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徳川家康の謎  家康は影武者だった? 足利源氏を倒し、新田源氏が天下を取る、服部忍者・正徳大使の「志能備」秦氏の末裔との共闘である。2

2023年03月01日 11時13分02秒 | 歴史 戦国時代 徳川家康 織田信長 服部半蔵 新田源氏 武田信玄 八王子千人同心

徳川家康の謎  2 

家康は影武者だった? 足利源氏を倒し、新田源氏が天下を取る、服部忍者・正徳大使の「志能備」秦氏の末裔との共闘である。

徳川家康を生涯一人の人物が全うしたと考えるのは無理がある。戦乱の世に、自らが戦士となり、領地を獲得し拡大していったのであるから、命を落としていても不思議ではない。

殿様が命を落とした時に、集団(家臣、領民)は結束が乱れて崩壊する。外部勢力に簡単に乗っ取られてしまう。

そこで、集団の結束を維持するために、殿様の死は決して漏らすことなどできない。そして生まれたのが影武者制度である。戦場で敵の目を欺いて殿様を守るためだけではない。万が一殿様の命が奪われた時の対応の為に、影武者がその後の殿様としての役割を果たす為である。

影武者には、影武者を養成する担当の重職があり、殿様の最側近である。殿様を失い、影武者が成り替わった時から、最側近の重職の集団統治体制が始まる。

影武者で有名なのは武田信玄である。信玄は「俺が死んでも、死んだことは2年は隠せ!」と言って遺言したそうだ。

そして、武田には影武者養成担当がいた。その担当が土屋家である。

甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。武田二十四将の一人に数えられる。土屋昌次(土屋昌続)、「片手千人切り」で知られる土屋昌恒(昌続の実弟)の一族である。

武田の家臣から家康の家臣となった大久保長安は、土屋(大蔵から養子)長安であり、影武者を養成する土屋一族の養子になった。もともとは吉野の猿楽氏の末裔「正徳大使の志能備」の流れと思われる。武田でも徳川でも金山開発の担当者である。特段に財政手腕に長けていた。

家康の影武者を立てる手段は「志能備」の常套手段であり、武田、徳川では当然の事として用いられた兵法である。「武士は潔しとすべし」と考える武将は、影武者を持たなかった(信長、秀吉)のかも?

武田には兵法者として山本勘助がおり、勘助は甲賀忍者で修行をしたと言われる。南朝の天皇を支持した神主の出である。

したがって、家康の人生には影武者が用意されて当然であり、伊賀忍者、南朝を支持した源氏、新田源氏の一族が、一向宗の力も利用して、北朝を支持した足利源氏(室町幕府)を倒す為に、力を結集した集団の象徴の頭として「家康・権現様」が存在し、集団統治体制で徳川幕府の天下取りを成功させたと思われる。

史実を時系列に並べて、古書等に書かれたことや、小説家の推定等を参考にすれば、家康は影武者を通して徳川幕府の天下取りを果たしたと推定できる。

一人の人間が天下取りになったと考えるのは無理がある。「正徳大使の志能備」の流れの知恵や技能なくして達成できるものではない!

推定

家康には最大で、5人の人生が関わっている。

松平元康 ⇒ 元康・家康(惠新)⇒ 家康(淨慶・勘六)⇒ 家康(消えた矢惣次)である。

淨慶と勘六は同一人物でも、別々の人物でも家康の影武者として存在していてもおかしくはない。影武者は複数用意するものだから。

元康は、21歳で戦死し、義母弟の惠新(僧侶)が影武者となった。惠新(家康)の影武者を淨慶・勘六が務めた。

関ヶ原の合戦で、惠新(家康)が死んだ ⇒ 淨慶(家康)が務めた。大阪夏の陣で淨慶(家康)が死んだ。

その後、一年間、影武者家康(消えた矢惣次、作家の加賀淳子)が務めた。そして、鯛の天ぷらで毒殺(胃がん説あり)されたとなる。

この家康影武者説が、何処かで同一人物であったとしても、新田源氏の末裔である(権現様)世良田二郎三郎元信(淨慶・家康)が主導権を握って天下の徳川幕府を成し遂げたものと思われる。

 

淨慶と勘六が別人で存在したのなら、生き残った淨慶か勘六が家康の影武者になれるので、消えた矢惣次の登用はなくなると思える。淨慶と勘六は同一人物と考えるのが的を射ているのでは?

仮に、勘六と淨慶が二人存在していたとしても、勘六は家康の影武者を務めていたはずである。惠新の異父兄であり、家康像に似ていた筈でである。記録的には松平忠政として1570年に姉川の戦いで死んだことになっているが、事実だとしても矛盾はない、家康の影武者として戦場で死んだ可能性はある。

この時、惠新(家康)と入れ替わった可能性もあるが、(権現様)たる淨慶はまだ家康にはなり替わっていないと思われるので、惠新又は勘六が家康として関ヶ原の合戦まで存続していたと推測できる。淨慶と勘六が同一人物なら、惠新(家康)は生きており、天下取りが見えた関ヶ原の合戦までは何方かが家康の役割を果たしたと推測する。2代将軍秀忠(1579年5月2日生)は誰の子?となる。

勘六の子なら、お久の子であり、本流の於大の血筋ではなくなる。3代将軍を忠長に就任させる訳にはいかなくなる。家光が誰の子か?が選択肢として意味があったのではないか?

徳川幕府は、新田源氏の象徴として、(権現様)世良田二郎三郎元信(於大の子・淨慶)が構築したものである。

 

※ 影武者家康(惠新)の次男・秀康は双子だった。双子は血統でもあり、広忠と於大の子・元康は惠新と双子であった可能性は高い。淨慶と勘六は同一人物と考えるのが素直ではないか。

影武者家康(惠新)の次男・秀康(結城家に養子)、幼名は「於義丸」は、天正2年(1574年)に誕生。双子を忌み嫌った家康(惠新)と対面できたのは2歳になった時。
秀康の双子とされる人物は、永見貞愛(ながみ-さだちか)で愛知県知立市にある知立神社の神主となる。
秀康の母は於万の方(おまんのかた)。家康の正室、築山殿に仕えていた侍女。身分の低さで冷遇された。
秀康の兄、松平信康が手引きをしてやっと、家康との対面が実現したという。

元康と惠新が双子なら、トラウマである。淨慶、元康、惠新が於大の子となり、血の繋がりが出る似たもの同士になる。元康の影武者として家康が存在したのである。

徳川幕府の天下取りは、

ある意味では南北朝の戦いから続く、南朝天皇家の朝臣「志能備」の末裔・伊賀、甲賀の一族、南朝を支持した源氏(新田源氏の末裔等)の結束による、室町幕府の討幕である。

家康はその象徴であり「権現様」である。 一人である必要はなく、誰かが代わりを演じれば、組織の結束は維持される。特殊工作員たる「志能備」の知恵である。

徳川幕府は南朝系の天皇を本流と認めている。

 

家康(惠新又は勘六)は「関ヶ原の戦い」開戦直後に暗殺されてしまったため、家康の影武者となる主人公は「世良田二郎三郎元信・淨慶」となった。

関ヶ原の戦いでは、家康にとても良く似ていた人物を影武者として使っており、敵方の混乱を誘うために、いつも二人並んで座っていた。惠新(又は勘六)と淨慶である。
しかし、武田の忍びが、使番に成りすまし、本物の家康を暗殺したという。天下取りを目前にして、惠新を殺したとも推測できる。忍びを自由に使えたのは淨慶である。

仮に、家康が影武者勘六であったなら、「世良田二郎三郎元信・淨慶」が、血筋の繋がらない、用済みの勘六を殺して、家康に成り替わったとも推測できる。


『徳川実記』に、「野々村四朗右衛門が馬上から家康に切りかかってきたので斬った」という記述があるそうです。
しかし、影武者が殺されたという説も、入れ替わった時期や入れ替わりを示す証拠などが一切見つかっておらず、歴史的事実として確認できないため現代では否定されています。等の記述がネットで見られた。

 

影武者(惠新又は勘六)が切られた可能性は高い! 使番に成りすまし近づいた刺客が的を外す筈がない。惠新なら刺客に近づかれた段階で無防備で殺られる。

以後、「世良田二郎三郎元信・淨慶」が家康になりきったと思われる。待ちに待った天下人の椅子に座ったと言う事だろう。

その後の動揺が激しい。秀忠に将軍職を譲って、駿府城に籠っている。将軍を秀忠に譲ることで、跡目争いを避けたのである。

院政を引いていることになってるが、酒井、本多、大久保一族や重鎮たちの集団統治体制で徳川幕府は成り立っていたのである。

 

※ 1603年、家康は征夷大将軍に就いて幕府を開いた。将軍職世襲を確実にするため、嫡男・秀忠を右近衛大将にするよう朝廷に奏上し、同年4月16日に任命された。秀忠の徳川宗家相続を確定させ、2年後の1605年に、家康が将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となった。

わずか2年で家康(淨慶)は秀忠に将軍職を譲っている。

1604年には家光が生まれている。3代将軍は「家光の世襲」との条件が付いていたと考えられる。

又、秀忠の父・惠新の死を、跡目争いによる殺害と、秀忠に疑われない為の、将軍職世襲を実施したのではないか? 3代将軍は「家光の世襲」と確定させたのである。

 

淨慶(家康)と二人で、大久保長安は徳川幕府の礎を築き、膨大な権力と財力を手に入れた。影の支配者は大久保長安ともいえた。

幕府は、大久保長安の膨大な権力と財力を危惧するようになった。伊達家、大久保、服部一族らとの縁組を増やし、人的勢力を深めていた。

家康「世良田二郎三郎元信・淨慶」、将軍秀忠ら幕府側に、権力の拡大を謀る長安への不信感が募った。長安の膨大な財力が欲しくなったとも思われる。

長安は、金銀等の採掘を一手に任されており、製錬技術は武田以来の技術であり、優秀なものであった。採掘は請負制になっており、発掘から製錬までの経費を長安が一切負担して、製錬した金銀等を半分、家康(幕府)に納める請負制だった。残り半分が長安の取り分であり、人工夫などの発掘・製錬経費を負担した残りが長安の儲けとなる。長安が莫大な金銀を所有して大富豪となった要因である。独占的な大企業で幕府の財力を遥かに超えてしまったのである。長安の死と共に、財産をすべて奪われてしまったのが「大久保長安事件」の真相と思える。長安の財宝が無ければ、大阪の陣は起こせなかったかもしれない。

 

本多正信、正純の暗躍?

大阪の陣(1615年)の前に、大久保長安が死去(1613年)し、死後、徳川家転覆の疑いをかけられて、一族が処分されている。長安は逆賊として死体を掘り起こしさらし首にされている。

大久保長安の一族は皆殺しとなり、関わりの深い親類筋は改易となり、大々的に粛清されている。服部半蔵も失脚している。本多派と大久保派の対立が一大事件を生んだ。

大久保長安から没収した金銀財宝は莫大であり、大阪の陣(冬、夏)の軍資金になったと思われる。徳川幕府と同等の金塊を所持していたと云われ、その全貌は明らかにされていない。長安の隠し金銀財宝は何処に?

徳川幕府は、豊臣を倒す為に莫大な軍資金が必要であり、大久保長安事件(冤罪と言われる)は、長安の増大する権力と財産を奪う為に仕掛けられたクーデターである。淨慶?秀忠?本多正信?か

 

大阪の夏の陣で、家康「世良田二郎三郎元信・淨慶」が殺される背景は十分にあり、秀忠、忠長支持派や、長安の仇打ちともとれる刺客(忍者)が殺したと推定できる。

徳川幕府を支えてリードしてきた功労者、大久保長安を好評価して、史実に載せることはタブーなのである。家康を美化して神格化するためには、家康を超える人物は不要であり、功績は記録から消されるものである。

 

長安は、伊賀、甲賀、根来、雑賀衆等の忍者集団を配下にしていた。直属の部隊は八王子千人同心で、家康の直近として親衛隊を務めている。生きてるうちは誰一人も手が出せなかった。

徳川幕府の裏仕事から、財政、統治の実行部隊であり、影の支配者ともいえるほど権力があった。家康の影武者(淨慶)には頼られ、特別扱いされていた実力者である。

才覚に溢れ、影の群団を操り、膨大な財産を持つ長安は、諸大名も平伏すほどの存在となり、家康をも凌ぐ支配力があった。

あまりにも膨大な権力と金を手にしているため、長安の徳川家乗っ取りを危惧する、重鎮たちとの確執があった。

長安が豊臣家を滅ぼそうと考えていたとも思えない。豊臣を滅ぼし、天下統一を目指す淨慶、秀忠らの意向と長安の考えとはズレが生じていた可能性もある。

長安は石見銀山の採掘をしている。毛利家とも繋がりがあった筈、武田家臣の時代、長安の師は山本勘助、寄親は土屋昌続(影武者)である。山本勘助は毛利家とは親交が深かった。

豊臣、伊達、毛利、長安と結託すれば、徳川幕府は崩壊する。長安の死を好機に、豊臣を滅ぼし、天下統一を果たす、家康(世良田二郎三郎元信・淨慶)の決断ではないか?

大久保長安事件は、家康、秀忠、本多正信、正純の策略ともとれる。長安の毒殺も想定できる。

長安と家康の信頼関係は深く、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていた。(1612年)7月27日、中風にかかり、(1613年)4月25日、中風のために死去した。中風?

『駿府記』には、家康から烏犀円を与えられていると記載されている。長安は家康の薬を飲んでいた。

烏犀円(うさいえん)とは、徳川家康の、徳川家康による、徳川家康のための調合薬。幼少期より薬草採集と薬の調合を趣味とした徳川家康が自ら開発し、徳川家康のみがその調合を知っていた。

 

過去文 2020年11月13日  石に点を打った文字より 

「志能備」が忍びのルーツで、聖徳大使の時代からの諜報活動をしていた。

聖徳太子にまつわる伝承として、「聖徳太子が情報収集に使った」とされる三人の人物とその配下の事が載っている。

大和朝廷の正規軍と陰陽修験の諜報工作組織は歴史の中で交錯しながら互いに影響し合っているとの事。

聖徳太子の大伴氏族・大伴細人(おおとものさひと)に対する要請で「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群団。

正徳太子が有力部族・秦氏族へ要請されたとする、秦河勝(秦河勝・香具師・神農行商の祖)とする郡団。

伊賀の国人・秦氏流服部氏族(伊賀流忍術の祖)の三集団である。

忍術者の祖と言われる服部氏と香具師(かうぐし)の祖とされる河勝氏は、元々は機織(はたお)りの大豪族・秦氏の流れ、秦河勝(はたのかわかつ)の後裔である。

秦氏はユダヤ、ペルシャ人で平家の祖とも言われる)

日本列島に織機(おりき)と織物(おりもの)の技術を持ち込んだのが秦氏(はたし)だったので、「機織(はたお)り」と言う言い方が定着した。

この機織(はたお)り部から「はとりべ」となり「はっとりし」と成ったという、服部氏である。

服部氏は、伊賀郷の忍術者の一族(有名な服部半蔵・源左衛門)として江戸幕府・徳川家に雇われている、重要な存在である。

伊賀・服部流と双璧を為すと評価されるのが「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群団である。

秦河勝氏の香具師(かうぐし)は歴史的には、「矢師・野士・弥四・薬師(神農・しんのう)・八師とも書き、薬の行商と言われ、また的屋(てきや)とも言う。

祭りを盛り上げる伝統をもった露店商であり、人々が多数集まる盛り場において、技法、口上で品物を売り、諸国を周る職業である。

情報収集の役目を負っていたと思われる。香具師は、祭礼や祈りの為の神具を扱っていた。
祭りに付き物の「見世物小屋」等の関係者が、諜報活動をしていたということだろう。


「文献には、秦氏の河勝氏が同じく秦氏の服部氏と共に聖徳太子の「諜報活動に任じていた」との記述がある。」

全国各地を移動しても怪しまれない職業が、神前での興行や商いをする「香具師」である。

陰陽修験者の「志能備」としての組織は、賀茂氏・役小角(えんのおずぬ)流れで組織化されていく。

賀茂氏・役小角は、陰陽修験は村落部では、守備範囲の役割を分けていたと思われる。
甲賀郷士忍術者群団と、服部氏と河勝氏の町場の氏族相手とする諜報活動群団と、活動範囲を分けていたようだ。

武術の発祥は陰陽修験道からであるから、甲賀郷士忍術者群団と、服部氏と河勝氏の群団も、修験武術の習得を通して接点があったと思われる。等々の「志能備」に関する情報を得ることができた。


「志能備」が「忍び・忍者等」のルーツで、聖徳大使の時代から組織があり、諜報活動をしていた。

天皇家の支配体制の組織として「志能備」という特殊能力を備えた群団が、地方に分散して、次第に、地方豪族の支配に組み込まれて存続してきたのが、「忍び」と言われる存在ではないかと思う。

そして、陰陽修験者、武術修験者等を束ねる組織が存在して、天皇家を支えてきたという統治体制が出来上がっていたようだ。

陰陽修験者、武術修験者、諜報活動を主とする者等の群団の存在である。
幕府に支配されない、村の自治による自警団として、発展した一族もあったと考えられる。

この様な「志能備」の末裔の存在であったと推測されるのが、後に出てくる大久保長安の父、猿楽師の大蔵太夫十郎信安らではないかとも推測できる。

大久保長安は、天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵太夫十郎信安の次男として生まれる。

長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。

長安は、武田信玄の家臣たる土屋家(信玄の影武者育成)の娘婿となり、土屋長安と改名して与力をしていた人物」

後の徳川幕府の有能な立役者ともなり、「志能備」の特殊能力を備えた末裔と思われる。。。

 

長安事件は、古参たる松平からの家臣・本多一族らが結束して蜂起した権力争いの内部分裂である。2代将軍・秀忠、忠長を支える者たちの悪略とも思われる。

影武者(淨慶)の子が3代将軍になることを嫌った家臣たち、忠長を3代将軍にしたいと考える、秀忠の意向が働いたのではないか?

 

そこで推測されるのが、家光は誰の子か?である。

家光(1604年生)で忠長(1606年生)である。1600年には淨慶が家康(影武者)になっている。

淨慶は元康の異父兄であり、秀忠の父・惠新の義兄になる。秀忠は親同然の淨慶に逆らうことはできない。

家光は、家康の影武者(世良田二郎三郎元信・淨慶)の子である可能性がある。家康と春日野局の子とも言われる。

忠長は秀忠の子だと思われるが、家光は怪しい。 秀忠に将軍職を譲る前にできた家光なので、淨慶が3代目の世継ぎとして秀忠の長子としたものである。

秀忠は淨慶の義弟・恵新の子である。権現様は(世良田二郎三郎元信・淨慶)である。3代将軍は、権現様の子・家光であると認識されていた。淨慶の遺言である。

しかし、秀忠の側近らは、3代将軍は忠長が良いと考えたので、春日野局は、家康の影武者(消えた矢惣次)の鶴の一言を演じさせて、3代将軍・家光を誕生させたのである。

 

新田源氏の総帥として、権現様(世良田二郎三郎元信・淨慶)と祀り上げてきた頭領の血筋を擁立したと思われる。

父は江田松本坊、母は於大(源応尼の娘)の子・淨慶は、新田源氏の血を強く引くもの、祖母の源応尼も新田源氏の血筋である。家光が正統な世継ぎといえる。

秀忠は、惠新の子である。惠新は松平広忠の子だが、母はお久であり、淨慶の母於大よりも身分の低い一族と見える。淨慶が新田源氏の正統な世継ぎといえる。

2代将軍・秀忠は、服部忍者の血が強く出過ぎている。服部忍軍の徳川家乗っ取りとも言えるほど力を付けてきた。最後は、新田源氏の血筋と服部忍者の血筋争いとも思える。

新田源氏の末裔、源応尼、江田の松本坊、於大、淨慶、家光と続く新田源氏が徳川幕府を構築したのである。

服部家は保護(桑名家・於大の子)されて存続は認められたが、徳川の本流から外れた。

 

松平元康 ⇒ 元康・家康(惠新)⇒ 家康(淨慶・勘六)⇒ 家康(消えた矢惣次)の影武者を肯定すれば、徳川幕府の成り立ちが説明できる。

作家の村岡素一郎、隆慶一郎、加賀淳子さんらの家康影武者説は正しいと思われる。まさか4人も関与しているとは考えずらいのが、武士の魂かも? 

これが、全国の諜報活動を役目とした、特殊工作員たる「聖徳太子の志能備」の知恵でる。

 

1613年 大久保長安死す。病死 元武田家臣・土屋長安・影武者担当

長安は、金の棺桶を所持してたと言われ、家康を凌ぐとも言われる莫大な財宝を持っていた。徳川幕府の陰の支配者である。生前は家康たりとて処分はできなかったが、死後、横領、徳川幕府転覆の陰謀ありとして処罰された。一族は皆殺しとなり、金銀財宝は召し上げられた。大久保長安事件である。淨慶の策略か?

1615年に大阪の冬、夏の陣がある。 ここで影武者(淨慶)は殺された。刺客は真田・武田の忍者?

長安の莫大な財宝は軍資金となった。淨慶は長安の仇となり殺されたとも? 作家の加賀淳子の影武者「消えた矢惣次・1年の命」が家康となる。3代将軍家光を宣言する。

1616年 家康死す。(家康の影武者・消えた矢惣次)毒殺説あり

1620年(元和6年)、家光は17歳、忠長は15歳で元服。3年後、家光が将軍に就任。

1622年、宇都宮城釣天井事件  元和8年 本多正純冤罪・土井利勝らの謀略

第2代将軍徳川秀忠の暗殺を謀ったなどの嫌疑をかけられ、本多家は改易、正純は流罪となった事件である。真相は秀忠ではなく家光暗殺ではないか? 本多正純の失脚を企てた冤罪である。

正純の父・本多正信は将軍秀忠付の年寄正純は駿府の大御所徳川家康(淨慶・権現様)の側近であり、家康も正信のことを「自分の友」とまで言っていたほど信頼は厚く、その地位は揺るがなかった。正純は淨慶支持なので、秀忠の暗殺を謀ったなどの嫌疑で失脚させられた。

正純謀反の証拠は何もなく、秀忠も宇都宮城に不審点がないことを、元和8年(1622年)4月19日に井上正就に行なわせた調査で確認している。この顛末は、正純の存在を疎ましく思っていた土井利勝らの謀略であったとも、加納御前の恨みによるものともされる。。。」

1623年、ニ代将軍・徳川秀忠が急死・毒殺とも? 家光が三代将軍に就任。柳生一族の陰謀でドラマ化されている。

松平伊豆守信綱や春日局、柳生但馬一族、根来衆が、家光に加勢し支持する。
根来衆は柳生但馬の命で協力するが、任務を終え、柳生の庄・黒谷へ戻った後、口封じの為、柳生に皆殺しにされる。悲惨な運命となる。

尾張大納言義直の尾張・紀伊・水戸の御三家と筆頭老中・土井大炊頭利勝ら老臣一派が、忠長を支持していた。
柳生と同門の小笠原玄信斎を雇い、将軍家剣法指南役を条件に家光と但馬の抹殺を命じた。同門争いになる。
九条関白・三条大納言・烏丸少将が忠長に味方する。(徳川幕府の弱体化と王政復古を画策)

この家光と忠長の跡目争いには、服部忍者が登場しない。まさに、家光を3代将軍にする為の、柳生一族の暗躍である。最大の被害者は忠長である。

徳川家康は、諜報組織作り上げていた。既に、源氏の血筋など如何でも良い、秦氏の血筋でも集団統治体制が出来上がっていた徳川幕府である。

八咫烏の謎・カッパ―ラ・「迦波羅」・カバラ・賀茂神社

『 聖徳大使の諜報活動(秦氏)表神道の呪術「陰陽道」と裏神道の呪術「迦波羅」』(忌部氏に通じる葛城系の人々)

歴史を動かしてきた陰陽道、典型的なのが忍者(志能備)である。服部半蔵、百地三太夫、藤林長門、石川五右衛門、山本勘助、大久保長安、明智光秀、春日局、本多正信らは、秦氏

南朝吉野冠者後裔・山本勘助(賀茂神社の神官・左三つ巴の神紋) 大久保長安(南朝大蔵)・春日大社の猿楽(現能)金春流の猿楽師後裔 秦氏の志能備  

 

「 隠密活動の成果として有名なものは、3代将軍の家光と4代家綱に仕えた大目付の中根壱岐守正盛が、老中の松平信綱とともに組織的に隠密集団を活用して、慶安の変の際に、当時、反幕府勢力(武功派)の代表格と目されていた紀州藩主の徳川頼宣を失脚に追い込むことに成功した。」。。。秦氏の諜報工作員か?

 

大久保派松平信綱(伊豆守)と春日局、柳生、根来衆等は、(淨慶・家康)の子・家光を支持。

秀忠(惠新の子)、忠長派は、本多一族、水戸の御三家と筆頭老中・土井大炊頭利勝ら老臣一派が支持。

「武断政治」 大久保一族の勝利  ルーツは宇津忠俊 ⇒ 大窪(大窪党) ⇒ 大久保となる一族。

足利源氏・室町幕府を倒し、新田源氏が天下を取った!

加賀から来た一向宗の傭兵・大窪藤五郎の百姓王国100年の理念が、家臣による集団統治体制の徳川幕府の礎となった。

 

「文断派」一向宗に学んだ本多正信の知量、理念の影響も大きい。(秦氏・本多家は賀茂神社の神官の家柄)

本多正信は正純に対し、(正信の理念)

武家は軍法を諸道の根本とするのだ。軍法というは軍事ばかりに用いるものではない。軍法は常の備えである。善い政治は勝ち、悪い政治は負ける。勝負の本は国を治める事にある」「例えば樹木だが、根本によく土を掛けて、根を深くして育てると、大きく成長し、手入れをよくすれば、枝葉は栄え、花実も多く、少々枝を切っても傷みはしない。その心で天下国家の本とする大法を取り失わないように心得よ士農工商は天下の4民である。士にしてその仕える家の老職を預かる者は、農工商をもって木の根とし、大事に育てて、これを慈しめ。諸士は木と同じで、合戦の仕方は枝葉に同じである。勝負は花実に等しければ、その本を失ってはならない。その本は忠信を尽くす事で、諸事は生ずるのだ」と述べたと伝わる。

賀茂神社 神山古墳 本多家は賀茂神社の神官(神山を御神体として崇拝していた)

御祭神(賀茂別雷命)が神山(こうやま)に降臨したのが、上賀茂神社のご由緒。
三河(豊川・矢作川・男川の3つの川)が作る地域。「御川」「神川」「神の山から流れ出る3つの神川

三河の御神体となっている神の山・賀茂神社の所在は?御神体となっている山から流れ出る3つの川なら、天孫降臨の語源とも思える「石に`点の入った文字」の石川ではないか? 神の宿った千度石・百度石には「`点」がある。三河の「神の山」と賀茂神社の位地は特定できないが、神の山から流れ出る3つの神川で石川姓?「岩楯尾神社・天から神々が京塚山の頂上の「エボシ岩・つ」に降臨して「国の鎮めとなさっておくだりになった」

 

 

神社の手水舎 (ちょうずや)

デイリーポータルZ 2017年5月25日記事より転載 奈良県吉野郡大滝村(現在の川上村大滝)、南朝の皇子殺害事件「長禄の変1457年」参照

 

天孫降臨の語源とも思える「石に`点の入った文字」 発音は「いわ」巨石信仰の文字 あめのいわとわけ神

 

本多正信の教訓

※ 政治家は、農工商をもって木の根とし、大事に育てて、これを慈しめ、官僚は、国民に忠信を尽くす事で、諸事は生ずるのだ! 国家国民の為に! 主権在民だ! 百姓王国100年に学べ!

新田源氏、源応尼、江田の松本坊、於大、淨慶、家光と続く血筋の徳川幕府である。平和な時代でもあった。

「徳川幕府に学ぶ」

南北朝の戦いで、大きな犠牲を出した源氏の末裔が、王政復古を許さず、天皇を象徴として武力を持たせない体制を築いたのが徳川幕府である。

明治の王政復古は大きな犠牲を生んだ。外敵から日本国を守ったが、敗戦と共に、天皇を象徴とする国家に戻ったのである。

象徴天皇の基に、集団統治体制の日本の姿が、国民に豊かで安寧な国家を築く、民主主義国家となるのではないか。争いのない安寧な国家には、最高権力者はいらない、象徴天皇の存在が大きな意味をなす。日本民族の先祖であると崇め、敬うべき存在であると思う。

独裁者たる権力者を許さない体制が、国民の利益を守る、集団統治体制こそが、平和な社会を維持できる体制である。外敵から国家を守る為には、国民が一丸となって対峙しなければならない。集団的防衛力無くして国家、国民は守れない。侵略者に対峙することは、相当の防衛力を備えなければならない!「備えあって憂い無し」

防衛力強化は、国家国民を守る為に必要な不可欠な行為である。「力無き正義は無力なり」

日本国民は、「憂国の志士」の精神を捨ててはならない!

 

3月8日

源応尼の血筋

源応尼は大河内但馬守満成の娘(養女とも・謎)身分の低い家の出身説、謎の出自
ささら者(賤民)の娘と言われている。伊賀のくノ一とも

源応尼(実名は於富の方・於満の方)は明応元1492年に誕生
水野忠政に嫁ぎ、3男1女を儲けたとされる。この1女が徳川家康の生母となる於大の方
離縁後、松平清康、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐に嫁ぐ。いずれも死別の謎

松平清康と源応尼・於富の方の間の娘(於大の方・碓井姫・妙春尼)3娘?

於大の方の子  元康、淨慶
碓井姫の子
妙春尼の子  康正(康政・数正の父)、一政、家成、酒井正親室(妙玄尼)


妙春尼の姉に細川晴元室、武田信玄室(三条の方)がおり、姉二人とは15歳以上の年齢差があり、両者ともこの頃すでに嫁いでいた。於大の姉・他に2名?


於大の方(おだいのかた)享禄元年・1528年生~ 慶長7年・1602年10月13日没
       徳川家康の母。晩年は出家して伝通院と称した。広忠との子・元康、淨慶


碓井姫  酒井 忠次の正室  1529年生~ 1613年1月17日没84歳
       母は源応尼。徳川家康の母である於大の方と碓井姫は異父妹でもある。
       酒井忠次の母は妙玄尼(石川数正の姉)、妻は碓井姫(源応尼の子)


芳春院(妙西尼・妙春尼)天文13年・1544年生~ 慶長3年1月16日・1598年2月21日没?

   水野忠政の娘 夫は石川清兼(妙春尼は源応尼の子?)
      妙春尼は於大の方の妹?(細川晴元室?)家康はこの叔母に育てられた。
      子・石川 家成は、天文3年(1534年生、1609年没)
      石川数正は本家・康正の子で家成は康正の弟
      家康と家成は実母が姉妹

芳春院は三河一向門徒の代表格、一揆後、家康は芳春院に対し三河門徒を赦免し、宗教活動の許可を通知した。岡崎市上佐々木町の上宮寺には、徳川家康の叔母である妙春尼の墓がある。
妙春尼の姉に細川晴元室、武田信玄室三条の方

教光院如春尼(きょうこういん にょしゅんに)
天文13年・1544年生~ 慶長3年1月16日・1598年2月21日没
本願寺第11世・顕如の室。左大臣・三条公頼の三女。実名は不詳。

長姉の夫である細川晴元の養女となり、本願寺第10世・証如の子・茶々丸(顕如)と婚約
弘治3年(1557年)4月17日、さらに六角義賢の猶子となり14歳で顕如と結婚、京から石山本願寺に輿入れした。
翌年に15歳で長男・教如を産む。天正5年(1577年)に34歳で三男・准如を産む。
元亀元年(1570年)から本願寺は織田信長と争い、一向一揆に支えられて10年におよぶ戦いとなった(石山戦争)。

顕如の室・如春尼と芳春院(妙西尼・妙春尼)は同一人物か? 源応尼の娘?
妙春尼の姉に細川晴元室 長姉の夫細川晴元の養女? 於大の妹?

「芳春院は、姉二人とは15歳以上の年齢差があり。。。」妙春尼と同一人物と思われる?

石川源氏は一向宗を支持してきた。新田源氏、服部一族も同様である。源応尼が源氏の一族であることは間違いがないだろう。そして、一向宗の繋がりが、強く連携して戦乱の世に大きく影響を与えている。一向宗と戦った信長は消え、折り合えた家康が天下人となれた。

明智光秀の「敵は本能寺にあり」の真相が分かれば、解明されるものがある。光秀は「天海」として生き残った。そして徳川幕府の礎を築いたとなるのかも?

 

明智 光秀の謎  東照宮は語る!  光秀は家康(世良田二郎三郎元信)と結託して信長を殺したのか?

明智 光秀は、生年不詳である。出自は謎

美濃国の明智氏の支流の人物と言われる。美濃国(岐阜県南部)周辺で生まれたのは事実とみられている。
初代の明智頼重は足利尊氏・足利義詮・足利義満の足利将軍家に仕えたとされる。?
近年では、『兼見卿記』にある光秀の妹・妻木についての記述から、光秀の生年は天文9年(1540年)以降と推定している(1534年生の織田信長より年下となる)。

最初は、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えた。道三と義龍の親子の争い(長良川の戦い)の結果、浪人となった。
越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける。
その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。

 

徳川家康(権現様)と明智 光秀、天海の共通点  

称念寺 新田義貞公墓所 将軍足利義政の祈願所 徳川将軍家の香華院 光秀は越前国の朝倉義景仕官、称念寺前に10年住む縁

世良田東照宮 「新田荘遺跡」 徳川氏の遠祖の世良田義季の墓 隣接する長楽寺は新田義重の供養塔 天台宗の天海僧正が住職 比叡山延暦寺に学ぶ

日光東照宮に明智家の家紋あり、明智平の地名あり、方広寺鐘銘事件は天海の悪略、天海と家康の強固な信頼

新田源氏ー世良田二郎三郎元信(家康)ー光秀と家康は医学・薬学(毒薬)に知識がある。大窪党の大窪藤五郎は越前の人。

 

称念寺(しょうねんじ)は、新田義貞公墓所

福井県坂井市丸岡町長崎19-17 時宗の寺院。山号は長林山。院号は往生院。
721年(養老5年)に元正天皇の勅を得て泰澄大師によって開かれたと創建され、1290年(正応3年)他阿真教によって時宗に改められたという。

新田義貞が1338年(延元3年・暦応元年)に越前国藤島の燈明寺畷(現在の福井市新田塚)の戦いで戦死すると、時衆によって遺骸が往生院に運ばれたと『太平記』にある。
この往生院が当寺とされている。当寺境内に義貞墓所があった。
室町時代には、後花園天皇や室町幕府3代将軍足利義満、8代将軍足利義政の祈願所となり、そのほか武将の帰依を得た。後に、徳川将軍家の香華院となって栄えた。

※門前に明智光秀が、越前国の朝倉義景仕官時に10年住んで、医学の知識を学んでいた。
光秀と新田義貞の関わり合いが出てきた。新田源氏再興の同志となった可能性がある。

越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼りとある。後の大窪党の大窪藤五郎は越前の人である。

1571年 比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となる。
1573年 一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。朝倉は織田信長に滅ぼされる。
1582年 (本能寺の変)京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠(自刃)に追いやった。三日天下といわれる。

その後、織田信孝・羽柴秀吉らに敗れて討ち取られたとされるが、光秀の首は確認されていない。(山崎の戦い)

世良田東照宮との繋がり 光秀は天海か?

「東照大権現」としての徳川家康を祭神とする東照宮の1つである。
1617年(元和3年)に駿河国久能山(久能山東照宮)より下野国日光(日光東照宮)
家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、1644年(寛永21年)に上野国世良田へ
移築し、創建された。
太田市内の他の社寺、館跡とともに「新田荘遺跡」として国の史跡に指定されている。


寛永21年(1644年)、3代将軍・徳川家光の命により徳川氏の遠祖の世良田義季の墓
あり、天海僧正が住職をしていた長楽寺の境内に創建された。

新田氏の開祖・新田義重の居館跡とされ、隣接する長楽寺は義重の供養塔もあり、歴代新田
氏本宗家惣領が厚く庇護を与え、大いに栄えていた。

 

長楽寺は天海僧正が住職  光秀の生年は天文9年(1540年?)推定で年齢はほぼ一致する。

天海(てんかい)は、天文5年(1536年生?)推定 ~ 寛永20年10月2日(1643年11月13日没)
天台宗の僧、大僧正。尊号は南光坊(なんこうぼう)、院号は智楽院、諡号は慈眼大師(じげんだいし)。

天海が寛永9年4月17日(1632年6月4日)に日光東照宮薬師堂法華経万部供養の導
を行った記事があるが、天海はこの時97歳(数え年)であったという。これに従うと生年は天
文5年(1536年)と推定され、没年は107歳(数え年108歳)となる。
天海の生年ははっきりしていないが、100歳以上の長命であったと言われる。

徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。

『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理大夫平盛高の
一族」と記されていることから、三浦氏の一族である蘆名氏の出自で、陸奥国に生まれたとされる

しかし、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。また、「将軍義澄の末の御子といへる
人も侍り」と足利将軍落胤説も同時に載せられている。果ては姿を変えて生き残った明智光秀で
あるという説まである(天海=明智光秀説)

先述のように陸奥国会津出身と伝えられているが前半生についてはよくわかっていない。
龍興寺にて随風と称して出家した後、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台
を学び近江国の比叡山延暦寺や園城寺、大和国の興福寺などで学を深めたという。
元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山焼き討ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲
斐国に移住する。

その後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。のちの喜多院)に移り、天海を名乗ったとされる。

※ 信長死後、ここで光秀は天海になった。本能寺の変後、僧侶として生きていた? 延暦寺に籠った説?

 

天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺北院に来てからである。この時、江戸崎不動院の住持も兼任していた。

浅草寺の史料によれば北条攻めの際、天海は浅草寺の住職・忠豪とともに徳川家康の陣幕にいたとする。これからは、天海はそもそも家康のために関東に赴いたことがうかがえる。

豪海の後を受けて、天海が北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことである。その後、天海は家康(淨慶)の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。(僧籍の背乗り?光秀は秦氏の後裔・諜報工作員)

1600年 権現様たる淨慶・家康の誕生である。淨慶と光秀は蜜月関係にあった。

慶長12年(1607年)に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。ただし、辻達也は、天海は慶長14年(1609年)から家康に用いられたとしている。この年、権僧正に任ぜられた。

また慶長17年(1612年)に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め関東天台の本山とする。

慶長18年(1613年)には家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する。大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わったとされる。(天海の策略)

後半生
元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年4月に大僧正となった天海らに託す。

家康死後には神号を巡り以心崇伝、本多正純らと争う天海は「権現」として自らの宗教である
山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として古来よりの吉田神道で祭るべきだと主張した。

2代将軍・徳川秀忠の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。

その後3代将軍・徳川家光に仕え、寛永元年(1624年)には忍岡に寛永寺を創建する。江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する。

紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、大久保忠隣・福島正則・徳川忠長などの赦免を願い出ている。

これは輪王寺宮が特赦を願い出る慣例のもととなったという。堀直寄、柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走した。寛永20年(1643年)に108歳で没したとされる。その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈された。

3月16日

明智光秀の肖像画(大阪府岸和田市 本徳寺所蔵)がある。  明知光秀は生きていた?

本徳寺には位牌があるのですが、その位牌には「鳳岳院殿雲道大禅定門」と書かれ、肖像画には「雲道禅定門肖像賛」と書かれています。
「輝」の字のなかに「光」があり、「琇」の字のなかに「秀」が、つまり「光秀」の名がどちらにも隠れているというわけで、だからこれが光秀の肖像画なのだ、といわれています。
それだけでなく、この肖像画を書かせた、もしくは書いたのが光秀の息子・光慶であるとされており、それも光秀の肖像画だとする大きな根拠になっています。

本徳寺(大阪府岸和田市)の由緒
寺の開祖は光秀の息子?
本徳寺は臨済宗のお寺で、京都の臨済宗妙心寺派の大本山である妙心寺の末寺です。このお寺の開祖が南国梵桂(なんごくぼんけい)という安土桃山時代の僧侶でした。俗に、この南国梵桂が光秀の遺子・明智光慶(あけちみつよし)だと言われています。

光慶(十兵衛)は複数ある明智氏の系図では『明智軍記』や「鈴木叢書」所収の『明智系図』にしか見えない名ではありますが、光秀とともに連歌会に名を連ねたことが記録に残っており、実在した人物であろうといわれています。
『明智軍記』によると、光慶は山崎の戦いで光秀が敗死した天正10年(1582)6月13日に亀山城で病死したとありますが、同日に討ち死にしたならともかく病死とは偶然過ぎる…。
自害だった可能性、討ち死にした可能性もありますが、光秀の子どもたちについては討ち取られたという記録がそもそも残っていないため、落ちのびて生きていた可能性も十分に考えられます。そのため、光慶=南国梵桂という説も完全に作り話だ、とは言い切れない。

1582年6月13日に、光秀と子の光慶が死んだことになっている。二人が生き延びて天海僧正になったとも考えられる。108歳で没した長寿にも説明が付く。

表に出れない光秀は、天海となった光慶の陰となって行動を共にしていた可能性もある。それこそ天海の影武者となり、家康とも逢っていたとも考えられ、家康の参謀となり、光慶に知識を伝え、光秀の死後は光慶が天海として引き継ぎ、二人合せて108歳まで生きたとも考えられる。

二人とも1582年6月13日に死んだ確証がない。「秦氏・志能備」の後裔なら、姿を変えて生きている。

 

本徳寺がある岸和田市には、こんな伝説が残っています。(本徳寺は妙心寺の末寺

「本徳寺を開いた南国和尚は光秀の実子で、父・光秀が討たれた後でひっそりと落ちのびて京都の妙心寺で僧侶になった。その後、貝塚にある鳥羽村の海雲寺で父・光秀の肖像画を描き、位牌も用意して供養した。この海雲寺を岸和田に移転したのが今の本徳寺である。」
岸和田の地では、古くからこのように昔話として本徳寺の由緒が伝えられてきたようです。

「光秀唯一の肖像画 ~光秀と本徳寺とのつながり」
東滋実  2019/12/16のネット記事より

光秀を目の前にして、光秀の肖像画を描いたとの話も有り、二人で妙心寺に落ち伸びたとも考えられる。

 

妙心寺 開基(創立者)は花園天皇。(本徳寺は妙心寺の末寺)

花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。 妙心寺は、大徳寺(龍寶山大德禪寺)とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。 
法嗣の悟渓宗頓に帰依していた利貞尼は、関白一条兼良女で美濃国加納城主斎藤妙純の室である。
妙心寺住職の妹の慈徳院が織田信長の嫡男・織田信忠の乳母となり、その後に信長の側室になり、六女の三の丸殿(豊臣秀吉の側室)を儲けた。本能寺の変で信長が討たれると、信長の妹のお市の方が信長の百箇日法要を妙心寺で執り行った。

利貞尼は、美濃の斎藤一族・斎藤 妙純( 斎藤 利国)の妻・野間入道の娘(甘露寺親長の養女) 利貞尼の娘は朝倉貞景室。

妙心寺は花園天皇開基であり、朝臣と思える明智光秀との関わり合いが深い。

続く。。。



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