天皇)は、忠平に今日の番をしてくれる神さんは誰やとたずねます。すると藤原忠平の太刀に小狐が現れたので、お稲荷さんだも答えたことが、その刀の名の由来となったとしています。
ここで道真の怨霊が出てくるのは、小狐が藤原氏伝来の刀だったことによるものでしょう。


次号では祇園信仰と藤原氏の関係を見ていきます。







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