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徳川家康の謎  5  家康は影武者だった?  権現様の調略 影武者淨慶・世良田二郎三郎元信と大窪党の徳川幕府

2023年08月05日 17時45分10秒 | 歴史 戦国時代 徳川家康 織田信長 服部半蔵 新田源氏 武田信玄 八王子千人同心

徳川家康の謎  5  権現様の調略 影武者淨慶・世良田二郎三郎元信と大窪党の徳川幕府だった!

潰れそうな松平家を支え、乗っ取ったのは、南朝天皇を支持した源氏の末裔であり、ささら者(賤民・忍び等)の集団や地域豪族等の結束に因るところが大きい。淨慶・世良田二郎三郎元信(権現様)を旗頭とする服部忍者集団や大窪党(後の大久保)等の団結組織である。

大窪党とは

大窪党は越前から来た大窪藤五郎なる人物が頭として率いており、加賀の一向一揆(1488年)発祥の地から流れて来た武装集団であり、百姓の自治を実現した百年王国を築いた一向宗の傭兵である。

「加賀の国は、坊主・土豪・長衆(大百姓)などが共同して行ったので、「百姓の持ちたる国」といわれ、約100年も納めたのは、蓮如(一向宗「本願寺中興の祖」)のいる加賀の3ヶ寺と言われた本泉寺・松岡寺(能美郡)・光教寺(江沼郡)でした。」。。。本願寺は越前も領国とした。

石山合戦 

本願寺11世法主顕如は三好三人衆、および、浅井・朝倉氏と手を結ぶと共に各地の一向宗門徒に檄を飛ばし信長に宣戦布告する。浄土真宗本願寺勢力(一向宗)と織田信長との戦い。本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って戦った1570年、本願寺は、雑賀衆の門徒衆とともに以来11年にわたる石山戦争を戦い抜いたが、各地の一揆勢も破れたため、仏法存続を旨として1580年信長と和議を結んだ。

本願寺第11世・顕如の室・如春尼( にょしゅんに・教光院)1544年生~ 1598年没
左大臣・三条公頼の三女。源応尼の娘?於大の妹?
長姉の夫である細川晴元の養女となり、本願寺第10世・証如の子・茶々丸(顕如)と婚約。
1557年4月17日、さらに六角義賢の猶子となり14歳で顕如と結婚、石山本願寺に輿入れした。翌年に15歳で長男・教如を産む。1577年に34歳で三男・准如を産む

信長の家臣・滝川一益(1525年生)は甲賀忍者(志能備)で滝川家は六角家の家臣だった。本願寺・一向宗との繋がりもあり、如春尼(六角義賢の猶子)・源応尼の娘・於大の妹と繋がり、家康(元康、浄慶、惠新)と繋がる。家康と縁故の深い滝川一益は清州同盟の立役者である。

 

大久保 忠俊(1499年生 宇津忠俊)藤原北家宇都宮氏流 

大窪党を引き継いだ2代目頭が宇津忠俊(大久保)であり、出自は下野の宇都宮氏を祖、宇津の祖は新田義貞の家来であった。南朝支持派である。宇津氏は下野に勢力を持っていたが、その分家である武茂氏が泰藤の代に三河国上和田に移住したとの事。(宇津救命丸で有名)

宇津忠俊は兄弟全員と共に「大窪」姓に改姓し、その後、一族諸共大久保姓に改名した。忠俊は大久保一門の当主である。

大久保 忠俊は、三河領主松平清康の譜代家臣。宇津忠茂の子蟹江七本槍の一人。通称は新八郎、五郎右衛門とも。号は常源。妻は坂部正利の娘。弟に大久保忠員(子は大久保忠世)ら、子に忠勝らがいる。 

『三河物語』によると、

越前の大窪藤五郎という武芸者が三河に修業(本願寺の傭兵?)に来て、自分の名字を残すのは忠俊しかいないと要望したので、主君・松平清康(室・源応尼)に伺いを立てると、大窪藤五郎は剛勇の士であるからその望みを認めようと言ったので、当初の姓は「宇津」であったが、兄弟全員と共に「大窪」姓に改姓し、大窪藤五郎の戦死後(1540年没)に忠俊が「大久保」姓と改めたとされる。』 大窪党、源応尼・於大・淨慶(権現様)と繋がる。忠俊は大窪藤五郎の傭兵部隊を引き継ぐ。

宇津忠俊は大窪党の2代目頭となり、宇津⇒ 大窪⇒ 大久保と改名する。大窪党は権現様の家来である。

1535年、松平清康の急死後、家臣団は信定派と広忠派に分裂したが、大窪忠俊は引き続き弟・忠員、忠久、林藤助、八国甚六郎、成瀬正頼・大原左近衛門らと密議を重ね、密かに広忠派に内通し広忠の帰城を謀った。1537年広忠は岡崎城に入城した。(成瀬正頼の次男・成瀬 正一
1540年、広忠は渡の戦いで敗れたが、忠俊は追撃する敵を防ぎ、、敵を逆に敗走させた。大窪藤五郎はその戦いで討ち死にした。 
1548年4月、松平信孝(信定派)が500騎余りを率いて、岡崎城を窺ったが、忠俊と石川清兼は、射手70名を伏兵として隠し、松平信孝を射殺して暗殺した。
1549年、今川義元は、三河勢に先導させて織田信広の籠もる安城城を攻めた。先鋒となった忠俊らは信広を生け捕ることに成功して、織田と講和し、人質として捕らわれていた広忠の子竹千代(元康)との捕虜交換を実現させた。 以後、織田に2年程人質となっていた竹千代(元康)は今川の人質となった。
1563年の三河一向一揆では岡崎城の防備に務め、家康勢が一向宗の寺院破却を言い出した際、忠俊の懸命の功労により一向宗の門徒は全員無罪とし、浄珠院で面倒を見る事を認めさせた。

※大久保忠俊が、一向宗の門徒は全員無罪とし和解を成立させたことは当然である。家康は影武者(恵新)であり、決定権は酒井忠次、石川数正、大久保忠俊にあったといえる。

 

大久保忠世(1532年生、大窪党) 徳川家臣・大久保忠員(忠俊の弟)の長男として誕生。蟹江七本槍、徳川十六神将の1人に数えられる。
与力に成瀬正一、日下部定好、本多 正信。家督は嫡男・大久保忠隣(与力は大久保長安)

 

本多 正信(秦氏・本多家は賀茂神社の神官の家柄)陰陽修験の諜報員  一向宗を支持した

『陰陽修験者の「志能備」としての組織は、賀茂氏・役小角(えんのおずぬ)流れで組織化されていく。武術の発祥は陰陽修験道からで、修験武術の習得を通して、伊賀・甲賀・秦河勝(香具師・神農行商の祖)の「志能備」群団と接点があったと思われる。正徳大使の武官から特殊諜報員(忍び)と武士が生まれた。』

三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として弟の正重と共に家康に敵対。一揆衆が家康によって鎮圧されると、反逆者となり徳川氏を出奔して加賀国に住した。『藩翰譜』によると、三河を出た後京へと向かい、その後加賀に赴いたとされる。また加賀では一向一揆の将として迎えられたともいわれ、そこで織田信長と戦ったともされる。雑賀衆・鉄砲隊と繋がる「志能備」である。

10数年後には、大久保忠世(大窪党)のとりなしにより徳川氏に帰参することとなり、再度、家康の家臣となる。初め鷹匠として仕えたとあり、正信は伊賀越え(1582年)に付き従ったともいわれる。武田家滅亡時には、武田家臣団を取り込むため、本領安堵と引き換えに徳川家臣団への参集を呼びかけた。武田遺臣との繋がりも深い。その頃は既に、家康の信任を取り戻しており、以降は重臣として要職を歴任している。 江戸開府後は家康、2代将軍・秀忠の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るった。(子・本多正純)

1612年には子の本多正純の家臣・岡本大八による朱印状偽造が発覚している(岡本大八事件)

1613年の大久保長安事件、1614年の大久保忠隣、服部半蔵らの失脚に関わったとされる。

本多一族と大久保一族の権力争いが勃発した。 本多一族の勝利に見えたが、その後、本多一族も粛清された。

 

大久保長安(南朝大蔵・志能備・信玄の影武者担当) 大久保忠隣の与力 大窪党

長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽師(現能)、父は金春流の猿楽師 武田家臣の山本勘助南朝吉野冠者・清和源氏の流れを汲む駿河源氏・吉野氏の子孫)に学ぶ。大蔵、土屋、大久保と改名 八王子千人同心頭

  

石川数正(家康の筆頭家老) 松本城主 

河内石川源氏の石川政康のときに蓮如上人に帰依し、下野国(栃木県)小山氏より、三河へ移り小川城を築いた。この後裔に徳川家に仕えた石川数正となる。(家成と同族)

1579年9月15日、松平信康の切腹後、信康を徳川家の跡取と考える岡崎城派の総帥・石川数正は、影武者家康(権現様・淨慶と惠新)を捨て、豊臣秀吉に出奔した。 

 

成瀬 正一(成瀬正頼の次男1538年生) 大久保忠世の与力 大窪党  家康の諜報員で根来忍者では?

1560年頃、徳川氏を出奔して武田氏に仕える。第四次川中島の戦いで、打ち取られた諸角虎定の首級を石黒五郎兵衛と共に取り返し、武田信玄より黒駒の地を与えられるが、その後、徳川に帰参し家康に従い、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いに従軍。長篠の戦いでは、日下部定好と共に大久保忠世の与力として、武田方の旗指物の識別や鉄砲隊の指揮を行う。かつて武田家に仕えていた経歴を重宝され情報官としての役割を担いつつ、特殊技能の鉄砲隊の指揮も行った。1582年に武田氏が滅すると、「武田狩り」の嵐が吹き荒れる中、成瀬正一は知己であった武田旧臣を遠江国の桐山に匿った。徳川家康が甲斐国を支配すると、日下部定好とともに徳川氏の関東地方移封までの間、甲斐一国の奉行を務めた。
奉行になると米倉忠継、折井次昌をはじめとする武川衆や大久保長安といったかねてより匿っていた武田旧臣の安堵状を家康から取り付け、家康の家臣とした。大久保長安は徐々に頭角を現し、甲州時代の初期には成瀬・日下部の両職の体制であったが、後期には成瀬、日下部、大久保の三奉行の体制になっていたという。因みに、井伊直政の赤備えには正一と共に諸角虎定の首を取り返した石黒将監が加わっている。

天正13年(1585年)に新設された根来組・200人の組頭に長男・成瀬正成が任じられている。また、根来鉄砲組師範・山口重政は、三男・正武の最初の舅である。

 

世良田次郎三郎元信 (新田源氏の後裔・権現様・淨慶)

三河一向一揆(1564~1566年)で本多正信と共に家康と戦ったササラ者(忍び)の頭と言われる淨慶。父が新田源氏の後裔・江田松本坊(下野国・栃木県出身)で母は於大(祖母は源応尼・伊賀のくノ一)の子。服部・伊賀忍者、大窪党と共闘。

浄慶は子供の頃、駿府を放浪していたが、又右衛門という男に攫われて、子供を欲しがっていた願人の「酒井常光坊」に銭五貫で売られたという。酒井一族との繋がり

浄慶の祖母・源応尼の血筋 後年、源応尼は華陽院と名のった。秀忠の母・西郷局は服部忍軍のくノ一

源応尼は大河内但馬守満成の娘養女とも・謎)身分の低い家の出身説、謎の出自
ささら者(賤民)の娘とも云われている。伊賀のくノ一とも云われる。
実名は(於富の方・於満の方)は明応元1492年に誕生
源応尼は水野忠政に嫁ぎ、3男1女を儲けたとされる。この1女が徳川家康の生母となる於大の方
離縁後、松平清康、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐に嫁ぐ。いずれも死別の謎・伊賀のくノ一
松平清康と源応尼(於富の方)の間の娘(於大の方・碓井姫・妙春尼3娘?

 

酒井忠次 配下に大窪党

西三河の坂井郷から起こった土豪で松平氏の別流松平家も酒井家も ルーツが同じで、新田源氏の末裔を主張している。新田氏の支族、世良田氏の一族を名乗る流浪の時宗の僧・徳阿弥(後の松平親氏)を祖としている。酒井忠次は、上ノ郷城の攻撃(1562年)には甲賀から伴太郎左衛門資家を呼び寄せ、忍び働きに熟練した者を集め城内に潜入させ攻略した。潜り込んだ甲賀・伊賀衆は約280人といわれる。「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群団

酒井 忠次の正室 碓井姫母は源応尼、1529年生~ 1613年1月17日没84歳)    

松平清康と源応尼・於富の方の間の娘(於大の方・碓井姫・妙春尼3娘?) 。徳川家康の母である於大の方と碓井姫は異父妹でもある。 酒井忠次の母は妙玄尼(石川数正の姉)

妙春尼は於大の方の妹?(細川晴元室?)家康はこの叔母に育てられた。
子の石川家成(1534年生、1609年没) 家康と家成は実母が姉妹
家成は本家・康正の弟で分家、石川数正は本家・康正の子

 

服部半蔵 秦氏流服部氏族(伊賀流忍術の祖)

半蔵の祖は伊賀上忍であった服部家の血縁を活かし、宗家・服部正尚と連携し家康の伊賀越えの脱出劇に加勢した。服部一門は、家康によって伊賀組と取り立てられ、服部半蔵を組頭にした徳川家の家臣となった。

源応尼・華陽院、於大の方、西郷局、春日局らのくノ一の活躍はすさまじく、血縁を広げて他家を吞み込む侵略的な活動は、天下をも吞み込んでいる。

 

権現様・淨慶家康・世良田次郎三郎元信を旗頭として支える家臣団に共通するものは、南朝天皇を支持した源氏の一族、秦氏の一族、一向宗を支持した一族、志能備(忍び)の一族である。特殊能力を備え、諜報活動を得意とする群団が新田源氏再興を目指して、天下を取った。

※ 「1562年9月の戦い・石ケ瀬合戦」より、世良田二郎三郎元信(権現様)家来として、酒井浄賢、石川四郎、大久保甚四郎、榊原小平太(年若)、鳥居元忠(父子)、成瀬八郎、板倉内膳正、板倉弾正、平岩七之助、林藤介等の名前が確認できる。

春日局・お福の元夫・林正成(稲葉正成・養子)は、林藤介の血筋ではないか? 春日野局(秦氏)は3代将軍家光の乳母(実母?)

 

歴史を動かしてきたのは、全国の諜報活動を役目とした、特殊工作員たる「聖徳太子の志能備」の知恵である。

徳川家康(淨慶)は、諜報組織を作り上げていた。既に、源氏の血筋と、秦氏の血筋で集団統治体制が出来上がっていたのが徳川幕府である。

家光と忠長の跡目争い

1623年、ニ代将軍・徳川秀忠が急死(毒殺とも?)家光が三代将軍に就任。柳生一族の陰謀、根来衆皆殺しの悲劇。
1633年12月6日、幕命により高崎の大信寺において忠長は切腹した。享年28才
松平伊豆守信綱(源応尼、於大の血筋)や春日局、柳生但馬一族、根来衆が、家光に加勢し支持する。

大久保派、松平信綱(伊豆守)、春日局、柳生、根来衆等は、家康(淨慶)の子・家光を3代将軍に支持
秀忠(惠新の子)、忠長派は、本多一族、水戸の御三家と筆頭老中・土井大炊頭利勝ら老臣が忠長を支持。

2代将軍・秀忠、天海僧正・明智光秀、春日局(お福)は、従弟(従妹)同士の可能性がある。

 

松平伊豆守信綱は大河内一族(源応尼・華陽院出自)の後裔

源応尼の甥、大河内政局(政房)の妻が駿河にいた竹千代(信康)の乳母をしていた。信康は大河内政房の妻の手引きで駿府を脱出したという記述がある。一説に、この妻が竹千代誘拐に加担した件で、源応尼は刑死(1560年5月30日没)させられたとも言われる。」。。。後に、大河内は家康より松平姓を授かった。

※源応尼は華陽院と名のった

大河内政局(政房)に注目! 今川より松平信康を奪い取った功労で大河内から松平姓を貰った。

(上記はネット検索より転写)  源応尼、於大の血筋が徳川幕府の骨格を形成している。

 

大久保一族の勝利  足利源氏・室町幕府を倒し、新田源氏の後裔・世良田二郎三郎元康(淨慶)の血筋が天下を取った!

 

歴史を動かしてきたのは陰陽道であり、典型的なのが忍者(志能備)である。

服部半蔵、百地三太夫、百地丹波、藤林長門、石川五右衛門、山本勘助、大久保長安、明智光秀、春日局、本多正信らは、秦氏。

八咫烏の謎・カッパ―ラ・「迦波羅」・カバラ・賀茂神社
『 聖徳大使の諜報活動(秦氏・志能備) 表神道の呪術「陰陽道」と裏神道の呪術「迦波羅」』(忌部氏に通じる葛城系の人々)

南朝吉野冠者後裔・山本勘助(賀茂神社の神官・左三つ巴の神紋) 大久保長安(南朝大蔵)・春日大社の猿楽(現能)・金春流の猿楽師の後裔、観阿弥、世阿弥も秦氏の志能備である。 

 

7日 神君伊賀越え後の家康の行動

なるほど! 歴史ミステリーより参照

信長の死後 秀吉の織田家乗っ取り計画と家康の適格な動き 清須会議の実態「大河ドラマ どうする家康」歴史解説43

6月14日に、家康は鳴海地区に兵を進めた。

6月17日に、津島地区まで酒井忠次の兵を進めた。酒井忠次は大窪党、伊賀、甲賀、根来忍者群団を動かすことができる。又、本多正信は一向宗の傭兵、雑賀衆(鉄砲隊)群団を動かすことができる。

秀吉の光秀討伐後の動きをみて、木曽川で侵略を止める思いもあった筈である。秀吉討伐で京都に進軍する筈がない。

むしろ、織田の裏切り者になることは避けたいと思ったはずなので、清州城を守るために、津島まで兵を進めたと言い訳ができる。織田勢の味方の立ち位置を取ったということだろう。

又、伊賀越えでお世話になった、伊賀、甲賀、根来忍者、雑賀衆群団、一向宗傭兵群団の味方であることも示す必要があった。その為、木曽川まで兵を進めて、備えたということだろう。

秀吉がこれらの群団征伐に動くような姿勢が見られれば、家康は秀吉と一戦を構える姿勢はあったと思われる。

 

古書を読むだけで真意を掴もうとすれば、それは無理である。深層心理を書き残す戦略家はいない! 特殊工作の戦略は書物には書き残さない。事象のみである。

地図で徳川勢の動きを見れば分かる筈である。敵が秀吉となったら、木曽川で秀吉勢を迎え撃つ。伊賀、甲賀が秀吉に攻められたら、進撃する構えである。

家康は、伊賀、甲賀、根来忍者、雑賀衆群団、一向宗傭兵群団の味方であり、見捨てる様なことはしない。秀吉と戦闘状態になれば、家康のゲリラ部隊として重要な役割を果たす特殊戦闘部隊である。

歴史家は古書に書かれているものを基準に考えるが、机上の理論となる。現実にその時代に、生き抜いた武士の戦いは、生きるか死ぬかである。戦略は如何にして生き残るか、勝つかである。

秀吉も優秀な戦略家である。家康勢が津島に構えたことは、秀吉が木曽川を超えることは難しい、清州城を取られたら織田勢を纏めることは難しくなる事ぐらいは読める筈。

秀吉は、このタイミングでの家康との一戦は避けなければならない。京都を占拠して、家康以外の織田勢を纏めることに専念したのである。家康とは休戦を望んだのだろう。

秀吉は京都を制して、織田勢をまとめることで頭が一杯であり、甲斐、信濃等の統治を家康に放任して、滝川一益の動きを封じたということだろう。

家康は明智光秀が勝利したとしても、京には上らなかっただろう。織田勢の分裂を高みの見物としただろう!

我先と光秀や秀吉を叩く必要はない。信長の死は必ず内紛になる。勝ち残っても弱体化した相手を叩けば良いのである。外様が火中の栗を拾う必要はない。志能備(忍び)の知恵である。

状況によっては、企を見て清州城を奪う事もできる。津島に軍を進めて秀吉の「帰陣するよう」の指示を引き出したのであろう。そして堂々と甲斐、信濃の取り込みを実行したのだ。

滝川一益の敗戦を庇い、領地を奪い返して、北条の侵出を許さず、徳川領にしたのである。旧武田家臣団を引き込み、家康の直参軍団として召し抱えて成功させた。志能備(忍び)の知恵である。

 

「清州同盟」の立役者

滝川一益(いちます、1525年生) 甲賀忍者・志能備

聖徳太子の要請で、大伴氏族・大伴細人(おおとものさひと)から発生した甲賀郷士忍術者群団である。

近江国(現在の滋賀県)の南部、甲賀郡の郷士(地侍)であった、「滝川一勝」(たきがわいちかつ)の次男として生まれた。甲賀は、「六角家」が治めていたため、「滝川家」も、その配下にあった。

甲賀の出身であることから、一説には忍者だったとも言われている人物で、調略が得意で、鉄砲の名手で優れた才覚があった。水陸どちらの戦いにも高い能力を発揮した滝川一益は、織田軍が遠征したあらゆる戦地で重用され、目覚ましい活躍をした。
「本能寺の変」をきっかけに、滝川一益の立場は一変。不遇の晩年を強いられて、ひっそりと生涯を閉じることになった。 

河内国・堺(大阪府堺市)で鉄砲の製造法や射撃の技術を学んだと言われています。
滝川一益は、「織田家」の重臣「池田恒興」(いけだつねおき)の仲介により、織田信長と出会い、滝川一益は鉄砲の名手であったので、織田信長に召し抱えられた。池田恒興は、滝川一益の従兄弟に当たる縁戚。
1560年に信長は「今川義元」を「桶狭間の戦い」で破った。
そして、滝川一益は「清洲同盟」成立の立役者として活動し、松平元康の家臣に接触して説得を重ねた結果、織田信長と松平元康の和睦を実現させた。1562年には、両者間で「清洲同盟」が締結されました。
このときの交渉能力が認められた滝川一益は、織田家家臣団の中で頭角を現していきます。

※交渉相手は、松平元康の家臣、石川数正、酒井忠次、権現様(淨慶)、服部忍者、大窪党の面々である。滝川一益との交渉なら、双方共に「志能備」の調略が成立した。

その後、滝川一益は、美濃国と国境を接する伊勢国(現在の三重県北中部)を、まず押さえるべきであると織田信長へ進言敵対していた北伊勢の土豪「服部友貞」(はっとりともさだ)に調略を仕掛け、「蟹江城」(現在の愛知県蟹江町)を築かせた。
完成したところで服部友貞を追い出し、滝川一益が城を乗っ取るという騙し討ちのような方法で、戦略拠点を手に入れることに成功したのです。甲賀忍者「志能備」の調略
この蟹江城を足場に、伊勢に分立する大小の豪族を次々と屈服させた滝川一益は、もとは朝廷の側近であった伊勢国の名門「北畠家」の攻略に挑みます。
ここでも滝川一益は調略を用いて、同家の当主「北畠具教」の弟であり、その重臣であった「木造具政」を味方に引き入れ、北畠家を分断。統率に乱れが生じたところに、織田信長が7万人の軍勢を引き連れて本拠の「大河内城」(現在の三重県松阪市)を取り囲み、城の周囲を焼き払うなどして包囲しました。北畠具教は、籠城の末、織田信長の次男「織田信雄」を養子とする和睦の条件を受け入れ、城を明け渡したのです。その後、北畠具教を暗殺。「志能備」の調略

こうして滝川一益は、蟹江城を本拠とし、北伊勢の支配を任されるようになります。

甲州征伐に出陣

1578年(天正6年)、越後国(現在の新潟県)の「上杉謙信」が急死すると、「上杉家」の家督を巡り対立が生じます。
「御館の乱」では、甲斐国の「武田家」が上杉景勝に与し、相模国の「北条家」が上杉景虎を支援することになり、「北条氏政」は、武田家打倒の共闘体制を築くべく、織田信長に臣従を申し入れます。このとき、北条家の使者を出迎え、取り次ぎ役を担ったのが滝川一益でした。(北条忍者は風魔小太郎「志能備」の調略)

1582年(天正10年)、「木曾義昌」が織田家に寝返ったことをきっかけに、織田信長は「甲州征伐」の狼煙を上げます。主力部隊は、信長の長男「織田信忠」を大将とし、副将の「軍監」を滝川一益が務めました。
この戦いには、徳川家康や北条氏政の軍も参加し、戦況は織田側に優位に進みます。そして武田勝頼は、家臣の裏切りもあって徐々に追い詰められていったのです。
逃げ場を失った武田勝頼は、開戦から1ヵ月後、「天目山」の近くで滝川一益の軍勢と激闘の末、自害に追い込まれ、武田家は滅ぶことになります。

武田の影武者一族・土屋昌恒の片手千人切りは有名、志能備、義兄に大久保長安(大蔵⇒土屋⇒大窪⇒大久保)

その後、武田家の遺領は、織田家の家臣によって分割されました。滝川一益は、上野国(現在の群馬県)と、隣接する信濃国の2郡を与えられると同時に、かつて上杉謙信が務めた「関東管領」に任命されます。
「箕輪城」(現在の群馬県高崎市)、次いで「厩橋城/前橋城」(現在の群馬県前橋市)入り、関東や東北地方の諸大名を、織田家に服属させる大任を担うことになったのです。滝川一益はそれまでの領地の安堵を約束して、地域への融和に努めて治めました。
滝川一益は、東国の広大な勢力圏の支配を任され、「西の秀吉、東の一益」と言われるまでに出世を遂げたのです。

明智光秀の謀反により、「本能寺の変」が起きたのは、滝川一益が関東管領に就任して3ヵ月も経たない、1582年6月2日のこと。厩橋城にその知らせが届いたのはその5日後です。
織田信長の死が領国の武将達に知られると、一斉に離反を招くことにもなりかねません。しかし滝川一益は、家臣の反対を押し切って、その事実を伝えることにしました。
「我らは上方に戻って織田信雄、信孝(のぶたか)殿を守り、光秀と戦って恩義に報いねばならぬ。一益の首を取って北条に降る手土産にしようと思う者は、遠慮なく戦いを仕かけるが良い。北条氏政・氏直(うじなお)父子から城を渡せと言われたら、それがしは北条勢と決戦に臨み、勝とうが負けようが京に向かうつもりだ

「本能寺の変」を知った北条氏政は友好関係を継続する意志を滝川一益に書状で伝えていますが、上野国を侵攻する準備を整えていました。
6月16日、北条氏政・氏直父子が率いる総勢56,000人の大軍が、上野国・倉賀野(現在の群馬県高崎市)に侵攻を開始。
滝川勢は18,000人の兵で迎え討ちましたが、兵力の差は歴然、翌日の戦いでは、敗走となったのです。

滝川一益が、伊勢国へ戻る道中にあった6月27日、尾張国の「清洲城」では、織田家の重臣達が集まり、新たな当主と遺領の配分を決定する「清洲会議」が開かれていました。
後継者を巡っては、織田信長の三男「織田信孝」を推す柴田勝家と、織田信忠の子「三法師」を推す「豊臣秀吉」が対立。そして、織田信長の仇を討ったことで主導権を握った豊臣秀吉の案が、採用されることになったのです。

この会議によって滝川一益に認められたのは、旧領である伊勢国・長島50,000石の現状維持のみ
不満を募らせた滝川一益は、柴田勝家と豊臣秀吉が争った1583年の「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)に、柴田側の一員として参戦。豊臣秀吉率いる70,000の大軍を相手に善戦します。しかし、主戦場の近江国で豊臣側の勝利が決まり、柴田勝家は自害。孤軍奮闘を続けていた滝川一益でしたが、豊臣秀吉の軍門に降るのです。

滝川一益は出家し、越前国(現在の福井県北東部)に蟄居。1584年、織田信長の次男・織田信雄が徳川家康と共に、反秀吉の兵を挙げた「小牧・長久手の戦い」が起こると、滝川一益は、豊臣秀吉から呼び戻されます。
賤ヶ岳の戦いのあと、織田信雄の所領となっていた北伊勢での戦いに、この地をよく知る滝川一益の力が必要とされたのです。
旧臣達を招集して出陣した滝川一益は、織田信雄方であった戦友の九鬼嘉隆を内応により味方に引き入れ、かつて所有していた蟹江城を奪います
織田・徳川連合軍は、20,000人の大軍を投じて蟹江城を急襲。滝川軍は、水陸両面から包囲されながらも半月以上持ちこたえます。しかし、豊臣秀吉の援軍が遅れたことで戦力は尽き、蟹江城は明け渡されることになりました。
滝川一益は、豊臣秀吉から3,000石のわずかな所領を与えられましたが、再び越前国で蟄居の身となります。その後、滝川一益は、合戦に明け暮れた62年の生涯を終えました。

 

「清州同盟の成立」が天下取りの指針となった。新田源氏の後裔・淨慶、酒井忠次、石川数正、服部半蔵、伊賀・甲賀忍者群団、大窪党、一向宗傭兵、滝川一益、成瀬正一、大久保長安、明智光秀、春日局、本多正信ら秦氏の後裔たる「志能備」の調略である。

 

「志能備」が忍びのルーツで、聖徳大使の時代からの諜報活動をしていた。

聖徳太子にまつわる伝承として、「聖徳太子が情報収集に使った」とされる三人の人物とその配下の事が載っている。大和朝廷の正規軍と陰陽修験の諜報工作組織の存在である。

聖徳太子の大伴氏族・大伴細人(おおとものさひと)に対する要請で「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群団。

正徳太子が有力部族・秦氏族へ要請されたとする、秦河勝(秦河勝・香具師・神農行商の祖)とする郡団。

伊賀の国人・秦氏流服部氏族(伊賀流忍術の祖)の伊賀流忍術者群団の三集団である。

 

陰陽修験者の「志能備」としての組織は、賀茂氏・役小角(えんのおずぬ)流れで組織化されていく。

賀茂氏・役小角は、陰陽修験は(村落部では)守備範囲の役割を分けていたと思われる。
甲賀郷士忍術者群団と、服部氏と河勝氏の率いる三集団とは町場の氏族を相手とする諜報活動群団と、活動範囲を分けていたようだ。
武術の発祥は陰陽修験道からであるから、甲賀郷士忍術者群団と、服部氏と河勝氏の群団も、修験武術の習得を通して接点があったと思われる。武官から特殊諜報員と武士が生まれた。等々の「志能備」に関する情報を得ることができた。

滝川一益は、「志能備」
伊賀・服部流と双璧を為すと評価される「大伴氏から発生した」甲賀郷士忍術者群団の一員である。

 

明智光秀の謀反による「本能寺の変」

「志能備」が忍びのルーツで、聖徳大使の時代からの諜報活動をしていた。明智光秀は天皇家の武官

「聖徳太子が情報収集に使った」とされる「志能備」、武官。大和朝廷の正規軍と陰陽修験の諜報工作組織の存在が天皇制を守った。

「時は今 天命が下った 五月かな」  天皇家、公家社会の為に、信長を殺す時(チャンス)が来た!


徳川家康の謎  4  家康は影武者だった? 本能寺の変・神君伊賀越えは想定内 影武者・世良田二郎三郎元信・権現様の調略

2023年07月16日 22時47分31秒 | 歴史 戦国時代 徳川家康 織田信長 服部半蔵 新田源氏 武田信玄 八王子千人同心

徳川家康の謎  4  家康は影武者だった?

松平元康(本物)は1560年12月5日~1561年にかけて、織田信長と戦うべく尾張に向けて侵攻をしていた尾張守山において、阿部正豊(弥七郎)に暗殺された?

1561年 元康の異母弟・恵新死亡の墓有り。実は松平元康(本物)が死亡したのではないか? そして、異母弟・恵新(双子の兄弟か?)が松平元康の影武者となった。

恵新の異父兄である淨慶は、元康の異父兄でもあり、新田源氏の後裔であり、新田源氏再興の旗頭となる。そして、淨慶は世良田二郎三郎元信と名のり、後に、徳川幕府を創設した初代徳川家康となる。

恵新は1561年~1600年の関ヶ原の合戦までは、家康として生存していたが暗殺され、以後は淨慶が家康となった。徳川家の実権は淨慶が掌握していた。

 

『徳川実記』に、「野々村四朗右衛門が馬上から家康に切りかかってきたので斬った」という記述がある。しかし、影武者が殺されたという説も、影武者に入れ替わったとも云われる。

関ヶ原の合戦場には、二人の家康が席を並べて存在したと云われ、本物は親指を銜える癖があるといわれ、影武者と本物の見分けになったと云われる。恵新と淨慶ではないか?

 

松平元康 ⇒ 影武者・元康2・家康1(惠新1561年~)⇒ 家康2(淨慶1600年~)⇒ 家康3(消えた矢惣次1615年~)の影武者を肯定すれば、徳川幕府の成り立ちが説明できる。

徳川家は、淨慶こと世良田二郎三郎元信(権現様)が総帥となって、集団的統治体制の下に運営されてきた集団であると思われる。

 

推測経過

松平元康は松平広忠と於大(源応尼の娘)の子である。側室・お久の子とする恵新とは双子で於大の子とも推測できる。於大の子・淨慶の異父弟とも推測できる。

お久の子とする勘六(恵新の異父兄)は、水野忠政、松平忠政の名前から察すると、母は於大の可能性があり、浄慶と同一人物とも推測できる。又は、お久は於大と姉妹で源応尼の娘か?

1561年に元康が暗殺されて、異母弟の恵新(松平広忠の子)が松平元康に成り替わる。その後、元康・恵新の影武者となる浄慶・勘六の二人が別人であっととしても矛盾は生じない。酒井忠次の家臣となった勘六は、姉川の戦い(1570年)で戦死したと云われる。

世良田次郎三郎元信なる人物は、三河一向一揆(1564~1566年)で本多正信と共に家康と戦ったササラ者(忍び)の頭と言われる淨慶である。
一向宗の味方をした本多正信は、家康の家臣を辞め出奔し一向宗と共に10年程放浪し、「本能寺の変」の前から再び家康(恵新、浄慶)の家臣となっている。

松平元康の影武者(恵新、浄慶)は1566年には徳川家康と改名した。ここで松平家の血筋は支流となり、浄慶の新田源氏の後裔・得川家の血筋が本流となった。以後、徳川家の実権を握ったのは淨慶(権現様)であり、元康の子・松平信康は邪魔な存在になったのである。

恵新は影武者家康として関ヶ原の合戦(1600年)まで生存したが、合戦場で暗殺されたと思われる。
恵新の死後は、淨慶(権現様)が家康となり、徳川幕府を起ち上げ、大阪夏の陣(1615年)までは生存したと思われる。

家康・淨慶(権現様)が戦場で暗殺されて、「消えた矢そうじ」が家康の影武者となり、1年後の1616年には鯛の天ぷらにあたって死去(毒殺?)した。

 

2代将軍徳川秀忠は1579年5月2日生まれであり、恵新(影武者家康)の子ではないか? 又は、淨慶の子であってもおかしくはない。秀忠が淨慶の子であれば、3代将軍・家光とは異母兄弟である可能性が高い。

秀忠の母は鍛冶屋の娘おあい(後の西郷の局・1590年没)であり、伊賀忍軍の上忍である「服部家」で育てられたくノ一とも云われ、鍛冶屋(忍者小屋)を拠点として活動していた淨慶とは親密な関係にあった。

「神君伊賀越え」で

伊賀越えルートを先導したのは、家康の旗本になっていた2代目服部半蔵正成。伊賀上忍であった服部家の血縁を活かし、宗家・服部正尚と連携して家康の脱出劇に加勢した。この時に功あった伊賀者が、後に家康によって取り立てられ、伊賀組となった。

伊賀国・服部宗家の服部正尚の弟の服部七右衛門も家康に仕えたが、兄亡き後に、服部宗家を継ぎ、その後、子の無かった青山(忠重)家に養子入りしている。そして改名し青山成重となった。(服部宗家の忍者である)
青山成重と改名した服部七右衛門は、2代将軍・秀忠のもり役となり、以後、秀忠の側近として権勢を振るった。
秀忠の母・西郷局(鍛冶屋の娘・於愛)は、西郷正勝の娘と戸塚忠春との間に生まれた子とあるが、戸塚忠春が戦死して後に、西郷正勝の娘と於愛は服部正尚のもとに嫁いでいる。

秀忠の母・於愛(西郷局)は伊賀のくノ一でもあり、服部正尚の実子の可能性もある。秀忠には服部忍者の血が流れている? 淨慶(権現様)と服部伊賀忍軍(秦氏)との繋がりは強固である。

 

1579年9月15日 松平信康切腹

家康は、織田信長が松平信康・築山殿の処罰を命じたとし、築山殿を遠江富塚に殺害し、信康を二俣城で切腹させている。
秀忠の誕生で、徳川家を完全に乗っ取るためには、松平家の跡取である信康を殺す必要が生じた。松平信康を跡取とする岡崎城派の総帥・石川数正が家康を捨て、豊臣秀吉に出奔する要因である。 

3代将軍徳川家光は、秀忠の子ではなく、淨慶(得川家康)の子ではないか? 家光の父は新田源氏・得川の血筋であり、母は秦氏の血筋(公卿)の春日野局とも云われる。

 

一向宗と大窪党と淨慶の関係

酒井忠次の配下の大久保忠俊は、1563年の三河一向一揆では岡崎城の防備に務めた。また、家康が一向宗の寺院破却を言い出した際、忠俊の懸命の功労により一向宗の門徒は全員無罪とし、浄珠院で面倒を見る事を認めさせた。 一向宗を庇ったのである。 

大久保忠俊は大窪党の2代目頭である。初代の大窪藤五郎(越前から来た)は一向宗門徒の加賀一向一揆の傭兵である。家康側に付いて三河の一向宗と対峙したが、本気で戦う気持ちはなかったので岡崎城の防備に努めている。

一向宗の味方をした家康の家臣は、影武者体制を嫌った松平家古参の家臣らである。一向宗を撒き込んだ勢力争いの内部分裂であり、松平家を本気で潰す意図はなかった。家康(恵新)は一揆側の条件を丸呑みして、半年で和解したことが示している。

大久保忠俊が、一向宗の門徒は全員無罪とし和解を成立させたことは当然である。家康は影武者(恵新)であり、決定権は石川数正(元一向宗門徒)、酒井忠次、大久保忠俊、淨慶にあったといえる。

一向宗を支持した本多 正信は、父祖以来、徳川氏に仕えるが、反逆者となり三河を出奔して流浪し、10年後には再度、家康の家臣となる。江戸開府後は家康、2代将軍・徳川秀忠の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るった。 

本多 正信は三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として弟の正重と共に家康に敵対。一揆衆が家康によって鎮圧されると、徳川氏を出奔して加賀国に住した。『藩翰譜』によると、三河を出た後京へと向かい、その後加賀に赴いたとされる。また加賀では一向一揆の将として迎えられたともいわれ、そこで織田信長と戦ったともされる。」 。。。記述あり

本多正信も伊賀越えに付き従ったともいわれる(『藩翰譜』。但し判明している34名の伊賀越えに同行した供廻の中に正信の名はない)。

1601年からは、家康が将軍職に就任するために朝廷との交渉で尽力したといわれる。更にこの頃、本願寺(一向宗)では前法主・教如と法主・准如の兄弟が対立していたため、これを利用して本願寺の分裂を促すことを家康に献策。かつて自らも身を投じていた本願寺の勢力を弱めさせた。

家康は正信の進言で、教如上人に京都(烏丸六条)の寺地を寄進、後に現在の東本願寺となる。(西本願寺は秀吉が建立したもの)親徳川派の一向宗を盛り立て本願寺の勢力を分断した。

本多正信は朝廷との繋がりも深く、交渉力があったことがうかがえる。

 

信長と権現様(淨慶)との相違点

世良田二郎三郎元信こと淨慶は、新田源氏の後裔として旗頭になり、服部忍軍や伊賀、甲賀の忍者集団、地侍等と共闘して松平家の乗っ取りを成功させたものである。
大窪党の頭・大窪藤五郎(越前から来た)は一向宗門徒であり、百姓王国100年を実現した加賀一向一揆の傭兵である。2代目の頭が大久保(大窪)忠俊であり、淨慶は大窪党の協力で勢力を巨大化していったとも思われ、一向宗との縁も深い。

信長は、延暦寺、本願寺、一向宗皆殺し、伊賀の乱では伊賀忍者皆殺しを図ったが、家康(淨慶)は一向宗、伊賀、甲賀の忍者衆と共闘して天下取りに成功している。相反する者同士でであり、いずれは何方かが殺される関係にあった。織田は北朝の天皇支持派であり、新田源氏の家康は南朝の天皇支持派である。

 

以上のとおり、徳川家康は影武者による統治体制の下に行動してきたと仮定して、本能寺の変・神君伊賀越えを推理する。

 

「天正10年(1582)6月2日、織田信長、本能寺で明智光秀に襲われ自殺」とある「本能寺の変」、何故、光秀は信長を殺したのか!の動機は、徳川家康の謎1・2・3で書きました。

光秀が信長を殺す可能性を家康が知っていたとも思われ、家康が信長に暗殺(毒殺)される可能性もあったとも推測される。光秀が家康の毒殺を防いだ可能性もある。

家康と光秀には共通の意思の疎通があったとも思われる。1582年の家康は惠新であるが、影武者でもある淨慶が徳川家の総帥であり、光秀とは若かりし頃より面識があったとも思われる。

淨慶は服部忍者と密接な関係であり、伊賀・甲賀忍者を配下に共闘している集団の総帥でもある。光秀は天皇家に仕える朝臣、秦一族の志能備(忍び)である。

家康と光秀は信長を殺す利害が一致している。光秀は天皇家や秦一族の存亡が危惧され、巨大化した家康は信長に命を狙われていた。

この様な背景の下に、信長は家康を安土城に呼び出した。僅かな家臣を連れての信長訪問は、正にまな板の鯉であり、殺されることを想定した訪問であったと推測できる。

したがって、34名の家臣だけでは信長訪問などできる訳がなく、緊急事態を想定した体制での訪問であったと考えるのが普通である。

影武者の強みは、惠新・家康が殺されても、総帥の淨慶・家康が生き残れば、徳川家は滅ぼされない。影の群団を連れて、淨慶・家康が別行動していたと推測できる。

警護したのは甲賀忍者100人、伊賀忍者200人の総勢300人の忍者群団である。淨慶が忍者を使った共闘は、1562年の上ノ郷城攻めで実証している。上ノ郷城の攻撃には、伴ら甲賀衆と、服部半蔵ら伊賀衆の忍者たちが加わっていた。

信長は伊賀の乱(1581年)で伊賀忍者を皆殺しにしたが、家康は逃げのびた伊賀忍者を庇った。家康が信長に殺される理由も与えている。

「天正9年(1581)の第二次天正伊賀の乱の際、服部正成を頼って三河に落ち延びてきた伊賀者を家康が匿ったという」。。。記述有り

淨慶の母・於大は、本願寺・顕如の室(如春尼)と姉妹であり、一向宗との繋がりも深く、背景は信長とは敵対関係であり、光秀とは血縁関係が想定できる。

「春日局が世話になった公卿の三条家は、細川晴元正室、武田信玄室(三条の方)、本願寺・顕如の室(如春尼)、源応尼、家康の母・於大、春日局・光秀と血縁が繋がる。公卿の名門である。」

光秀も家康も信長を殺す動機とタイミングは一致したのである。信長は家康を殺すべく謀り、ミイラ取りがミイラになったと想定できる。

そこで、「神君伊賀越え」の真相に迫る。

影武者・二人の家康の存在である。表向きの惠新・家康、影の実力者、淨慶・家康が同行していたと考えれば、「神君伊賀越え」の真相が見えてくる。

三河に一目散に逃げかえらなければならないのは、淨慶・家康であり、情報も早く、300人の忍者群団を配下にして易々と逃げ帰ったと思われる。

 

淨慶は過去の城攻めにおいて、甲賀、伊賀の忍者群団を使っている。

家康(惠新と淨慶)が1562(永禄5)年の上ノ郷城の攻撃を命じたのは、久松俊勝と松井忠次である。
俊勝は久松長家の名前で、淨慶の実母である於大の方が、家康(惠新)の父・広忠と離縁した後に再婚した相手である。

淨慶の母・於大は服部・伊賀忍者のくノ一である。祖母の源応尼も伊賀忍者のくノ一であり、伊賀、甲賀の忍者衆を動員する繋がりがあった。

この時、酒井忠次(大窪党・大久保忠俊)は、上ノ郷城攻めにおいて、甲賀(現在の滋賀県甲賀町など)から伴太郎左衛門資家を呼び寄せ、忍び働きに熟練した者を集め城内に潜入させた。潜り込んだ甲賀衆は約280人と云われる。

家康は既に影武者の恵新であった筈だが、実権は淨慶が握っており、甲賀、伊賀の忍者軍団と大窪党の活躍で、久松俊勝は難攻不落の上ノ郷城を攻略をした。忍者群団の働きは大きい!

服部半蔵は忍者ではなかった等との記述が目立ってきたが伊賀流忍者の首領を務めてきたとあり、正に、聖徳太子の時代から活躍してきた「志能備」の一族である。

天皇家の為に諜報活動をしてきた伊賀郷士忍者群団であり、大きな目的を以って活動してきた集団である事は間違いがない。服部忍者群団の力を過少化する近年の記述は間違いである。

歴史に大きな影響を与えてきた、「志能備」忍者群団の活動や伊賀・甲賀忍者のくノ一の存在や活動を無視することはできない!

 

服 部 半 蔵 (通称、半蔵あるいは源左衛門

もともとの先祖は、伊賀国花垣村余野(現伊賀市)に居住し、そこで代々伊賀流忍者の首領を務めてきた一族とされる。
 
初代とする  服部半蔵(半三)保長   伊賀出身の忍者。 保長以前は不明 伊賀を出て室町幕府12代将軍足利義晴に、続いて三河にて松平清康に仕える

2代目  服部半蔵正成   1542年~1596年12月 54才没  1582年の家康の伊賀越えに随行した忠臣 伊賀、甲賀同心の支配役

3代目  服部半蔵正就   1565年~1615年6月没?  大阪夏の陣(1615年)で行方不明 淨慶・家康も暗殺されたとも云われ、1613年には大久保長安が死去している不可解な激動期である。

4代目  服部半蔵正重  1580年~ 1652年 72才没 2代正成の次男 3代正就の弟 大久保長安事件で失脚、長安の娘婿長安(金山奉行)の部下(佐渡金山の同心)として佐渡の金山等を統括する。  
~12代目 服部半蔵正義まで

※ 服部 半蔵(はっとり はんぞう)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて松平氏から徳川氏の麾下で活躍した者を指す。代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代当主である。詳細は不明であるが、忍者だったのは初代・保長までであり、2代目以降は武士となり忍者ではなかったとされる。

 

「神君伊賀越え」に戻る

家康は堺を立って2日後の6月4日に本国の三河に着いたという。惠新・家康では不可能と思われる日程である。

逃げ遅れた惠新・家康が腹を切って、家康が死んだと流布する策略も考えられたのではないか? 何度も生き返る権現様である。二人の家康の強みである。

「神君伊賀越え」の近臣34名が一同に行動していたとは思えない。二手に分かれて行動していたと考えられる。本多正信が率いる一向宗、伊賀、甲賀の忍者群団が徳川勢を警護し、諜報活動をしていたと推測される。

服部半蔵が率いる惠新・家康の本隊が囮となって「神君伊賀越え」の苦労話になっていると想定できる。権現様たる淨慶・世良田二郎三郎元信・家康は百戦錬磨の強者である。

権現様は近臣34名だけを連れて、信長に易々と殺されるような無能無策者ではない!    

 

18日

織田信長は松平元康の影武者・惠新を知っていたのではないか? 

清州同盟での面識があった筈、石川数正は影武者・惠新を元康として信長に接見している筈である。

淨慶は山賊集団の頭として織田信長や水野等の地方豪族と共闘しながら、今川勢と戦っている。混乱に乗じて松平家の乗っ取りを画策していた。

そして、元康の暗殺を成功させて、元康の影武者として影武者・惠新を誕生させて、松平家の背乗りを成功させた、この事実を知っていたのは酒井忠次、石川数正他側近の者達である。

石川数正は、元康亡き後、影武者・惠新の擁立を認めた。この時の交渉先が淨慶であり大窪党、服部忍軍であったと思われる。

影武者・惠新の擁立は、後に元康の嫡男・信康に家督を譲ることが前提であり、あくまでも家督は松平信康が継承する事が約束された。

一時的な影武者統治であり、実態は集団統治体制を取って、石川数正と酒井忠次、淨慶、大窪党等との協議による組織運営がなされて、松平家の存続を図った。

この様な影武者状態の中で、今川に帰参するのもできず、今川との対立が深まる中で生き残る為には、織田信長との同盟関係が必要となり、石川数正の働きで清州同盟が成立した。

信長は元康の影武者・惠新の擁立を知っていた可能性は高い。影武者の擁立を知ったうえで、受け入れた清州同盟であったと思われる。

信長は、山賊の頭・淨慶の存在は知っていたと思われるし、僧侶の惠新の擁立なら危険性は感じなかった。又、石川数正が実権を握って、信康が家督を継ぐ事で了承したと思われる。

したがって、信長の娘・五徳が信康の許嫁になることで合意に至ったのではないか。松平家を織田家に事実上吸収することが清州同盟の核心ではないか。

 

織田信長は家康の影武者説を熟知していた可能性は高い!

信長の若いころ、織田の軍師で伊束法師(意足法師とも)という呪術的軍配者がいた。織田信長、徳川家康のブレーンをつとめたといわれる僧侶である。
1560年の桶狭間(おけはざま)の戦いのころは、信長の側にいたことは確実で、伊束法師が占い、当日の大雨を予想していた可能性がある。伊束法師は家康の監視役だったと言われる。
伊束法師と新田源氏・得川の血筋、江田松本坊と源応尼との関わりはないのか?
お久の子・勘六を家臣とした酒井忠次も新田源氏の末裔と称している。
酒井の家臣となった勘六と浄慶は同一人物とも推測できるが、勘六は姉川の戦い(1570年)で戦死とされている。
以後、家康役は2人で恵新と淨慶となった。表の家康役・恵新と影武者・淨慶(権現様)と推測する。信長の知っている影武者家康(1582年)は恵新である。1600年に恵新(家康)は関ヶ原の合戦で死亡する、以後、影武者・淨慶(権現様)が家康に成り替わる。

したがって、信長が知っている影武者家康は惠新である。僧侶であった惠新は臆病で大人しい、怖れるに足りない男だったと思われる。

清州同盟の成立は、信長が松平家の乗っ取りを画策し、石川数正を信用したという事だろう。

信長は家康の成り替わりを知っていた可能性は高い、信康と娘・五徳の結婚を条件に松平家を吞み込み、領地拡大で戦略的に合意したとも思われる。

 

徳川家の集団統治体制は関ヶ原の合戦までは、表向きには影武者・惠新であり、実権は淨慶、酒井忠次、石川数正(出奔まで)の合議によって統治されていたと思われる。

信長は、徳川家の実力者は、石川数正と酒井忠次の2名であると考えていたかもしれない。

家康が信長からの安土城への呼び出しに応えられたのは、信長の知っている家康は惠新であったから、安土城訪問を徳川側が受け入れたのであろう。

万が一殺されても淨慶がいる。影の実力者、淨慶の存在を家康の影武者程度に甘く見ていたかもしれない? 信長が淨慶の存在を影の実力者と知っていたのかは分からない。

淨慶は家康・惠新が織田信長に殺されるような事態が起きれば、直ぐに兵を西に上げて信長を討つ準備をしていたとも思われる。

影の忍者群団が万全な情報網を敷いて、信長対策をしていたと想像できる。家康の味方勢を京までの道中に配置していたことは想像できる当然のことである。

家康に味方する勢力は多い。伊賀、甲賀忍者集団だけではなく、一向宗門徒らである。この頃は既に本多正信が徳川家に仕えていたと思われる。

信長訪問時に、家康の「西に兵を上げる準備をしておけ!」との手紙が、臨戦態勢にあったことをうかがわせる。家康・惠新は死を覚悟の囮になったのかもしれない。

信長が徳川の実力者・淨慶を知っていたとしたら、安土城訪問に淨慶がいなかったことが激怒の要因かもしれない。信長にすれば、皆殺しの画策が敗れたからである。

信長に命を狙われた徳川勢と家康の確執を知った光秀が、信長を殺すチャンスと見た可能性はある。神をも怖れぬ信長に、天皇制の破壊、秦一族の弾圧に反発した可能性は高い。「志能備の決断!」である。

徳川は光秀の敵ではないと確信したのではないか? 光秀が信長を討っても、徳川には攻撃されないと確信していたのかもしれない。   

 

惠新の疑問点

惠新は松平家の跡取であった可能性もある。竹千代は於大の子で双子だった可能性もあり、表向きは側室のお久の子となっている。

後継者争いの要因になるので一人は僧侶にしたとの事で、惠新が存在するが、人質に出された竹千代(元康)が死去した場合は松平家の後継者は惠新となる。意図的に僧侶の身分にして温存されたのかもしれない!

下記に二人の元信(竹千代)が存在したことになる。惠新も松平次郎三郎元信と名乗った?かもしれない。

於大の子で本流の元康は1555年に松平次郎三郎元信と名乗り、今川にて元服する。 

恵新の母・お久が書いたとする手紙が存在する。弘治二年は1556年の手紙である。

「大仙寺寄進状、前にまいらせ候を、人に御盗まれ候よし、かねて三郎(元信)寄進状を参らせ候。判の事は、未だ何方へも、かようの事にせられ候まま、我々が御判を押して参らせ候。何時もかようの事に判をいたし候はん時、この寄進状にも似せて参らせ候へく候。前の御盗まれ候にも、三文字の判は候ましく候。前の寄進状いたし候物は、盗人にて候へく候。その為にわが身一筆示しいらせ候。返す返す大仙寺の事、道幹(広忠)にも、今の三郎(元信)にも、我々使い申して参らせ候。この寺は、我々が寺の事にて候まま、いつかたのいろこいもあるまじく候。 弘治二年丙辰六月甘四日 大仙寺 俊恵蔵主へ 参る しんさう

この文書は、元信の母親が書いたとされる文書なのであるが、現在では、しんさうは、家康の父とされる広忠の側室である久子という人物である事が確定している。しんさう(久子)の息子の元信とは、竹千代の改名した元信ではない事になってしまう。。。  於大の手紙ではないとの事!久子の子は恵新である。

※ 二人の元信の存在である。 人質に出てる竹千代と同じくして、恵新(僧侶)は松平家の次郎三郎元信を名のっていた可能性もある。
恵新(双子?)は、今川の人質となっている元信(元康)の死去に備えた松平家の継承者として温存されていた可能性が高い。
広忠の側室、久子の息子?は恵新であり、元康の影武者となった次郎三郎元信でもある。元康(家康)の影武者役は、恵新、勘六、浄慶だったと思われる。

竹千代は双子だった? 今川に人質に出された於大の子・元康と、寺に預けられたお久の子・恵新だった可能性はある。

広忠の側室、久子の息子も元信で、於大の息子も元信で2人存在する。元康と恵新は双子で於大の子だった可能性もあり、於大は恵新一人を連れて離縁となり、側室だった久子と母の源応尼に恵新を預けた可能性もある。家康は双子だった?

恵新は元康の影武者であったとしても、元来、血筋的には松平家の後継者となれる存在であり、石川数正は知っていたということだろう。

 

19日

神君伊賀越えの解

家康一行は堺からの脱出に船で海路を選択しなかったのはなぜか?
それは信長による家康暗殺計画があったからだと推測できる。

猫撫で声で家康を安土城に呼び出し、安全だから少数の側近のみで来訪するように条件を付け、家康の信長に対する不安と信頼を天秤にかけた。
家康は信頼の証を建てる為、少数の側近のみで信長訪問に応じたのである。

家康・影武者淨慶は、元々は百戦錬磨の山賊群団の頭である。信長に覚られぬように影の警護部隊を配置して、万全の態勢での信長訪問であったと推測できる。丸腰で応じるような馬鹿ではない!
信長の家康一行皆殺しの暗殺計画はあったということだろう。

信長は、徳川家の重鎮を一網打尽に討ち取る策略であったが、その一行には、実力者たる影武者・淨慶がいなかったという事だろう。淨慶は影の群団と別行動をしていたと推測する。
信長は、安土城で毒殺を企て、次に堺での暗殺を謀り、最後に本能寺での暗殺を企ていたと思われる。

信長は家康に堺見物をしていくように強く進言した。この意図は何なんだったのか?
それは、袋のネズミにして暗殺する計略もあったが、信長自慢の鉄甲船群団等の強大な水軍力を見せたかったからでもある。
本能寺の変が起こった6月2日の時点では、堺の港は織田勢の四国征伐をひかえた九鬼嘉隆の鉄甲船9隻及び志摩・鳥羽水軍に紀伊海賊100艇が待機している状態であったという。
織田水軍の強大な力を見せつけ、家康を震撼させ、絶対に逆らわないように服従させる目的もあった。家康暗殺が失敗しても、信長に完服させる目的があった。

堺の港は軍船で埋め尽くされ、商船が入港できないと、商人が嘆いていたと云われる。織田に命を狙われているのなら、堺から船で脱出することは危険で避けるほかなく、家康一行は三河まで安全に航行できる港を目指して、山越えの陸路を選択せざるを得なかった。

家康が長く京都に留まっていたのは、堺の状況を調査して安全性を見ていたとも思われ、堺で袋のネズミになることを恐れていた可能性もある。家康にとって堺は危険地帯であった。

家康の別動隊、淨慶は影の群団と共に、信長の行動を逐次監視していた筈であり、信長一行の近辺で活動していた筈である。したがって、本能寺の変はいち早く察知して、いち早く三河に帰ったと推測できる。

堺の家康一行に「本能寺の変」を本多忠勝が知らせに走ったということだろう 家康・恵新一行が「神君伊賀越え」の苦労話になった。

20日

「本能寺の変」を考察する

何故!光秀は信長を殺したのか?が議論されている。 

歴史研究家は古書に記載されている内容にこだわり、真相解明をしようとしているが、それでは真相解明には至らない筈である。書かれたものは虚飾されているものが多い。

「殺すか、殺されるか」の究極の選択に追い込まれた時、「やられる前に殺る!」 これが生き残る為の究極の選択である。

光秀は信長の腹心であり、信長の為に全力を尽くして仕えてきた忠臣であるが、家康暗殺計画を信長から命ぜられたときに、信長に対する恐怖心と不信感が募ったと思われる。

四国の長曾我部討伐問題では、光秀の親しい親類縁者等を裏切るような事を余儀なくされ、秦一族の義に反する状態に追い込まれた。そして、信長に反目し毛利に匿われている足利義昭は光秀の主君でもある。その毛利攻めも命令された。光秀は天皇家を守るために諜報活動をしてきた秦一族の「志能備」である。神の末裔と考える信長が、天皇制を軽視して破壊し、自らが王(神)となる強い意思を危惧していた。

「このまま信長に従っていて良いのだろうか? いずれは俺も殺されるのかも?」 光秀の心の呟きである。

「窮鼠 猫を咬む」はこの様な絶体絶命に追い込まれた時に起きる、一か八かの反抗である。「殺すか、殺されるか」の究極の選択は目の前のチャンスは逃さない。

家康を暗殺する信長の汚さ、利用するだけ利用して、邪魔な存在になれば非情に切り捨てる。延暦寺、本願寺、一向宗、伊賀郷士忍者集団、四国攻め、そして足利義昭排除、天皇、公家制の破壊を目論む信長の強靭な考えに反目したのである。

チャンスは目の前に生じた。

家康暗殺計画で信長は無防備を演じた。光秀がいれば守れると考えたのであろう 光秀が反逆して信長の命を脅かす存在とは考えもしないほど信頼していた?見くびっていた!とも思われる。

家康が暗殺を警戒しないように、自らが無防備となり、家康にも近臣のみの少人数で安土城へ来訪するようにしかけた。そして、家康が来訪すると、光秀に毛利攻めを指示して兵を集めさせ、家康を堺で袋攻めにし、暗殺する計画であったと推測する。堺港は織田勢の水軍で封鎖状態にし、逃げ道を塞いでいた。本能寺に集結させた光秀軍で堺の家康を包囲し、皆殺しにする悪略であったと推測する。家康に堺見物を盛んに進めた信長の意図が読める。

しかし、光秀はこの時決断をした。光秀に天下取りの野望など無い! 光秀の描く天下国家の姿を考えた末、信長の暗殺を決断したのである。天皇家を守る「志能備」の調略かも

光秀は天下取りを夢見る男ではない! 参謀タイプの知恵ものである。忠義心の強い人間でもある。義に重い人間は義に命を捨てる。光秀は信念の人である。

正に、お前は信念で死ねるか!である。 光秀は義を踏み千切る信長を見限った! 自らの手で信長と刺し違いを覚悟したのである。義に重い人間の究極の決断である。

信長は海外に脱出して生き延びたという説もある。真実なら、光秀が海外追放した可能性もある。負け犬となった孤独な独裁者に再起は無い!

黒人の家来・弥助は生き延びている。信長と共に海外追放となったか? バチカンか?

『イエズス会日本年報』によると、信長の家来・弥助(黒奴)が、信長の死後、明智の家臣に降参して囚われたが、光秀は「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑せず、「インドのパードレの聖堂に置け」と言ったので、南蛮寺に送られて一命を取り留めた。南蛮寺に預けられて以降、弥助の消息については、史料に記されておらず、全く分かっていない。

信長はイエズス会の手引でヨーロッパへ渡ったという説もある。バチカンで信長に似た日本人が居たとの話もある。光秀が信長を国外追放に処したのか?

 

「織田信長の莫大な財宝の行くへ」

安土城に保管されていた織田信長の莫大な財宝は、明智光秀がその部下達に分け与え、京都の朝廷・貴族・南禅寺・大徳寺・禅宗の五山等の有力寺院ならびに、市中の有力者たちにばら撒いてしまった事が種々の史料によって明らかにされている。『イエズス会日本年報 上 新異国叢書 』より

※ 光秀は朝臣、財政難に苦しむ天皇・公家らを助けた。

天下取りを目指す光秀なら、莫大な財宝をばら撒いてしまうなんて考えられない。倒産した企業が資産をばら撒いて清算しているようなものである。貴重な軍資金をばら撒き必要としない=天下取りはしないとの事ではないか?

信長の莫大な財宝をそのままにすれば、信長勢の軍資金になってしまう。早々にばら撒いて散財したということだろう。安土城に籠る選択もしなかった。

光秀の目的は信長の排除であり、光秀自身の天下取りの野望ではない! 信長を殺しても、国外追放しても目的は達成される。光秀自身も身を隠し、世捨て人となった。

 

光秀の捨て身の決断!

本能寺において「窮鼠 猫を咬む」「殺すか、殺されるか!」の究極のチャンスが訪れた。信長親子を確実に殺せるチャンスである。近隣には信長を守る軍団はいない。秀吉は毛利と戦っている。毛利には足利義昭が居る。直ぐに秀吉が戻れる筈もなく、毛利が光秀の敵にはならない。信長親子を殺しても家康が光秀に兵を向ける事も無いと見切ったのであろう。家康とは信頼関係があり、後世を任せる考えもあったのではないか?信長以外には、天皇制を覆すような危険人物はいない。誰が天下人になっても天下泰平の世になると決断したのではないか? 自らを捨て石にした光秀の決断である。

三日天下の所以は、光秀には天下取りの野望など無かったからであり、信長を排除した後は、足利義昭の下に幕府の再編成をする意図であったとも思われる。秀吉との戦いに敗れた後は、早々に身を隠し、世捨て人となり、親子(生きていた?)共々僧侶となって、家康・淨慶のブレーンになったと推測する。天海僧正伝説である

 

明智光秀が「秦氏・志能備」の後裔なら、姿を変えて生きている。

1582年6月13日に、光秀と子の光慶が同日に死んだことになっている。二人が生き延びて天海僧正になったとも考えられる。108歳で没した長寿にも説明が付く。

『明智軍記』によると、光慶は山崎の戦いで光秀が敗死した同日に亀山城で病死したとあるがおかしい?

岸和田伝説
本徳寺を開いた南国和尚は光秀の実子で、父・光秀が討たれた後でひっそりと落ちのびて京都の妙心寺で僧侶になった。その後、貝塚にある鳥羽村の海雲寺で父・光秀の肖像画を描き、位牌も用意して供養した。この海雲寺を岸和田に移転したのが今の本徳寺である。」
光慶が光秀を目の前にして、光秀の肖像画を描いたとの話も有り、光慶は死んでおらず、二人で妙心寺に落ち伸びたとも考えられる。

本徳寺には位牌があり、位牌には「鳳岳院殿輝雲道琇大禅定門」と書かれ、肖像画には「輝雲道琇禅定門肖像賛」と書かれおり、光秀の位牌と肖像画と云われる、書いたのが光秀の息子・光慶であるとされている。

本徳寺(大阪府岸和田市)の由緒は、寺の開祖が光秀の息子・明智光慶(あけちみつよし)。
京都の臨済宗妙心寺派の大本山である妙心寺の末寺。この寺の開祖が南国梵桂(なんごくぼんけい)という安土桃山時代の僧侶で、光秀の子・明智光慶である。

 

21日

明智光秀の反乱と知った信長の最後の言葉「是非に及ばず!」 この言葉の意味が信長の完全敗北を語っている。

将棋で言えば詰んで放駒である。策に溺れて自らが詰んでしまった。信長の落とし穴は唯一、光秀の反逆である。自らを無防備にして家康をおびき出し、家康をしとめる計略が光秀の反逆の引き金となってしまった。信長は読み違えて自らの墓穴を掘ってしまった。信長の大誤算で読み違いである!

柴田勝家や秀吉だったら裏切りはなかったかもしれない。しかし、光秀以外の家来では家康の警戒心を解くことはできない、公家らを相手に催し物をし油断させ、太平を甘受する雰囲気も出せない。家康をおびき出すには光秀が必要だった。信長は、まさか光秀が反逆して自らの命を取りに来るとは思わなかったのだろう。

信長は光秀の心を読みきれなかった。信義に重い人間の生き様を理解できなかったのだろう。信長は恐怖心で人間を御することができると信じていた。光秀と言う人物像を見抜けなかった、策に溺れて知略戦に完敗したのである。敗軍の将 兵を語らず!「是非に及ばず!」

光秀の生き様を信長は見通せなかった。それが信長の誤算を生んだ、信長は恐怖で家臣を押え込む独裁者である。

ミスをすれば切り捨てられる、排除される。手柄を建てれば一気に取り立てられる。出世するためには秀吉のような働きと絶対的な忠誠心を示さなければ信頼されない。命が惜しければ、絶対的な服従を示さなければ近臣になれない恐怖の独裁者だった。家臣は一様に絶対的な服従を示した。

しかし、光秀は違った。足利義昭の家臣であった。公卿宗との繋がりもあり、信長の社交戦略では必要不可欠の人物で、派遣社員の採用から正社員に取りたてたような家臣である。仕事もできる知略化だから近臣としたが、足利との二股家臣である。絶対服従の家臣とすべく調教を試みたが、光秀を恐怖心で押え込むことはできなかったのである。

光秀は「志能備」の一族、絶対君主は天皇であり、天皇制を維持するための諜報工作員である。信念の人でもあり、金や脅しで魂は売らない! たとえ相手が信長たりとも魂は売らない! 「自らの信義を通す為なら命を捨てる」そのような人物であることを信長は見抜けなかった。信長のミスである。「是非に及ばず!」

信長は飼い犬に手を噛まれたのではない! 光秀を、自分に絶対服従する飼い犬と思ってしまったが、レンタルしてきた警察犬であり、害をなす者に噛みつく調教をされた警察犬であることを見落とした。強靭な精神を宿した「志能備」の一族である。

光秀は、恐怖に屈する犬ではない! 信長の大誤算である。恐怖支配では御せない人間が「信義の人」信念で命を捨てられる人物である。信長の読み違い、完敗である。「是非に及ばず!」

 

『叡山焼き討ち』

代々延暦寺の天台座主(てんだいざす)は皇族・公家衆から出る事になっていた。延暦寺は国家鎮護の役割とともに朝廷勢力の一翼を担う存在であった。織田信長にとって、延暦寺の焼き討ち・破壊は、正親町帝へ衝撃を与えることでもあった。
1570年に天台座主に就任した『覺恕(かくじょ)』は、後奈良天皇の第二皇子で母は伊予の局である。

明智光秀は、『叡山焼き討ち』をしようとする魔王織田信長を必死で諫止しようとしていたが聞き入れられず、手柄をたて功績を認めてもらうチャンスでもあったので、光秀が主導して『叡山焼き討ち』を成功させた。

光秀は信長から『叡山焼き討ち』の功労によって志賀郡の領地を与えられ、ここに坂本城を築城して織田家中で初めて『一国一城』の主「大名」になった。

フロイスの明智光秀像  明智光秀は狡猾で冷淡な人物

「彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた熟練の士を使いこなしていた。」

※「傭兵・志能備」の能力 
傭兵は、たとえ仲間同志であっても、置かれた立場によっては戦わなければならない。非情の掟である。

 

『信長公記 巻四 叡山御退治の事』    是非に及ばず
御前にて僧侶らを、信長は容赦なくどんどん首を切らせて目も当てられぬ惨状で、数千の遺体が散らばり悲惨な状況である。。。

「御前へ参り、悪僧の儀は是非に及ばず、是れは御扶けなされ候へと、声々に申し上げ候と雖も、中々御許容なく、一々に頸を打ち落され、目も当てられぬ有様なり。数千の屍算を乱し、哀れなる仕合せなり。年来の胸朦を散ぜられ訖んぬ。」。。。信長の惨虐姓

明智光秀は、京都在住で足利将軍を支えた幕府奉公衆土岐一族の内、明智頼高(あけち よりたか)系の一族で京都より急遽美濃に下向した家族に、美濃で生れた人物の可能性が高いと云われている。秦氏である。

1568年の足利義昭・織田信長の上洛以前に、明智光秀は幕府軍(足利将軍)として浅井氏と戦っていたことを示す『米田家文書』で記載された「明智光秀の田中城籠城記事」がある。

 

『本能寺の変』の時に明智光秀が、織田信忠の逃げ込んだ堅牢なはずの「二条御所」を、簡単に落城させることが出来たのはなぜ?

光秀軍・反乱軍は、隣の近衛邸の屋根にあがり、二条御所を見下ろして、弓鉄炮を打ち込み、御所内のお味方に多数の死傷者が出て、徐々に全滅した。反乱軍は二条御所に押し入り建物に放火した。との記述もあり、近衛前久が信長暗殺に協力したと疑われている。

「二条新御所の隣の敷地は、近衛前久卿の屋敷であり、前久は反乱軍の兵士を屋敷に誘きいれて、二条新御所に面した建物の屋根から、御所内の織田信忠一行を銃で射殺するのに便宜を図ったととの事。」
つまり、この謀叛『本能寺の変』に近衛前久が深くかかわっているのではないかと云われる。

光秀は朝臣である。天皇家の為に働く「諜報活動員・志能備」である。


「建武の新政」
1333年―1336年の後醍醐天皇による公家一統政治。 正中の変・元弘の乱を経て,護良(もりよし)親王や楠木正成らの活躍で鎌倉幕府を倒し,天皇独裁の官僚国家の樹立を企図,摂政・関白の廃止,雑訴決断所以下の部局の新設,国司・守護併設などの施策を行った。 

「南北朝時代の合戦」
南北朝時代は1336年(建武3年)から、室町幕府3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)によって南北朝合一がなされた1392年(明徳3年)までの約56年間を指します。

後醍醐天皇は、足利尊氏、新田義貞(源氏)ら武士の助けを借りて鎌倉幕府を倒したのち、天皇中心の政治「建武の新政」を始めます。しかし、建武の新政は公家を重視し、武士をないがしろにした政治であったことから、武士達は不満を持ちました。
そこで足利尊氏は後醍醐天皇(南朝)を朝廷のある京都から追放。1336年(建武3年)に光明天皇(北朝)を擁立し、1338年(建武5年)に室町幕府を開きます。
これに対し、後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県吉野郡)で天皇を名乗り続けていました。天皇の南北朝合一がなされたのは1392年。

後醍醐天皇(南朝)を支持し、敗者となった新田源氏らの後裔は一族の再興を目指して、足利幕府打倒の為に戦国時代まで活動した。

応仁の乱
応仁元(1467)年から文明9(1477)年までの11年間,管領細川勝元の東軍と山名宗全(やまなそうぜん)の西軍が京都で戦った内乱。天皇家の経済的弱体


「秦氏・光秀・服部・世阿弥・大久保長安・家康・新田源氏の繋がり」

世阿弥の完成者)
は室町時代に観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)という父子により大成されたと伝えられています。世阿弥は古代ユダヤ人・秦氏です。
世阿弥の祖父は伊賀・服部元成、祖母は南朝軍・楠木正成の姉か妹。忍びの者(志能備)の能楽者。北朝守護幕府の反体制派として流刑された。

家康の重鎮であった大久保長安(元武田家臣)の父は猿楽師(能楽者)
長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。大蔵信安・大蔵流猿楽師の創始者(秦氏の出身・忍びの者・志能備)

能の中心にいる人は、宗家です。世阿弥の宗家。他の血筋とは結婚をしません。これがずっと続いているわけです。650年間、世阿弥の子孫は世阿弥の子孫なのです。歌舞伎の中心の人は、他の人とは結婚しません。これも秦氏なのです。かつて河原乞食と言われた人たちで、歌舞伎の人は秦氏なのです。敗者となり追放されたので、自分たちの名前を変え色々な方法で隠してきました。 ※ 河原乞食・ささら者・源応尼・於大・ささら者の頭淨慶(家康)と繋がる。

明智光秀ゆかりの丹波をひっくり返すと、波丹・ハタ(秦)になり、丹波は秦氏の巣窟です。

島津は秦氏です。四国を制覇した、長曾我部元親も秦氏です。
尊王倒幕派の天誅組は大和挙兵を謀ったが、吉野山中鷲家口にて決死的斬り込みを敢行して壊滅した。天誅組の十津川の郷士は百姓でも、武士。先祖以来ずっと勤皇で天皇(南朝)を崇めてきた。これも秦氏一族です。
南北朝の南朝は古代ユダヤ人(秦氏の出身)です。聖徳太子を助けた人は、秦河勝です。
聖徳太子が亡くなると、全て一族は抹殺されました。聖徳太子と一緒にいた秦一族も抹殺されて、一部は逃れて地方に散って身を隠しました。「忍びの者・志能備」です。

「藤原の貴族社会」を倒したのは源氏の源頼朝で秦氏です。丹波・波多野氏、薩摩・島津氏、四国・長宗我部氏・明智光秀等も秦氏の血族です。

秦氏は景教徒・古代ユダヤ人。
秦氏一族は技術者集団  養蚕、機織、金工、土木技術、鉱山(金、銀、銅等)開発等々。
太秦、広隆寺の「牛祭り」、木島坐天照御魂神社・蚕の社の「三柱鳥居」と「元糺の池」、「大秦景教流行中国碑」、平安京(エル・シャライム=エルサレム)、八坂(ヤサカ)=磐境(イヤサカ)=「ヤ(YA)ーサカ」(神)。環状列石スキタイ・東北騎馬軍団兵法・源義経等々の関連。

「鎌倉幕府成立・1192年」は、藤原氏たち貴族と同じユダヤ民族の下層階級の源氏が、藤原王国を倒したもの。「源氏とは、貴族の土地を守っていた武士・傭兵です
貴族(藤原氏)に長年虐げられてきた下層階級の源氏が、武器を手に取って日本を引くリ返し(源平合戦)、天皇の下に、日本を支配し続けてきたのが武家社会です。天皇家にルーツを持ち、天皇に仕える武官であった武家は天皇を超えることはできません。  

独裁者・信長であっても!

 

光秀の娘・細川ガラシャ 辞世の句

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」   光秀の 三日天下や 是非に及ばず


家康は影武者だった? 足利源氏を倒し、新田源氏が天下を取る、服部忍者・正徳大使の「志能備」秦氏の末裔との共闘である。3

2023年03月09日 12時47分24秒 | 歴史 戦国時代 徳川家康 織田信長 服部半蔵 新田源氏 武田信玄 八王子千人同心

徳川家康の謎  3

家康は影武者だった? 足利源氏を倒し、新田源氏が天下を取る、服部忍者・正徳大使の「志能備」秦氏の末裔との共闘である。3

天海僧正は光秀だった! この可能性は高い! 光秀は天皇家に仕える諜報員・志能備であった可能性が高い。

光秀と世良田二郎三郎元信(家康)と春日野局の関係を追って行くと秦一族に繋がる。秦一族は聖徳太子の要請で組織された諜報機関である。

 

本徳寺がある岸和田市には、こんな伝説が残っています。(本徳寺は妙心寺の末寺

「本徳寺を開いた南国和尚は光秀の実子で、父・光秀が討たれた後でひっそりと落ちのびて京都の妙心寺で僧侶になった。その後、貝塚にある鳥羽村の海雲寺で父・光秀の肖像画を描き、位牌も用意して供養した。この海雲寺を岸和田に移転したのが今の本徳寺である。」
岸和田の地では、古くからこのように昔話として本徳寺の由緒が伝えられてきたようです。

「光秀唯一の肖像画 ~光秀と本徳寺とのつながり」
東滋実  2019/12/16のネット記事より

光秀を目の前にして、光秀の肖像画を描いたとの話も有り、二人で妙心寺に落ち伸びたとも考えられる。

 

妙心寺 開基(創立者)は花園天皇。(本徳寺は妙心寺の末寺)

花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。 妙心寺は、大徳寺(龍寶山大德禪寺)とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。 
法嗣の悟渓宗頓に帰依していた利貞尼は、関白一条兼良女で美濃国加納城主斎藤妙純の室である。
妙心寺住職の妹の慈徳院が織田信長の嫡男・織田信忠の乳母となり、その後に信長の側室になり、六女の三の丸殿(豊臣秀吉の側室)を儲けた。本能寺の変で信長が討たれると、信長の妹のお市の方が信長の百箇日法要を妙心寺で執り行った。

利貞尼は、美濃の斎藤一族・斎藤 妙純( 斎藤 利国)の妻・野間入道の娘(甘露寺親長の養女) 利貞尼の娘は朝倉貞景室。

妙心寺は花園天皇開基であり、朝臣と思える明智光秀との関わり合いが深い。

花園天皇

延慶元年(1308年)8月25日、大覚寺統の先帝後二条天皇が急死したために翌26日に12歳で践祚、11月16日に即位。在位の前半は父の伏見上皇が、後半は兄の後伏見上皇が院政を布いた。文保2年(1318年)2月、大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位。

南北朝時代 においては北朝側に付き、光厳上皇率いる北朝を支えた。

禅宗の信仰に傾倒し、建武2年(1335年)11月、円観について出家、法名を遍行と称した。宗峰妙超と関山慧玄を師とし、暦応5年(1342年)1月には仁和寺の花園御所を寺に改めて妙心寺を開基している。                          

明智光秀は北朝の朝臣、諜報工作員「志能備」である。生きているのは当然、妙心寺は光秀親子を匿った。

 

聖徳太子の要請で組織された諜報機関は3団体が確認できる。

「志能備」が忍びのルーツで、聖徳大使の時代からの諜報活動(秦氏族)

聖徳太子が情報収集に使ったとされる三人の人物とその配下の事、大和朝廷の正規軍と陰陽修験の諜報工作組織は互いに影響し合っている。
(聖徳太子の要請で作った諜報工作組織)
大伴氏族・大伴細人「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群団。
秦氏族(有力部族)の秦河勝(秦河勝・香具師・神農行商の祖)とする郡団。
秦氏流服部氏族・伊賀の国人(伊賀流忍術の祖)の伊賀忍術者群団

忍術者の祖と言われる服部氏と香具師(かうぐし)の祖とされる河勝氏は、元々は機織(はたお)りの大豪族・秦氏の流れ、秦河勝(はたのかわかつ)の後裔である。
(秦氏はユダヤ、ペルシャ人で平家の祖とも言われる)

秦河勝氏の香具師は、矢師・野士・弥四・薬師(神農)・八師とも書き、薬の行商と言われ、また的屋(てきや)とも言う。
祭りを盛り上げる伝統をもった露店商であり、諸国を周る職業である。情報収集の役目を負っていたと思われる。諜報活動をしていた。

「文献には、秦氏の河勝氏が同じく秦氏の服部氏と共に聖徳太子の「諜報活動に任じていた」との記述がある。」

身分の低いささら者((賤民・忍び等)等の流浪の民に身を隠して諜報工作組織として活動していた可能性が高い。武家社会が公家社会を壊して、天皇制を崩壊させることを防ぐための諜報工作活動である。

武家社会が天皇制を崩壊させられなかった、壊そうとも考えなかった、武家社会は、先祖は天皇家であるとの血筋を尊重したからと考えるが、天皇に取って代わろうとする将軍が生まれても不思議ではない。

武家社会をコントロールするためには、天皇家の諜報工作組織は必要であり、天皇制を支える将軍の存在を維持しなければならない。

天皇制を守る公家社会の存続は、天皇制の下に武家社会が存続することであり、大和朝廷の正規軍としての認識が不可欠だった。天皇を排除する将軍の存在は絶対に許されない事だったのだろう。

天皇家を脅かしたのは織田信長だったのだろう。織田家は忌部の末裔である。天皇家の祭事を行なってきた一族であり、天皇家とは同格と考えていたのかもしれない。天皇を神格化して考えなかったかもしれない。天皇家にとっては危険な存在となっていたのだろう。

先祖は劔神社に代々奉仕の神官忌部氏である。

織田信長を頂点とする織田の一族のルーツは,ここ越前国織田おた庄にある劔神社の神官を務めた 忌部いんべ氏であるという。越前の守護大名・斯波しば氏によって越後の守護代に任じられ,後に斯波氏に代って尾張の守護代も務めた。

「忌部」(いんべ)とは、古代よりヤマト王権の宮廷祭祀・祭具製作・宮殿造営を掌った名門氏族であった。 「忌部」は穢れを忌む集団という意味。 「忌」は、慎みをもって神事で穢れを取り去り、身を清めることをいう。

忌部氏のち斎部氏(いんべうじ)は、古代朝廷における祭祀を担った氏族

天岩戸の神話において天太玉命(あめのふとだまのみこと)と天児屋命(あめのこやねのみこと)が祭祀関係に携わったことが記され、両神は天孫降臨においてもともに付き従っている。

そのうち天太玉命が忌部氏の祖、天児屋命が中臣氏の祖とされ、両氏は記紀編纂当時の朝廷の祭祀を司っていた。
天太玉命は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子  忌部氏のち斎部氏(いんべうじ)は、高皇産霊尊の子の天太玉命の後裔

織田氏(桓武平氏を称するが、その祖である平親真は忌部氏という説がある)信長は神の子となる。

 

天皇家の争いは南北朝の殺し合いをしている。南朝の後醍醐天皇を支持した新田源氏が滅んだ争いだが、天皇たりとも神とは捉えずに殺しているのである。信長が天皇家を滅ぼしてはならない神とは捉えていないかもしれない?天皇家にとっては危険な人物が神をも恐れぬ信長である。

 

嘉吉の変(かきつのへん)1441年の守護赤松満祐による6代将軍足利義教の殺害事件。赤松家失脚

禁闕の変(きんけつのへん)は、1443年、京都で起こった後花園天皇の禁闕(皇居内裏)への襲撃事件吉野朝廷(南朝)復興を唱える勢力(後南朝)が御所に乱入し、三種の神器のうち剣璽の二つを奪い比叡山へ逃れたが、鎮圧された。幕府は宝剣の奪還には成功したが、神璽はそのまま奪い去られた。

長禄の変(ちょうろくのへん)は、1457年に、赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である自天王と忠義王(後南朝の征夷大将軍)の兄弟を討って神璽を持ち去った事件。ただし、赤松氏の遺臣らは、この際、一度は神璽の奪取に成功するものの、吉野の郷民に奪い返されてしまい、翌年3月、改めて奪回作戦を決行している。

神璽を奪回した暁には次郎法師丸(後の赤松政則)を家督として赤松家の再興を認めるという後花園天皇の綸旨と足利義政の御内書を得ていた。

その後、神璽は1457年8月30日には京へと戻り、朝廷へ返還された。室町幕府は後南朝によって約15年もの間、京都から持ち去られていた神璽の奪回成功の功績を認め、赤松氏の再興を許し、赤松政則に家督を相続させた。」

上記のように、南朝の皇胤である自天王と忠義王(後南朝の征夷大将軍)の兄弟が殺されている。守護赤松満祐による6代将軍足利義教の殺害事件も起きている。

神をも恐れぬ人物が将軍となれば、天皇家も公家社会も崩壊させられてしまう。信長の存在は天皇家にとって大きな恐怖である。

本能寺の変は「信長の暗殺」であり、天皇家に帰依する、諜報工作組織(志能備)の活動による暗殺であったと考えられる。

明智光秀は天皇家の諜報工作組織(志能備)の一員であると考えられる。秦氏の末裔である。家臣の斎藤利三も秦氏の末裔である。したがって、その娘・斎藤福・春日局は秦氏の末裔である。天皇家に仕える一族であり、諜報工作活動をする志能備の一族である。

福は三条西公条の玄孫になる)

福(春日局)は母方の実家である稲葉家に引取られ、成人するまで美濃の清水城で過ごしたとみられ、
方の親戚に当たる三条西公国に養育された。」とある。

三条西 実条(さんじょうにし さねえだ、旧字体:三條西 實條 )は、公卿。内大臣・三条西公国の子。官位は従一位・右大臣。天正3年(1575年)、三条西公国の長男として誕生。翌年、叙爵。侍従に任ぜられる。慶長2年(1597年)参議となり公卿に列する。翌年従三位。

家光の乳母・斎藤福(春日局)は、父・斎藤利三が主君・明智光秀の起こした本能寺の変に従い、山崎の戦いに敗死した後、母方の親戚である公国に引き取られ三条西邸で養育された過去があり、実条とも幼少より親交が深かった。」

実条の義理の妹(猶妹)として縁組を行い、三条西家の女性の資格で参内し、後水尾天皇に拝謁を許されることとなった。

天皇家に仕える秦氏の一族である。織田信長との騒動となった長宗我部元親も同族である。(長宗我部氏第21代当主。幼名は弥三郎。土佐国岡豊城主国親の長男。秦氏を租) 母親は斎藤氏の娘(祥鳳玄陽)・斎藤利三の異父妹で、正確には石谷氏(室町幕府奉公衆)の娘ということになる。

利三の生母は明智光秀の叔母とされていることから、のちにこの関係を通じて光秀、そして信長と関係を持つに至った。
長宗我部元親は、山崎の戦いの後、斎藤利三の娘である福(春日局)を岡豊城でかくまったとされる。

同族の秦氏を租に持つ伊予国早川城主の秦備前守との親交が深かったとされている。天正の陣を終えた秦備前守は土佐国に逃れたとあり、秦備前守の家系図には長宗我部宮内小輔秦元親(長曽我部元親)と同姓となる長曽我部宮内小輔秦野備前守元宗との記述が残されてある。

秦氏を租とする一族の結束である。明智光秀は天皇家の諜報工作組織(志能備)の一員であると考えられ、一族を守り、天皇家の意向に従うなら「信長を殺す!」決断となる。

斎藤利三は信長に切腹を求められた可能性がある。明智光秀に仕える前は稲葉一鉄の家臣だった。

稲葉一鉄は家臣の引き抜きと怒り、稲葉は斎藤利三を返すように織田信長に訴えた。
信長は光秀に「斎藤を稲葉の元へ戻すように」と話すが、光秀が此れを拒否、それにより信長も怒ったという。
本能寺の変の5日前斎藤は切腹を命じられて、切腹を避けるため光秀を口説いたという話もある。

明智光秀は、暴君であり、秦氏一族を攻撃する信長に対して、天皇家、公家社会をも崩壊させる危険性を感じて見切ったという事だろう。神仏を恐れぬ、一向宗皆殺しの残虐さは、いずれ天皇家皆殺しにも繋がると決断して、信長暗殺は天命と捉えたと考える。

本能寺の変は「信長の暗殺」であり、天皇家に帰依する、根強い諜報工作組織(志能備)の連携活動による暗殺であったと考えられる。

そして、「信長の暗殺」は家康も知っていた。そして秀吉も知っていた。だから、光秀は生き延びた。そして天海僧正として家康と共にその後も活動した。家康の子・家光も従ったのである。

春日局は、従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比肩する位階となる、大出世をするのである。将軍の正室と同等である。春日局は家光の実母と思える。天皇家は知っていた。

 

1601年、家老を長年勤めた重臣・稲葉正成(林正成)が小早川家を出奔。調略が原因か?
稲葉正成は浪人へと転落、正成と福は、一時期美濃で半農生活をする。
1602年、関ヶ原の戦いから2年後に小早川秀秋は早世
秀秋は関白・豊臣秀次に次ぐ、豊臣家の継承権保持者秀吉の正室・北政所(高台院)の甥
徳川家康が主導して小早川家は改易。豊臣家の継承権保持者抹殺
徳川家康は、福に面識があったといわれ、乳母選任の過程で徳川家康が関与したとされる。
乳母に選ばれた福は、夫の稲葉正成とは離縁することになった。

関ヶ原の戦いの秀秋の離反については、家老の稲葉正成・平岡頼勝とその頼勝の親戚である東軍の黒田長政が中心となって調略が行われ、長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(高台院)様のために動いている」と書かれた連書状が現存。

福は小早川秀秋の寝返りに貢献して家康は勝利した。天海(光秀)の策略もある。「志能備」の諜報活動で福(春日局)と家康は蜜月関係だったと思える。家光の誕生は1604年である。

秦氏一族
霊亀元年(715年)、席田君邇近と新羅人74家の人々を美濃の国に移住させた。席田郡、大宝2年(702年)の美濃国加茂郡半布里(現在の富加町羽生)戸籍に古い渡来系氏族である秦人・秦人部の姓をもつ人々が多くみられる。(聖徳太子 在位 593年~622年 叔母・推古天皇 遣隋使)

 

家康(世良田二郎三郎元信)と福(春日局)の接点がある。

本能寺の変後、福(春日局)が後妻となった稲葉正成(小早川秀秋の家臣)は、関ヶ原の戦いにおいて、平岡頼勝と共に主君・小早川秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者であった。その後、福は正成と離縁して家光の乳母となる。

福を乳母にしたのは服部忍軍である。伊賀、甲賀忍者は秦氏の末裔であり、聖徳太子の時代から諜報工作活動を続けてきた「志能備」である。

新田源氏の末裔と秦氏の末裔、服部忍軍とが連携して諜報活動を展開し、地方の豪族を束ねて一大組織に作り上げていく、工作活動が組織的に行われていたと考えられる。

諜報員たる「くノ一」を送り込み、側室、正室の座につかせ、子を産むことで血縁を拡大することである。松平家はそのターゲットとなり、秦氏と新田源氏の血を引く徳川幕府となった。

福(春日局)が家光の乳母となる経緯が既に仕組まれたものである。

福は、将軍家の乳母へあがるため、夫の正成と離婚する形をとった。選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれているが、2代将軍・秀忠の正室・江の侍女である民部卿局の仲介で乳母となったともされる。また、福と家康は密会してたとの話があり、密接な関係だったようだ。(正室・江の侍女である民部卿局の仲介・服部くノ一?

秀忠の母は、鍛冶屋の娘おあい(後の西郷の局)、幼い頃から伊賀忍軍の上忍である「服部家」で育てられた「くノ一」である。民部卿局は服部忍軍で福(春日局)が家光の乳母となるように仕向けたものと思われる。家康は世良田二郎三郎元信であり、鍛冶屋の娘おあいとは既に関係していた。

3代将軍・家光1604年7月17日、徳川秀忠の次男として江戸城西の丸に生まれる。母は太閤豊臣秀吉の養女・達子(浅井長政の三女)。徳川家の世継であった父・秀忠には1601年に誕生した長男・長丸がいたが、既に早世していた為、家光は世子として扱われ、祖父・家康と同じ幼名竹千代を与えられた。誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三の娘である福(小早川家家臣稲葉正成室、後の春日局)が乳母となり、稲葉正勝・松平信綱・岡部永綱・水野光綱・永井直貞らの小姓が付けられる。」とある。

春日局の子・稲葉正勝は後に老中に就任、相模国小田原藩主となった。

秀忠の正室・小姫(織田信雄の子)継室・浅井江(織田信長の血筋・妹市の子)は織田の血筋が強すぎる。服部忍者の血も強いが、春日局の三条西公国の血筋には勝てない。長丸の死も含めて、忠長では3代将軍になれなかったということだろう。

三条家は七清華の一つで、摂関家に次ぐ家柄であり極官は太政大臣。分家の三条西家には、内大臣・三条西公国の子・三条西 実条がいる。血縁のある斎藤利三・春日局・光秀と繋がる。公卿の血筋

「秀忠の母・西郷の局・於愛」は、戸塚忠春(清和源氏、源八幡太郎義家の庶子)の子といわれるが、養父の服部正尚(伊賀忍者)の子の可能性も高い。公卿の血筋より劣る事になる。

三条家は、細川晴元正室、武田信玄室(三条の方)、本願寺・顕如の室(如春尼)、源応尼、家康の母・於大、春日局・光秀と血縁が繋がる公卿の名門である。

 

1589年の出来事 ・ 同年5月、秀忠の母・西郷局死す!の謎
1月29日 春日大社の鹿殺しの犯人を処刑
2月5日 東海地方の大地震で被害続出
3月9日 豊臣秀吉聚楽第の落書き犯を京の六条河原で処刑。尾藤道休(尾藤次郎右衛門入道道休)という人物が容疑者になった。
その者が本願寺内に逃げ込んだと言う事で、本願寺が犯人を匿っているという嫌疑を掛けることになる。
当時、本願寺に、石田三成と増田長盛らがやってきて、尾藤道休を匿ったとして本願寺に尾藤道休の引き渡しを迫り、本願寺顕如は翌日3月1日に尾藤道休と、匿った願得寺顕悟の2名を自害させ、その首を豊臣秀吉に差し出したと言う。

1589年5月、秀忠の母・西郷局の生涯は幕を閉じた。この時期の一致は本願寺事件との関わりがあったとも想像できる。西郷局は服部忍者である。

松平清康と源応尼(於富の方)の間の娘(於大の方・碓井姫・妙春尼)3娘がいる。
妙春尼は於大の方(家康の母)の妹?(細川晴元室?)家康はこの叔母に育てられた。
「妙春尼の姉に細川晴元室、武田信玄室(三条の方)がおり、姉二人とは15歳以上の年齢差があり、両者ともこの頃すでに嫁いでいた。」の記述あり。
妙春尼(芳春院・妙西尼と同一人物)1544年生。
芳春院は三河一向門徒の代表格、一揆後、家康は芳春院に対し三河門徒を赦免し、宗教活動の許可を通知した。岡崎市の上宮寺には、家康の叔母である妙春尼の墓がある。

教光院如春尼・1544年生~ 1598年没は本願寺第11世・顕如の室。
長姉の夫である細川晴元の養女となり、本願寺第10世・証如の子・茶々丸(顕如)と婚約
1557年、さらに六角義賢の猶子となり14歳で顕如と結婚、京から石山本願寺に輿入れした。翌年に15歳で長男・教如を産む。1577年に34歳で三男・准如を産む。
顕如の室・如春尼と芳春院(妙西尼・妙春尼)は同一人物で、源応尼の娘、於大の妹の可能性が高い。

於大は家康の母家康の妻は西郷局(秀忠の母)であり、顕如の妻・教光院如春尼とは義母の妹の関係になる。石山本願寺との関係が深い。
後に家康は顕如を支援して東本願寺(長男・教如)を建立した。家康と本願寺の関係が深いことが分かる。

 

※ 徳川家康の天下取りには、三条家と一向宗の繋がりが、強く連携して、戦乱の世に大きく影響を与えている。一向宗を支持してきた、石川源氏、新田源氏、服部一族も同様である。源応尼が源氏の一族であることは間違いがないだろう。そして、一向宗と戦った信長は消え、協力し合えた家康が天下人となれた。

 

尾張藩の編纂した諸資料には、

徳川家康と松平元康は別人で合戦したこともあるという文章や、守山崩れは祖父清康の時代ではなく元康の時代の話で、そのあと別人(この場合は徳川家康)が松平家を乗っ取ったという記述があるそうです。

 

松平元康(後の徳川家康)は、今川氏真に父の仇を討つように進言し、松平元康は織田・水野の軍勢と各地で戦った。

「1562年9月の戦い・石ケ瀬合戦」 二人の家康の戦う場面である。

「 松平勢の酒井忠次が八幡砦と佐脇砦の両砦を攻め、八幡砦の板倉弾正重定(今川方)らを討った。
戸田康重は二連木城に、牧野保成は牛久保城に逃げた。

今川勢は石ケ瀬の河原まで引く、岡崎の大将(松平元康)が待ち伏せていて、不意に討ってかかって来たので、板倉が率いて山岡へ向う。
権現様・家康(浄慶・世良田二郎三郎元信)は、成瀬八郎が対岸の山へ案内して逃げ隠れる。


『大成記』 『三河後風土記』 「贋系図作りの名人沢田源内書」より ネット情報転載

「なんともならぬな」。。。 後の影武者家康?

平岩七之助、石川四郎、大久保甚四郎と、残った数をかぞえながら世良田二郎三郎元信は肩を落して唸った。
なにしろ河原では百五十はいた頭数が、またしてもその半分に減っていた。

広瀬城の三宅光貞の軍勢は此方の棄て身の戦法に泡をくったものの、やがて対岸に岡崎兵がきているのに気づくと、後を委せて引あげていった。すると後を引きうけた。

岡崎城の松平元康の兵は、舟を集めて陸続と此方へおし渡ってきた。

二郎三郎の兵は、せっかく山へ逃げ込んだのに、またしてもすっかり包囲されてしまい、向こうは山狩りのような大きな環をつくって攻め登ってくる気配。

「ここへひとまず匿れ、木の実で餓えをしのぎながら立てこもろうとしたが、向こうが息もつかずに、こう押し寄せてくるのでは、なんともなりませぬな」

馬上から突かれた額のかすり傷を手拭で縛りつけた酒井浄賢が、さすがに閉口たれたような弱気を洩らした。

ただ年若な榊原小平太だけが、大神宮の護符を眉間にくくりつけた顔(榊原の兜)を突きだし、「なあに、これしきのこと‥‥大事をなすに当っては、何かと邪魔が入るは知れたこと。苦労せねば何事もならざるがこれ人の道」などと気ばっていいだした。 ※榊原康政か?1548年生13歳

そこで二郎三郎も大きくおなずき、
「とかく人の世というは、荷を背負って坂道を登って行くようなもの、片時なりと気をゆるせば転げ落ちてゆくというが‥‥ちいと今日は難儀にすぎたのう」溜息とも吐息ともつかぬものを洩らした。

なにしろ明け方までは、一兵も損せず三宅の四つ城を攻め意気軒昂だったのが、うっかり葭っ原の茂みで仮睡していたばかりに、このていたらく。

「人生はあざなえる縄のごとし‥‥と子供の頃に教わったことがあるが、朝までは凱旋将軍で今は敗戦の将。また何をかいわんやじゃのう」

すっかり疲れきった二郎三郎は顎をあげ、襟首を肩の間にねじこむようにして、次第に茜色に染まってゆく夕焼け空を仰いだ。

「なあに暗くなるまでの辛抱‥‥陽さえ落ちてしまえば、なんとか此処は切り抜けられ、中島砦へ戻れましょう。彼処まで戻れば今川義元本陣より持ってきた金銀の櫃もあるし、それに留守番の板倉弾正には二百の兵が預けてありまする」と、鳥居元忠父子がしきりに慰めをいった。

だが、さて暗くなっても、山をとりまいた岡崎兵は引あげるどころか、篝火をたいてぐるりと取り巻いたまま、すこしも包囲の手をゆるめようとはしない。
次の日も、じわじわ山へ攻め登ってきて、夜になっても引続き篝火をたいて見張っている。
だから山ごもりして三日目。あたりの野あけびの実や、若いどんぐりまで食いつぶしてしまった一同は、もはやなんともならなくなって、みなが、「このままで餓死するよりは、いっそ切り死したい」ということになった。

「済まぬ。俺のような年弱な者を、新田義貞公の裔というので名主(みょうしゅ)に立て、その采配に従ってくれたばっかりに、この思いもよらぬ土壇場」と、さすがに二郎三郎も一同に頭を下げ、「おれに縄をかけて向こうへつれてゆき、それで其方らは命乞いして、思い思いに散ったらどうか」とまで口にした。

しかし酒井浄賢は、喘ぐように咳払いをしてからそれに激しく首をふり、「岡崎衆が欲しがっていなさるは、おまえさまの命ではのうて拐された和子の方じゃ。
よって、その首をとったところで、ここから吾らを勘弁して、とき放ちなどは致すまい‥‥」言い切った。

「そうか。というて、せっかく手に入れたあの和子を岡崎へ召しあげられてしまっては、われらにはもはや夢も希望もないことになるな」これには榊原小平太も頭をもちあげて近寄り、「どうあっても、たとえ四つ這いになってでも中島砦へ戻らねば」いたって狼狽気味に、口にした。

「かったるい餓え腹をかかえて、ここで動けぬまま岡崎城の兵に殴り殺されるよりは、這っても転がっても、この囲みをぶち破って脱出せねばなるまいて‥‥」
他の者も、みな同意して、最後の気力をふり搾って、みな二郎三郎の許へいざりよってきた。

「よしッ、また此処におる人数が半減するかも知れぬが、こうと話がきまったからには、日没を合図に敵の手薄な方角をみつけ、何としてでもここから抜けでよう」

そこで砥げそうなざら石を探して、錆つきかけた槍の穂先や打ち刀の刃をてんでにこすってから、「そろそろ篝火をたく頃合いじゃ‥‥火と火の間を目標にして、山を降りてゆこうぞ」
まっ先に二郎三郎が槍を杖に立ちあがれば、「ああ‥‥この山も今宵限りなるか」 無念そうに成瀬八郎がすぐ後に続いた。

 ※成瀬正一?、1560年頃、松平氏を出奔して放浪、武田氏に仕える。その後、北条探査、徳川に復帰

しかし雑木林の茂みを抜け出た途端。

どうして見破られたのか、早々ともう岡崎兵が囲んできていて、「三河武者の腕前を教えてやろうかい」
「このくたばり損ないのやつらめ、逃げおおせると思いおってか」 

わあっとばかりに口々に喚きながら、槍を並べて一斉に突きかかってくる。しかし
これを、「おのれ邪魔だていたすか」

二郎三郎は、銀色にきらめく槍の林の中へ、手にした槍を右に左にまわしながら、これを薙ぎ倒して駆けこんでゆく。
そこで酒井浄賢を初め大久保甚四郎らなども、横から突きこんでくるのを、「えい、どけ」とばかり型っぱしから突きたて、刺しこみ、しまいには撲りつけながら、その後を走り抜け追いすがってゆく。※大窪党

だが、中島砦へ逃げてゆくものと見てとっていたのか、そちらの方角へ進むにつれて、次第に岡崎兵たちの壁は厚くなって、「これでは、とても突き破ってまで、もはや進めはできぬ」ということになった。

中島へ戻れないとなると、後は、掛塚へ行き、鍛冶屋平太の小屋へ戻るしかない。 ※服部忍者小屋
「よし、てんでに切り抜けえい。めぐり逢う所は掛塚ぞ」 

もうこうなっては一丸に塊ったままで、敵中突破はできなくなったから、「みな力の限りここを踏んばって、めいめいに脱出せいやい」と、

蘇芳を浴びたような成瀬八郎が血槍をふるって飛び出す後から、二郎三郎も返り血をあびた物凄い形相で、
「人間は一度死んだら二度とは死なぬ‥‥いいか、ここが男の死に場所ぞ」 ※成瀬は凄腕の忍者

がに股の身体をこまめに大頭をふりふり突きかかってゆく。初めは酒井浄賢や林藤介も側についていたが、もうこうなっては、てんでんばらばらになってしまって、群がる敵中へ一人ずつになって吸われるように消えこんでしまった。 ※林藤介一族・林正成・稲葉正成と繋がるのでは?

さて、この時の状況を、『大成記』には、「神君は辛うじて敵中を切り抜けられ給い、三州設樂郡長篠まで辿りつかれ、その地の郷民に頼み舟をもとめ、遠州掛塚の鍛冶の家に落ち着かせられしが、この間の御艱難御辛苦の程は、筆にも詞にもつくしがたい」とでている。


これだけ苦労して、それぞれが、さて、ようやくの思いで掛塚へちりぢりに戻りついたところ、「‥‥申訳ありませぬ」と板倉弾正がすでにきていて、二郎三郎をみると両手をついてあやまった。

「如何せしか」とびっくりして愕き尋ねると、「岡崎より松平大炊助好景(三河深溝城主)が攻めて参り、無念や中島砦は焼かれてしまい、岡の砦まで退がって防ぎましたが何ともならず宝飯郡左脇まで落ちのび、そこから此処まで逃げ戻りました」

当てにして戻ってきた中島砦の兵も、蔵ってあった金銀もすっかり失ったことを、口惜し涙にむせびつつ報告した。

『三河後風土記』という本は、よく史料と間違えられて引用されるものだが、元禄年間に、「贋系図作りの名人沢田源内」が書いたものだとは前述したが、しかし、その中にも、「板倉某の篭りし中島郷山砦に対し、岡崎より松平大炊助好景攻めきたり、よって板倉防ぎ切れずして岡の城へ逃ぐ、ここの支えきれず逃走」とあるから、まだまだ元禄時代までは、板倉内膳正の先祖のことも松平と徳川とが戦ったという事実もうすうす一般には知られていたものらしいことが判る。

さて、負けて中島砦から逃げ戻っていた板倉弾正を初め一同は、みなうなだれてしまい、しおれかえってしまっていた。この有様では、「これから何とするぞ‥‥」

さすがに二郎三郎も、げっそりした面持ちをみせ、大きな才槌頭を共にたれ、考えこんだ。
しかし酒井浄賢は、作り笑いであろうが、「ワッハッハ」と呵々大笑。げんなりした一同に向かい、

「閉口たれてはいかん。女ごは都合のよいことばかり考えて生きてゆくものじゃが、男はあべこべに、いつも困難を覚悟して辛酸を堪える所存で世に処してゆくものじゃろが‥‥」

一同を眺め回してから、元気づけた。そして、

「かくなる上は当ってくだけろ‥‥と申すではないか。追われ縮んでしまっては道はひらけぬ。思い切って突っ込んでゆくしかないわえ。男の世の中は、退いて匿れてしまうより、ぶつかってゆくしか方法もないでのう」と言い放った。

すると、「そうだ、われらには岡崎の若君という取っておきの奇貨がある。あれをもって切札となし、この難局を切りひらかん」榊原小平太が直ちに唸ってすぐさま同意した。※若君は信康

「この際は、それしかあるまい」そこで、二郎三郎も、決断をし、「母屋の鍛冶屋へゆき、あいに和子をつれてくるよう言うてこい」といいつけた。 ※「あい」はお愛・西郷局

ところが、逃げのびてきていた中島砦の兵が、「ここにおられました和子さまなら、当地より向こうが安全じゃろとの、あいさまのお言葉にて、中島へおつれ申しました」末座の方から申し出た。

だから二郎三郎は、(あいも女ごじゃな‥‥あれは俺が子ではなく松平元康の跡目と教え、よくわきまえておるはずなのに、最初に怪しんだのが頭にこびりつき、己が手許へ置くのを嫌がって、さては留守中向こうへやってしまったのか)  ※既に、後の家康と西郷の局は夫婦仲
愕然としてしまい、「して、その和子は?」と、畳みかけるよう板倉弾正にせっついて聞いた。

※ あい(徳川秀忠の母・西郷の局・おあい) 幼い頃から伊賀忍軍の上忍である「服部家」で育てられたため、「くノ一」であるとも言われている。 成長してから家康の侍女となり、秀忠 を生んで側室となったが、38歳の若さで病死した。養父・服部正尚は、服部平蔵正信の長男で、伊賀忍者。

 

すると板倉弾正は、またしても両手だけでなく上半身まで放り出すようにして、「なんともお詫びのしようとてありませぬ」平あやまりに頭を下げ放しで答えた。

「えッ、では乱戦にまぎれ、幼いものを殺してしもうたのか」暗然として二郎三郎が息をのむと、「お命は別条ないものと思いまするが、宝飯郡佐脇から此処へ落ちのびてくる途中、敵の目をくらまさんと回り道して塩見坂を抜けてくる道すがら、遭遇した輩共に和子は奪われてござる」と答えた。

「では野伏せりの徒にか‥‥」ときけば、「田原城の戸田弾正の手の者といいおりました‥‥」 

※今川の人質・元康の子・信康(広忠の孫)が奪われた事件? ※戸田弾正の娘・真喜姫は広忠の継側

 

このやりとりを聞いていた榊原小平太は、「なんともならん‥‥」舌うちして、いまいましげに目くじらをたて、「うぬ、その責めをなんとしくさる」まだ頭を下げっ放しの板倉にくいつきそうにいった。

この時の咎めを板倉弾正はひどく気にし自責の念にかられ、のち、まっ先かけて討死した。

そこで信長殺しのあった天正十年六月の後。
家康は「香誉宗哲」を名のって出家していた弾正の末弟をみつけ出し、小田原合戦が済んで関東へ入国する際に家康は彼を伴ってゆき、まず千石を与えた。そして還俗させ、板倉勝重と名のらせ、関東代官、江戸町奉行につかせ、関ヶ原合戦後は一万六千六百石の知行を与えて京所司代にとりたてた。
そして、その長男が京所司代として有名な、三万八千石の板倉重宗。次男は島原の乱の時に征討使となって討死した一万五千石の板倉重昌なのである。

 

渥美半島の田原へ、これからおもむき、なにがなんでも和子を取り戻さんことには、われらの行末は、お先真っ暗じゃ」

一晩だけは屋根のある所で手足をのばして横になったものの、翌朝になると二郎三郎は、むっくり、あいの許から起きだして、納屋へ顔をだした。
だが追われて逃げてきた疲れで、一同はまださながら死んだように熟睡しきっていたところゆえ、

「お先真っ暗より、まんだ戸外も黒々してござりまする。そうせかせんと、まあここへ入られ、もうすこしまどろまれたがよろしゅうございましょう」
寝とぼけた声で榊原小平太は答え、二郎三郎を己れの脇に寝かしつけようとした。。。


※ 世良田二郎三郎元信(権現様)家来として、酒井浄賢、石川四郎、大久保甚四郎、榊原小平太(年若)、鳥居元忠(父子)、成瀬八郎、板倉内膳正、板倉弾正、平岩七之助、林藤介等の名前が確認できる。

後の徳川家康の家臣は、世良田二郎三郎元信(淨慶・権現様)の家来である。

 

田原城の戸田弾正の手の者が、人質だった信康を奪ったとの記述がある。信康は今川から奪還してた。その後の今川との人質交換は、築山と亀姫の2人だった。

戸田弾正の娘・真喜姫には、広忠との間に徳川家康の異母兄弟である松平忠政・松平家元・恵最(僧侶)・内藤信成らを儲けたとされるが、彼らの生母はそれぞれ別におり、自らの子として養ったか、後見という立場であったと考えられる。(勘六と淨慶は同人、別人か?)

※お久(広忠側室)の子・勘六(松平忠政)と恵新(恵最)がいる。於大の子元康の異母兄弟と異父兄は淨慶

世良田二郎三郎元信(権現様・淨慶)が松平元康に、信康を渡して許しを請い、家来になったとの話に繋がる。

 

この頃に恵新(恵最)20歳が死んでいる。墓あり、実は同じ年の元康の死では? 元康の影武者説

恵新(後の樵暗恵最)誕生
元康と同じ広忠の子で同じ1542年12月26日に生まれたとも言われる。
「お久の方」は広忠との間に松平忠政と恵最(のちに広忠寺住職)の2子を産んだという。(忠政は徳川家康の異母兄にあたる。

上記は、「お久の方」の父親は松平 乗正。大給松平家の第2代当主とされる人物の娘として記載されている文章である。

この文章が事実なら、松平忠政(恵新の兄・勘六)は、広忠の子となり、元康と恵新・勘六は異母兄弟となる。似ていて当然であり、元康の影武者と慣れる筈。
於大の子・元康と淨慶(異父) お久の子・恵新・勘六は広忠の子となり、4人が存在していてもおかしくはないが、元康と恵新が双子、勘六と淨慶が同一人物の可能性はある

実母としてのお久は存在しない可能性がある。源応尼が手配した乳母の可能性がある。

源応尼は伊賀(服部忍者)のくノ一、その子於大もくノ一と考えれば、伊賀のくノ一が乳母になったとも。

「お久の方」は、松平 乗正の娘といわれるが、『寛政重修諸家譜』では「大給松平家の記録にはお久の方が存在しない」などの理由で否定的な考証を行っている。
お久の出自は怪しい、源応尼の血筋とも思える。於大の父は水野忠政となっており、勘六は「水野忠政」から名前を取った「松平忠政」ではないか?勘六と淨慶が同一人物の可能性はある。3人なら全員、於大の子ではないか?

それでも、徳川家を継承する血筋は父系で分かれる。広忠の子と江田松本坊の血筋である。新田源氏の継承者は淨慶・権現様である。徳川家初代は淨慶・家康から継承される。

 

関ヶ原の合戦で恵新・家康が死去した、そして淨慶・家康が成り替わった。この影武者家康が交代したことで新田源氏の末裔たる世良田二郎三郎元信の家康が誕生したことになる。

権現様たる徳川家康初代である。1600年以降は将軍たる徳川家は淨慶の血筋が徳川御三家として将軍家を代々継ぐ事になる。2代将軍の秀忠は中継ぎ。

そして、松平家は徳川家の近臣の家臣の家柄と位置付けられ、将軍家の継承者ではなくなる。

それは、松平家は淨慶からしたら乗っ取った家柄であり、江田松本坊を父とする新田源氏の末裔たる淨慶の家柄ではないからである。

 

淨慶・世良田二郎三郎元信は、江田松本坊、母於大、祖母源応尼の血筋を徳川の継承者として重要視している。松平、水野の血筋よりも新田源氏の後裔として徳川家の天下取りを実現している。於大の子・久松3兄弟を重用し、松平家を名のらせ近臣とし、於大の子は信頼できる政略結婚の道具にもしている。

後の将軍職を徳川御三家から選出する制度をつくり、将軍職を継ぐ家だけが徳川を名のることができる。徳川という新たな将軍職の家柄を作りだしたのである。

築山の子・信康は切腹、結城秀康は他家に養子、秀忠は一代限りの将軍、3代将軍・家光以降は淨慶(家康)の血筋で将軍職が継承される。徳川家は、新田源氏・江田松本坊と於大、祖母源応尼の血筋である。

信康は、元康と築山の子である。1579年死去 松平家の本流になる血筋は途絶えた

2代将軍秀忠(1579年誕生)は一代限りの将軍となった。淨慶の子の可能性はある。
松平広忠、水野(於大)、服部の血筋で、淨慶が世話になった鍛冶屋の娘の子(西郷局・服部忍者くノ一)である。

結城秀康(1574年誕生)は
松平広忠と水野の血筋、源応尼、於大?、江田松本坊の血筋ではない?1584年秀吉の養子、結城養子となる。

秀忠の母・西郷の局
「お愛の方」。天正6年(1578年)3月、浜松城の徳川家康公の側室となりました。
1552年又は1561年誕生説もあり1589年没死
家康公に仕えて1年後の1579年4月、秀忠を生み、翌年には忠吉を生みました。(信康の死)
家康公が浜松城から駿府城に移って間もなく、1589年5月彼女の生涯は幕を閉じ、駿府の竜泉寺に葬られました。

 

※1600年以前の血筋は、淨慶(家康)の直系ではないので粛清された。元康、恵新と勘六の血では将軍になれない。

秀忠の子長丸は、(1601年3月誕生~1602年8月没死)謎の死。家光との家督争いで忠長(1606年誕生)も切腹。

 

将軍職継承の徳川御三家の血筋を見れば明らかである。

尾張家初代 徳川義直  生年月日: 1601年1月2日  死亡日: 1650年6月5日
         母:‎お亀の方
      石清水八幡宮の祀官家(紀姓田中氏)の分家である京都正法寺・志水宗清の娘(吉田神道)
      家老・成瀬正虎は初代・成瀬正成の長男 配下・根来衆鉄砲隊・成瀬正一

紀伊家初代 徳川頼宣 生年月日: 1602年4月28日 死亡日: 1671年2月19日
         母:於万 三浦義村の娘矢部禅尼を先祖三浦宗家の末裔(平姓直系の氏族)

水戸家初代 徳川頼房 生年月日: 1603年9月15日 死亡日: 1661年8月23日
         母:於万 三浦義村の娘矢部禅尼を先祖三浦宗家の末裔(平姓直系の氏族)

於万の出自
勝浦城主正木頼忠と智光院との間に生まれた娘、河津城主蔭山氏広と智光院との間に生まれた娘、冷川村百姓夫婦の娘など諸説ある。母とされる智光院は北条氏隆の娘、田中泰行の娘(板部岡江雪斎の姉、氏隆養女)という説がある。血筋は三浦義村の娘矢部禅尼を先祖に持つ三浦宗家の末裔である。

天海僧正(吉田神道、明智光秀?)の出自  三浦氏の一族である蘆名氏の出自といわれる。

 

2代将軍・秀忠の子
徳川 長丸1601年3月生~1602年8月没)/(1602年1月25日~1602年11月8日)は、秀忠の長男で庶子、死去。母は家女とのこと。徳川家光・徳川忠長・保科正之らの異母兄。秀忠の子は将軍職を継げていない。家光は淨慶の子の可能性が高い

長丸の死、忠長の死は将軍職を継げない宿命とも思われる。秀忠は淨慶の子では無く、恵新の子と推測

3代将軍・徳川家光   1604年8月12日生~ 1651年6月8日 死亡 淨慶・家康と春日局の子と推測

 

上記の流れを見れば、徳川御三家の成り立ちが明確になる。尾張家、紀伊家、水戸家の初代は1600年後に生まれた子であり、淨慶・家康の子である。(家光も)

秀忠の子は将軍職を継げていない。又、松平家からも徳川家の継承者は出ない名籍となっている。明らかに徳川と松平は主従関係になっている。

天海僧正との共通点も出ており、家康の東照大権現は吉田神道から選んだ名称であり、尾張家初代の母・お亀の方と繋がる。

紀伊家初代、水戸家初代は母の於万の出自・三浦義村の娘矢部禅尼を先祖・三浦宗家の末裔(平姓直系の氏族)であり、天海僧正は三浦氏の一族である蘆名氏の出自といわれる。

これらの共通点を考えれば、新田源氏の末裔・淨慶と天海・明智光秀の築き上げた徳川幕府ではないかと想像できる。

南北朝の争いの中で翻弄された源氏・武家社会が、凶行織田信長を排除し、王政復古を抑えて、象徴としての天皇制を維持し、争いのない徳川幕府を構築したものと思える。

知略に長けた「志能備」の能力を生かした権現様の統治体制の実現である。

 

稲葉(林)正成 と お福(春日局)と 家康  ※林藤介一族・林正成・稲葉正成と繋がるのでは?

徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍に任じられる頃、家康の寵愛を得ていたお福に転機が訪れ、家康の勧めで林 正成に嫁ぐ事に成った。
家康の意向でお福は美濃国の稲葉重通の養女となる。
福が正成を稲葉家の婿に迎える。
林 正成は稲葉正成を名乗り、家康の命により、旧領の美濃国内に一万石の領地を与えられ大名になった。
稲葉家は、織田家、豊臣家、徳川家に仕えて、息子・稲葉貞通の代に徳川家康の依頼で斉藤利三の娘・福(春日局)の養父となり、林正成)を養子に迎えて、福(春日局)を大名婦人として三代将軍・徳川家光の乳母に送り出している。
夫の稲葉正成と離婚までして、家光の乳母「春日局」になった。
すべて、徳川家康の意向である。家康と福は親密な関係であった。

二代将軍・秀忠、天海僧正、春日局(お福)は、従弟(従妹)同士の可能性がある。

春日局の実の息子・稲葉正勝の歴代の子孫が幕府老中などを務めるほど優遇されて後、下総国佐倉藩主などを経て山城国(十万二千石)に移封、山城国淀藩・稲葉家は、幕府内では代々京都所司代や大阪城代、老中職と言った要職を歴任して幕末まで続いている。

春日局の息子は「徳川家当主と血縁関係にある」と考えられる。
三代将軍・徳川家光の古文書には、二世権現や二世様などと記された文章が多数存在し、徳川家光が「家康と春日局の子である」という謎となる。

「春日局屋敷跡」観光用案内板より

「春日局は、1603年の春、夫・稲葉正成と離別の後、二王座のこの地に帰ってきたとされている。その後、子らと共に江戸城に上り、将軍秀忠の侍女となった。容色美麗であったことから春日局は将軍の目にとまり1604年7月、竹千代(家光)を生んだ。しかしながら、父・斉藤利三が明智光秀と共に織田信長を討った理由で竹千代は秀忠夫人の子と披露された。」

家光は将軍(家康?)と春日局(お福)の子と表記されている。正に、二世権現と言うことになる。

 

続く。。。


徳川家康の謎  家康は影武者だった? 足利源氏を倒し、新田源氏が天下を取る、服部忍者・正徳大使の「志能備」秦氏の末裔との共闘である。2

2023年03月01日 11時13分02秒 | 歴史 戦国時代 徳川家康 織田信長 服部半蔵 新田源氏 武田信玄 八王子千人同心

徳川家康の謎  2 

家康は影武者だった? 足利源氏を倒し、新田源氏が天下を取る、服部忍者・正徳大使の「志能備」秦氏の末裔との共闘である。

徳川家康を生涯一人の人物が全うしたと考えるのは無理がある。戦乱の世に、自らが戦士となり、領地を獲得し拡大していったのであるから、命を落としていても不思議ではない。

殿様が命を落とした時に、集団(家臣、領民)は結束が乱れて崩壊する。外部勢力に簡単に乗っ取られてしまう。

そこで、集団の結束を維持するために、殿様の死は決して漏らすことなどできない。そして生まれたのが影武者制度である。戦場で敵の目を欺いて殿様を守るためだけではない。万が一殿様の命が奪われた時の対応の為に、影武者がその後の殿様としての役割を果たす為である。

影武者には、影武者を養成する担当の重職があり、殿様の最側近である。殿様を失い、影武者が成り替わった時から、最側近の重職の集団統治体制が始まる。

影武者で有名なのは武田信玄である。信玄は「俺が死んでも、死んだことは2年は隠せ!」と言って遺言したそうだ。

そして、武田には影武者養成担当がいた。その担当が土屋家である。

甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。武田二十四将の一人に数えられる。土屋昌次(土屋昌続)、「片手千人切り」で知られる土屋昌恒(昌続の実弟)の一族である。

武田の家臣から家康の家臣となった大久保長安は、土屋(大蔵から養子)長安であり、影武者を養成する土屋一族の養子になった。もともとは吉野の猿楽氏の末裔「正徳大使の志能備」の流れと思われる。武田でも徳川でも金山開発の担当者である。特段に財政手腕に長けていた。

家康の影武者を立てる手段は「志能備」の常套手段であり、武田、徳川では当然の事として用いられた兵法である。「武士は潔しとすべし」と考える武将は、影武者を持たなかった(信長、秀吉)のかも?

武田には兵法者として山本勘助がおり、勘助は甲賀忍者で修行をしたと言われる。南朝の天皇を支持した神主の出である。

したがって、家康の人生には影武者が用意されて当然であり、伊賀忍者、南朝を支持した源氏、新田源氏の一族が、一向宗の力も利用して、北朝を支持した足利源氏(室町幕府)を倒す為に、力を結集した集団の象徴の頭として「家康・権現様」が存在し、集団統治体制で徳川幕府の天下取りを成功させたと思われる。

史実を時系列に並べて、古書等に書かれたことや、小説家の推定等を参考にすれば、家康は影武者を通して徳川幕府の天下取りを果たしたと推定できる。

一人の人間が天下取りになったと考えるのは無理がある。「正徳大使の志能備」の流れの知恵や技能なくして達成できるものではない!

推定

家康には最大で、5人の人生が関わっている。

松平元康 ⇒ 元康・家康(惠新)⇒ 家康(淨慶・勘六)⇒ 家康(消えた矢惣次)である。

淨慶と勘六は同一人物でも、別々の人物でも家康の影武者として存在していてもおかしくはない。影武者は複数用意するものだから。

元康は、21歳で戦死し、義母弟の惠新(僧侶)が影武者となった。惠新(家康)の影武者を淨慶・勘六が務めた。

関ヶ原の合戦で、惠新(家康)が死んだ ⇒ 淨慶(家康)が務めた。大阪夏の陣で淨慶(家康)が死んだ。

その後、一年間、影武者家康(消えた矢惣次、作家の加賀淳子)が務めた。そして、鯛の天ぷらで毒殺(胃がん説あり)されたとなる。

この家康影武者説が、何処かで同一人物であったとしても、新田源氏の末裔である(権現様)世良田二郎三郎元信(淨慶・家康)が主導権を握って天下の徳川幕府を成し遂げたものと思われる。

 

淨慶と勘六が別人で存在したのなら、生き残った淨慶か勘六が家康の影武者になれるので、消えた矢惣次の登用はなくなると思える。淨慶と勘六は同一人物と考えるのが的を射ているのでは?

仮に、勘六と淨慶が二人存在していたとしても、勘六は家康の影武者を務めていたはずである。惠新の異父兄であり、家康像に似ていた筈でである。記録的には松平忠政として1570年に姉川の戦いで死んだことになっているが、事実だとしても矛盾はない、家康の影武者として戦場で死んだ可能性はある。

この時、惠新(家康)と入れ替わった可能性もあるが、(権現様)たる淨慶はまだ家康にはなり替わっていないと思われるので、惠新又は勘六が家康として関ヶ原の合戦まで存続していたと推測できる。淨慶と勘六が同一人物なら、惠新(家康)は生きており、天下取りが見えた関ヶ原の合戦までは何方かが家康の役割を果たしたと推測する。2代将軍秀忠(1579年5月2日生)は誰の子?となる。

勘六の子なら、お久の子であり、本流の於大の血筋ではなくなる。3代将軍を忠長に就任させる訳にはいかなくなる。家光が誰の子か?が選択肢として意味があったのではないか?

徳川幕府は、新田源氏の象徴として、(権現様)世良田二郎三郎元信(於大の子・淨慶)が構築したものである。

 

※ 影武者家康(惠新)の次男・秀康は双子だった。双子は血統でもあり、広忠と於大の子・元康は惠新と双子であった可能性は高い。淨慶と勘六は同一人物と考えるのが素直ではないか。

影武者家康(惠新)の次男・秀康(結城家に養子)、幼名は「於義丸」は、天正2年(1574年)に誕生。双子を忌み嫌った家康(惠新)と対面できたのは2歳になった時。
秀康の双子とされる人物は、永見貞愛(ながみ-さだちか)で愛知県知立市にある知立神社の神主となる。
秀康の母は於万の方(おまんのかた)。家康の正室、築山殿に仕えていた侍女。身分の低さで冷遇された。
秀康の兄、松平信康が手引きをしてやっと、家康との対面が実現したという。

元康と惠新が双子なら、トラウマである。淨慶、元康、惠新が於大の子となり、血の繋がりが出る似たもの同士になる。元康の影武者として家康が存在したのである。

徳川幕府の天下取りは、

ある意味では南北朝の戦いから続く、南朝天皇家の朝臣「志能備」の末裔・伊賀、甲賀の一族、南朝を支持した源氏(新田源氏の末裔等)の結束による、室町幕府の討幕である。

家康はその象徴であり「権現様」である。 一人である必要はなく、誰かが代わりを演じれば、組織の結束は維持される。特殊工作員たる「志能備」の知恵である。

徳川幕府は南朝系の天皇を本流と認めている。

 

家康(惠新又は勘六)は「関ヶ原の戦い」開戦直後に暗殺されてしまったため、家康の影武者となる主人公は「世良田二郎三郎元信・淨慶」となった。

関ヶ原の戦いでは、家康にとても良く似ていた人物を影武者として使っており、敵方の混乱を誘うために、いつも二人並んで座っていた。惠新(又は勘六)と淨慶である。
しかし、武田の忍びが、使番に成りすまし、本物の家康を暗殺したという。天下取りを目前にして、惠新を殺したとも推測できる。忍びを自由に使えたのは淨慶である。

仮に、家康が影武者勘六であったなら、「世良田二郎三郎元信・淨慶」が、血筋の繋がらない、用済みの勘六を殺して、家康に成り替わったとも推測できる。


『徳川実記』に、「野々村四朗右衛門が馬上から家康に切りかかってきたので斬った」という記述があるそうです。
しかし、影武者が殺されたという説も、入れ替わった時期や入れ替わりを示す証拠などが一切見つかっておらず、歴史的事実として確認できないため現代では否定されています。等の記述がネットで見られた。

 

影武者(惠新又は勘六)が切られた可能性は高い! 使番に成りすまし近づいた刺客が的を外す筈がない。惠新なら刺客に近づかれた段階で無防備で殺られる。

以後、「世良田二郎三郎元信・淨慶」が家康になりきったと思われる。待ちに待った天下人の椅子に座ったと言う事だろう。

その後の動揺が激しい。秀忠に将軍職を譲って、駿府城に籠っている。将軍を秀忠に譲ることで、跡目争いを避けたのである。

院政を引いていることになってるが、酒井、本多、大久保一族や重鎮たちの集団統治体制で徳川幕府は成り立っていたのである。

 

※ 1603年、家康は征夷大将軍に就いて幕府を開いた。将軍職世襲を確実にするため、嫡男・秀忠を右近衛大将にするよう朝廷に奏上し、同年4月16日に任命された。秀忠の徳川宗家相続を確定させ、2年後の1605年に、家康が将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となった。

わずか2年で家康(淨慶)は秀忠に将軍職を譲っている。

1604年には家光が生まれている。3代将軍は「家光の世襲」との条件が付いていたと考えられる。

又、秀忠の父・惠新の死を、跡目争いによる殺害と、秀忠に疑われない為の、将軍職世襲を実施したのではないか? 3代将軍は「家光の世襲」と確定させたのである。

 

淨慶(家康)と二人で、大久保長安は徳川幕府の礎を築き、膨大な権力と財力を手に入れた。影の支配者は大久保長安ともいえた。

幕府は、大久保長安の膨大な権力と財力を危惧するようになった。伊達家、大久保、服部一族らとの縁組を増やし、人的勢力を深めていた。

家康「世良田二郎三郎元信・淨慶」、将軍秀忠ら幕府側に、権力の拡大を謀る長安への不信感が募った。長安の膨大な財力が欲しくなったとも思われる。

長安は、金銀等の採掘を一手に任されており、製錬技術は武田以来の技術であり、優秀なものであった。採掘は請負制になっており、発掘から製錬までの経費を長安が一切負担して、製錬した金銀等を半分、家康(幕府)に納める請負制だった。残り半分が長安の取り分であり、人工夫などの発掘・製錬経費を負担した残りが長安の儲けとなる。長安が莫大な金銀を所有して大富豪となった要因である。独占的な大企業で幕府の財力を遥かに超えてしまったのである。長安の死と共に、財産をすべて奪われてしまったのが「大久保長安事件」の真相と思える。長安の財宝が無ければ、大阪の陣は起こせなかったかもしれない。

 

本多正信、正純の暗躍?

大阪の陣(1615年)の前に、大久保長安が死去(1613年)し、死後、徳川家転覆の疑いをかけられて、一族が処分されている。長安は逆賊として死体を掘り起こしさらし首にされている。

大久保長安の一族は皆殺しとなり、関わりの深い親類筋は改易となり、大々的に粛清されている。服部半蔵も失脚している。本多派と大久保派の対立が一大事件を生んだ。

大久保長安から没収した金銀財宝は莫大であり、大阪の陣(冬、夏)の軍資金になったと思われる。徳川幕府と同等の金塊を所持していたと云われ、その全貌は明らかにされていない。長安の隠し金銀財宝は何処に?

徳川幕府は、豊臣を倒す為に莫大な軍資金が必要であり、大久保長安事件(冤罪と言われる)は、長安の増大する権力と財産を奪う為に仕掛けられたクーデターである。淨慶?秀忠?本多正信?か

 

大阪の夏の陣で、家康「世良田二郎三郎元信・淨慶」が殺される背景は十分にあり、秀忠、忠長支持派や、長安の仇打ちともとれる刺客(忍者)が殺したと推定できる。

徳川幕府を支えてリードしてきた功労者、大久保長安を好評価して、史実に載せることはタブーなのである。家康を美化して神格化するためには、家康を超える人物は不要であり、功績は記録から消されるものである。

 

長安は、伊賀、甲賀、根来、雑賀衆等の忍者集団を配下にしていた。直属の部隊は八王子千人同心で、家康の直近として親衛隊を務めている。生きてるうちは誰一人も手が出せなかった。

徳川幕府の裏仕事から、財政、統治の実行部隊であり、影の支配者ともいえるほど権力があった。家康の影武者(淨慶)には頼られ、特別扱いされていた実力者である。

才覚に溢れ、影の群団を操り、膨大な財産を持つ長安は、諸大名も平伏すほどの存在となり、家康をも凌ぐ支配力があった。

あまりにも膨大な権力と金を手にしているため、長安の徳川家乗っ取りを危惧する、重鎮たちとの確執があった。

長安が豊臣家を滅ぼそうと考えていたとも思えない。豊臣を滅ぼし、天下統一を目指す淨慶、秀忠らの意向と長安の考えとはズレが生じていた可能性もある。

長安は石見銀山の採掘をしている。毛利家とも繋がりがあった筈、武田家臣の時代、長安の師は山本勘助、寄親は土屋昌続(影武者)である。山本勘助は毛利家とは親交が深かった。

豊臣、伊達、毛利、長安と結託すれば、徳川幕府は崩壊する。長安の死を好機に、豊臣を滅ぼし、天下統一を果たす、家康(世良田二郎三郎元信・淨慶)の決断ではないか?

大久保長安事件は、家康、秀忠、本多正信、正純の策略ともとれる。長安の毒殺も想定できる。

長安と家康の信頼関係は深く、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていた。(1612年)7月27日、中風にかかり、(1613年)4月25日、中風のために死去した。中風?

『駿府記』には、家康から烏犀円を与えられていると記載されている。長安は家康の薬を飲んでいた。

烏犀円(うさいえん)とは、徳川家康の、徳川家康による、徳川家康のための調合薬。幼少期より薬草採集と薬の調合を趣味とした徳川家康が自ら開発し、徳川家康のみがその調合を知っていた。

 

過去文 2020年11月13日  石に点を打った文字より 

「志能備」が忍びのルーツで、聖徳大使の時代からの諜報活動をしていた。

聖徳太子にまつわる伝承として、「聖徳太子が情報収集に使った」とされる三人の人物とその配下の事が載っている。

大和朝廷の正規軍と陰陽修験の諜報工作組織は歴史の中で交錯しながら互いに影響し合っているとの事。

聖徳太子の大伴氏族・大伴細人(おおとものさひと)に対する要請で「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群団。

正徳太子が有力部族・秦氏族へ要請されたとする、秦河勝(秦河勝・香具師・神農行商の祖)とする郡団。

伊賀の国人・秦氏流服部氏族(伊賀流忍術の祖)の三集団である。

忍術者の祖と言われる服部氏と香具師(かうぐし)の祖とされる河勝氏は、元々は機織(はたお)りの大豪族・秦氏の流れ、秦河勝(はたのかわかつ)の後裔である。

秦氏はユダヤ、ペルシャ人で平家の祖とも言われる)

日本列島に織機(おりき)と織物(おりもの)の技術を持ち込んだのが秦氏(はたし)だったので、「機織(はたお)り」と言う言い方が定着した。

この機織(はたお)り部から「はとりべ」となり「はっとりし」と成ったという、服部氏である。

服部氏は、伊賀郷の忍術者の一族(有名な服部半蔵・源左衛門)として江戸幕府・徳川家に雇われている、重要な存在である。

伊賀・服部流と双璧を為すと評価されるのが「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群団である。

秦河勝氏の香具師(かうぐし)は歴史的には、「矢師・野士・弥四・薬師(神農・しんのう)・八師とも書き、薬の行商と言われ、また的屋(てきや)とも言う。

祭りを盛り上げる伝統をもった露店商であり、人々が多数集まる盛り場において、技法、口上で品物を売り、諸国を周る職業である。

情報収集の役目を負っていたと思われる。香具師は、祭礼や祈りの為の神具を扱っていた。
祭りに付き物の「見世物小屋」等の関係者が、諜報活動をしていたということだろう。


「文献には、秦氏の河勝氏が同じく秦氏の服部氏と共に聖徳太子の「諜報活動に任じていた」との記述がある。」

全国各地を移動しても怪しまれない職業が、神前での興行や商いをする「香具師」である。

陰陽修験者の「志能備」としての組織は、賀茂氏・役小角(えんのおずぬ)流れで組織化されていく。

賀茂氏・役小角は、陰陽修験は村落部では、守備範囲の役割を分けていたと思われる。
甲賀郷士忍術者群団と、服部氏と河勝氏の町場の氏族相手とする諜報活動群団と、活動範囲を分けていたようだ。

武術の発祥は陰陽修験道からであるから、甲賀郷士忍術者群団と、服部氏と河勝氏の群団も、修験武術の習得を通して接点があったと思われる。等々の「志能備」に関する情報を得ることができた。


「志能備」が「忍び・忍者等」のルーツで、聖徳大使の時代から組織があり、諜報活動をしていた。

天皇家の支配体制の組織として「志能備」という特殊能力を備えた群団が、地方に分散して、次第に、地方豪族の支配に組み込まれて存続してきたのが、「忍び」と言われる存在ではないかと思う。

そして、陰陽修験者、武術修験者等を束ねる組織が存在して、天皇家を支えてきたという統治体制が出来上がっていたようだ。

陰陽修験者、武術修験者、諜報活動を主とする者等の群団の存在である。
幕府に支配されない、村の自治による自警団として、発展した一族もあったと考えられる。

この様な「志能備」の末裔の存在であったと推測されるのが、後に出てくる大久保長安の父、猿楽師の大蔵太夫十郎信安らではないかとも推測できる。

大久保長安は、天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵太夫十郎信安の次男として生まれる。

長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。

長安は、武田信玄の家臣たる土屋家(信玄の影武者育成)の娘婿となり、土屋長安と改名して与力をしていた人物」

後の徳川幕府の有能な立役者ともなり、「志能備」の特殊能力を備えた末裔と思われる。。。

 

長安事件は、古参たる松平からの家臣・本多一族らが結束して蜂起した権力争いの内部分裂である。2代将軍・秀忠、忠長を支える者たちの悪略とも思われる。

影武者(淨慶)の子が3代将軍になることを嫌った家臣たち、忠長を3代将軍にしたいと考える、秀忠の意向が働いたのではないか?

 

そこで推測されるのが、家光は誰の子か?である。

家光(1604年生)で忠長(1606年生)である。1600年には淨慶が家康(影武者)になっている。

淨慶は元康の異父兄であり、秀忠の父・惠新の義兄になる。秀忠は親同然の淨慶に逆らうことはできない。

家光は、家康の影武者(世良田二郎三郎元信・淨慶)の子である可能性がある。家康と春日野局の子とも言われる。

忠長は秀忠の子だと思われるが、家光は怪しい。 秀忠に将軍職を譲る前にできた家光なので、淨慶が3代目の世継ぎとして秀忠の長子としたものである。

秀忠は淨慶の義弟・恵新の子である。権現様は(世良田二郎三郎元信・淨慶)である。3代将軍は、権現様の子・家光であると認識されていた。淨慶の遺言である。

しかし、秀忠の側近らは、3代将軍は忠長が良いと考えたので、春日野局は、家康の影武者(消えた矢惣次)の鶴の一言を演じさせて、3代将軍・家光を誕生させたのである。

 

新田源氏の総帥として、権現様(世良田二郎三郎元信・淨慶)と祀り上げてきた頭領の血筋を擁立したと思われる。

父は江田松本坊、母は於大(源応尼の娘)の子・淨慶は、新田源氏の血を強く引くもの、祖母の源応尼も新田源氏の血筋である。家光が正統な世継ぎといえる。

秀忠は、惠新の子である。惠新は松平広忠の子だが、母はお久であり、淨慶の母於大よりも身分の低い一族と見える。淨慶が新田源氏の正統な世継ぎといえる。

2代将軍・秀忠は、服部忍者の血が強く出過ぎている。服部忍軍の徳川家乗っ取りとも言えるほど力を付けてきた。最後は、新田源氏の血筋と服部忍者の血筋争いとも思える。

新田源氏の末裔、源応尼、江田の松本坊、於大、淨慶、家光と続く新田源氏が徳川幕府を構築したのである。

服部家は保護(桑名家・於大の子)されて存続は認められたが、徳川の本流から外れた。

 

松平元康 ⇒ 元康・家康(惠新)⇒ 家康(淨慶・勘六)⇒ 家康(消えた矢惣次)の影武者を肯定すれば、徳川幕府の成り立ちが説明できる。

作家の村岡素一郎、隆慶一郎、加賀淳子さんらの家康影武者説は正しいと思われる。まさか4人も関与しているとは考えずらいのが、武士の魂かも? 

これが、全国の諜報活動を役目とした、特殊工作員たる「聖徳太子の志能備」の知恵でる。

 

1613年 大久保長安死す。病死 元武田家臣・土屋長安・影武者担当

長安は、金の棺桶を所持してたと言われ、家康を凌ぐとも言われる莫大な財宝を持っていた。徳川幕府の陰の支配者である。生前は家康たりとて処分はできなかったが、死後、横領、徳川幕府転覆の陰謀ありとして処罰された。一族は皆殺しとなり、金銀財宝は召し上げられた。大久保長安事件である。淨慶の策略か?

1615年に大阪の冬、夏の陣がある。 ここで影武者(淨慶)は殺された。刺客は真田・武田の忍者?

長安の莫大な財宝は軍資金となった。淨慶は長安の仇となり殺されたとも? 作家の加賀淳子の影武者「消えた矢惣次・1年の命」が家康となる。3代将軍家光を宣言する。

1616年 家康死す。(家康の影武者・消えた矢惣次)毒殺説あり

1620年(元和6年)、家光は17歳、忠長は15歳で元服。3年後、家光が将軍に就任。

1622年、宇都宮城釣天井事件  元和8年 本多正純冤罪・土井利勝らの謀略

第2代将軍徳川秀忠の暗殺を謀ったなどの嫌疑をかけられ、本多家は改易、正純は流罪となった事件である。真相は秀忠ではなく家光暗殺ではないか? 本多正純の失脚を企てた冤罪である。

正純の父・本多正信は将軍秀忠付の年寄正純は駿府の大御所徳川家康(淨慶・権現様)の側近であり、家康も正信のことを「自分の友」とまで言っていたほど信頼は厚く、その地位は揺るがなかった。正純は淨慶支持なので、秀忠の暗殺を謀ったなどの嫌疑で失脚させられた。

正純謀反の証拠は何もなく、秀忠も宇都宮城に不審点がないことを、元和8年(1622年)4月19日に井上正就に行なわせた調査で確認している。この顛末は、正純の存在を疎ましく思っていた土井利勝らの謀略であったとも、加納御前の恨みによるものともされる。。。」

1623年、ニ代将軍・徳川秀忠が急死・毒殺とも? 家光が三代将軍に就任。柳生一族の陰謀でドラマ化されている。

松平伊豆守信綱や春日局、柳生但馬一族、根来衆が、家光に加勢し支持する。
根来衆は柳生但馬の命で協力するが、任務を終え、柳生の庄・黒谷へ戻った後、口封じの為、柳生に皆殺しにされる。悲惨な運命となる。

尾張大納言義直の尾張・紀伊・水戸の御三家と筆頭老中・土井大炊頭利勝ら老臣一派が、忠長を支持していた。
柳生と同門の小笠原玄信斎を雇い、将軍家剣法指南役を条件に家光と但馬の抹殺を命じた。同門争いになる。
九条関白・三条大納言・烏丸少将が忠長に味方する。(徳川幕府の弱体化と王政復古を画策)

この家光と忠長の跡目争いには、服部忍者が登場しない。まさに、家光を3代将軍にする為の、柳生一族の暗躍である。最大の被害者は忠長である。

徳川家康は、諜報組織作り上げていた。既に、源氏の血筋など如何でも良い、秦氏の血筋でも集団統治体制が出来上がっていた徳川幕府である。

八咫烏の謎・カッパ―ラ・「迦波羅」・カバラ・賀茂神社

『 聖徳大使の諜報活動(秦氏)表神道の呪術「陰陽道」と裏神道の呪術「迦波羅」』(忌部氏に通じる葛城系の人々)

歴史を動かしてきた陰陽道、典型的なのが忍者(志能備)である。服部半蔵、百地三太夫、藤林長門、石川五右衛門、山本勘助、大久保長安、明智光秀、春日局、本多正信らは、秦氏

南朝吉野冠者後裔・山本勘助(賀茂神社の神官・左三つ巴の神紋) 大久保長安(南朝大蔵)・春日大社の猿楽(現能)金春流の猿楽師後裔 秦氏の志能備  

 

「 隠密活動の成果として有名なものは、3代将軍の家光と4代家綱に仕えた大目付の中根壱岐守正盛が、老中の松平信綱とともに組織的に隠密集団を活用して、慶安の変の際に、当時、反幕府勢力(武功派)の代表格と目されていた紀州藩主の徳川頼宣を失脚に追い込むことに成功した。」。。。秦氏の諜報工作員か?

 

大久保派松平信綱(伊豆守)と春日局、柳生、根来衆等は、(淨慶・家康)の子・家光を支持。

秀忠(惠新の子)、忠長派は、本多一族、水戸の御三家と筆頭老中・土井大炊頭利勝ら老臣一派が支持。

「武断政治」 大久保一族の勝利  ルーツは宇津忠俊 ⇒ 大窪(大窪党) ⇒ 大久保となる一族。

足利源氏・室町幕府を倒し、新田源氏が天下を取った!

加賀から来た一向宗の傭兵・大窪藤五郎の百姓王国100年の理念が、家臣による集団統治体制の徳川幕府の礎となった。

 

「文断派」一向宗に学んだ本多正信の知量、理念の影響も大きい。(秦氏・本多家は賀茂神社の神官の家柄)

本多正信は正純に対し、(正信の理念)

武家は軍法を諸道の根本とするのだ。軍法というは軍事ばかりに用いるものではない。軍法は常の備えである。善い政治は勝ち、悪い政治は負ける。勝負の本は国を治める事にある」「例えば樹木だが、根本によく土を掛けて、根を深くして育てると、大きく成長し、手入れをよくすれば、枝葉は栄え、花実も多く、少々枝を切っても傷みはしない。その心で天下国家の本とする大法を取り失わないように心得よ士農工商は天下の4民である。士にしてその仕える家の老職を預かる者は、農工商をもって木の根とし、大事に育てて、これを慈しめ。諸士は木と同じで、合戦の仕方は枝葉に同じである。勝負は花実に等しければ、その本を失ってはならない。その本は忠信を尽くす事で、諸事は生ずるのだ」と述べたと伝わる。

賀茂神社 神山古墳 本多家は賀茂神社の神官(神山を御神体として崇拝していた)

御祭神(賀茂別雷命)が神山(こうやま)に降臨したのが、上賀茂神社のご由緒。
三河(豊川・矢作川・男川の3つの川)が作る地域。「御川」「神川」「神の山から流れ出る3つの神川

三河の御神体となっている神の山・賀茂神社の所在は?御神体となっている山から流れ出る3つの川なら、天孫降臨の語源とも思える「石に`点の入った文字」の石川ではないか? 神の宿った千度石・百度石には「`点」がある。三河の「神の山」と賀茂神社の位地は特定できないが、神の山から流れ出る3つの神川で石川姓?「岩楯尾神社・天から神々が京塚山の頂上の「エボシ岩・つ」に降臨して「国の鎮めとなさっておくだりになった」

 

 

神社の手水舎 (ちょうずや)

デイリーポータルZ 2017年5月25日記事より転載 奈良県吉野郡大滝村(現在の川上村大滝)、南朝の皇子殺害事件「長禄の変1457年」参照

 

天孫降臨の語源とも思える「石に`点の入った文字」 発音は「いわ」巨石信仰の文字 あめのいわとわけ神

 

本多正信の教訓

※ 政治家は、農工商をもって木の根とし、大事に育てて、これを慈しめ、官僚は、国民に忠信を尽くす事で、諸事は生ずるのだ! 国家国民の為に! 主権在民だ! 百姓王国100年に学べ!

新田源氏、源応尼、江田の松本坊、於大、淨慶、家光と続く血筋の徳川幕府である。平和な時代でもあった。

「徳川幕府に学ぶ」

南北朝の戦いで、大きな犠牲を出した源氏の末裔が、王政復古を許さず、天皇を象徴として武力を持たせない体制を築いたのが徳川幕府である。

明治の王政復古は大きな犠牲を生んだ。外敵から日本国を守ったが、敗戦と共に、天皇を象徴とする国家に戻ったのである。

象徴天皇の基に、集団統治体制の日本の姿が、国民に豊かで安寧な国家を築く、民主主義国家となるのではないか。争いのない安寧な国家には、最高権力者はいらない、象徴天皇の存在が大きな意味をなす。日本民族の先祖であると崇め、敬うべき存在であると思う。

独裁者たる権力者を許さない体制が、国民の利益を守る、集団統治体制こそが、平和な社会を維持できる体制である。外敵から国家を守る為には、国民が一丸となって対峙しなければならない。集団的防衛力無くして国家、国民は守れない。侵略者に対峙することは、相当の防衛力を備えなければならない!「備えあって憂い無し」

防衛力強化は、国家国民を守る為に必要な不可欠な行為である。「力無き正義は無力なり」

日本国民は、「憂国の志士」の精神を捨ててはならない!

 

3月8日

源応尼の血筋

源応尼は大河内但馬守満成の娘(養女とも・謎)身分の低い家の出身説、謎の出自
ささら者(賤民)の娘と言われている。伊賀のくノ一とも

源応尼(実名は於富の方・於満の方)は明応元1492年に誕生
水野忠政に嫁ぎ、3男1女を儲けたとされる。この1女が徳川家康の生母となる於大の方
離縁後、松平清康、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐に嫁ぐ。いずれも死別の謎

松平清康と源応尼・於富の方の間の娘(於大の方・碓井姫・妙春尼)3娘?

於大の方の子  元康、淨慶
碓井姫の子
妙春尼の子  康正(康政・数正の父)、一政、家成、酒井正親室(妙玄尼)


妙春尼の姉に細川晴元室、武田信玄室(三条の方)がおり、姉二人とは15歳以上の年齢差があり、両者ともこの頃すでに嫁いでいた。於大の姉・他に2名?


於大の方(おだいのかた)享禄元年・1528年生~ 慶長7年・1602年10月13日没
       徳川家康の母。晩年は出家して伝通院と称した。広忠との子・元康、淨慶


碓井姫  酒井 忠次の正室  1529年生~ 1613年1月17日没84歳
       母は源応尼。徳川家康の母である於大の方と碓井姫は異父妹でもある。
       酒井忠次の母は妙玄尼(石川数正の姉)、妻は碓井姫(源応尼の子)


芳春院(妙西尼・妙春尼)天文13年・1544年生~ 慶長3年1月16日・1598年2月21日没?

   水野忠政の娘 夫は石川清兼(妙春尼は源応尼の子?)
      妙春尼は於大の方の妹?(細川晴元室?)家康はこの叔母に育てられた。
      子・石川 家成は、天文3年(1534年生、1609年没)
      石川数正は本家・康正の子で家成は康正の弟
      家康と家成は実母が姉妹

芳春院は三河一向門徒の代表格、一揆後、家康は芳春院に対し三河門徒を赦免し、宗教活動の許可を通知した。岡崎市上佐々木町の上宮寺には、徳川家康の叔母である妙春尼の墓がある。
妙春尼の姉に細川晴元室、武田信玄室三条の方

教光院如春尼(きょうこういん にょしゅんに)
天文13年・1544年生~ 慶長3年1月16日・1598年2月21日没
本願寺第11世・顕如の室。左大臣・三条公頼の三女。実名は不詳。

長姉の夫である細川晴元の養女となり、本願寺第10世・証如の子・茶々丸(顕如)と婚約
弘治3年(1557年)4月17日、さらに六角義賢の猶子となり14歳で顕如と結婚、京から石山本願寺に輿入れした。
翌年に15歳で長男・教如を産む。天正5年(1577年)に34歳で三男・准如を産む。
元亀元年(1570年)から本願寺は織田信長と争い、一向一揆に支えられて10年におよぶ戦いとなった(石山戦争)。

顕如の室・如春尼と芳春院(妙西尼・妙春尼)は同一人物か? 源応尼の娘?
妙春尼の姉に細川晴元室 長姉の夫細川晴元の養女? 於大の妹?

「芳春院は、姉二人とは15歳以上の年齢差があり。。。」妙春尼と同一人物と思われる?

石川源氏は一向宗を支持してきた。新田源氏、服部一族も同様である。源応尼が源氏の一族であることは間違いがないだろう。そして、一向宗の繋がりが、強く連携して戦乱の世に大きく影響を与えている。一向宗と戦った信長は消え、折り合えた家康が天下人となれた。

明智光秀の「敵は本能寺にあり」の真相が分かれば、解明されるものがある。光秀は「天海」として生き残った。そして徳川幕府の礎を築いたとなるのかも?

 

明智 光秀の謎  東照宮は語る!  光秀は家康(世良田二郎三郎元信)と結託して信長を殺したのか?

明智 光秀は、生年不詳である。出自は謎

美濃国の明智氏の支流の人物と言われる。美濃国(岐阜県南部)周辺で生まれたのは事実とみられている。
初代の明智頼重は足利尊氏・足利義詮・足利義満の足利将軍家に仕えたとされる。?
近年では、『兼見卿記』にある光秀の妹・妻木についての記述から、光秀の生年は天文9年(1540年)以降と推定している(1534年生の織田信長より年下となる)。

最初は、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えた。道三と義龍の親子の争い(長良川の戦い)の結果、浪人となった。
越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける。
その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。

 

徳川家康(権現様)と明智 光秀、天海の共通点  

称念寺 新田義貞公墓所 将軍足利義政の祈願所 徳川将軍家の香華院 光秀は越前国の朝倉義景仕官、称念寺前に10年住む縁

世良田東照宮 「新田荘遺跡」 徳川氏の遠祖の世良田義季の墓 隣接する長楽寺は新田義重の供養塔 天台宗の天海僧正が住職 比叡山延暦寺に学ぶ

日光東照宮に明智家の家紋あり、明智平の地名あり、方広寺鐘銘事件は天海の悪略、天海と家康の強固な信頼

新田源氏ー世良田二郎三郎元信(家康)ー光秀と家康は医学・薬学(毒薬)に知識がある。大窪党の大窪藤五郎は越前の人。

 

称念寺(しょうねんじ)は、新田義貞公墓所

福井県坂井市丸岡町長崎19-17 時宗の寺院。山号は長林山。院号は往生院。
721年(養老5年)に元正天皇の勅を得て泰澄大師によって開かれたと創建され、1290年(正応3年)他阿真教によって時宗に改められたという。

新田義貞が1338年(延元3年・暦応元年)に越前国藤島の燈明寺畷(現在の福井市新田塚)の戦いで戦死すると、時衆によって遺骸が往生院に運ばれたと『太平記』にある。
この往生院が当寺とされている。当寺境内に義貞墓所があった。
室町時代には、後花園天皇や室町幕府3代将軍足利義満、8代将軍足利義政の祈願所となり、そのほか武将の帰依を得た。後に、徳川将軍家の香華院となって栄えた。

※門前に明智光秀が、越前国の朝倉義景仕官時に10年住んで、医学の知識を学んでいた。
光秀と新田義貞の関わり合いが出てきた。新田源氏再興の同志となった可能性がある。

越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼りとある。後の大窪党の大窪藤五郎は越前の人である。

1571年 比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となる。
1573年 一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。朝倉は織田信長に滅ぼされる。
1582年 (本能寺の変)京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠(自刃)に追いやった。三日天下といわれる。

その後、織田信孝・羽柴秀吉らに敗れて討ち取られたとされるが、光秀の首は確認されていない。(山崎の戦い)

世良田東照宮との繋がり 光秀は天海か?

「東照大権現」としての徳川家康を祭神とする東照宮の1つである。
1617年(元和3年)に駿河国久能山(久能山東照宮)より下野国日光(日光東照宮)
家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、1644年(寛永21年)に上野国世良田へ
移築し、創建された。
太田市内の他の社寺、館跡とともに「新田荘遺跡」として国の史跡に指定されている。


寛永21年(1644年)、3代将軍・徳川家光の命により徳川氏の遠祖の世良田義季の墓
あり、天海僧正が住職をしていた長楽寺の境内に創建された。

新田氏の開祖・新田義重の居館跡とされ、隣接する長楽寺は義重の供養塔もあり、歴代新田
氏本宗家惣領が厚く庇護を与え、大いに栄えていた。

 

長楽寺は天海僧正が住職  光秀の生年は天文9年(1540年?)推定で年齢はほぼ一致する。

天海(てんかい)は、天文5年(1536年生?)推定 ~ 寛永20年10月2日(1643年11月13日没)
天台宗の僧、大僧正。尊号は南光坊(なんこうぼう)、院号は智楽院、諡号は慈眼大師(じげんだいし)。

天海が寛永9年4月17日(1632年6月4日)に日光東照宮薬師堂法華経万部供養の導
を行った記事があるが、天海はこの時97歳(数え年)であったという。これに従うと生年は天
文5年(1536年)と推定され、没年は107歳(数え年108歳)となる。
天海の生年ははっきりしていないが、100歳以上の長命であったと言われる。

徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。

『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理大夫平盛高の
一族」と記されていることから、三浦氏の一族である蘆名氏の出自で、陸奥国に生まれたとされる

しかし、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。また、「将軍義澄の末の御子といへる
人も侍り」と足利将軍落胤説も同時に載せられている。果ては姿を変えて生き残った明智光秀で
あるという説まである(天海=明智光秀説)

先述のように陸奥国会津出身と伝えられているが前半生についてはよくわかっていない。
龍興寺にて随風と称して出家した後、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台
を学び近江国の比叡山延暦寺や園城寺、大和国の興福寺などで学を深めたという。
元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山焼き討ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲
斐国に移住する。

その後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。のちの喜多院)に移り、天海を名乗ったとされる。

※ 信長死後、ここで光秀は天海になった。本能寺の変後、僧侶として生きていた? 延暦寺に籠った説?

 

天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺北院に来てからである。この時、江戸崎不動院の住持も兼任していた。

浅草寺の史料によれば北条攻めの際、天海は浅草寺の住職・忠豪とともに徳川家康の陣幕にいたとする。これからは、天海はそもそも家康のために関東に赴いたことがうかがえる。

豪海の後を受けて、天海が北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことである。その後、天海は家康(淨慶)の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。(僧籍の背乗り?光秀は秦氏の後裔・諜報工作員)

1600年 権現様たる淨慶・家康の誕生である。淨慶と光秀は蜜月関係にあった。

慶長12年(1607年)に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。ただし、辻達也は、天海は慶長14年(1609年)から家康に用いられたとしている。この年、権僧正に任ぜられた。

また慶長17年(1612年)に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め関東天台の本山とする。

慶長18年(1613年)には家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する。大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わったとされる。(天海の策略)

後半生
元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年4月に大僧正となった天海らに託す。

家康死後には神号を巡り以心崇伝、本多正純らと争う天海は「権現」として自らの宗教である
山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として古来よりの吉田神道で祭るべきだと主張した。

2代将軍・徳川秀忠の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。

その後3代将軍・徳川家光に仕え、寛永元年(1624年)には忍岡に寛永寺を創建する。江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する。

紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、大久保忠隣・福島正則・徳川忠長などの赦免を願い出ている。

これは輪王寺宮が特赦を願い出る慣例のもととなったという。堀直寄、柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走した。寛永20年(1643年)に108歳で没したとされる。その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈された。

3月16日

明智光秀の肖像画(大阪府岸和田市 本徳寺所蔵)がある。  明知光秀は生きていた?

本徳寺には位牌があるのですが、その位牌には「鳳岳院殿雲道大禅定門」と書かれ、肖像画には「雲道禅定門肖像賛」と書かれています。
「輝」の字のなかに「光」があり、「琇」の字のなかに「秀」が、つまり「光秀」の名がどちらにも隠れているというわけで、だからこれが光秀の肖像画なのだ、といわれています。
それだけでなく、この肖像画を書かせた、もしくは書いたのが光秀の息子・光慶であるとされており、それも光秀の肖像画だとする大きな根拠になっています。

本徳寺(大阪府岸和田市)の由緒
寺の開祖は光秀の息子?
本徳寺は臨済宗のお寺で、京都の臨済宗妙心寺派の大本山である妙心寺の末寺です。このお寺の開祖が南国梵桂(なんごくぼんけい)という安土桃山時代の僧侶でした。俗に、この南国梵桂が光秀の遺子・明智光慶(あけちみつよし)だと言われています。

光慶(十兵衛)は複数ある明智氏の系図では『明智軍記』や「鈴木叢書」所収の『明智系図』にしか見えない名ではありますが、光秀とともに連歌会に名を連ねたことが記録に残っており、実在した人物であろうといわれています。
『明智軍記』によると、光慶は山崎の戦いで光秀が敗死した天正10年(1582)6月13日に亀山城で病死したとありますが、同日に討ち死にしたならともかく病死とは偶然過ぎる…。
自害だった可能性、討ち死にした可能性もありますが、光秀の子どもたちについては討ち取られたという記録がそもそも残っていないため、落ちのびて生きていた可能性も十分に考えられます。そのため、光慶=南国梵桂という説も完全に作り話だ、とは言い切れない。

1582年6月13日に、光秀と子の光慶が死んだことになっている。二人が生き延びて天海僧正になったとも考えられる。108歳で没した長寿にも説明が付く。

表に出れない光秀は、天海となった光慶の陰となって行動を共にしていた可能性もある。それこそ天海の影武者となり、家康とも逢っていたとも考えられ、家康の参謀となり、光慶に知識を伝え、光秀の死後は光慶が天海として引き継ぎ、二人合せて108歳まで生きたとも考えられる。

二人とも1582年6月13日に死んだ確証がない。「秦氏・志能備」の後裔なら、姿を変えて生きている。

 

本徳寺がある岸和田市には、こんな伝説が残っています。(本徳寺は妙心寺の末寺

「本徳寺を開いた南国和尚は光秀の実子で、父・光秀が討たれた後でひっそりと落ちのびて京都の妙心寺で僧侶になった。その後、貝塚にある鳥羽村の海雲寺で父・光秀の肖像画を描き、位牌も用意して供養した。この海雲寺を岸和田に移転したのが今の本徳寺である。」
岸和田の地では、古くからこのように昔話として本徳寺の由緒が伝えられてきたようです。

「光秀唯一の肖像画 ~光秀と本徳寺とのつながり」
東滋実  2019/12/16のネット記事より

光秀を目の前にして、光秀の肖像画を描いたとの話も有り、二人で妙心寺に落ち伸びたとも考えられる。

 

妙心寺 開基(創立者)は花園天皇。(本徳寺は妙心寺の末寺)

花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。 妙心寺は、大徳寺(龍寶山大德禪寺)とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。 
法嗣の悟渓宗頓に帰依していた利貞尼は、関白一条兼良女で美濃国加納城主斎藤妙純の室である。
妙心寺住職の妹の慈徳院が織田信長の嫡男・織田信忠の乳母となり、その後に信長の側室になり、六女の三の丸殿(豊臣秀吉の側室)を儲けた。本能寺の変で信長が討たれると、信長の妹のお市の方が信長の百箇日法要を妙心寺で執り行った。

利貞尼は、美濃の斎藤一族・斎藤 妙純( 斎藤 利国)の妻・野間入道の娘(甘露寺親長の養女) 利貞尼の娘は朝倉貞景室。

妙心寺は花園天皇開基であり、朝臣と思える明智光秀との関わり合いが深い。

続く。。。


徳川家康の謎  家康は影武者だった? 足利源氏を倒し、新田源氏が天下を取る、服部忍者・正徳大使の「志能備」秦氏の末裔との共闘である。1

2023年02月23日 17時03分36秒 | 歴史 戦国時代 徳川家康 織田信長 服部半蔵 新田源氏 武田信玄 八王子千人同心

家康の謎 1    家康影武者説の推移

松平元康の経歴

1542年 12月26日生 広忠と於大の子元康誕生 於大は源応尼と水野忠政の娘

      側室だったお久は於大の婚入れと同時に帰村している。

      元康は双子だったとの推測も 一人は側室(お久)に預けた?  

      松平家は今川と同盟関係だったが、3年後、義兄・水野元信の織田への寝返りで元康の母於大・離縁・追放される。

※ 於大は、広忠と離縁した後に、織田の紹介で久松俊勝再婚した。久松は1562年に今川家臣の鵜殿長照が守る上ノ郷城を攻めの責任者である。

1543年 1月31日生? 天文11年12月26日

      元康の異母弟・恵新(後の樵暗恵最)誕生 

      元康と同じ広忠の子で同じ1542年12月26日に生まれたとも言われる。

      恵新はお久と広忠の子と言われる。 広忠寺住職となる。

      母は松平乗正の娘・お久の方 元康の異父兄は勘六(後の松平忠政)は於大の子の浄慶では?

      於大の父は水野忠政(養父?)となっており、勘六は水野忠政から名前を取った?

1547年 今川へ人質移動、途中で戸田に奪われ、織田に2年間程人質になる。 

1549年 織田と人質交換で今川の人質となる。今川で元康は祖母源応尼(養育係)と暮らす。  

      源応尼は於大の子の国松(浄慶)と暮らしていた筈、浄慶と元康は異父兄弟

      国松は東照山円光院の住職・智短上人の門に入って「浄慶」と改名したとの記載あり

1555年 今川にて元服する。 松平次郎三郎元信と名乗る。

1557年 瀬名(築山)と結婚  子は信康と亀姫の2人

1558年 三河念劇の騒乱で初陣して手柄をたてる。

      今川より岡崎の領地300貫文分を得る。

1559年 3月6日 松平元康の長男・信康誕生(築山の子)

1560年 今川から独立する。(大窪党の活躍か?)

      大窪党の2代目頭・大窪忠俊は大久保と改名 出自は下野の宇都宮の旧姓宇津、祖は新田義貞の家来 後の大久保一門の当主 

         

※ 松平元康(本流)は1560(永禄3)12月5日、織田信長と戦うべく尾張に向けて侵攻をしていた尾張守山において、阿部正豊(弥七郎)に暗殺された?

 

1561年 元康の異母弟・恵新死亡の墓有り。実は松平元康(本流)が死亡したのではないか? 

      ここから恵新の成り代わり、元康影武者説が浮上する。家康は生涯4度死ぬ!

      元康は織田との戦(石ケ瀬合戦)で暗殺された? 今川に帰れなくなった理由とも思われる。

      元康(死?)に影武者元康(異母弟・恵新)が成り代わる? 実は双子の兄弟か? 

      世良田二郎三郎元信は、異父兄の浄慶(勘六?)が名のる 

 

1562年 清州同盟  石川数正の交渉力で信長を味方にする。

      信長との接見は、元康の異父兄の浄慶・勘六(後の松平忠政)又は恵新が成り代わるか?

      お久の子とする勘六は、水野忠政、松平忠政の名前から察すると、母は於大の可能性が高い 浄慶と同一人物と思われる。

      信長は家康の成り代わりを知っていた可能性も高い、信康と娘五徳の結婚を条件に領地拡大で戦略的に合意したとも思われる。

1564~1566年 三河の一向一揆が起きる。松平元康の求心力低下、影武者不安、内部分裂 

      松平家康と改名する。

1566年 徳川家康と改名する。天皇に源氏の末裔では官位が得られなかったため、藤原氏の末裔として官位を得る。

1579年 9月15日 松平信康 切腹(20歳) 松平の本流の血筋が終わる。

1588年 徳川家康は源氏(新田源氏・得川)の末裔と主張して官位を得る。

 

家康・影武者の推測

 

1560年12月5日~1561年にかけて、戦場で松平元康は阿部正豊(弥七郎)に暗殺された。

以後、異母弟の恵新(松平広忠の子)が松平元康に成り代わる。影武者浄慶・勘六 二人が別人であっても矛盾は生じない。

 

世良田次郎三郎元信なる人物は、三河一向一揆(1564~1566年)で本多正信と共に家康と戦ったササラ者(忍び)の頭と言われる淨慶であり、勘六と推測できる。

恵新は元康に成り代わっており、淨慶・勘六も容貌が元康(恵新)と似ており、影武者になったと思われる。この頃に家康と改名し、1566年には徳川家康と改名する。

 

桶狭間合戦時の年齢 永禄三年(1560年)

尾張の織田信長は 二十七歳。

松平蔵人元康は    十九歳。 広忠の子 松平二郎三郎元信 21歳で暗殺?

松平竹千代      二歳。 元康・瀬名(築山)の子「岡崎三郎信康」

石川数正は    二十九歳。

浄慶(於大の子) 二十一歳?不明 父は江田松本坊、母は於大(源応尼の娘)の子。

勘六(お久の子) 二十一歳 1541年生まれ、後の松平忠政、浄慶と同一人物の可能性もあり

恵新(広忠寺僧侶)  十九歳。 1542年生まれ広忠とお久の子 21歳で元康の影武者となる。

恵新は、松平次郎三郎元信を引き継ぎ、松平元康となり、徳川家康となる。

勘六は、お久の子と言われるが、於大の子・淨慶とも考えられる。

側室だったお久は、於大が広忠に嫁入りと入れ替わりに「勘六を連れて三河国桑谷村へ移り住んだ」とある。

 

源応尼の娘於大とお久は血筋が同じか?忍びの一族と考えられる。松平家乗っ取りの為に広忠に近づいたと考えられ、義兄の水野の裏切りもあり、於大は離縁、追放されたのだろう。

 

清州同盟を成立

石川数正は淨慶・勘六(元康の影武者)と共に清州同盟を成立させる。恵新は温存した?

その後、元康は松平家康に改名。1566年 徳川家康と改名する。

信長の若いころ、織田の軍師で伊束法師(意足法師とも)という呪術的軍配者がいた。織田信長、徳川家康のブレーンをつとめたといわれる僧侶である。1560年の桶狭間(おけはざま)の戦いのころは、信長の側にいたことは確実で、伊束法師が占い、当日の大雨を予想していた可能性がある。伊束法師は家康の監視役だったと言われる。新田源氏得川の血筋、江田松本坊と源応尼との関わりはないのか?勘六を家臣とした酒井忠次も新田源氏の末裔と称している。

 

推測

恵新(家康)は関ヶ原の合戦で死亡する、以後、異父兄の淨慶・勘六(影武者)が家康に成り代わる。

2代将軍徳川秀忠は恵新(影武者家康)の子ではないか? 

秀忠の母は鍛冶屋の娘おあい(後の西郷の局)、伊賀忍軍の上忍である「服部家」で育てられたくノ一ともいわれる。

 

3代将軍徳川家光は、淨慶・勘六(得川家康)の子ではないか? 父は新田源氏・得川の血筋 母は春日野局ともいわれる。

浄慶は、父が下野国・栃木県出身の江田松本坊の子で母は於大(祖母は源応尼)であり、勘六は於大の子と推測?・浄慶と同一人物

 

元康と恵新は父が広忠で同じ、元康と浄慶は母が於大で同じ、勘六の父は別人で母はお久なら浄慶との2人の血縁関係が無いが、於大とお久に血の繋がりがあれば、元康、浄慶、恵新、勘六は血縁関係になる。元康と恵新が双子で浄慶と勘六が同一人物なら於大の子となる。

お久は恵新(元康と双子?)と勘六の実母ではないかもしれない。於大の子、恵新と勘六(浄慶)を預かったのかもしれない。

於大の子、浄慶(勘六)を祖母源応尼が預かり、恵新の母お久に預けて、祖母源応尼が今川の人質となった松平元康を養育したと推測できる。

父江田松本坊と母於大(源応尼の娘)に男子が生まれ、幼名国松と名づけ浄慶となったとある。浄慶は勘六と同一人物とも推測できる。

勘六はお久の子ではない? お久の子で浄慶とは別人であったとしても、家康の影武者として存在した可能性は高い。

酒井忠次に弟の存在を知らされて、元康が弟の恵新とお久を訪ねたシーンがある。その場から、勘六は元康の家臣になって同行したとなっている。松平元康に、世良田二郎三郎元信(権現様)が降参して家来になった場面と一致する。誘拐した元康の子信康を返還して、保護していたことを、祖母の源応尼が弁明すればお咎め無しになる筈。表向きには「信康誘拐の罪で処刑」された源応尼は、替え玉の別人だったと推測できる。

この時は1562年の今川との人質交換の時だと推測できる。元康は既に影武者・恵新であり、母のお久と勘六(淨慶・世良田二郎三郎元信)を訪ねて、竹千代(信康)を受け取ったシーンと推測できる。

淨慶・世良田二郎三郎元信(権現様)が降参して家来になった場面ではないか? 淨慶・勘六・松平忠政と一致する。

元康(影武者・恵新)は石川数正に、今川から取り戻した築山、亀姫と竹千代を連れて、3人連れで入城させたと推測できる。

信康は、既に世良田二郎三郎元信に奪われていて、今川の管理下にはいなかったので人質交渉が成立したと推測できる。今川が竹千代(信康)を返還することは戦略的に考えられない!

元康の母於大は源応尼と水野忠政の子となっている。勘六は松平忠政と名のっており、勘六は於大の子で浄慶(世良田二郎三郎元信・権現様)と同一人物と思われる。

勘六は(酒井氏の入り婿になった後、松平氏の婿となった。。。)始祖松平親氏の伝説と類似している。

 

徳川家康の謎

『駿府政治録』に、

 「慶長17年(1612年)8月19日に、家康公が雑談しているなかで『幼少の頃、又右衛門某に、銭五貫で売られ、9歳~18・19歳まで駿府に住んでいた』と話されたが、家来は一体何の事か理解に苦しむ」 という内容の文書が実在する。  

本物の松平元康の体験談ではない! 家康の影武者・恵新死後の影武者・浄慶(勘六)の体験談と思われる。

 

『石ケ瀬合戦(1561年~』始末記』には、

 「松平好景に追い落されて、石ケ瀬の河原までようやく引かれて来たが、葦草の茂みの中より突然、岡崎の大将(松平元康)が兵を待ち伏せていて、不意に討ってかかって来た。このため防ぎきれずに味方の半分は板倉が率いて山岡へ向かって手薄になった。よってやむなく権現様(浄慶・勘六?)自らが槍を振るって突進なされ、岡崎の大将(松平元康)を突こうとされたが、成瀬八郎がこれを止めて、対岸の山へ案内して、しばらく山中に篭もられた」

 という文書が存在し、正史で言う同一人物が戦った事になる。 世良田二郎三郎元信(権現様)と松平次郎三郎元信(元康)の戦い場面である。

 

浄慶(勘六)は、1560年(永禄年)に「世良田二郎三郎元信」と名乗る

世良田二郎三郎元信(権現様)家臣として、酒井浄賢、石川四郎、大久保甚四郎、榊原小平太(年若)、鳥居元忠(父子)、成瀬八郎、板倉内膳正、板倉弾正、平岩七之助等の名前が確認できる。

 

大仙寺寄進状、前にまいらせ候を、人に御盗まれ候よし、かねて三郎(元信)寄進状を参らせ候。判の事は、未だ何方へも、かようの事にせられ候まま、我々が御判を押して参らせ候。何時もかようの事に判をいたし候はん時、この寄進状にも似せて参らせ候へく候。前の御盗まれ候にも、三文字の判は候ましく候。前の寄進状いたし候物は、盗人にて候へく候。その為にわが身一筆示しいらせ候。返す返す大仙寺の事、道幹(広忠)にも、今の三郎(元信)にも、我々使い申して参らせ候。この寺は、我々が寺の事にて候まま、いつかたのいろこいもあるまじく候。 弘治二年丙辰六月甘四日 大仙寺 俊恵蔵主へ 参る しんさう

 

弘治二年は1556年の手紙である。

この文書は、元信の母親が書いたとされる文書なのであるが、現在では、しんさうは、家康の父とされる広忠の側室である久子という人物である事が確定している。しんさう(久子)の息子の元信とは、竹千代の改名した元信ではない事になってしまう。。。  二人の元信の存在

 

※ 広忠の側室、久子の息子は恵新であり、家康の影武者となった次郎三郎元信でもある。家康の影武者は、恵新、勘六(浄慶)の二人だったと思われる。

  広忠の側室、久子の息子も元信で、於大の息子も元信で2人存在する。元康と恵新は双子で於大の子だった可能性もあり、於大は恵新一人を連れて離縁となり、側室だった久子と母の源応尼に恵新を預けた可能性もある。家康は双子だった?

 

於大の子で本流は1555年に松平次郎三郎元信と名乗り、今川にて元服する。 

1557年 瀬名(築山)と結婚。子は信康と亀姫の2人

 

1579年 家康(影武者恵新?)は、信長が信康・築山殿の処罰を命じたとし、築山殿を遠江富塚に殺害し、信康を二俣城で切腹させる。浜松城派の酒井忠次を筆頭とする集団指導体制である。

 

2代将軍秀忠は恵新の子と推測?

秀忠の母、鍛冶屋の娘おあい(後の西郷の局)は幼い頃から伊賀忍軍の上忍である「服部家」で育てられたため、「くノ一」といわれる。

於大の母・源応尼も伊賀忍軍の「くノ一」といわれる。於大が「くノ一」であっても不思議ではない。

於大の母源応尼は伊賀忍者のくノ一、ささら者(賤民・忍び)であったとも言われ、於大も服部忍者との繋がりが深いと思われる。

松平乗正の娘お久の方、於大、源応尼、江田松本坊との関係は、伊賀忍軍、南朝を支援した新田源氏等の繋がりが推測できる。

家康(恵新、勘六・浄慶)は駿府に居を定めて、岡崎城には住まずに浜松城に住んだのは、家康が影武者であることを隠すためと思われる。

 

推測 

松平乗正は「江田松本坊」と関係があり、於大とお久が源応尼(於富)の子で姉妹だった可能性もある。

いずれも服部忍者のくノ一で、於大は水野忠政の娘(養女?)として松平広忠に忍び寄った可能性がある。お久も同様に側室として広忠に近づいたのではないか?

 

源応尼(実名は「於富の方」)は明応元1492年に誕生、永禄3年5月6日 1560年 5月30日没。

しかし、その出自はに満ちている。
『尾張志』によれば、宮野善四郎の娘だとあり、『川口家々譜』では大河内但馬守満成の娘だという。『美濃国諸家系譜』の「大河内家譜」では但馬守満成が大河内左衛門佐元綱の父であり、元網は於富の養父であるとの記載がある。その他にも諸説あり、未だその出自がはっきりしない
さらには、そもそもは身分の低い家の出身ではないかという説まであり、謎だらけの出自
水野忠政に嫁ぎ、3男1女を儲けたとされる。この1女が徳川家康の生母となる於大の方。その後、源応尼は広忠の父・松平清康にも嫁いでいる。源応尼は広忠の義母?清康の側室 謎だらけで何処まで真実か分からない。

。。。ネット情報より

※源応尼は大河内左衛門佐元綱が於富の養父であるとの記載から、出自は不明瞭、於大は源応尼と水野忠政の娘となっているが養女の可能性が高い、松平広忠との婚姻の為、於大の出自を整えた。

源応尼は元綱の養女とあり出自は不明、伊賀忍軍の「くノ一」である。元信(浄慶)は、大河内源三郎の妻である乳母の協力で信康(竹千代)を今川から誘拐したとあり、大河内の繋がりがある。

 

「世良田二郎三郎元信」の経歴やその父江田松本坊なる人物は、徳川氏に伝わる始祖松平親氏の伝説と類似している。

親氏は新田源氏の一族、世良田有親の子として生まれ、時宗の遊行僧として三河に漂着、酒井氏の入り婿になった後、松平氏の婿となったと伝えられている。しかし、この伝説には疑問も多く、松平氏の先祖を粉飾するための伝説とされている。松平忠政となった勘六・淨慶の話にそっくりである。

 

松平元康と入れ替わったとされる世良田次郎三郎元信なる人物は、三河一向一揆(1564~1566年)で本多正信と共に家康と戦ったササラ者の頭といわれる。

この時点で家康が影武者恵新なら、浄慶(勘六)と対峙し戦ったことになる。争乱は寺社権力の弱体が目的であり、松平家を潰す考えは双方共になかった。

 

この戦いは一向宗をまき込んだ松平家臣の仲間割れであり、元康が影武者恵新なら統治力が働かなった。影武者体制のひ弱さが出た。

石川数正は、元康の実子である信康に家督を継がせる強い忠誠心があり、改宗して一向宗と袂を分けたが、石川一族や本多正信らの多くの家臣は、一向宗の味方となり松平家と対峙した。

もともと仲間割れの争いなので、松平家を潰す考えは無く、その後、遺恨を残さずに和解できたともいえる。

 

潰れそうな松平家を支えてきたのは、ささら者((賤民・忍び等)の集団や地域豪族の協力に因るところが大きい。服部忍者集団や大窪党(後の大久保)等の協力である。

大窪党は越前から来た大窪藤五郎なる人物が率いており、加賀の一向一揆発祥の地から流れて来た武装集団である。2代目が宇津忠俊(大久保)

 

後の主導権争いで、信康を跡目とする石川数正の岡崎城派と酒井忠次が支持する影武者のいる浜松城派の対立構造に発展した可能性が高い。

信康は武者ぶり優れ、衆望を担ってきており、それで迷惑するのは、三河を横領出来なくなる影武者家康を支持する酒井忠次の浜松城派である。信康、築山を処分する必要があった。

浜松城派の悪略に乗せられて、岡崎城派は信康の切腹で勢力争いに負け、石川数正の命も危なくなり、出奔にも繋がったと推測できる。

信康の妻五徳の12ヶ条の信長への苦情において、石川数正が関与することも無く、信長に陳情することも無く、酒井忠次が信長に説明しているのは不自然である。

信康、築山を処分するために五徳を煽り、信長を怒らせて信康処分を了承させたと思われる。影武者家康の松平家乗っ取りの完結である。

数正は忠義を尽くすべき、松平家本流の元康、信康を喪い、浜松城派の邪魔者となり、数正の命も狙われたからの出奔だと推測できる。

 

家康影武者説

 

家康影武者説を唱える村岡素一郎は、元康と入れ替わった人物を「浄慶」、後に「世良田二郎三郎元信」と名乗った願人であると推定している。

元信の母親は、ささら者(賤民)の娘(源応尼・於富の方)の子於大、父親は新田氏嫡流(新田氏支流江田氏)で下野国都賀郡小野寺村出身の「江田松本坊」という祈祷僧としている。

天文11年12月26日(1543年1月31日)、駿府の宮の前町で生まれた子は「国松」と名付けられたが、松本坊は彼が生まれた直後にどこへともなく出奔したとしている。

生まれ年月日から国松は元康、恵新と同じ誕生日になるが、宮の前町で生まれた子「国松」は、浄慶(勘六)だと思われる。於大が広忠に嫁ぐ数年前のことである。

国松は於大の子で東照山円光院の住職・智短上人の門に入って「浄慶」と改名した。その後、破門されて寺を去っている。

浄慶は駿府を放浪していたが、又右衛門という男に攫われて、子供を欲しがっていた願人の「酒井常光坊」に銭五貫で売られたという。酒井一族との繋がり

 

こうして少年時代を過ごした浄慶は、1560年(永禄3年)に「世良田二郎三郎元信」と名乗る。

実父の松本坊が新田氏の末裔と称していたため、世良田姓を名乗ったという。そして同年4月の桶狭間の戦い直前、元信は元康の嫡男で駿府に人質としてあった竹千代(後の松平信康)を誘拐して遠州掛塚に逃走したという。この時、竹千代を預かり、面倒をみたのが鍛冶屋の娘おあいであり、協力者は源応尼である。

これが原因で、源応尼は1560年5月6日に処刑されたとされるが、処刑されたのは身代わりの別人と思われる。

世良田二郎三郎元信は、今川義元が上洛するにあたって、三河の当主松平元康の子、竹千代を誘惑した。というのは、今川の先駆けとしての元康が討ち死にでもすれば、三河の当主の跡継ぎを次郎らが押さえておけば、三河一国は握れるだろう、という深謀からである。だから狐が崎の人質屋敷から、大久保、板倉、酒井らと共に竹千代をさらった。(服部忍軍と大窪党)

さて、この時の事。次郎は大河内源三郎の妻である乳母の協力のもとに、竹千代を誘拐して、慈悲尾の増善寺へひとまず逃げ込んで、ここに暫く隠れていたいた後、その寺の等善坊の助けで小舟を借り、寺男の瀬平が葛籠に竹千代を匿し、共に石田湊に出て、鍛冶屋の娘おあい(後の西郷の局、秀忠の母)のいる、掛塚へ戻った。。。とある

これが事実なら、1562年の人質交換は瀬名と亀姫の2名であり、信康抜きの2対2で交渉成立のハードルは低くなっている。

源応尼の甥、大河内政房の妻が駿河にいた竹千代(信康)の乳母をしていた。信康は大河内政房の妻の手引きで駿府を脱出したという記述がある。一説に、この妻が竹千代誘拐に加担した件で、源応尼は刑死させられたとも言われる。」

源応尼は1560年に死亡しており、竹千代誘拐に加担した件で、源応尼は刑死した。

後に大河内家が松平姓を賜った事は、ご褒美ととれる。恵新の異父兄の勘六も、松平姓で松平忠政と名のっている。源応尼は水野、松平家との関係が深い、謎だらけの出自でもある。

 

松平元康の暗殺計画があったと思える。元康の子、竹千代(信康)を誘惑して松平家を乗っ取る計画である。酒井忠次、大窪党、世良田二郎三郎元信(権現様)らの策略である。

 

鍛冶屋の娘おあい・於愛(後の西郷の局、秀忠の母)

 

西郷の局は、幼い頃から伊賀忍軍の上忍である「服部家」で育てられたため、「くノ一」であるとも言われている。 成長してから家康(恵新?)の侍女となり、秀忠 を生んで側室となったが、38歳の若さで病死した。

服部正尚は、服部平蔵正信の長男で、伊賀忍者である。鍛冶屋の娘おあいは服部正尚の子の可能性がある?

 

西郷の局(1552年生~1590年没)戸塚忠春の後妻(西郷家)の子 於愛・おあい
家康の側室で、徳川幕府の二代将軍 「徳川秀忠」 の母

家康が浜松城に居た天正六年(1578年)、於愛が二十七歳の時、家康の許に側室として召し出された。於愛は西郷正勝の娘と戸塚忠春との間に生まれたとあるが、戸塚忠春が戦死した後に、西郷正勝の娘と於愛は服部正尚のもとに嫁いでいる。

秀忠の母・於愛は、服部七右衛門(後の青山成重・正尚の弟)の義理の姪になる。正尚の実子の可能性もある。

服部半蔵は伊賀上忍であった服部家の血縁を活かし、宗家・服部正尚と連携し家康の伊賀越えの脱出劇に加勢した。
服部一門は、家康によって伊賀組と取り立てられ、服部半蔵を組頭にした徳川家の家臣となった。

伊賀国・服部宗家の服部正尚は、弟の服部七右衛門を自分の代わりに家康の元へ仕えさせた。
服部七右衛門は、やがて服部宗家を継ぐこととなり、さらに、青山(忠重)家に養子入りしている。そして、改名し青山成重となった。(出自は服部宗家の忍者)

青山成重と改名した服部七右衛門は、秀忠のもり役となり、以後、秀忠の側近として権勢を振るった。

青山家は、青山忠門が松平広忠・徳川家に仕え、その子忠成は秀忠の守役を務めて徳川氏の創業に貢献している。

伊賀服部宗家が、青山家となっている。服部忍者と徳川家は血縁関係がある。

 

秀忠の母・於愛(西郷局)は戸塚忠春の子ではなく、服部正尚と西郷正勝の娘との間に生まれた子だったとも考えられる。そして、服部家で育てられ、家康に寵愛されて秀忠を生んだ。そして、もり役として服部宗家の七右衛門(青山成重)が抜擢されることになった繋がりがある。

於愛は幼い頃から伊賀忍軍の上忍である「服部家」で育てられたため、「くノ一」である。伊賀忍軍の鍛冶屋の娘・おあいである

服部正尚は、【服部半蔵正成】の一門、服部平蔵正信の長男で、伊賀忍者。
青山成重(七右衛門)は、服部平蔵正信の次男で[大久保長安]の 3男の養父。

 

「世良田二郎三郎元信・浄慶」の浜松城攻め

桶狭間で今川義元が織田信長に討たれて今川氏が混乱すると、「世良田二郎三郎元信」は同志を集めて浜松城を落とし、さらに勢いに乗じて三河を攻略しようとしたが、松平元康に敗れて尾張に逃れる。信長と水野信元を使い、元康に今川から離反するよう説得する。しかし元康が断ったため、怒った信長は、信元に命じて元康を攻撃する。しかし、元信が期待したような本格的な侵攻にならず、孤立した元信は元康に降伏し、奪った竹千代(信康)の身柄を元康に返還することを条件に罪を許され、その家臣になったという。その後、元康が死す?

※ 淨慶(権現様)が信康の身柄を元康に返還したのが事実なら、1560年に今川から信康を奪還したのは事実で成功したことになる。源応尼の処刑事件

元康の母於大は、水野信元の養女となり、松平広忠に嫁いでいる。浄慶と水野家の繋がりがある。

この時点での世良田二郎三郎元信は浄慶(権現様)であったと思われる。この後、元康暗殺が行なわれて、同じ年の恵新が元康に成り代わることになった。浄慶(勘六?)も元康の影武者であったと思われる。

 

疑問

浄慶の父・江田松本坊なる人物は忽然と消えている。その後、何者になったのか? 不明である。 

勘六(淨慶?)は、後の松平忠政と名のった武士になったが1570年の「姉川の戦い」で死亡となっており、末裔は途絶えていて不明である。家康の影武者として生存していた?

源応尼は(1560年5月6日に処刑された)。家康の母於大と石川家成の母で二人の娘がいる。水野忠政の妻となり娘は於大、のちに松平清康、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐といった三河の諸豪族に次々に嫁ぐが死別。不可解な死別では? 

於大は源応尼と水野忠政の子となっている。勘六は松平忠政と名のっている。勘六は於大の子で浄慶と同一人物とも思われる。

 

今川氏真との人質交換による、瀬名、亀姫、奪還の背景

 

家康と織田信長が同盟を結んだのは、1562(永禄5)年1月とされる。

家康が今川家臣の鵜殿長照が守る上ノ郷城を攻めたのは同年の2月である。

 

家康が上ノ郷城の攻撃を命じたのは、久松俊勝(ひさまつとしかつ)と松井忠次(まついただつぐ)

俊勝は久松長家(ながいえ)の名前で、家康の実母である於大の方が、家康の父・広忠と離縁した後に再婚した相手である。

於大は服部・伊賀忍者のくノ一である。伊賀、甲賀の忍者衆を動員する力があった。家康は既に影武者の恵新であった筈で、服部忍軍と大窪党の活躍で、久松俊勝は上ノ郷城を攻略した。

 

城攻めに伴い、酒井忠次は配下の石原三郎左衛門という者に次のような進言を受けたという。(大窪党は酒井忠次の配下である)

「(上ノ郷城は)要害嶮岨(ようがいけんそ)につき、力攻すれば味方の損害も多いでしょう。

さいわい、旗本のうちに江州甲賀衆に所縁の者がありますから、甲賀衆を招き、城内へ忍びを入れ置いて攻めるがよいでしょう」

 

これを受けて酒井忠次は、甲賀(現在の滋賀県甲賀町など)から伴太郎左衛門資家(ばんたろうざえもんすけいえ)を呼び寄せ、忍び働きに熟練した者を集め城内に潜入させた。潜り込んだ甲賀衆は約280人といわれる。

 

服部半蔵の履歴によれば、半蔵の初陣は三河の「宇土城夜討の時、正成(半蔵)十六歳にして」とある。

宇土城(うとじょう)とは上ノ郷城の別名。1562(永禄5)年の上ノ郷城攻めのこと。

上ノ郷城の攻撃には、伴ら甲賀衆と、半蔵ら伊賀衆の忍者たちが加わっていた。源応尼、於大は伊賀忍者

 

鵜殿長照は伴与七郎によって斬り殺された。指示系統が失われた城内に本隊の松平軍が討ち入り、難なく城は陥落。

生け捕りにされたのが、長照の息子である氏長と氏次である。(今川との人質交換となる)久松俊勝と於大の功績である。

鵜殿氏は、長照の母が今川義元(いまがわよしもと)の妹とされており、今川氏にとって重臣であり、縁戚だけでなく忠義の面でも固く結ばれていたので、家康の妻子と、鵜殿長照の息子の人質交換を今川氏真は承諾した。

 

石川数正は、元康の妻子(瀬名と亀姫)を救う為、今川方に単身乗り込んで人質交換交渉を成立させたのである。今川氏真は家康の妻子が、今川氏の重臣の関口氏純の娘や孫であり、処刑を躊躇していた背景もある。

なお、人質交換された鵜殿氏長・氏次兄弟は、氏真が没落した後、ともに家康に仕えている。

 

酒井忠次のルーツ

西三河の坂井郷から起こった土豪で松平氏の別流
戦国期に松平氏とともに勢力を広げ、近世には井伊氏・本多氏・榊原氏とともに譜代大名中最高の家格の門閥譜代層を構成し、一族から多数の大老や老中を出している。

14世紀の末頃に酒井郷の領主であった酒井忠明の子が酒井忠時(酒井太郎左衛門少尉忠時)で、さらに忠時の子に当たる酒井忠則は、新田氏の支族、世良田氏の一族を名乗る時宗の僧・徳阿弥(後の松平親氏)を娘婿に迎えたという。
その間に生まれた子が酒井広親(庶長子)で、成長した広親は松平親氏系の酒井氏の始祖となったとされる。
松平氏と同族の清和源氏新田氏流であることを主張するために、家康の時代以降に創作されたものとされる。
酒井氏先祖の墓に長阿弥(新田有親)の墓も設けられた。 新田源氏の末裔を主張

左衛門尉酒井氏は、酒井広親の長子氏忠の家系であると伝わっているが、左衛門尉系は徳川家康に仕えた酒井忠次の父から系譜が書かれており、その間の系譜は明確ではない。
1564年(永禄7年)に忠次は家康より三河吉田城主に取り立てられ、家康が三河を支配する過程で東三河は忠次が旗頭に任命されて支配した。

 

松平家も酒井家も ルーツが同じで、新田源氏の末裔を主張している。新田氏の支族、世良田氏の一族を名乗る流浪の時宗の僧・徳阿弥(後の松平親氏)を祖としている。

 

大窪党 大久保忠俊(宇津・大窪忠俊)の経歴 

大久保 忠俊(おおくぼ ただとし)は、三河の松平氏(徳川氏)の譜代家臣宇津忠茂の子。蟹江七本槍の一人。通称は新八郎、五郎右衛門とも。号は常源。妻は坂部正利の娘。弟に大久保忠員ら、子に忠勝らがいる。 

明応8年(1499年)、宇津忠茂の子として誕生した。三河領主松平清康に仕える。
後年に甥の大久保彦左衛門が著した『三河物語』によると、越前の大窪藤五郎という武芸者が三河に修業に来て、自分の名字を残すのは忠俊しかいないと要望したので、主君・清康に伺いを立てると、大窪は剛勇の士であるからその望みを認めようと言ったので、当初の姓は「宇津」であったが、兄弟全員と共に「大窪」姓に改姓し、大窪藤五郎の戦死後に忠俊が「大久保」姓と改めたとされる。 

忠俊は大窪党の2代目頭となる。 宇津 ⇒ 大窪 ⇒ 大久保と改名する。越前の大窪藤五郎は百姓の自治、百年王国(加賀一向一揆で壊滅)を築いた一向宗門徒の傭兵である。

天文4年(1535年)、尾張国守山において松平清康が陣中にて急死する森山崩れの後、三河勢は岡崎城に潰走したが、信定に城を占領された結果、阿部定吉らは広忠をつれて更に伊勢国神戸に潰走した。
家臣団は信定派と広忠派に分裂したが、忠俊は密かに広忠派に内通し帰城を謀った。天文5年(1536年)、広忠は今川義元の後援を受けて三河牟呂城に入った。信定は国内で広忠を支持するものが増えていると聞いて、諸士を伊賀八幡宮に集めて起請文を書かせた。三河物語によると大窪家の忠俊には7枚の起請文を三度にわたって書かされたが、忠俊は引き続き弟・忠員、忠久、林藤助、八国甚六郎、成瀬正頼・大原左近衛門らと密議を重ねた。 

天文6年(1537年)5月1日についに広忠を岡崎城に迎え入れたが、この功で15貫文の采地、連名の判物を賜り、中野の代官職を与えられ、同地で百貫の采地を与えられた。 

天文9年(1540年)、広忠は渡の戦いで敗れたが、忠俊は堤の柳の陰に伏兵を置いて追撃する敵を防ぎ、植村新六の加勢をえて、敵を逆に敗走させた。この年の安城の戦いの前に、忠俊は大窪家の家督を相続した。大窪藤五郎はその戦いで討ち死にした。 

天文14年(1545年)、織田信秀が安城城(安祥城)を攻略して三河に侵攻した。広忠は千騎を率いて奇襲でこれを撃破したが、忠俊も戦功があった。 

天文17年(1548年)4月、(追放されていた)松平信孝が500騎余りを率いて明大寺辺りに進出し、岡崎城を窺った。忠俊と石川清兼は命を受けて、射手70名を伏兵として隠し、菅原河原を通った信孝を射殺して暗殺した。また同年、織田信秀は荒川新八郎に三河を侵攻させたが、忠俊が兵を出して撃退した。 

天文18年(1549年)、駿河の戦国大名今川義元は、三河勢に先導させて織田信広の籠もる安城城を攻めたが、忠俊らが先鋒となった。忠俊らは信広を生け捕ることに成功して、尾張勢(織田)と講和し、人質として捕らわれていた広忠の子竹千代(元康)との捕虜交換を実現させた。

※ 以後、織田に2年程人質となっていた竹千代(元康)は今川の人質となった。

永禄6年(1563年)の三河一向一揆では岡崎城の防備に務めた。また、家康が一向宗の寺院破却を言い出した際、忠俊の懸命の功労により一向宗の門徒は全員無罪とし、浄珠院で面倒を見る事を認めさせた。 

 

酒井忠次の配下、大久保忠俊は大窪党の2代目頭である。初代の 大窪藤五郎(越前から来た)は一向宗門徒の加賀一向一揆の傭兵である。家康側に付いて三河の一向宗と対峙したが、本気で戦う気持ちはなかった。岡崎城の防備に努めている。

一向宗の味方をした家康の家臣は、影武者体制を嫌った松平家古参の家臣らである。一向宗を撒き込んだ勢力争いの内部分裂であり、松平家を本気で潰す意図はなかった。一揆側の条件丸呑みして、半年での和解が示している。

大久保忠俊が、一向宗の門徒は全員無罪とし和解を成立させたことは当然である。家康は影武者(恵新)であり、決定権は酒井忠次、大久保忠俊にあったといえる。

後に、石川数正が支持する岡崎城の松平信康の家督相続を嫌い、酒井忠次、大久保忠俊ら浜松城派が、影武者家康の集団指導体制を維持するために、信康切腹に導いて、松平家の乗っ取りを完結させたと思われる。

 

一向宗を支持した本多 正信(ほんだ まさのぶ)は、反逆者となり諸国を流浪して、10年後には再度、家康の家臣となる。

父祖以来、徳川氏に仕えるが、三河一向一揆に与して鎮圧後に三河を出奔。後に許されて家康のもとへ帰参し、江戸開府後は家康、次いで2代将軍・徳川秀忠の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るった。 

三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として弟の正重と共に家康に敵対。一揆衆が家康によって鎮圧されると、徳川氏を出奔して加賀国に住した。『藩翰譜』によると、三河を出た後京へと向かい、その後加賀に赴いたとされる。また加賀では一向一揆の将として迎えられたともいわれ、そこで織田信長と戦ったともされる。 

この後、大久保忠世のとりなしにより徳川氏に帰参することとなり、初め鷹匠として仕えたという。帰参時期は諸説あって定かではない。早ければ元亀元年(1570年)の姉川の戦いの頃、最も遅くとも本能寺の変の少し前の頃には正式に帰参が叶っていたようである。天正10年(1582年)頃には、既に家康の信任を取り戻していたようであり、この頃以降、重臣として要職を歴任していくようになる。 

正信も伊賀越えに付き従ったともいわれる(『藩翰譜』。但し判明している34名の伊賀越えに同行した供廻の中に正信の名はない)。

慶長6年(1601年)からは、家康が将軍職に就任するために朝廷との交渉で尽力したといわれる。更にこの頃、本願寺(一向宗)では前法主・教如と法主・准如の兄弟が対立していたため、これを利用して本願寺の分裂を促すことを家康に献策。かつて自らも身を投じていた本願寺の勢力を弱めさせた。

秀忠が第2代将軍になると、正信は江戸にある秀忠のもとで幕政に参画し、慶長12年(1607年)からは秀忠付の年寄(老中)になった。 

慶長17年(1612年)には子の正純の家臣・岡本大八による朱印状偽造が発覚している(岡本大八事件)。なお、慶長18年(1613年)の大久保長安事件、慶長19年(1614年)の大久保忠隣失脚に関わったとされる。

本多一族と大久保一族の権力争いが勃発した。 本多一族の勝利に見えたが、その後、本多一族も粛清された。3代将軍家光の家督相続にも大きな影響が出た。