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月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

236.徐福が求めた永遠の命-丹後新井崎(ニイサキ)の土-(月刊「祭」2019.11月20号)

2019-11-27 17:06:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●新井崎神社
 丹後半島の新井崎神社付近にはざーーっくりいうと下のような伝説が残っています。
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秦の始皇帝の命令で永遠の命を保証する薬を求めて旅していた徐福が、このあたりに流れ着いた、それを地元の人たちが匿った
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といったものです。
というわけで、写真を見ていきます。

↑新井崎神社本殿

●西の異国から見た日本
 日本から見た西の異国

↑鳥居の向こうは日本海。そのはるか向こうは、朝鮮や徐福の故郷「秦」があります。
 秦からすれば、日本は永遠の命が保証される薬があるかもしれない国でした。
 一方で日本から見た異国はまさしく極楽浄土の象徴でした。丹後国の天橋立では、平安時代に迎え講という阿弥陀仏来迎を表す儀式が行われました。浦島伝説ものこり、いつの間にか数百年生きた浦島も永遠の命への信仰を連想させます。これらについての記事はこちらをどうぞ
 日本から見た極楽浄土への想い、異国から見た永遠の命への願いの交流点の一つが新井崎神社周辺だったと言えるでしょう。では、なぜ、その交流点に新井崎神社(にいさきじんじゃ)近くが選ばれたのでしょうか。

●徐福到来の地 -新井崎(ニイサキ)考-
 そこで、もう一度新井崎神社近くの徐福到来の地を見てみましょう。



↑隠れ住んだとされる岩の洞窟です。


↑海はすぐそばです。


↑足元を見ると土があかいですね。

↑落ちていた石を拾うと。。

 徐福到来の地だけに、海のそばなのは分かります。さらに、そこにある赤い土はおそらく水銀だと思われます。水銀は丹薬などとして中国などでは永遠の命の薬として研究されていたそうです(参考はもちろんウィキ●ディア)。
 こなような水銀のある地だから、徐福到来の地として伝わったものと思われます。そして「ニイサキ」は元々「ニウサキ・丹生崎」という意味合いがあったのかもしれません。


















234.日泰眷属ネズミ比べ(月刊「祭」2019.11月18号)

2019-11-25 01:52:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●タイ(ヒンドゥー教?上座部仏教?)のガネーシャ神とねずみ
 ヒンドゥー教国でもあるタイのバンコクには、人身像頭のガネーシャ神がよくまつられていました。その中で管理人が宿泊したホテルの敷地にあるガネーシャ神の足元には、かんのネズミちゃんたちがいます。
 このサイトによると、退治した悪魔をガネーシャがネズミの姿に変えて、ヴァーハナ・神の乗り物としたと伝わっているそうです。また、なずみは暗い所を象徴することもあるそうです。
 さらにこちらのサイトによると、ガネーシャの別名をヴァーマムカといい、ヴァーマは「北」を象徴するそうです。



↑よく見ると宝物を持ってきていて健気です。↓


●京都大豊神社のこまねずみと祭神
 京都市内の大豊神社(こちら)摂社の大国主神社も狛鼠がその前にいます。大国主命は記紀神話などによると、素戔嗚命に周りに火をつけられるも、ねずみの案内で助かったという伝承が収録されているそうです。








大国主と同じ読みになる「大黒天」もねずみと関係が深く、ネズミが米俵の周りをうろつくデザインの絵画がこのまれるとのことです。このデザインは中国でもこのまれていたそうです。
 中国ではねずみは十二支のうちの「北」をさし、大「黒」天の黒も北を表す色となります。つまり、大黒天が道教や陰陽五行思想によってねずみと結びついて行ったようです。
 インドのほうでもねずみを従えていたガネーシャもまた、北を表す神であるのは興味深いでしょう。

●チベット仏教では。。
 チベット仏教ではマハカーラがガネーシャを調伏した姿で描かれることが多いようです。では、このマハカーラたら神様は何者でしょうか。実はこの神様は大黒天のインド式の名前だそうです。参考
 ネズミを従えると伝わるのは、タイやヒンドゥー教国ではマハ・カーラに調伏されたガネーシャがねずみをつかっていました。
 一方日本や中国では大国主・大黒天・マハ・カーラ自身がねずみをしたがえました。
 そして、日本や中国ではねずみは北の方角を表します。インド・タイなどではガネーシャの別名ヴァーマ(北)・ムカに北の意味を込められていました。北の方から福や宝物を持ちくるものとして、大黒、ガネーシャ、ねずみは良く考えたものだったのかもしれません。

●有名な泥棒の名前
 さて、かの有名な泥棒の次郎吉さん。彼もまた宝物を運びくると伝わる「ねずみ」の名が欲しかったのかもしれません。ねずみ小僧次郎吉の墓が兵庫県三木市慈眼寺(アクセス)にも残っています。
 



↑三木市の慈眼寺にのこるねずみ小僧次郎吉の墓。下にねずみがいます。(アクセス)


207.獅子の四肢(月刊「祭」2019.10月7号)

2019-10-24 21:24:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
獅子舞
 獅子舞はまさしく獅子が舞う様子を人間が演ずる芸能です。獅子の顔は、もちろん面で表し、実は布には尾もついているのがほとんどです。自由自在に動く獅子の顔・面は時に舞手の手でもたれたり、時に被られたりします。このようにして、獅子の頭部や尾を表しますが、獅子の四肢、つまり前足、後ろ足はどのようにして表されるのでしょうか。
 姫路市英賀神社の英賀西の獅子舞で見ていきます。

●一般的? 2人で
 まずは、よく知られている2人で前後に並び一頭の獅子を表現する方法です。前の人が手で面を操ります。前の人の足が前足、後ろの人の足が後ろ足となります。面は前の人が手で持ち、口を開け閉めしたり、前後上下左右に獅子の頭を激しく動くしたりでき、アクロバティックな動きが可能になります。


●一人で
 下の画像を見ると舞台に2人いますが、後ろの人は獅子の補佐をしているだけで、獅子の体の一部ではありません。
 前の人は獅子の面を頭に被り、その足が後ろ足となり、両手は前足となります。後ろ足の二足歩行で右の前足で御幣を握っていることとなります。御祓の所作などゆったりとした動きや道具を用いた所作に適しています。




●二人(上下)
 下の画像のみ英賀西ではありません。同じく英賀神社の獅子ですが、高町の獅子です。背の高い獅子は下の人の肩に上の人が乗っているためです。下の人が大人、上の人が子供ということもあります。下の人の足が獅子の後ろ足となり、上の人の手が獅子の前足となります。面は上の人がかぶり、前足を表す両手に傘などを持って舞います。



●前足が移り変わる??
 下の二枚の写真は同じ演目の舞です。獅子が物を持っている様子ですが、上のAの写真では前の人の手が前足、後ろの人の足が後ろ足となっています。前足を表す両手で物を持ち、前の人の足は見えていますが、この時点では、前の人の足は「見えていない物」としてかんがえるといいでしょう。
A



 そして、Bの写真では物は前の人の両足で持たれ、前の人の両手は隠れました。この時には獅子の前足は、前の人の両手から両足にかわっています。

B



●見えるけど見えないもの
 獅子舞を見ると、はじめはお祓いなどの大人しいものからやがて、激しくなる序破急の構成になっていると思われるものがよくあります。能の影響とも言えるでしょう。
 そして、獅子も布の下の人の体や、上の画像Aのように見えている前の人の足は、見えないものとして扱われます。それは、歌舞伎の黒子、能楽や狂言の後見を見えないものとするところも似ているかもしれません。
 しかし、見えないものとしてたのしみながらも、実際は見えていて、それが、人間には難しいこと=曲芸(人の肩の上に人が乗るなど)をしているから、観客や神仏もたのしむことができるのでしょう。




 

202.池や川にドボン(月刊「祭」2019.10月3号)

2019-10-03 12:28:02 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●加古郡稲美町天満神社の神輿投げ入れ
 (アクセス、祭礼日体育の日前日の土日)
  いくつかの屋台が担がれますが、神輿の行事もまた人々の目をひく特徴となっています。
 管理人の祭礼日が同じなので、自前の写真はありません(ToT) このまつりのユーチューブ映像の一覧をリンクしました。
 
 地下足袋(左側が天満神社の神輿行幸で使われるもの。右側は管理人のもの)を見ると、色は同じですが、左側は農業用のものになっています。池の中で担ぐことをみこして、田んぼではくものを使っているのかもしれません。



●神輿を投げ入れる習俗

 実は神輿を投げ入れる習俗は播州においても、他地域で存在したそうです。それが小野市久保木町住吉神社(祭礼日10月最後の土日、小野市久保木町978)です。
 最近は屋台や神輿を修復するなど、歴史などを学びつつ祭文化を残そうとする動きが活発になってきています。


↑修復前の屋台。絹常製の見事な刺繍が目を引きます。



↑かつて投げ入れられていたという神輿
 
 そこで聞いた話だと、雨乞いのために池(川だったかもしれません、のちに確認します。)に投げ入れてたということもあったそうです。雨乞いのために神輿を投げ入れること、住吉神が水の神であることもイベントとしての祭という意味だけではなく、信仰的な意味合いがあったのかもしれません。その風習が「何故残らなかったのか」は、今年の住吉神社の祭礼より後に寄稿したいと思います。

●雨乞いで投げ入れるもの
 小野市久保木の住吉神社は東条川ぞいにいりますが、その川をさらに上に登るとかつてはもっと別なものが投げ入れられていました。加東市吉井の住吉大明神(アクセス)前にその歴史を記した岩が安置されていました。
 

↑住吉大明神
↑雨乞いの儀式の記念碑

 記念碑は昭和六十二年(1987)に建てられています。
 それによると嶽の麓の岩に赤牛の首を備えたところ、干ばつがおさまり恵みの雨が降ったということです。日本や朝鮮半島、中国においては、このような習俗が広がっていたようです。
 日本の場合、仏教の流入によりその風習はおこなわれることは少なくなりました。例えば景戒『日本霊異記』弘仁13年 (822)?「漢神(からかみ)の祟りに依り牛を殺して祭り、又放生の善を修して、以って現に善悪の報を得し縁(えにし)」では、漢神(からかみ)という中国の神を祀るための風習として殺牛があったことを書いています。
 雨乞いで太鼓を叩くのも牛の皮を叩くということになり、かつての殺牛の風習の代替策ということもできるかもしれません。

●妄説・何故牛の首を備えたのか。
 きくところによると、牛の血を放り込んで川を汚して神さまを怒らせて雷を鳴らして雨を降らせるということを聞きました。それでも、何故牛なのかの説明はつきません。
 ここからは、妄説です。何故牛の首を備えたのか? 管理人妄説は龍という水神をつくるためだと考え(妄想)しました。以下その妄言にお付き合いください。
 龍には九似というものがあったそうです(九似の参考:笠間良彦『日本未確認生物事典』(柏書房)1994)。
 にているのは
魚の鱗、大蛇の腹、虎の掌、鷹の爪、蛇の頂き(おでこ?)、ラクダの頭、鹿の角、鬼の目、そして、牛の耳だそうです。
 牛は農耕の大切なパートナーとして殺されることはありませんでした。
 しかも、それでは水の神・龍が完成しません。ここまでの干ばつは、龍の首が足りてないからだろう。といっても駱駝、鬼、は手に入らないし、蛇、鹿ではありがたみが足りないとい。そこで泣く泣く牛を神の世界に送り返すといったことがあったのかもしれません。
 
 

↑浦島神社拝殿の龍




 

196.天橋立文殊堂の謎の生物(月刊「祭」2019.9月23号)

2019-09-28 11:22:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●天橋立知恩寺文殊堂
(アクセス)
 京都府宮津市天橋立の知恩寺文殊堂は、「天橋立」観光を構成する主要スポットとなっています。寺の概略を某ウィキ●ディaを参考にしながら述べていきます。
 寺伝によると大同三年(808)に平城天皇の勅願寺として創立されたそうです。元々は真言密教寺院だったそうですが、南北朝時代以降は臨済宗の寺院としてさかえました。木造文殊菩薩像と脇侍像、多宝塔などの重要文化財を擁します。

↑文殊堂。明暦三年(1657)の改修により現在の姿になったそうです。


↑多宝塔は、 丹後国守護代・延永春信によって建立され、明応十年(1501)に落成したそうです。

↑風光明媚な景観です。

●謎の生き物
  建物正面の角などに、獅子や龍の木鼻が取り付けられることはよくあります。知恩寺も例外ではありません↓。




その中で異彩を放つ生き物がいました。

↑一見獅子に見えますが、角が二本生えています。角が一本の狛犬などはありますが、二本の生き物は管理人は見たことありません。
 近いのは「白澤(はくたく)」でしょうか。書物によれば獅子の別名ともされているところも似ています。道教の瑞獣とされており、『黄帝内伝』という書物には黄帝が海辺を行くときに会った生物とされています。
 天橋立という、海の奇跡の寺院には相応しい瑞獣かもしれません。








195.祭礼「雑」物館としての「プロトコル」(月刊「祭」2019.9月22号)

2019-09-27 22:08:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●雑誌に載せてもらえない文を書いてます(ToT)
祭「雑」物館
 本ブログは、播州から摂津、京都、江戸、韓国、ヨーロッパ、現代から江戸、古代、彫刻・刺繍から、台車、神道から仏教、道教、キリスト教と、記事ごとにテーマがあちこち飛んで行きます。その様相はまさに祭「雑」物館。

民俗学?
 でも、その中でも重要視しているのは、台車の記事(播磨版淡路版)に見られるような祭関係者が知恵を出したり、思いをこめたりしていることについて取り上げたいと思っています。本ブログ管理人は、祭に関係した講演の機会を賜る時は、「民俗学」を専門として語っていますが、民俗学が何なのかはよくわかっていません(ToT)
 「民俗学て何?」と聞かれたら「タイコかきながら(担ぎながら)祭の歴史とか文化を考えることやねん」などと答えるのが関の山です。専門家からすると非難轟々な答えかもしれません。現に投稿した論文(もどき)は、書式の不備や推敲が著しく不足していることもあいまり(この時点で読まずに返されても文句は言えないし、読んでくださるだけでも本当にありがたいことです。)、酷評を頂いております(ToT)

●祭関係者の知恵と思いの結晶



 ただ、本ブログの柱の一つとなっている屋台やだんじりの構造や担ぎ方などは、「末端」の問題でさして重要でないという指摘も頂いております。しかし、祭関係者にとっては、これほど大切なことはありません。屋台の構造がわかっていなかったり、組み方、担ぎ方の不理解は即怪我につながりますし、存続は不可能となります。また、研究者自身が祭の担い手となる場合は、末端の問題としてすませるわけにはいきません。
 屋台やだんじりに関わる庶「民」の知恵とか思いがこもっているところを本ブログでは紹介できればと改めて思っています。ようは、民俗学がこのことを問題にしないのであれば、民俗学かそうでないかというのは、管理人にとってさして重要でないということに最近気づきました。どうせ、雑誌に載せてもらうことのない内容ならば、ここで発信する方がいいという結論に至り、最近はほとんど毎日書いています。
 そこで大事なのが「プロトコル」というものだそうです。


●プロトコルて何?おいしいの?
 「プロトコル(コンピュータの言葉として知られているみたいです。)」という言葉。博物館に勤務している方にとっては、非常に大切なものだそうです。学芸員資格をもっている管理人は生まれて41年目にして、この言葉を知りました。参考文献は『月刊少年マガジン 2019年10月号』(講談社)所収の「C.M.B 森羅博物館の事件目録」という漫画です。
 あらすじはこんなかんじです。

「アメリカのとある美術館で、地球温暖化の展示をしていた。そんなある日、その美術館の学芸員が何者かに襲われる。容疑者として浮上したのは、地球温暖化に疑義を挟む思想の持ち主。大統領も温暖化を否定していると主張している。森羅たちは、この容疑者を犯人だと考えるが、証拠が見つからない。はたして立証できるのか!?」

ここで、美術館は現政権の方針に反する展示を行います。それに対して、暴力的な方法で妨害したこと(どこかで聞いたことある話です)が「プロトコル」を侵されたたいうことになります。
  プロトコルというのは、何なのかを主人公の森羅は語っていますが、「自分の考えを分かりやすく伝えるため=表現の自由を行使するための手段と場と手続き」と考えるといいでしょう。伝えるためには相応しい場を用意し、分かりやすく伝えたり心に訴えかける手段をこうじなければなりません。例えば、管理人がインターネットに掲載している文章を印刷して町中に放り投げて配るやり方は迷惑なだけで、きちんとした手段や場、手続き・プロトコルが確立されているとは言えません。
 きちんとした手段や場を確立して、表現する人は伝えないといけないし、見る人は自分の考えと違うこともあるかもしれないということもふまえて鑑賞する。このような手続きが必要になります。

 月刊「祭」は、論文雑誌に載らない(載せてもらえない、載せて欲しいんです(ToT))けど、祭にとっては面白かったり大切だったりするものだと管理人が考える物事を伝える表現の手段と場と手続き・プロトコルとなります。




●「雑」物館? ゴミの山?
 偉そうに本ブログのプロトコルについて能書きをたれたものの、実際に読者のみなさんにとって面白かったり、調べたいことが調べられるブログになっているとは到底言えません。その理由の一つが、アクセスのしにくさです。記事や調べている内容にアクセスしにくい。200を超える記事から目当てのものを探し出すのは、困難を伴います。整理されて陳列されなければガラクタの山と言われても仕方ありません。。
 
 祭が終わったらその点をすこしでも改善できればと思っております。


192.丹後半島の着色石像文化(月刊「祭」2019.9月19号)

2019-09-24 18:16:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●今回は謎のまま
 宮津市などでは、石像に色をつけるのが流行しているようです。見る限りでは、最近着色されたと思われるものがよくみられました。

●宮津市金屋谷付近 (アクセス)

黒衣と赤衣の僧形像



↑向かって右側の方は金色の物を持っています。おそらく薬の瓶で薬師如来でしょうか。


地蔵菩薩?

↑カラフルに彩られています。

●天橋立知恩寺内(本堂は文殊堂) (アクセス)


↑六地蔵のように見えますが髪の毛があります。

●京丹後市
金刀比羅神社
 狛猫にあやかり、2000円の初穂料で狛猫に色を塗ることができます。















●宮津周辺石像着色文化
  色がつけられるのは、道端の小さなお堂のものや、比較的新しいものに多いようでした。伝統的な街並みの落ち着いた雰囲気に、彩りを与えてくれています。



190.宮津駅周辺寺社彫刻名所(月刊「祭」2019.9月17号)

2019-09-17 11:51:09 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
 
 天の橋立の価値を上げる彫刻
 世界遺産に登録しようという動きも見られる天の橋立。陸が海を渡るはしのようになるという自然の奇跡は、古来より人々の信仰の対象になってきました。その中で、生まれた優れた寺社彫刻は、天の橋立をアピールする題材の一つになりうるでしょう。各寺社の縁起は毎度のウィキぺDアに任せることにして、ここでは、彫刻を紹介していきます。
●籠(この)神社の和貴宮神社
 籠神社の御分霊を勧請したと伝わる和貴宮神社です。







↑向こう側が見える籠彫りがなされています。

●中井権次(ごんじ)作の彫刻
 中井権次一統(詳しくはリンク先)は、北近畿一体から播州、摂津にいたるまでに見事な彫刻を伴う社寺建築を残した宮大工です。また、五代目からは中井権次橘●●と橘性も名乗るようになっており、同じく明石の橘正義という彫刻師とのつながりも可能性が残ります。宮津の地にも見事な作品を残しました。
 中井権次ご末裔の中井彫刻店(社寺彫刻ではなく印鑑などの制作)のご主人に大変なご厚意を賜りました。また、町中の案内は近隣の服飾店の方に詳しくご教示賜りました。

桜山天満宮(アクセスウェブページ)








 


仏性寺(アクセスウェブページ)




本堂の木鼻、欄間



楼門の龍



●金屋谷の寺町
 寺院が集まっています。全ては行けず、上の仏性寺と妙照寺、大頂寺に行きました。



↑寺院の中に鳥居があります。

↑熱心な日蓮宗の信者だった加藤清正をまつります。


↑彫刻が見事です。

↑本堂

↑龍の木鼻↓

 宮津藩の藩主京極家ゆかりの寺、そして、八百屋の娘から将軍の母にまでなった桂昌院の御霊屋があります。本堂(17世紀)、御霊屋(18世紀)ともに、当時のままの姿をとどめています。

↑坂を登って振り返れば宮津湾。


↑欄間彫刻も17世紀のもののこっています。

↑ご本尊前の龍。ご本尊については、稿をあらためます。

↑八百屋の娘から将軍の母にまで上り詰めたお玉の霊屋

手前の欄間の彫り物が見事です。

少しうつりがわるいですが、さらに内部の彫刻です。全て透し彫りで、漆には金箔で模様がえがかれています。


謝辞
それぞれの場所で、丁寧なご教示を賜りました。改めてお礼申し上げます。

189.丹後の狛猫!?その理由(月刊「祭」2019.9月16号)

2019-09-17 10:26:12 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●丹後の国の狛「猫」
 この写真を見てください。京丹後市金刀比羅神社内のとある摂社の狛「猫」です。親子猫は天保三年(1832)、右の猫は弘化三年(1846)につくられたそうです。なぜこのような狛猫が作られたのでしょうか。






●木島神社と丹後ちりめん
 上の写真の狛猫は、金刀比羅神社の木島神社の前にいます。




 山代国、現在の京都市より文政十三年(1830)に迎えられました。
 その神社は木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ アクセス)です。別名は「蚕の社」。渡来民族である秦氏ゆかりの神社で、「はた」をおる神社で養蚕業者や織物業者の信仰をあつめていました。
 そして、金刀比羅神社の氏子域を含む丹後地方は、丹後ちりめんと呼ばれる織物の名産地です。江戸初期ごろよりさかんになったとつたわっています。それに伴い養蚕業が発達したと言います。
 養蚕の神さまは金刀比羅神社以外にも招かれたようです。例えば下の写真のように三十八社神社(読み方は写真の下を)近くにもありました。


↑三十八社神社(はっせんさんじんじゃ・
アクセス)近くの養蚕の神が祀られる祠

↑三十八社神社前の畑。このあたりも元々は桑畑だったと聞きました。

このような養蚕の神社、養蚕の地域に狛猫が寄進されたことになります。なぜ猫を選んだのでしょうか。

●猫を選んだ理由
 養蚕、つまり蚕を飼っている時にその蚕を狙うのが、鼠です。その鼠を捕るのはご存知の通り猫です。養蚕業者はのきなみ猫を飼い始めました。
 養蚕業者にとって、まさしく猫は神の使いとなりました。



京丹後市 金刀比羅神社(アクセス)
4月9・10日  春季大祭
7月9・10日  夏季大祭
10月   10日  例  祭
第2日曜  神輿渡御祭(長浜曳山を思わせる芸屋台、祇園祭の山に通じる松を乗せた引き屋台が出ます。かつては、鉾に通じるものもでていました。)
2019年9月8日は狛猫祭があったそうです。

三十八社神社(アクセス)
祭礼日敬老の日前の日曜日。

参考サイト

謝辞
 このお話は立ち寄った三十八社神社で、聞かせていただいた話をもとに書きました。祭をしていて、その酒宴の場にもご一緒させていただきました。厚く御礼申し上げます。

183.京都以外にも見られた寺社の雨水処理石鉢(月刊「祭」2019.9月10号)

2019-09-12 23:34:07 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
屋台、だんじり祭の地域にもあった雨水処理石鉢
 以前紹介した京都の雨水処理石鉢。実は、他の地域にもありました。しかも、このブログの主たる読者層である、屋台、だんじり祭のある地域にです。どの祭の地域にある寺院や神社かで紹介していきます。

●泉大津市泉穴師(いずみあなし)神社(アクセス)氏子域
 だんじり祭は体育の日前日です。

正福寺(アクセス)





 

すぐ近くで池浦だんじりが鳴り物練習をしていました。↓



法蔵寺(アクセス)





↓すぐ近くには板原だんじり小屋がありました。



●淡路市石屋(いわや)神社(アクセス)

 祭礼日  五月と九月の第二土日
           (春秋ともにだんじりが出ます。
            2019年秋は14、15日)

 今まであげた例は神社でしたが、ここは神社に雨水処理石鉢がありました。





●姫路市浜の宮天満(アクセス)宮
 祭礼日 10月8、9日

求鱗寺(天満宮のすぐ隣です)






祭見物の合間に
 祭見物の合間に、雨水処理システムの鑑賞はいかがでしょうか。でも、実際に処理しているところは、祭の日にはみたくないですね^_^;