月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

223.限界-教育の政(まつりごと)3-(月刊「祭」2019.11月特別号)

2019-11-07 16:39:00 | 教育の政(まつりごと)
●姫路市でも起きた教員同士の虐待事件
 また、教員同士の虐待事件が発覚しました。文章から察するに加害者は「いじり」のつもりであったのが、被害者きらすらば、受け入れられなかったのだと思われます。
 加害者はもちろん罰せられるべきですし、それ以上に退職した被害者への補償が急がれます。(例えば、自己都合で退職したならばと退職金は雀の涙です。)

●加害者気質の人は重宝されざるを得ない
 加害者の資質や人格攻撃するよりも、どのようにすれば、事件が起きないのかということを考える必要があります。そこで今の学校の現状を見てみましょう。

 日本の多くの小学校では学級制が敷かれています。一学級は5、6年は上限40名、それより下の学年は35名です。現状としては余裕をもったクラス割りではなく、上限に限りなく近い人に近い人数に学級が分けられます。
 もちろん、学業を志す40名ではなく、遊びたい盛りの40名です。中学生の勉強ができる子から九九もままならない子がいる40名です。運動能力にも例えば50メートル走で言えば、数秒差がある40名です。そのような能力に差があり、考え方も違い、必ずしも学業に心は向いていない子たちを「同じ方向」に向かわせるのが教員の仕事とも言えます。

 「40名がお互いの違いを尊重しながら、譲り合いながら、少し喧嘩することもあるけどそれを乗り越えて、成長する」というのが、理想です。現にその理想のためにほとんどの先生方は日々身を削って努力してらっしゃいます。しかし、上のように能力も価値観も違う子たちが同じ授業を受けるのもやはり限界があります。かつては、その限界を体罰で補っていた側面もあると言えます。しかし、体罰は結局いい方には働かないと言うことが、科学的に証明されたという記事を見たことがあります。結局は、クラスを同じ方向に向けるのに使われていた体罰も使うことは許されないということになります。

 そんな中で、「教師はさからったら怖い」と思わせることで、クラスを同じ方向をまかせなければなりません。もちろん「さからったら怖い」と感じる経験も子どもたちには必要ですが、その比重が大きすぎると弊害のほうが大きくなります。この弊害が大きくならないように40人を指導するのははっきり言えば超人なみの能力か、想像を絶する努力が求められます。
 
 現実では、「血の滲むような努力」言い換えれば、「給料の倍以上の労働」でそれらはなされています。管理人のような努力も能力も足りない人は当たり前ですが、血の滲むような努力をもってしても学級が、うまくいかないことも出てきます。そうならないための人を教員の採用試験では選ぶと思われます。
 授業の工夫だけで同じ方向に向く事ができない学級を「同じ方向」にむかせるには、「さからったら怖い」先生の方が重宝されます。言い換えれば、同じ能力、同じ情熱であれば、いじめられっ子ぽい人よりいじめっこぽい人の方が重宝されてしまいます。
 
 いじめっこ「ぽい」人も一歩間違えれば、現実の加害者になりえますし、「ぽい」人を多数とれば、間違えていじめっこ「そのもの」の人を採用する可能性も結局は増えてしまいます。このような人物を採用しなくていいようにするには、また、「ぽい」人が「そのもの」化しないためにはどうすればいいのでしょうか。

 
●今の制度の限界と新制度は。。。
 今の制度は概ねこのような制度です。
①35人から40人までが上限の学級
②能力もやる気も違う人が常時同じ時間を過ごす学級
③基本毎日同じ顔を突き合わす学級
+α
不法行為も学校内での解決が求められる学校

です。
 これらを変えないと児童生徒教師問わず学校での虐待事件は後を絶たないように思われます。そこで管理人として選択肢を考えてみました。

①学級上限20人
 まだ、これならいろんな子がいる中での学級が「さからったら怖い」を比較的比重を少なくして成り立つ限界でしょうか。
 教室を増やしたり改修したり、教師を雇う費用がかさみます。

②習熟度別の授業
 ある程度できる子は、先に進めることで、退屈さや不満は少なくなります。できるけど塾に行けない子にもチャンスが広がります。できない子をどれだけ手厚くできるかは、さける人員がどれだけかによるものと思われます。

③+α 学級制の撤廃と全科目専科制
 人間は閉鎖された環境で不法行為も外に出なければ、いじめは起きます。そのために人の流れを流動的にして、「仲良しを強制されない」という環境を作るというものです。
 こう聞くと有効な気がしますが、管理人には具体的なイメージがわきません。社会学者の内藤朝雄氏などが主張しています。

●-疑いの目を政(まつりごと)に-
 もはや、一人一人の先生方の努力だけではこのような虐待事件を減らすことはできないと思われます。ましてや、神戸方式害悪論という愚論だけで対処するのはもっての他のように思います。
 しかし、このような教育に例えば政治に携わる人が本気で取り組んでくれるという期待は、しないほうがいいと思われます。公教育の充実は給与の高い仕事や社会的影響力のある仕事につくチャンスを、今はそうでない家の子に与えるものです。今、高い給与をもらっていたり、社会的影響力のある人が、自分の身内意外にチャンスを与えるようなことを、わざわざするとは到底思えません。
 不祥事を好機として自分に都合のいい人間を作り出すための改革の可能性も高いでしょう。このような疑いの目で政(まつりごと)をする人を見ることが、政(まつりごと)をする人に対する本当の礼儀と言えるでしょう。

月刊「祭」管理人