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徳川家康の謎  4  家康は影武者だった? 本能寺の変・神君伊賀越えは想定内 影武者・世良田二郎三郎元信・権現様の調略

2023年07月16日 22時47分31秒 | 歴史 戦国時代 徳川家康 織田信長 服部半蔵 新田源氏 武田信玄 八王子千人同心

徳川家康の謎  4  家康は影武者だった?

松平元康(本物)は1560年12月5日~1561年にかけて、織田信長と戦うべく尾張に向けて侵攻をしていた尾張守山において、阿部正豊(弥七郎)に暗殺された?

1561年 元康の異母弟・恵新死亡の墓有り。実は松平元康(本物)が死亡したのではないか? そして、異母弟・恵新(双子の兄弟か?)が松平元康の影武者となった。

恵新の異父兄である淨慶は、元康の異父兄でもあり、新田源氏の後裔であり、新田源氏再興の旗頭となる。そして、淨慶は世良田二郎三郎元信と名のり、後に、徳川幕府を創設した初代徳川家康となる。

恵新は1561年~1600年の関ヶ原の合戦までは、家康として生存していたが暗殺され、以後は淨慶が家康となった。徳川家の実権は淨慶が掌握していた。

 

『徳川実記』に、「野々村四朗右衛門が馬上から家康に切りかかってきたので斬った」という記述がある。しかし、影武者が殺されたという説も、影武者に入れ替わったとも云われる。

関ヶ原の合戦場には、二人の家康が席を並べて存在したと云われ、本物は親指を銜える癖があるといわれ、影武者と本物の見分けになったと云われる。恵新と淨慶ではないか?

 

松平元康 ⇒ 影武者・元康2・家康1(惠新1561年~)⇒ 家康2(淨慶1600年~)⇒ 家康3(消えた矢惣次1615年~)の影武者を肯定すれば、徳川幕府の成り立ちが説明できる。

徳川家は、淨慶こと世良田二郎三郎元信(権現様)が総帥となって、集団的統治体制の下に運営されてきた集団であると思われる。

 

推測経過

松平元康は松平広忠と於大(源応尼の娘)の子である。側室・お久の子とする恵新とは双子で於大の子とも推測できる。於大の子・淨慶の異父弟とも推測できる。

お久の子とする勘六(恵新の異父兄)は、水野忠政、松平忠政の名前から察すると、母は於大の可能性があり、浄慶と同一人物とも推測できる。又は、お久は於大と姉妹で源応尼の娘か?

1561年に元康が暗殺されて、異母弟の恵新(松平広忠の子)が松平元康に成り替わる。その後、元康・恵新の影武者となる浄慶・勘六の二人が別人であっととしても矛盾は生じない。酒井忠次の家臣となった勘六は、姉川の戦い(1570年)で戦死したと云われる。

世良田次郎三郎元信なる人物は、三河一向一揆(1564~1566年)で本多正信と共に家康と戦ったササラ者(忍び)の頭と言われる淨慶である。
一向宗の味方をした本多正信は、家康の家臣を辞め出奔し一向宗と共に10年程放浪し、「本能寺の変」の前から再び家康(恵新、浄慶)の家臣となっている。

松平元康の影武者(恵新、浄慶)は1566年には徳川家康と改名した。ここで松平家の血筋は支流となり、浄慶の新田源氏の後裔・得川家の血筋が本流となった。以後、徳川家の実権を握ったのは淨慶(権現様)であり、元康の子・松平信康は邪魔な存在になったのである。

恵新は影武者家康として関ヶ原の合戦(1600年)まで生存したが、合戦場で暗殺されたと思われる。
恵新の死後は、淨慶(権現様)が家康となり、徳川幕府を起ち上げ、大阪夏の陣(1615年)までは生存したと思われる。

家康・淨慶(権現様)が戦場で暗殺されて、「消えた矢そうじ」が家康の影武者となり、1年後の1616年には鯛の天ぷらにあたって死去(毒殺?)した。

 

2代将軍徳川秀忠は1579年5月2日生まれであり、恵新(影武者家康)の子ではないか? 又は、淨慶の子であってもおかしくはない。秀忠が淨慶の子であれば、3代将軍・家光とは異母兄弟である可能性が高い。

秀忠の母は鍛冶屋の娘おあい(後の西郷の局・1590年没)であり、伊賀忍軍の上忍である「服部家」で育てられたくノ一とも云われ、鍛冶屋(忍者小屋)を拠点として活動していた淨慶とは親密な関係にあった。

「神君伊賀越え」で

伊賀越えルートを先導したのは、家康の旗本になっていた2代目服部半蔵正成。伊賀上忍であった服部家の血縁を活かし、宗家・服部正尚と連携して家康の脱出劇に加勢した。この時に功あった伊賀者が、後に家康によって取り立てられ、伊賀組となった。

伊賀国・服部宗家の服部正尚の弟の服部七右衛門も家康に仕えたが、兄亡き後に、服部宗家を継ぎ、その後、子の無かった青山(忠重)家に養子入りしている。そして改名し青山成重となった。(服部宗家の忍者である)
青山成重と改名した服部七右衛門は、2代将軍・秀忠のもり役となり、以後、秀忠の側近として権勢を振るった。
秀忠の母・西郷局(鍛冶屋の娘・於愛)は、西郷正勝の娘と戸塚忠春との間に生まれた子とあるが、戸塚忠春が戦死して後に、西郷正勝の娘と於愛は服部正尚のもとに嫁いでいる。

秀忠の母・於愛(西郷局)は伊賀のくノ一でもあり、服部正尚の実子の可能性もある。秀忠には服部忍者の血が流れている? 淨慶(権現様)と服部伊賀忍軍(秦氏)との繋がりは強固である。

 

1579年9月15日 松平信康切腹

家康は、織田信長が松平信康・築山殿の処罰を命じたとし、築山殿を遠江富塚に殺害し、信康を二俣城で切腹させている。
秀忠の誕生で、徳川家を完全に乗っ取るためには、松平家の跡取である信康を殺す必要が生じた。松平信康を跡取とする岡崎城派の総帥・石川数正が家康を捨て、豊臣秀吉に出奔する要因である。 

3代将軍徳川家光は、秀忠の子ではなく、淨慶(得川家康)の子ではないか? 家光の父は新田源氏・得川の血筋であり、母は秦氏の血筋(公卿)の春日野局とも云われる。

 

一向宗と大窪党と淨慶の関係

酒井忠次の配下の大久保忠俊は、1563年の三河一向一揆では岡崎城の防備に務めた。また、家康が一向宗の寺院破却を言い出した際、忠俊の懸命の功労により一向宗の門徒は全員無罪とし、浄珠院で面倒を見る事を認めさせた。 一向宗を庇ったのである。 

大久保忠俊は大窪党の2代目頭である。初代の大窪藤五郎(越前から来た)は一向宗門徒の加賀一向一揆の傭兵である。家康側に付いて三河の一向宗と対峙したが、本気で戦う気持ちはなかったので岡崎城の防備に努めている。

一向宗の味方をした家康の家臣は、影武者体制を嫌った松平家古参の家臣らである。一向宗を撒き込んだ勢力争いの内部分裂であり、松平家を本気で潰す意図はなかった。家康(恵新)は一揆側の条件を丸呑みして、半年で和解したことが示している。

大久保忠俊が、一向宗の門徒は全員無罪とし和解を成立させたことは当然である。家康は影武者(恵新)であり、決定権は石川数正(元一向宗門徒)、酒井忠次、大久保忠俊、淨慶にあったといえる。

一向宗を支持した本多 正信は、父祖以来、徳川氏に仕えるが、反逆者となり三河を出奔して流浪し、10年後には再度、家康の家臣となる。江戸開府後は家康、2代将軍・徳川秀忠の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るった。 

本多 正信は三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として弟の正重と共に家康に敵対。一揆衆が家康によって鎮圧されると、徳川氏を出奔して加賀国に住した。『藩翰譜』によると、三河を出た後京へと向かい、その後加賀に赴いたとされる。また加賀では一向一揆の将として迎えられたともいわれ、そこで織田信長と戦ったともされる。」 。。。記述あり

本多正信も伊賀越えに付き従ったともいわれる(『藩翰譜』。但し判明している34名の伊賀越えに同行した供廻の中に正信の名はない)。

1601年からは、家康が将軍職に就任するために朝廷との交渉で尽力したといわれる。更にこの頃、本願寺(一向宗)では前法主・教如と法主・准如の兄弟が対立していたため、これを利用して本願寺の分裂を促すことを家康に献策。かつて自らも身を投じていた本願寺の勢力を弱めさせた。

家康は正信の進言で、教如上人に京都(烏丸六条)の寺地を寄進、後に現在の東本願寺となる。(西本願寺は秀吉が建立したもの)親徳川派の一向宗を盛り立て本願寺の勢力を分断した。

本多正信は朝廷との繋がりも深く、交渉力があったことがうかがえる。

 

信長と権現様(淨慶)との相違点

世良田二郎三郎元信こと淨慶は、新田源氏の後裔として旗頭になり、服部忍軍や伊賀、甲賀の忍者集団、地侍等と共闘して松平家の乗っ取りを成功させたものである。
大窪党の頭・大窪藤五郎(越前から来た)は一向宗門徒であり、百姓王国100年を実現した加賀一向一揆の傭兵である。2代目の頭が大久保(大窪)忠俊であり、淨慶は大窪党の協力で勢力を巨大化していったとも思われ、一向宗との縁も深い。

信長は、延暦寺、本願寺、一向宗皆殺し、伊賀の乱では伊賀忍者皆殺しを図ったが、家康(淨慶)は一向宗、伊賀、甲賀の忍者衆と共闘して天下取りに成功している。相反する者同士でであり、いずれは何方かが殺される関係にあった。織田は北朝の天皇支持派であり、新田源氏の家康は南朝の天皇支持派である。

 

以上のとおり、徳川家康は影武者による統治体制の下に行動してきたと仮定して、本能寺の変・神君伊賀越えを推理する。

 

「天正10年(1582)6月2日、織田信長、本能寺で明智光秀に襲われ自殺」とある「本能寺の変」、何故、光秀は信長を殺したのか!の動機は、徳川家康の謎1・2・3で書きました。

光秀が信長を殺す可能性を家康が知っていたとも思われ、家康が信長に暗殺(毒殺)される可能性もあったとも推測される。光秀が家康の毒殺を防いだ可能性もある。

家康と光秀には共通の意思の疎通があったとも思われる。1582年の家康は惠新であるが、影武者でもある淨慶が徳川家の総帥であり、光秀とは若かりし頃より面識があったとも思われる。

淨慶は服部忍者と密接な関係であり、伊賀・甲賀忍者を配下に共闘している集団の総帥でもある。光秀は天皇家に仕える朝臣、秦一族の志能備(忍び)である。

家康と光秀は信長を殺す利害が一致している。光秀は天皇家や秦一族の存亡が危惧され、巨大化した家康は信長に命を狙われていた。

この様な背景の下に、信長は家康を安土城に呼び出した。僅かな家臣を連れての信長訪問は、正にまな板の鯉であり、殺されることを想定した訪問であったと推測できる。

したがって、34名の家臣だけでは信長訪問などできる訳がなく、緊急事態を想定した体制での訪問であったと考えるのが普通である。

影武者の強みは、惠新・家康が殺されても、総帥の淨慶・家康が生き残れば、徳川家は滅ぼされない。影の群団を連れて、淨慶・家康が別行動していたと推測できる。

警護したのは甲賀忍者100人、伊賀忍者200人の総勢300人の忍者群団である。淨慶が忍者を使った共闘は、1562年の上ノ郷城攻めで実証している。上ノ郷城の攻撃には、伴ら甲賀衆と、服部半蔵ら伊賀衆の忍者たちが加わっていた。

信長は伊賀の乱(1581年)で伊賀忍者を皆殺しにしたが、家康は逃げのびた伊賀忍者を庇った。家康が信長に殺される理由も与えている。

「天正9年(1581)の第二次天正伊賀の乱の際、服部正成を頼って三河に落ち延びてきた伊賀者を家康が匿ったという」。。。記述有り

淨慶の母・於大は、本願寺・顕如の室(如春尼)と姉妹であり、一向宗との繋がりも深く、背景は信長とは敵対関係であり、光秀とは血縁関係が想定できる。

「春日局が世話になった公卿の三条家は、細川晴元正室、武田信玄室(三条の方)、本願寺・顕如の室(如春尼)、源応尼、家康の母・於大、春日局・光秀と血縁が繋がる。公卿の名門である。」

光秀も家康も信長を殺す動機とタイミングは一致したのである。信長は家康を殺すべく謀り、ミイラ取りがミイラになったと想定できる。

そこで、「神君伊賀越え」の真相に迫る。

影武者・二人の家康の存在である。表向きの惠新・家康、影の実力者、淨慶・家康が同行していたと考えれば、「神君伊賀越え」の真相が見えてくる。

三河に一目散に逃げかえらなければならないのは、淨慶・家康であり、情報も早く、300人の忍者群団を配下にして易々と逃げ帰ったと思われる。

 

淨慶は過去の城攻めにおいて、甲賀、伊賀の忍者群団を使っている。

家康(惠新と淨慶)が1562(永禄5)年の上ノ郷城の攻撃を命じたのは、久松俊勝と松井忠次である。
俊勝は久松長家の名前で、淨慶の実母である於大の方が、家康(惠新)の父・広忠と離縁した後に再婚した相手である。

淨慶の母・於大は服部・伊賀忍者のくノ一である。祖母の源応尼も伊賀忍者のくノ一であり、伊賀、甲賀の忍者衆を動員する繋がりがあった。

この時、酒井忠次(大窪党・大久保忠俊)は、上ノ郷城攻めにおいて、甲賀(現在の滋賀県甲賀町など)から伴太郎左衛門資家を呼び寄せ、忍び働きに熟練した者を集め城内に潜入させた。潜り込んだ甲賀衆は約280人と云われる。

家康は既に影武者の恵新であった筈だが、実権は淨慶が握っており、甲賀、伊賀の忍者軍団と大窪党の活躍で、久松俊勝は難攻不落の上ノ郷城を攻略をした。忍者群団の働きは大きい!

服部半蔵は忍者ではなかった等との記述が目立ってきたが伊賀流忍者の首領を務めてきたとあり、正に、聖徳太子の時代から活躍してきた「志能備」の一族である。

天皇家の為に諜報活動をしてきた伊賀郷士忍者群団であり、大きな目的を以って活動してきた集団である事は間違いがない。服部忍者群団の力を過少化する近年の記述は間違いである。

歴史に大きな影響を与えてきた、「志能備」忍者群団の活動や伊賀・甲賀忍者のくノ一の存在や活動を無視することはできない!

 

服 部 半 蔵 (通称、半蔵あるいは源左衛門

もともとの先祖は、伊賀国花垣村余野(現伊賀市)に居住し、そこで代々伊賀流忍者の首領を務めてきた一族とされる。
 
初代とする  服部半蔵(半三)保長   伊賀出身の忍者。 保長以前は不明 伊賀を出て室町幕府12代将軍足利義晴に、続いて三河にて松平清康に仕える

2代目  服部半蔵正成   1542年~1596年12月 54才没  1582年の家康の伊賀越えに随行した忠臣 伊賀、甲賀同心の支配役

3代目  服部半蔵正就   1565年~1615年6月没?  大阪夏の陣(1615年)で行方不明 淨慶・家康も暗殺されたとも云われ、1613年には大久保長安が死去している不可解な激動期である。

4代目  服部半蔵正重  1580年~ 1652年 72才没 2代正成の次男 3代正就の弟 大久保長安事件で失脚、長安の娘婿長安(金山奉行)の部下(佐渡金山の同心)として佐渡の金山等を統括する。  
~12代目 服部半蔵正義まで

※ 服部 半蔵(はっとり はんぞう)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて松平氏から徳川氏の麾下で活躍した者を指す。代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代当主である。詳細は不明であるが、忍者だったのは初代・保長までであり、2代目以降は武士となり忍者ではなかったとされる。

 

「神君伊賀越え」に戻る

家康は堺を立って2日後の6月4日に本国の三河に着いたという。惠新・家康では不可能と思われる日程である。

逃げ遅れた惠新・家康が腹を切って、家康が死んだと流布する策略も考えられたのではないか? 何度も生き返る権現様である。二人の家康の強みである。

「神君伊賀越え」の近臣34名が一同に行動していたとは思えない。二手に分かれて行動していたと考えられる。本多正信が率いる一向宗、伊賀、甲賀の忍者群団が徳川勢を警護し、諜報活動をしていたと推測される。

服部半蔵が率いる惠新・家康の本隊が囮となって「神君伊賀越え」の苦労話になっていると想定できる。権現様たる淨慶・世良田二郎三郎元信・家康は百戦錬磨の強者である。

権現様は近臣34名だけを連れて、信長に易々と殺されるような無能無策者ではない!    

 

18日

織田信長は松平元康の影武者・惠新を知っていたのではないか? 

清州同盟での面識があった筈、石川数正は影武者・惠新を元康として信長に接見している筈である。

淨慶は山賊集団の頭として織田信長や水野等の地方豪族と共闘しながら、今川勢と戦っている。混乱に乗じて松平家の乗っ取りを画策していた。

そして、元康の暗殺を成功させて、元康の影武者として影武者・惠新を誕生させて、松平家の背乗りを成功させた、この事実を知っていたのは酒井忠次、石川数正他側近の者達である。

石川数正は、元康亡き後、影武者・惠新の擁立を認めた。この時の交渉先が淨慶であり大窪党、服部忍軍であったと思われる。

影武者・惠新の擁立は、後に元康の嫡男・信康に家督を譲ることが前提であり、あくまでも家督は松平信康が継承する事が約束された。

一時的な影武者統治であり、実態は集団統治体制を取って、石川数正と酒井忠次、淨慶、大窪党等との協議による組織運営がなされて、松平家の存続を図った。

この様な影武者状態の中で、今川に帰参するのもできず、今川との対立が深まる中で生き残る為には、織田信長との同盟関係が必要となり、石川数正の働きで清州同盟が成立した。

信長は元康の影武者・惠新の擁立を知っていた可能性は高い。影武者の擁立を知ったうえで、受け入れた清州同盟であったと思われる。

信長は、山賊の頭・淨慶の存在は知っていたと思われるし、僧侶の惠新の擁立なら危険性は感じなかった。又、石川数正が実権を握って、信康が家督を継ぐ事で了承したと思われる。

したがって、信長の娘・五徳が信康の許嫁になることで合意に至ったのではないか。松平家を織田家に事実上吸収することが清州同盟の核心ではないか。

 

織田信長は家康の影武者説を熟知していた可能性は高い!

信長の若いころ、織田の軍師で伊束法師(意足法師とも)という呪術的軍配者がいた。織田信長、徳川家康のブレーンをつとめたといわれる僧侶である。
1560年の桶狭間(おけはざま)の戦いのころは、信長の側にいたことは確実で、伊束法師が占い、当日の大雨を予想していた可能性がある。伊束法師は家康の監視役だったと言われる。
伊束法師と新田源氏・得川の血筋、江田松本坊と源応尼との関わりはないのか?
お久の子・勘六を家臣とした酒井忠次も新田源氏の末裔と称している。
酒井の家臣となった勘六と浄慶は同一人物とも推測できるが、勘六は姉川の戦い(1570年)で戦死とされている。
以後、家康役は2人で恵新と淨慶となった。表の家康役・恵新と影武者・淨慶(権現様)と推測する。信長の知っている影武者家康(1582年)は恵新である。1600年に恵新(家康)は関ヶ原の合戦で死亡する、以後、影武者・淨慶(権現様)が家康に成り替わる。

したがって、信長が知っている影武者家康は惠新である。僧侶であった惠新は臆病で大人しい、怖れるに足りない男だったと思われる。

清州同盟の成立は、信長が松平家の乗っ取りを画策し、石川数正を信用したという事だろう。

信長は家康の成り替わりを知っていた可能性は高い、信康と娘・五徳の結婚を条件に松平家を吞み込み、領地拡大で戦略的に合意したとも思われる。

 

徳川家の集団統治体制は関ヶ原の合戦までは、表向きには影武者・惠新であり、実権は淨慶、酒井忠次、石川数正(出奔まで)の合議によって統治されていたと思われる。

信長は、徳川家の実力者は、石川数正と酒井忠次の2名であると考えていたかもしれない。

家康が信長からの安土城への呼び出しに応えられたのは、信長の知っている家康は惠新であったから、安土城訪問を徳川側が受け入れたのであろう。

万が一殺されても淨慶がいる。影の実力者、淨慶の存在を家康の影武者程度に甘く見ていたかもしれない? 信長が淨慶の存在を影の実力者と知っていたのかは分からない。

淨慶は家康・惠新が織田信長に殺されるような事態が起きれば、直ぐに兵を西に上げて信長を討つ準備をしていたとも思われる。

影の忍者群団が万全な情報網を敷いて、信長対策をしていたと想像できる。家康の味方勢を京までの道中に配置していたことは想像できる当然のことである。

家康に味方する勢力は多い。伊賀、甲賀忍者集団だけではなく、一向宗門徒らである。この頃は既に本多正信が徳川家に仕えていたと思われる。

信長訪問時に、家康の「西に兵を上げる準備をしておけ!」との手紙が、臨戦態勢にあったことをうかがわせる。家康・惠新は死を覚悟の囮になったのかもしれない。

信長が徳川の実力者・淨慶を知っていたとしたら、安土城訪問に淨慶がいなかったことが激怒の要因かもしれない。信長にすれば、皆殺しの画策が敗れたからである。

信長に命を狙われた徳川勢と家康の確執を知った光秀が、信長を殺すチャンスと見た可能性はある。神をも怖れぬ信長に、天皇制の破壊、秦一族の弾圧に反発した可能性は高い。「志能備の決断!」である。

徳川は光秀の敵ではないと確信したのではないか? 光秀が信長を討っても、徳川には攻撃されないと確信していたのかもしれない。   

 

惠新の疑問点

惠新は松平家の跡取であった可能性もある。竹千代は於大の子で双子だった可能性もあり、表向きは側室のお久の子となっている。

後継者争いの要因になるので一人は僧侶にしたとの事で、惠新が存在するが、人質に出された竹千代(元康)が死去した場合は松平家の後継者は惠新となる。意図的に僧侶の身分にして温存されたのかもしれない!

下記に二人の元信(竹千代)が存在したことになる。惠新も松平次郎三郎元信と名乗った?かもしれない。

於大の子で本流の元康は1555年に松平次郎三郎元信と名乗り、今川にて元服する。 

恵新の母・お久が書いたとする手紙が存在する。弘治二年は1556年の手紙である。

「大仙寺寄進状、前にまいらせ候を、人に御盗まれ候よし、かねて三郎(元信)寄進状を参らせ候。判の事は、未だ何方へも、かようの事にせられ候まま、我々が御判を押して参らせ候。何時もかようの事に判をいたし候はん時、この寄進状にも似せて参らせ候へく候。前の御盗まれ候にも、三文字の判は候ましく候。前の寄進状いたし候物は、盗人にて候へく候。その為にわが身一筆示しいらせ候。返す返す大仙寺の事、道幹(広忠)にも、今の三郎(元信)にも、我々使い申して参らせ候。この寺は、我々が寺の事にて候まま、いつかたのいろこいもあるまじく候。 弘治二年丙辰六月甘四日 大仙寺 俊恵蔵主へ 参る しんさう

この文書は、元信の母親が書いたとされる文書なのであるが、現在では、しんさうは、家康の父とされる広忠の側室である久子という人物である事が確定している。しんさう(久子)の息子の元信とは、竹千代の改名した元信ではない事になってしまう。。。  於大の手紙ではないとの事!久子の子は恵新である。

※ 二人の元信の存在である。 人質に出てる竹千代と同じくして、恵新(僧侶)は松平家の次郎三郎元信を名のっていた可能性もある。
恵新(双子?)は、今川の人質となっている元信(元康)の死去に備えた松平家の継承者として温存されていた可能性が高い。
広忠の側室、久子の息子?は恵新であり、元康の影武者となった次郎三郎元信でもある。元康(家康)の影武者役は、恵新、勘六、浄慶だったと思われる。

竹千代は双子だった? 今川に人質に出された於大の子・元康と、寺に預けられたお久の子・恵新だった可能性はある。

広忠の側室、久子の息子も元信で、於大の息子も元信で2人存在する。元康と恵新は双子で於大の子だった可能性もあり、於大は恵新一人を連れて離縁となり、側室だった久子と母の源応尼に恵新を預けた可能性もある。家康は双子だった?

恵新は元康の影武者であったとしても、元来、血筋的には松平家の後継者となれる存在であり、石川数正は知っていたということだろう。

 

19日

神君伊賀越えの解

家康一行は堺からの脱出に船で海路を選択しなかったのはなぜか?
それは信長による家康暗殺計画があったからだと推測できる。

猫撫で声で家康を安土城に呼び出し、安全だから少数の側近のみで来訪するように条件を付け、家康の信長に対する不安と信頼を天秤にかけた。
家康は信頼の証を建てる為、少数の側近のみで信長訪問に応じたのである。

家康・影武者淨慶は、元々は百戦錬磨の山賊群団の頭である。信長に覚られぬように影の警護部隊を配置して、万全の態勢での信長訪問であったと推測できる。丸腰で応じるような馬鹿ではない!
信長の家康一行皆殺しの暗殺計画はあったということだろう。

信長は、徳川家の重鎮を一網打尽に討ち取る策略であったが、その一行には、実力者たる影武者・淨慶がいなかったという事だろう。淨慶は影の群団と別行動をしていたと推測する。
信長は、安土城で毒殺を企て、次に堺での暗殺を謀り、最後に本能寺での暗殺を企ていたと思われる。

信長は家康に堺見物をしていくように強く進言した。この意図は何なんだったのか?
それは、袋のネズミにして暗殺する計略もあったが、信長自慢の鉄甲船群団等の強大な水軍力を見せたかったからでもある。
本能寺の変が起こった6月2日の時点では、堺の港は織田勢の四国征伐をひかえた九鬼嘉隆の鉄甲船9隻及び志摩・鳥羽水軍に紀伊海賊100艇が待機している状態であったという。
織田水軍の強大な力を見せつけ、家康を震撼させ、絶対に逆らわないように服従させる目的もあった。家康暗殺が失敗しても、信長に完服させる目的があった。

堺の港は軍船で埋め尽くされ、商船が入港できないと、商人が嘆いていたと云われる。織田に命を狙われているのなら、堺から船で脱出することは危険で避けるほかなく、家康一行は三河まで安全に航行できる港を目指して、山越えの陸路を選択せざるを得なかった。

家康が長く京都に留まっていたのは、堺の状況を調査して安全性を見ていたとも思われ、堺で袋のネズミになることを恐れていた可能性もある。家康にとって堺は危険地帯であった。

家康の別動隊、淨慶は影の群団と共に、信長の行動を逐次監視していた筈であり、信長一行の近辺で活動していた筈である。したがって、本能寺の変はいち早く察知して、いち早く三河に帰ったと推測できる。

堺の家康一行に「本能寺の変」を本多忠勝が知らせに走ったということだろう 家康・恵新一行が「神君伊賀越え」の苦労話になった。

20日

「本能寺の変」を考察する

何故!光秀は信長を殺したのか?が議論されている。 

歴史研究家は古書に記載されている内容にこだわり、真相解明をしようとしているが、それでは真相解明には至らない筈である。書かれたものは虚飾されているものが多い。

「殺すか、殺されるか」の究極の選択に追い込まれた時、「やられる前に殺る!」 これが生き残る為の究極の選択である。

光秀は信長の腹心であり、信長の為に全力を尽くして仕えてきた忠臣であるが、家康暗殺計画を信長から命ぜられたときに、信長に対する恐怖心と不信感が募ったと思われる。

四国の長曾我部討伐問題では、光秀の親しい親類縁者等を裏切るような事を余儀なくされ、秦一族の義に反する状態に追い込まれた。そして、信長に反目し毛利に匿われている足利義昭は光秀の主君でもある。その毛利攻めも命令された。光秀は天皇家を守るために諜報活動をしてきた秦一族の「志能備」である。神の末裔と考える信長が、天皇制を軽視して破壊し、自らが王(神)となる強い意思を危惧していた。

「このまま信長に従っていて良いのだろうか? いずれは俺も殺されるのかも?」 光秀の心の呟きである。

「窮鼠 猫を咬む」はこの様な絶体絶命に追い込まれた時に起きる、一か八かの反抗である。「殺すか、殺されるか」の究極の選択は目の前のチャンスは逃さない。

家康を暗殺する信長の汚さ、利用するだけ利用して、邪魔な存在になれば非情に切り捨てる。延暦寺、本願寺、一向宗、伊賀郷士忍者集団、四国攻め、そして足利義昭排除、天皇、公家制の破壊を目論む信長の強靭な考えに反目したのである。

チャンスは目の前に生じた。

家康暗殺計画で信長は無防備を演じた。光秀がいれば守れると考えたのであろう 光秀が反逆して信長の命を脅かす存在とは考えもしないほど信頼していた?見くびっていた!とも思われる。

家康が暗殺を警戒しないように、自らが無防備となり、家康にも近臣のみの少人数で安土城へ来訪するようにしかけた。そして、家康が来訪すると、光秀に毛利攻めを指示して兵を集めさせ、家康を堺で袋攻めにし、暗殺する計画であったと推測する。堺港は織田勢の水軍で封鎖状態にし、逃げ道を塞いでいた。本能寺に集結させた光秀軍で堺の家康を包囲し、皆殺しにする悪略であったと推測する。家康に堺見物を盛んに進めた信長の意図が読める。

しかし、光秀はこの時決断をした。光秀に天下取りの野望など無い! 光秀の描く天下国家の姿を考えた末、信長の暗殺を決断したのである。天皇家を守る「志能備」の調略かも

光秀は天下取りを夢見る男ではない! 参謀タイプの知恵ものである。忠義心の強い人間でもある。義に重い人間は義に命を捨てる。光秀は信念の人である。

正に、お前は信念で死ねるか!である。 光秀は義を踏み千切る信長を見限った! 自らの手で信長と刺し違いを覚悟したのである。義に重い人間の究極の決断である。

信長は海外に脱出して生き延びたという説もある。真実なら、光秀が海外追放した可能性もある。負け犬となった孤独な独裁者に再起は無い!

黒人の家来・弥助は生き延びている。信長と共に海外追放となったか? バチカンか?

『イエズス会日本年報』によると、信長の家来・弥助(黒奴)が、信長の死後、明智の家臣に降参して囚われたが、光秀は「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑せず、「インドのパードレの聖堂に置け」と言ったので、南蛮寺に送られて一命を取り留めた。南蛮寺に預けられて以降、弥助の消息については、史料に記されておらず、全く分かっていない。

信長はイエズス会の手引でヨーロッパへ渡ったという説もある。バチカンで信長に似た日本人が居たとの話もある。光秀が信長を国外追放に処したのか?

 

「織田信長の莫大な財宝の行くへ」

安土城に保管されていた織田信長の莫大な財宝は、明智光秀がその部下達に分け与え、京都の朝廷・貴族・南禅寺・大徳寺・禅宗の五山等の有力寺院ならびに、市中の有力者たちにばら撒いてしまった事が種々の史料によって明らかにされている。『イエズス会日本年報 上 新異国叢書 』より

※ 光秀は朝臣、財政難に苦しむ天皇・公家らを助けた。

天下取りを目指す光秀なら、莫大な財宝をばら撒いてしまうなんて考えられない。倒産した企業が資産をばら撒いて清算しているようなものである。貴重な軍資金をばら撒き必要としない=天下取りはしないとの事ではないか?

信長の莫大な財宝をそのままにすれば、信長勢の軍資金になってしまう。早々にばら撒いて散財したということだろう。安土城に籠る選択もしなかった。

光秀の目的は信長の排除であり、光秀自身の天下取りの野望ではない! 信長を殺しても、国外追放しても目的は達成される。光秀自身も身を隠し、世捨て人となった。

 

光秀の捨て身の決断!

本能寺において「窮鼠 猫を咬む」「殺すか、殺されるか!」の究極のチャンスが訪れた。信長親子を確実に殺せるチャンスである。近隣には信長を守る軍団はいない。秀吉は毛利と戦っている。毛利には足利義昭が居る。直ぐに秀吉が戻れる筈もなく、毛利が光秀の敵にはならない。信長親子を殺しても家康が光秀に兵を向ける事も無いと見切ったのであろう。家康とは信頼関係があり、後世を任せる考えもあったのではないか?信長以外には、天皇制を覆すような危険人物はいない。誰が天下人になっても天下泰平の世になると決断したのではないか? 自らを捨て石にした光秀の決断である。

三日天下の所以は、光秀には天下取りの野望など無かったからであり、信長を排除した後は、足利義昭の下に幕府の再編成をする意図であったとも思われる。秀吉との戦いに敗れた後は、早々に身を隠し、世捨て人となり、親子(生きていた?)共々僧侶となって、家康・淨慶のブレーンになったと推測する。天海僧正伝説である

 

明智光秀が「秦氏・志能備」の後裔なら、姿を変えて生きている。

1582年6月13日に、光秀と子の光慶が同日に死んだことになっている。二人が生き延びて天海僧正になったとも考えられる。108歳で没した長寿にも説明が付く。

『明智軍記』によると、光慶は山崎の戦いで光秀が敗死した同日に亀山城で病死したとあるがおかしい?

岸和田伝説
本徳寺を開いた南国和尚は光秀の実子で、父・光秀が討たれた後でひっそりと落ちのびて京都の妙心寺で僧侶になった。その後、貝塚にある鳥羽村の海雲寺で父・光秀の肖像画を描き、位牌も用意して供養した。この海雲寺を岸和田に移転したのが今の本徳寺である。」
光慶が光秀を目の前にして、光秀の肖像画を描いたとの話も有り、光慶は死んでおらず、二人で妙心寺に落ち伸びたとも考えられる。

本徳寺には位牌があり、位牌には「鳳岳院殿輝雲道琇大禅定門」と書かれ、肖像画には「輝雲道琇禅定門肖像賛」と書かれおり、光秀の位牌と肖像画と云われる、書いたのが光秀の息子・光慶であるとされている。

本徳寺(大阪府岸和田市)の由緒は、寺の開祖が光秀の息子・明智光慶(あけちみつよし)。
京都の臨済宗妙心寺派の大本山である妙心寺の末寺。この寺の開祖が南国梵桂(なんごくぼんけい)という安土桃山時代の僧侶で、光秀の子・明智光慶である。

 

21日

明智光秀の反乱と知った信長の最後の言葉「是非に及ばず!」 この言葉の意味が信長の完全敗北を語っている。

将棋で言えば詰んで放駒である。策に溺れて自らが詰んでしまった。信長の落とし穴は唯一、光秀の反逆である。自らを無防備にして家康をおびき出し、家康をしとめる計略が光秀の反逆の引き金となってしまった。信長は読み違えて自らの墓穴を掘ってしまった。信長の大誤算で読み違いである!

柴田勝家や秀吉だったら裏切りはなかったかもしれない。しかし、光秀以外の家来では家康の警戒心を解くことはできない、公家らを相手に催し物をし油断させ、太平を甘受する雰囲気も出せない。家康をおびき出すには光秀が必要だった。信長は、まさか光秀が反逆して自らの命を取りに来るとは思わなかったのだろう。

信長は光秀の心を読みきれなかった。信義に重い人間の生き様を理解できなかったのだろう。信長は恐怖心で人間を御することができると信じていた。光秀と言う人物像を見抜けなかった、策に溺れて知略戦に完敗したのである。敗軍の将 兵を語らず!「是非に及ばず!」

光秀の生き様を信長は見通せなかった。それが信長の誤算を生んだ、信長は恐怖で家臣を押え込む独裁者である。

ミスをすれば切り捨てられる、排除される。手柄を建てれば一気に取り立てられる。出世するためには秀吉のような働きと絶対的な忠誠心を示さなければ信頼されない。命が惜しければ、絶対的な服従を示さなければ近臣になれない恐怖の独裁者だった。家臣は一様に絶対的な服従を示した。

しかし、光秀は違った。足利義昭の家臣であった。公卿宗との繋がりもあり、信長の社交戦略では必要不可欠の人物で、派遣社員の採用から正社員に取りたてたような家臣である。仕事もできる知略化だから近臣としたが、足利との二股家臣である。絶対服従の家臣とすべく調教を試みたが、光秀を恐怖心で押え込むことはできなかったのである。

光秀は「志能備」の一族、絶対君主は天皇であり、天皇制を維持するための諜報工作員である。信念の人でもあり、金や脅しで魂は売らない! たとえ相手が信長たりとも魂は売らない! 「自らの信義を通す為なら命を捨てる」そのような人物であることを信長は見抜けなかった。信長のミスである。「是非に及ばず!」

信長は飼い犬に手を噛まれたのではない! 光秀を、自分に絶対服従する飼い犬と思ってしまったが、レンタルしてきた警察犬であり、害をなす者に噛みつく調教をされた警察犬であることを見落とした。強靭な精神を宿した「志能備」の一族である。

光秀は、恐怖に屈する犬ではない! 信長の大誤算である。恐怖支配では御せない人間が「信義の人」信念で命を捨てられる人物である。信長の読み違い、完敗である。「是非に及ばず!」

 

『叡山焼き討ち』

代々延暦寺の天台座主(てんだいざす)は皇族・公家衆から出る事になっていた。延暦寺は国家鎮護の役割とともに朝廷勢力の一翼を担う存在であった。織田信長にとって、延暦寺の焼き討ち・破壊は、正親町帝へ衝撃を与えることでもあった。
1570年に天台座主に就任した『覺恕(かくじょ)』は、後奈良天皇の第二皇子で母は伊予の局である。

明智光秀は、『叡山焼き討ち』をしようとする魔王織田信長を必死で諫止しようとしていたが聞き入れられず、手柄をたて功績を認めてもらうチャンスでもあったので、光秀が主導して『叡山焼き討ち』を成功させた。

光秀は信長から『叡山焼き討ち』の功労によって志賀郡の領地を与えられ、ここに坂本城を築城して織田家中で初めて『一国一城』の主「大名」になった。

フロイスの明智光秀像  明智光秀は狡猾で冷淡な人物

「彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた熟練の士を使いこなしていた。」

※「傭兵・志能備」の能力 
傭兵は、たとえ仲間同志であっても、置かれた立場によっては戦わなければならない。非情の掟である。

 

『信長公記 巻四 叡山御退治の事』    是非に及ばず
御前にて僧侶らを、信長は容赦なくどんどん首を切らせて目も当てられぬ惨状で、数千の遺体が散らばり悲惨な状況である。。。

「御前へ参り、悪僧の儀は是非に及ばず、是れは御扶けなされ候へと、声々に申し上げ候と雖も、中々御許容なく、一々に頸を打ち落され、目も当てられぬ有様なり。数千の屍算を乱し、哀れなる仕合せなり。年来の胸朦を散ぜられ訖んぬ。」。。。信長の惨虐姓

明智光秀は、京都在住で足利将軍を支えた幕府奉公衆土岐一族の内、明智頼高(あけち よりたか)系の一族で京都より急遽美濃に下向した家族に、美濃で生れた人物の可能性が高いと云われている。秦氏である。

1568年の足利義昭・織田信長の上洛以前に、明智光秀は幕府軍(足利将軍)として浅井氏と戦っていたことを示す『米田家文書』で記載された「明智光秀の田中城籠城記事」がある。

 

『本能寺の変』の時に明智光秀が、織田信忠の逃げ込んだ堅牢なはずの「二条御所」を、簡単に落城させることが出来たのはなぜ?

光秀軍・反乱軍は、隣の近衛邸の屋根にあがり、二条御所を見下ろして、弓鉄炮を打ち込み、御所内のお味方に多数の死傷者が出て、徐々に全滅した。反乱軍は二条御所に押し入り建物に放火した。との記述もあり、近衛前久が信長暗殺に協力したと疑われている。

「二条新御所の隣の敷地は、近衛前久卿の屋敷であり、前久は反乱軍の兵士を屋敷に誘きいれて、二条新御所に面した建物の屋根から、御所内の織田信忠一行を銃で射殺するのに便宜を図ったととの事。」
つまり、この謀叛『本能寺の変』に近衛前久が深くかかわっているのではないかと云われる。

光秀は朝臣である。天皇家の為に働く「諜報活動員・志能備」である。


「建武の新政」
1333年―1336年の後醍醐天皇による公家一統政治。 正中の変・元弘の乱を経て,護良(もりよし)親王や楠木正成らの活躍で鎌倉幕府を倒し,天皇独裁の官僚国家の樹立を企図,摂政・関白の廃止,雑訴決断所以下の部局の新設,国司・守護併設などの施策を行った。 

「南北朝時代の合戦」
南北朝時代は1336年(建武3年)から、室町幕府3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)によって南北朝合一がなされた1392年(明徳3年)までの約56年間を指します。

後醍醐天皇は、足利尊氏、新田義貞(源氏)ら武士の助けを借りて鎌倉幕府を倒したのち、天皇中心の政治「建武の新政」を始めます。しかし、建武の新政は公家を重視し、武士をないがしろにした政治であったことから、武士達は不満を持ちました。
そこで足利尊氏は後醍醐天皇(南朝)を朝廷のある京都から追放。1336年(建武3年)に光明天皇(北朝)を擁立し、1338年(建武5年)に室町幕府を開きます。
これに対し、後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県吉野郡)で天皇を名乗り続けていました。天皇の南北朝合一がなされたのは1392年。

後醍醐天皇(南朝)を支持し、敗者となった新田源氏らの後裔は一族の再興を目指して、足利幕府打倒の為に戦国時代まで活動した。

応仁の乱
応仁元(1467)年から文明9(1477)年までの11年間,管領細川勝元の東軍と山名宗全(やまなそうぜん)の西軍が京都で戦った内乱。天皇家の経済的弱体


「秦氏・光秀・服部・世阿弥・大久保長安・家康・新田源氏の繋がり」

世阿弥の完成者)
は室町時代に観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)という父子により大成されたと伝えられています。世阿弥は古代ユダヤ人・秦氏です。
世阿弥の祖父は伊賀・服部元成、祖母は南朝軍・楠木正成の姉か妹。忍びの者(志能備)の能楽者。北朝守護幕府の反体制派として流刑された。

家康の重鎮であった大久保長安(元武田家臣)の父は猿楽師(能楽者)
長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。大蔵信安・大蔵流猿楽師の創始者(秦氏の出身・忍びの者・志能備)

能の中心にいる人は、宗家です。世阿弥の宗家。他の血筋とは結婚をしません。これがずっと続いているわけです。650年間、世阿弥の子孫は世阿弥の子孫なのです。歌舞伎の中心の人は、他の人とは結婚しません。これも秦氏なのです。かつて河原乞食と言われた人たちで、歌舞伎の人は秦氏なのです。敗者となり追放されたので、自分たちの名前を変え色々な方法で隠してきました。 ※ 河原乞食・ささら者・源応尼・於大・ささら者の頭淨慶(家康)と繋がる。

明智光秀ゆかりの丹波をひっくり返すと、波丹・ハタ(秦)になり、丹波は秦氏の巣窟です。

島津は秦氏です。四国を制覇した、長曾我部元親も秦氏です。
尊王倒幕派の天誅組は大和挙兵を謀ったが、吉野山中鷲家口にて決死的斬り込みを敢行して壊滅した。天誅組の十津川の郷士は百姓でも、武士。先祖以来ずっと勤皇で天皇(南朝)を崇めてきた。これも秦氏一族です。
南北朝の南朝は古代ユダヤ人(秦氏の出身)です。聖徳太子を助けた人は、秦河勝です。
聖徳太子が亡くなると、全て一族は抹殺されました。聖徳太子と一緒にいた秦一族も抹殺されて、一部は逃れて地方に散って身を隠しました。「忍びの者・志能備」です。

「藤原の貴族社会」を倒したのは源氏の源頼朝で秦氏です。丹波・波多野氏、薩摩・島津氏、四国・長宗我部氏・明智光秀等も秦氏の血族です。

秦氏は景教徒・古代ユダヤ人。
秦氏一族は技術者集団  養蚕、機織、金工、土木技術、鉱山(金、銀、銅等)開発等々。
太秦、広隆寺の「牛祭り」、木島坐天照御魂神社・蚕の社の「三柱鳥居」と「元糺の池」、「大秦景教流行中国碑」、平安京(エル・シャライム=エルサレム)、八坂(ヤサカ)=磐境(イヤサカ)=「ヤ(YA)ーサカ」(神)。環状列石スキタイ・東北騎馬軍団兵法・源義経等々の関連。

「鎌倉幕府成立・1192年」は、藤原氏たち貴族と同じユダヤ民族の下層階級の源氏が、藤原王国を倒したもの。「源氏とは、貴族の土地を守っていた武士・傭兵です
貴族(藤原氏)に長年虐げられてきた下層階級の源氏が、武器を手に取って日本を引くリ返し(源平合戦)、天皇の下に、日本を支配し続けてきたのが武家社会です。天皇家にルーツを持ち、天皇に仕える武官であった武家は天皇を超えることはできません。  

独裁者・信長であっても!

 

光秀の娘・細川ガラシャ 辞世の句

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」   光秀の 三日天下や 是非に及ばず


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