「鉄壁の要塞○岸家」の近所には、
「○乙女荘」があった。
そこは、デザイン科の3人の男子が住んでいた。
何があってもどんと来いタイプの包応力がある静岡出身のA君、
そこに誰がいる?と聞かれ「○○とか…。」と言われ、それから
トカと呼ばれていた加賀市の出身のO君、
いつもタオルが半乾きで臭いので、
「しゅう(臭)君」と呼ばれていた福岡出身のY君。
(今思うとイジメのようなネーミングだ。)
ここに住んでないのに、なぜかいつもここで
夕食を食べていたツッコミ専門の大阪出身のTちゃん(君)、
いつも砂の嵐になるまで居座る阪神タイガース好きの滋賀県出身のH君
それと、金沢出身なのに、なぜかいつもここにいたMちゃん(君)
その他、後輩が手伝わされているので、代わる代わる
いつも誰かが住んでいた。イヤ、どちらかというと寄生だ。
但し、ここは緩いだけに特にグループ課題
(アニメーションなど)の拠点になっていた。
私は日本画専攻だったのだが、同じ下宿のRちゃん、
H美ちゃんに連れられ、よく遊びにいっていた。
だから、いまでも、私が日本画出身だと思う後輩は少ない。
あれ?デザイン科でなかったっけ?というくらい(笑)
それだけ、何かしら楽しかったのだと思う。
それに、○乙女荘に来れば誰かがいるという
安心感があったのかもしれない。
そして、3年生になり、家主が帰ってくると理由から
新しい下宿先を探した「○岸家」の私たち…。
淋しいが、当然、今まで一緒だった
同じ学年の美大生4人と3年生から離れる事になった。
それでも、そのうちの一人、静岡出身のH(R)ちゃんと
美大のグランドを横切って歩いて1分のところに
東○荘というアパートを借りた。
今度は3畳分くらいの台所兼廊下、
トイレ付き、6畳と4畳半の2間という築20数年
のオンボロアパートだった。
(後に五木寛之が若い頃に住んでいたという
由緒?あるアパートという事がわかったが、
それくらいオンボロという事だ。)
それでも私の部屋に住んでいた先輩から譲りうけた
温水器とガスレンジ、ストーブをもらって
このオンボロアパートも住めば都だった。
(真っ赤なムカデがよく出るという事を除いては…。)
この東○荘というアパートは美大から近いという事もあり、
美大祭の時は、軟式庭球部のサークル(部活)のテントで出す
「おでん」の仕込み場所になったり、
私がいなくても、誰かが炬燵や寝袋で寝ていたりしていた。
それに、その頃四芸祭(○京芸大、愛○県芸大、京○市芸大、金沢美大)
の開催年だった事もあり、歓迎の出し物を
私の部屋で毎夜練習するという有様。
その出し物とは…「スリラー」。
あのマイケル・ジャクソンの「スリラー」だ。
みんなでビデオクリップを何度も観ながら
広くもない私の部屋で何十人と集まって踊るものだから
地震のように揺れるオンボロアパート…。
しかも夜通しだから、ふざけた美大生だ…。
(ごめんなさい、二階の人…。)
でも、本番は昼間だから、せっかくのスリラーメイクも台無し、
わざとボロボロに切り刻んだ服も他の芸大の人には、
いつもの私たちの服かと思われたくらいだった。
それでもなりきりの私たち、充足感だけ残った。
そして、ハチクロでも描かれているが、
いくら美大に入ったからといっても、
才能は万人にあるものではない。
また、その才能をもて遊ぶ者もいる。
また、その才能という言葉に
押し潰されて自分で壊れていく者…。
でも、その中でみんな足掻いて
3年生の後半になると、みんな就職を考えた。
そして、彼ら、彼女たちは一流企業にしっかり就職する。
日本画の私は日展に出すようになり、創作作りに追われるようになる。
学校の先生になってもらいたがった父に反抗して
4年の7月に受ける教員採用試験は当日ボイコットなどもした。
まったく、若気の至りだった。
それでも、絵を描く事にはお金が必要なので、
なんとか滑り込みで就職をした。
しかもなぜか県内の陶器メーカーのデザイナーとして…。
新たなアパートを借りようとしたが、
父に止められ、やむなく自宅に帰る事になった。
昨日は、その母校の卒業式の映像がテレビに
映し出されていた。
私たちの美大の卒業式はちょっと一風変わっていて、
みんな変装パーティのような格好をするからだ。
私たちの時は、阪神が久しぶりに優勝した年だったので、
もちろん阪神好きなH君は○ンディ・バース風。
私は日本画専攻の代表で卒業証書をもらう役目だったので、
教授にくれぐれも日本画はみっともない格好はよしてくれと
止められたので矢絣の着物に袴という出で立ちだった。
この季節になると私のハチクロ(大学時代)を
つい思い出してしまう。
みんなと別れたあの寂しさ、
だけど、晴れ晴れとした空気…。
私はいつまでも忘れない。
みんなの優しい笑顔、
ひらひらと舞い散る思い出。
甘酸っぱいけど、
奇跡のような出会い。
そして、み~んな今でも私の大切な仲間たちである。
「○乙女荘」があった。
そこは、デザイン科の3人の男子が住んでいた。
何があってもどんと来いタイプの包応力がある静岡出身のA君、
そこに誰がいる?と聞かれ「○○とか…。」と言われ、それから
トカと呼ばれていた加賀市の出身のO君、
いつもタオルが半乾きで臭いので、
「しゅう(臭)君」と呼ばれていた福岡出身のY君。
(今思うとイジメのようなネーミングだ。)
ここに住んでないのに、なぜかいつもここで
夕食を食べていたツッコミ専門の大阪出身のTちゃん(君)、
いつも砂の嵐になるまで居座る阪神タイガース好きの滋賀県出身のH君
それと、金沢出身なのに、なぜかいつもここにいたMちゃん(君)
その他、後輩が手伝わされているので、代わる代わる
いつも誰かが住んでいた。イヤ、どちらかというと寄生だ。
但し、ここは緩いだけに特にグループ課題
(アニメーションなど)の拠点になっていた。
私は日本画専攻だったのだが、同じ下宿のRちゃん、
H美ちゃんに連れられ、よく遊びにいっていた。
だから、いまでも、私が日本画出身だと思う後輩は少ない。
あれ?デザイン科でなかったっけ?というくらい(笑)
それだけ、何かしら楽しかったのだと思う。
それに、○乙女荘に来れば誰かがいるという
安心感があったのかもしれない。
そして、3年生になり、家主が帰ってくると理由から
新しい下宿先を探した「○岸家」の私たち…。
淋しいが、当然、今まで一緒だった
同じ学年の美大生4人と3年生から離れる事になった。
それでも、そのうちの一人、静岡出身のH(R)ちゃんと
美大のグランドを横切って歩いて1分のところに
東○荘というアパートを借りた。
今度は3畳分くらいの台所兼廊下、
トイレ付き、6畳と4畳半の2間という築20数年
のオンボロアパートだった。
(後に五木寛之が若い頃に住んでいたという
由緒?あるアパートという事がわかったが、
それくらいオンボロという事だ。)
それでも私の部屋に住んでいた先輩から譲りうけた
温水器とガスレンジ、ストーブをもらって
このオンボロアパートも住めば都だった。
(真っ赤なムカデがよく出るという事を除いては…。)
この東○荘というアパートは美大から近いという事もあり、
美大祭の時は、軟式庭球部のサークル(部活)のテントで出す
「おでん」の仕込み場所になったり、
私がいなくても、誰かが炬燵や寝袋で寝ていたりしていた。
それに、その頃四芸祭(○京芸大、愛○県芸大、京○市芸大、金沢美大)
の開催年だった事もあり、歓迎の出し物を
私の部屋で毎夜練習するという有様。
その出し物とは…「スリラー」。
スリラー 25周年記念リミテッド・エディション(DVD付)マイケル・ジャクソン,ヴィンセント・プライス,ウィル・アイ・アム,エイコン,ファーギー,ポール・マッカートニーSMJ(SME)(M)このアイテムの詳細を見る |
あのマイケル・ジャクソンの「スリラー」だ。
みんなでビデオクリップを何度も観ながら
広くもない私の部屋で何十人と集まって踊るものだから
地震のように揺れるオンボロアパート…。
しかも夜通しだから、ふざけた美大生だ…。
(ごめんなさい、二階の人…。)
でも、本番は昼間だから、せっかくのスリラーメイクも台無し、
わざとボロボロに切り刻んだ服も他の芸大の人には、
いつもの私たちの服かと思われたくらいだった。
それでもなりきりの私たち、充足感だけ残った。
そして、ハチクロでも描かれているが、
いくら美大に入ったからといっても、
才能は万人にあるものではない。
また、その才能をもて遊ぶ者もいる。
また、その才能という言葉に
押し潰されて自分で壊れていく者…。
でも、その中でみんな足掻いて
3年生の後半になると、みんな就職を考えた。
そして、彼ら、彼女たちは一流企業にしっかり就職する。
日本画の私は日展に出すようになり、創作作りに追われるようになる。
学校の先生になってもらいたがった父に反抗して
4年の7月に受ける教員採用試験は当日ボイコットなどもした。
まったく、若気の至りだった。
それでも、絵を描く事にはお金が必要なので、
なんとか滑り込みで就職をした。
しかもなぜか県内の陶器メーカーのデザイナーとして…。
新たなアパートを借りようとしたが、
父に止められ、やむなく自宅に帰る事になった。
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昨日は、その母校の卒業式の映像がテレビに
映し出されていた。
私たちの美大の卒業式はちょっと一風変わっていて、
みんな変装パーティのような格好をするからだ。
私たちの時は、阪神が久しぶりに優勝した年だったので、
もちろん阪神好きなH君は○ンディ・バース風。
私は日本画専攻の代表で卒業証書をもらう役目だったので、
教授にくれぐれも日本画はみっともない格好はよしてくれと
止められたので矢絣の着物に袴という出で立ちだった。
この季節になると私のハチクロ(大学時代)を
つい思い出してしまう。
みんなと別れたあの寂しさ、
だけど、晴れ晴れとした空気…。
私はいつまでも忘れない。
みんなの優しい笑顔、
ひらひらと舞い散る思い出。
甘酸っぱいけど、
奇跡のような出会い。
そして、み~んな今でも私の大切な仲間たちである。
もっとおもしろそうだったかな(笑)
よく「真実は小説よりも奇なり」と言いますが、
漫画よりもおもしろい学生時代でした。
みんなもがいていました(笑)
ご長男も今、そのまっただ中ですね。
私も、娘の青春も見守らなきゃね!
一緒に頑張りましょう(^_^)v
ここで書いたのは、書けた事だけで、ほんと
青春小説書いたら、みんなからブーイングが来そうです。
気持ちは、いつまでも若く?!いるつもりです。
そして、頑張って、生きていこうと思っていますよん。
思いがけず、世間様に迷惑をかけてしまう事があります。
今となっては学生時代の良い?思い出ですね(笑)
確かに大学の友人、ママ友、高校の友人、ボランティアの仲間達など
私には心強い友がたくさんいてくれます。
ほんと、財産ですね(/_;)
大金持ちとは…程遠いですが…(笑)(^_-)
きっと、楽しくて、大変で、切なくて、色々な事を勉強したのでしょう。^^
うちの長男も今、その真っ直中です。親の私が見ていても、とても楽しそうで……(^_^;)
マンションの管理会社から「うるさい」としょっちゅう苦情がきます。(-_-#)
サバイバーさん、踏ん張って、お嬢さんの青春を見守りましょうね。^^私も次男、三男の青春を見守るつもりです。
芸術を愛する人って、楽しい人ばかり見たいだね。
思い出で、青春小説が書けるんじゃない?
今日はいいことがあった日、ブログにも行かれなくなっちゃって、どうしたのか心配していた人がコメントくれました。
入院していたそうだけど、ひとまず安心です。
サバイバーさん、ナミさん、リンリンさん、みんな入院していました。
それから、蓮さんだったかな・・・あの方亡くなったみたいね。
ハスの花リレー思い出します。
サバイバーさんは、元気に生きていかなきゃだめよ。
気持ち、若いもの。
出来た様な気持になりました。
そして美大生の素敵な仲間達、楽しい
学生生活が想像できました。
サバイバーさんには学生時代の友人達、娘さん
の母友他たくさんの友人がいます。
良い仲間がいる事が一番の財産だと思います
サバイバーさんはそういう意味では大金持ちです。(笑)