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徳川家康の謎  5  家康は影武者だった?  権現様の調略 影武者淨慶・世良田二郎三郎元信と大窪党の徳川幕府

2023年08月05日 17時45分10秒 | 歴史 戦国時代 徳川家康 織田信長 服部半蔵 新田源氏 武田信玄 八王子千人同心

徳川家康の謎  5  権現様の調略 影武者淨慶・世良田二郎三郎元信と大窪党の徳川幕府だった!

潰れそうな松平家を支え、乗っ取ったのは、南朝天皇を支持した源氏の末裔であり、ささら者(賤民・忍び等)の集団や地域豪族等の結束に因るところが大きい。淨慶・世良田二郎三郎元信(権現様)を旗頭とする服部忍者集団や大窪党(後の大久保)等の団結組織である。

大窪党とは

大窪党は越前から来た大窪藤五郎なる人物が頭として率いており、加賀の一向一揆(1488年)発祥の地から流れて来た武装集団であり、百姓の自治を実現した百年王国を築いた一向宗の傭兵である。

「加賀の国は、坊主・土豪・長衆(大百姓)などが共同して行ったので、「百姓の持ちたる国」といわれ、約100年も納めたのは、蓮如(一向宗「本願寺中興の祖」)のいる加賀の3ヶ寺と言われた本泉寺・松岡寺(能美郡)・光教寺(江沼郡)でした。」。。。本願寺は越前も領国とした。

石山合戦 

本願寺11世法主顕如は三好三人衆、および、浅井・朝倉氏と手を結ぶと共に各地の一向宗門徒に檄を飛ばし信長に宣戦布告する。浄土真宗本願寺勢力(一向宗)と織田信長との戦い。本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って戦った1570年、本願寺は、雑賀衆の門徒衆とともに以来11年にわたる石山戦争を戦い抜いたが、各地の一揆勢も破れたため、仏法存続を旨として1580年信長と和議を結んだ。

本願寺第11世・顕如の室・如春尼( にょしゅんに・教光院)1544年生~ 1598年没
左大臣・三条公頼の三女。源応尼の娘?於大の妹?
長姉の夫である細川晴元の養女となり、本願寺第10世・証如の子・茶々丸(顕如)と婚約。
1557年4月17日、さらに六角義賢の猶子となり14歳で顕如と結婚、石山本願寺に輿入れした。翌年に15歳で長男・教如を産む。1577年に34歳で三男・准如を産む

信長の家臣・滝川一益(1525年生)は甲賀忍者(志能備)で滝川家は六角家の家臣だった。本願寺・一向宗との繋がりもあり、如春尼(六角義賢の猶子)・源応尼の娘・於大の妹と繋がり、家康(元康、浄慶、惠新)と繋がる。家康と縁故の深い滝川一益は清州同盟の立役者である。

 

大久保 忠俊(1499年生 宇津忠俊)藤原北家宇都宮氏流 

大窪党を引き継いだ2代目頭が宇津忠俊(大久保)であり、出自は下野の宇都宮氏を祖、宇津の祖は新田義貞の家来であった。南朝支持派である。宇津氏は下野に勢力を持っていたが、その分家である武茂氏が泰藤の代に三河国上和田に移住したとの事。(宇津救命丸で有名)

宇津忠俊は兄弟全員と共に「大窪」姓に改姓し、その後、一族諸共大久保姓に改名した。忠俊は大久保一門の当主である。

大久保 忠俊は、三河領主松平清康の譜代家臣。宇津忠茂の子蟹江七本槍の一人。通称は新八郎、五郎右衛門とも。号は常源。妻は坂部正利の娘。弟に大久保忠員(子は大久保忠世)ら、子に忠勝らがいる。 

『三河物語』によると、

越前の大窪藤五郎という武芸者が三河に修業(本願寺の傭兵?)に来て、自分の名字を残すのは忠俊しかいないと要望したので、主君・松平清康(室・源応尼)に伺いを立てると、大窪藤五郎は剛勇の士であるからその望みを認めようと言ったので、当初の姓は「宇津」であったが、兄弟全員と共に「大窪」姓に改姓し、大窪藤五郎の戦死後(1540年没)に忠俊が「大久保」姓と改めたとされる。』 大窪党、源応尼・於大・淨慶(権現様)と繋がる。忠俊は大窪藤五郎の傭兵部隊を引き継ぐ。

宇津忠俊は大窪党の2代目頭となり、宇津⇒ 大窪⇒ 大久保と改名する。大窪党は権現様の家来である。

1535年、松平清康の急死後、家臣団は信定派と広忠派に分裂したが、大窪忠俊は引き続き弟・忠員、忠久、林藤助、八国甚六郎、成瀬正頼・大原左近衛門らと密議を重ね、密かに広忠派に内通し広忠の帰城を謀った。1537年広忠は岡崎城に入城した。(成瀬正頼の次男・成瀬 正一
1540年、広忠は渡の戦いで敗れたが、忠俊は追撃する敵を防ぎ、、敵を逆に敗走させた。大窪藤五郎はその戦いで討ち死にした。 
1548年4月、松平信孝(信定派)が500騎余りを率いて、岡崎城を窺ったが、忠俊と石川清兼は、射手70名を伏兵として隠し、松平信孝を射殺して暗殺した。
1549年、今川義元は、三河勢に先導させて織田信広の籠もる安城城を攻めた。先鋒となった忠俊らは信広を生け捕ることに成功して、織田と講和し、人質として捕らわれていた広忠の子竹千代(元康)との捕虜交換を実現させた。 以後、織田に2年程人質となっていた竹千代(元康)は今川の人質となった。
1563年の三河一向一揆では岡崎城の防備に務め、家康勢が一向宗の寺院破却を言い出した際、忠俊の懸命の功労により一向宗の門徒は全員無罪とし、浄珠院で面倒を見る事を認めさせた。

※大久保忠俊が、一向宗の門徒は全員無罪とし和解を成立させたことは当然である。家康は影武者(恵新)であり、決定権は酒井忠次、石川数正、大久保忠俊にあったといえる。

 

大久保忠世(1532年生、大窪党) 徳川家臣・大久保忠員(忠俊の弟)の長男として誕生。蟹江七本槍、徳川十六神将の1人に数えられる。
与力に成瀬正一、日下部定好、本多 正信。家督は嫡男・大久保忠隣(与力は大久保長安)

 

本多 正信(秦氏・本多家は賀茂神社の神官の家柄)陰陽修験の諜報員  一向宗を支持した

『陰陽修験者の「志能備」としての組織は、賀茂氏・役小角(えんのおずぬ)流れで組織化されていく。武術の発祥は陰陽修験道からで、修験武術の習得を通して、伊賀・甲賀・秦河勝(香具師・神農行商の祖)の「志能備」群団と接点があったと思われる。正徳大使の武官から特殊諜報員(忍び)と武士が生まれた。』

三河一向一揆が起こると、一揆方の武将として弟の正重と共に家康に敵対。一揆衆が家康によって鎮圧されると、反逆者となり徳川氏を出奔して加賀国に住した。『藩翰譜』によると、三河を出た後京へと向かい、その後加賀に赴いたとされる。また加賀では一向一揆の将として迎えられたともいわれ、そこで織田信長と戦ったともされる。雑賀衆・鉄砲隊と繋がる「志能備」である。

10数年後には、大久保忠世(大窪党)のとりなしにより徳川氏に帰参することとなり、再度、家康の家臣となる。初め鷹匠として仕えたとあり、正信は伊賀越え(1582年)に付き従ったともいわれる。武田家滅亡時には、武田家臣団を取り込むため、本領安堵と引き換えに徳川家臣団への参集を呼びかけた。武田遺臣との繋がりも深い。その頃は既に、家康の信任を取り戻しており、以降は重臣として要職を歴任している。 江戸開府後は家康、2代将軍・秀忠の側近として幕政の中枢にあり権勢を振るった。(子・本多正純)

1612年には子の本多正純の家臣・岡本大八による朱印状偽造が発覚している(岡本大八事件)

1613年の大久保長安事件、1614年の大久保忠隣、服部半蔵らの失脚に関わったとされる。

本多一族と大久保一族の権力争いが勃発した。 本多一族の勝利に見えたが、その後、本多一族も粛清された。

 

大久保長安(南朝大蔵・志能備・信玄の影武者担当) 大久保忠隣の与力 大窪党

長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽師(現能)、父は金春流の猿楽師 武田家臣の山本勘助南朝吉野冠者・清和源氏の流れを汲む駿河源氏・吉野氏の子孫)に学ぶ。大蔵、土屋、大久保と改名 八王子千人同心頭

  

石川数正(家康の筆頭家老) 松本城主 

河内石川源氏の石川政康のときに蓮如上人に帰依し、下野国(栃木県)小山氏より、三河へ移り小川城を築いた。この後裔に徳川家に仕えた石川数正となる。(家成と同族)

1579年9月15日、松平信康の切腹後、信康を徳川家の跡取と考える岡崎城派の総帥・石川数正は、影武者家康(権現様・淨慶と惠新)を捨て、豊臣秀吉に出奔した。 

 

成瀬 正一(成瀬正頼の次男1538年生) 大久保忠世の与力 大窪党  家康の諜報員で根来忍者では?

1560年頃、徳川氏を出奔して武田氏に仕える。第四次川中島の戦いで、打ち取られた諸角虎定の首級を石黒五郎兵衛と共に取り返し、武田信玄より黒駒の地を与えられるが、その後、徳川に帰参し家康に従い、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いに従軍。長篠の戦いでは、日下部定好と共に大久保忠世の与力として、武田方の旗指物の識別や鉄砲隊の指揮を行う。かつて武田家に仕えていた経歴を重宝され情報官としての役割を担いつつ、特殊技能の鉄砲隊の指揮も行った。1582年に武田氏が滅すると、「武田狩り」の嵐が吹き荒れる中、成瀬正一は知己であった武田旧臣を遠江国の桐山に匿った。徳川家康が甲斐国を支配すると、日下部定好とともに徳川氏の関東地方移封までの間、甲斐一国の奉行を務めた。
奉行になると米倉忠継、折井次昌をはじめとする武川衆や大久保長安といったかねてより匿っていた武田旧臣の安堵状を家康から取り付け、家康の家臣とした。大久保長安は徐々に頭角を現し、甲州時代の初期には成瀬・日下部の両職の体制であったが、後期には成瀬、日下部、大久保の三奉行の体制になっていたという。因みに、井伊直政の赤備えには正一と共に諸角虎定の首を取り返した石黒将監が加わっている。

天正13年(1585年)に新設された根来組・200人の組頭に長男・成瀬正成が任じられている。また、根来鉄砲組師範・山口重政は、三男・正武の最初の舅である。

 

世良田次郎三郎元信 (新田源氏の後裔・権現様・淨慶)

三河一向一揆(1564~1566年)で本多正信と共に家康と戦ったササラ者(忍び)の頭と言われる淨慶。父が新田源氏の後裔・江田松本坊(下野国・栃木県出身)で母は於大(祖母は源応尼・伊賀のくノ一)の子。服部・伊賀忍者、大窪党と共闘。

浄慶は子供の頃、駿府を放浪していたが、又右衛門という男に攫われて、子供を欲しがっていた願人の「酒井常光坊」に銭五貫で売られたという。酒井一族との繋がり

浄慶の祖母・源応尼の血筋 後年、源応尼は華陽院と名のった。秀忠の母・西郷局は服部忍軍のくノ一

源応尼は大河内但馬守満成の娘養女とも・謎)身分の低い家の出身説、謎の出自
ささら者(賤民)の娘とも云われている。伊賀のくノ一とも云われる。
実名は(於富の方・於満の方)は明応元1492年に誕生
源応尼は水野忠政に嫁ぎ、3男1女を儲けたとされる。この1女が徳川家康の生母となる於大の方
離縁後、松平清康、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐に嫁ぐ。いずれも死別の謎・伊賀のくノ一
松平清康と源応尼(於富の方)の間の娘(於大の方・碓井姫・妙春尼3娘?

 

酒井忠次 配下に大窪党

西三河の坂井郷から起こった土豪で松平氏の別流松平家も酒井家も ルーツが同じで、新田源氏の末裔を主張している。新田氏の支族、世良田氏の一族を名乗る流浪の時宗の僧・徳阿弥(後の松平親氏)を祖としている。酒井忠次は、上ノ郷城の攻撃(1562年)には甲賀から伴太郎左衛門資家を呼び寄せ、忍び働きに熟練した者を集め城内に潜入させ攻略した。潜り込んだ甲賀・伊賀衆は約280人といわれる。「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群団

酒井 忠次の正室 碓井姫母は源応尼、1529年生~ 1613年1月17日没84歳)    

松平清康と源応尼・於富の方の間の娘(於大の方・碓井姫・妙春尼3娘?) 。徳川家康の母である於大の方と碓井姫は異父妹でもある。 酒井忠次の母は妙玄尼(石川数正の姉)

妙春尼は於大の方の妹?(細川晴元室?)家康はこの叔母に育てられた。
子の石川家成(1534年生、1609年没) 家康と家成は実母が姉妹
家成は本家・康正の弟で分家、石川数正は本家・康正の子

 

服部半蔵 秦氏流服部氏族(伊賀流忍術の祖)

半蔵の祖は伊賀上忍であった服部家の血縁を活かし、宗家・服部正尚と連携し家康の伊賀越えの脱出劇に加勢した。服部一門は、家康によって伊賀組と取り立てられ、服部半蔵を組頭にした徳川家の家臣となった。

源応尼・華陽院、於大の方、西郷局、春日局らのくノ一の活躍はすさまじく、血縁を広げて他家を吞み込む侵略的な活動は、天下をも吞み込んでいる。

 

権現様・淨慶家康・世良田次郎三郎元信を旗頭として支える家臣団に共通するものは、南朝天皇を支持した源氏の一族、秦氏の一族、一向宗を支持した一族、志能備(忍び)の一族である。特殊能力を備え、諜報活動を得意とする群団が新田源氏再興を目指して、天下を取った。

※ 「1562年9月の戦い・石ケ瀬合戦」より、世良田二郎三郎元信(権現様)家来として、酒井浄賢、石川四郎、大久保甚四郎、榊原小平太(年若)、鳥居元忠(父子)、成瀬八郎、板倉内膳正、板倉弾正、平岩七之助、林藤介等の名前が確認できる。

春日局・お福の元夫・林正成(稲葉正成・養子)は、林藤介の血筋ではないか? 春日野局(秦氏)は3代将軍家光の乳母(実母?)

 

歴史を動かしてきたのは、全国の諜報活動を役目とした、特殊工作員たる「聖徳太子の志能備」の知恵である。

徳川家康(淨慶)は、諜報組織を作り上げていた。既に、源氏の血筋と、秦氏の血筋で集団統治体制が出来上がっていたのが徳川幕府である。

家光と忠長の跡目争い

1623年、ニ代将軍・徳川秀忠が急死(毒殺とも?)家光が三代将軍に就任。柳生一族の陰謀、根来衆皆殺しの悲劇。
1633年12月6日、幕命により高崎の大信寺において忠長は切腹した。享年28才
松平伊豆守信綱(源応尼、於大の血筋)や春日局、柳生但馬一族、根来衆が、家光に加勢し支持する。

大久保派、松平信綱(伊豆守)、春日局、柳生、根来衆等は、家康(淨慶)の子・家光を3代将軍に支持
秀忠(惠新の子)、忠長派は、本多一族、水戸の御三家と筆頭老中・土井大炊頭利勝ら老臣が忠長を支持。

2代将軍・秀忠、天海僧正・明智光秀、春日局(お福)は、従弟(従妹)同士の可能性がある。

 

松平伊豆守信綱は大河内一族(源応尼・華陽院出自)の後裔

源応尼の甥、大河内政局(政房)の妻が駿河にいた竹千代(信康)の乳母をしていた。信康は大河内政房の妻の手引きで駿府を脱出したという記述がある。一説に、この妻が竹千代誘拐に加担した件で、源応尼は刑死(1560年5月30日没)させられたとも言われる。」。。。後に、大河内は家康より松平姓を授かった。

※源応尼は華陽院と名のった

大河内政局(政房)に注目! 今川より松平信康を奪い取った功労で大河内から松平姓を貰った。

(上記はネット検索より転写)  源応尼、於大の血筋が徳川幕府の骨格を形成している。

 

大久保一族の勝利  足利源氏・室町幕府を倒し、新田源氏の後裔・世良田二郎三郎元康(淨慶)の血筋が天下を取った!

 

歴史を動かしてきたのは陰陽道であり、典型的なのが忍者(志能備)である。

服部半蔵、百地三太夫、百地丹波、藤林長門、石川五右衛門、山本勘助、大久保長安、明智光秀、春日局、本多正信らは、秦氏。

八咫烏の謎・カッパ―ラ・「迦波羅」・カバラ・賀茂神社
『 聖徳大使の諜報活動(秦氏・志能備) 表神道の呪術「陰陽道」と裏神道の呪術「迦波羅」』(忌部氏に通じる葛城系の人々)

南朝吉野冠者後裔・山本勘助(賀茂神社の神官・左三つ巴の神紋) 大久保長安(南朝大蔵)・春日大社の猿楽(現能)・金春流の猿楽師の後裔、観阿弥、世阿弥も秦氏の志能備である。 

 

7日 神君伊賀越え後の家康の行動

なるほど! 歴史ミステリーより参照

信長の死後 秀吉の織田家乗っ取り計画と家康の適格な動き 清須会議の実態「大河ドラマ どうする家康」歴史解説43

6月14日に、家康は鳴海地区に兵を進めた。

6月17日に、津島地区まで酒井忠次の兵を進めた。酒井忠次は大窪党、伊賀、甲賀、根来忍者群団を動かすことができる。又、本多正信は一向宗の傭兵、雑賀衆(鉄砲隊)群団を動かすことができる。

秀吉の光秀討伐後の動きをみて、木曽川で侵略を止める思いもあった筈である。秀吉討伐で京都に進軍する筈がない。

むしろ、織田の裏切り者になることは避けたいと思ったはずなので、清州城を守るために、津島まで兵を進めたと言い訳ができる。織田勢の味方の立ち位置を取ったということだろう。

又、伊賀越えでお世話になった、伊賀、甲賀、根来忍者、雑賀衆群団、一向宗傭兵群団の味方であることも示す必要があった。その為、木曽川まで兵を進めて、備えたということだろう。

秀吉がこれらの群団征伐に動くような姿勢が見られれば、家康は秀吉と一戦を構える姿勢はあったと思われる。

 

古書を読むだけで真意を掴もうとすれば、それは無理である。深層心理を書き残す戦略家はいない! 特殊工作の戦略は書物には書き残さない。事象のみである。

地図で徳川勢の動きを見れば分かる筈である。敵が秀吉となったら、木曽川で秀吉勢を迎え撃つ。伊賀、甲賀が秀吉に攻められたら、進撃する構えである。

家康は、伊賀、甲賀、根来忍者、雑賀衆群団、一向宗傭兵群団の味方であり、見捨てる様なことはしない。秀吉と戦闘状態になれば、家康のゲリラ部隊として重要な役割を果たす特殊戦闘部隊である。

歴史家は古書に書かれているものを基準に考えるが、机上の理論となる。現実にその時代に、生き抜いた武士の戦いは、生きるか死ぬかである。戦略は如何にして生き残るか、勝つかである。

秀吉も優秀な戦略家である。家康勢が津島に構えたことは、秀吉が木曽川を超えることは難しい、清州城を取られたら織田勢を纏めることは難しくなる事ぐらいは読める筈。

秀吉は、このタイミングでの家康との一戦は避けなければならない。京都を占拠して、家康以外の織田勢を纏めることに専念したのである。家康とは休戦を望んだのだろう。

秀吉は京都を制して、織田勢をまとめることで頭が一杯であり、甲斐、信濃等の統治を家康に放任して、滝川一益の動きを封じたということだろう。

家康は明智光秀が勝利したとしても、京には上らなかっただろう。織田勢の分裂を高みの見物としただろう!

我先と光秀や秀吉を叩く必要はない。信長の死は必ず内紛になる。勝ち残っても弱体化した相手を叩けば良いのである。外様が火中の栗を拾う必要はない。志能備(忍び)の知恵である。

状況によっては、企を見て清州城を奪う事もできる。津島に軍を進めて秀吉の「帰陣するよう」の指示を引き出したのであろう。そして堂々と甲斐、信濃の取り込みを実行したのだ。

滝川一益の敗戦を庇い、領地を奪い返して、北条の侵出を許さず、徳川領にしたのである。旧武田家臣団を引き込み、家康の直参軍団として召し抱えて成功させた。志能備(忍び)の知恵である。

 

「清州同盟」の立役者

滝川一益(いちます、1525年生) 甲賀忍者・志能備

聖徳太子の要請で、大伴氏族・大伴細人(おおとものさひと)から発生した甲賀郷士忍術者群団である。

近江国(現在の滋賀県)の南部、甲賀郡の郷士(地侍)であった、「滝川一勝」(たきがわいちかつ)の次男として生まれた。甲賀は、「六角家」が治めていたため、「滝川家」も、その配下にあった。

甲賀の出身であることから、一説には忍者だったとも言われている人物で、調略が得意で、鉄砲の名手で優れた才覚があった。水陸どちらの戦いにも高い能力を発揮した滝川一益は、織田軍が遠征したあらゆる戦地で重用され、目覚ましい活躍をした。
「本能寺の変」をきっかけに、滝川一益の立場は一変。不遇の晩年を強いられて、ひっそりと生涯を閉じることになった。 

河内国・堺(大阪府堺市)で鉄砲の製造法や射撃の技術を学んだと言われています。
滝川一益は、「織田家」の重臣「池田恒興」(いけだつねおき)の仲介により、織田信長と出会い、滝川一益は鉄砲の名手であったので、織田信長に召し抱えられた。池田恒興は、滝川一益の従兄弟に当たる縁戚。
1560年に信長は「今川義元」を「桶狭間の戦い」で破った。
そして、滝川一益は「清洲同盟」成立の立役者として活動し、松平元康の家臣に接触して説得を重ねた結果、織田信長と松平元康の和睦を実現させた。1562年には、両者間で「清洲同盟」が締結されました。
このときの交渉能力が認められた滝川一益は、織田家家臣団の中で頭角を現していきます。

※交渉相手は、松平元康の家臣、石川数正、酒井忠次、権現様(淨慶)、服部忍者、大窪党の面々である。滝川一益との交渉なら、双方共に「志能備」の調略が成立した。

その後、滝川一益は、美濃国と国境を接する伊勢国(現在の三重県北中部)を、まず押さえるべきであると織田信長へ進言敵対していた北伊勢の土豪「服部友貞」(はっとりともさだ)に調略を仕掛け、「蟹江城」(現在の愛知県蟹江町)を築かせた。
完成したところで服部友貞を追い出し、滝川一益が城を乗っ取るという騙し討ちのような方法で、戦略拠点を手に入れることに成功したのです。甲賀忍者「志能備」の調略
この蟹江城を足場に、伊勢に分立する大小の豪族を次々と屈服させた滝川一益は、もとは朝廷の側近であった伊勢国の名門「北畠家」の攻略に挑みます。
ここでも滝川一益は調略を用いて、同家の当主「北畠具教」の弟であり、その重臣であった「木造具政」を味方に引き入れ、北畠家を分断。統率に乱れが生じたところに、織田信長が7万人の軍勢を引き連れて本拠の「大河内城」(現在の三重県松阪市)を取り囲み、城の周囲を焼き払うなどして包囲しました。北畠具教は、籠城の末、織田信長の次男「織田信雄」を養子とする和睦の条件を受け入れ、城を明け渡したのです。その後、北畠具教を暗殺。「志能備」の調略

こうして滝川一益は、蟹江城を本拠とし、北伊勢の支配を任されるようになります。

甲州征伐に出陣

1578年(天正6年)、越後国(現在の新潟県)の「上杉謙信」が急死すると、「上杉家」の家督を巡り対立が生じます。
「御館の乱」では、甲斐国の「武田家」が上杉景勝に与し、相模国の「北条家」が上杉景虎を支援することになり、「北条氏政」は、武田家打倒の共闘体制を築くべく、織田信長に臣従を申し入れます。このとき、北条家の使者を出迎え、取り次ぎ役を担ったのが滝川一益でした。(北条忍者は風魔小太郎「志能備」の調略)

1582年(天正10年)、「木曾義昌」が織田家に寝返ったことをきっかけに、織田信長は「甲州征伐」の狼煙を上げます。主力部隊は、信長の長男「織田信忠」を大将とし、副将の「軍監」を滝川一益が務めました。
この戦いには、徳川家康や北条氏政の軍も参加し、戦況は織田側に優位に進みます。そして武田勝頼は、家臣の裏切りもあって徐々に追い詰められていったのです。
逃げ場を失った武田勝頼は、開戦から1ヵ月後、「天目山」の近くで滝川一益の軍勢と激闘の末、自害に追い込まれ、武田家は滅ぶことになります。

武田の影武者一族・土屋昌恒の片手千人切りは有名、志能備、義兄に大久保長安(大蔵⇒土屋⇒大窪⇒大久保)

その後、武田家の遺領は、織田家の家臣によって分割されました。滝川一益は、上野国(現在の群馬県)と、隣接する信濃国の2郡を与えられると同時に、かつて上杉謙信が務めた「関東管領」に任命されます。
「箕輪城」(現在の群馬県高崎市)、次いで「厩橋城/前橋城」(現在の群馬県前橋市)入り、関東や東北地方の諸大名を、織田家に服属させる大任を担うことになったのです。滝川一益はそれまでの領地の安堵を約束して、地域への融和に努めて治めました。
滝川一益は、東国の広大な勢力圏の支配を任され、「西の秀吉、東の一益」と言われるまでに出世を遂げたのです。

明智光秀の謀反により、「本能寺の変」が起きたのは、滝川一益が関東管領に就任して3ヵ月も経たない、1582年6月2日のこと。厩橋城にその知らせが届いたのはその5日後です。
織田信長の死が領国の武将達に知られると、一斉に離反を招くことにもなりかねません。しかし滝川一益は、家臣の反対を押し切って、その事実を伝えることにしました。
「我らは上方に戻って織田信雄、信孝(のぶたか)殿を守り、光秀と戦って恩義に報いねばならぬ。一益の首を取って北条に降る手土産にしようと思う者は、遠慮なく戦いを仕かけるが良い。北条氏政・氏直(うじなお)父子から城を渡せと言われたら、それがしは北条勢と決戦に臨み、勝とうが負けようが京に向かうつもりだ

「本能寺の変」を知った北条氏政は友好関係を継続する意志を滝川一益に書状で伝えていますが、上野国を侵攻する準備を整えていました。
6月16日、北条氏政・氏直父子が率いる総勢56,000人の大軍が、上野国・倉賀野(現在の群馬県高崎市)に侵攻を開始。
滝川勢は18,000人の兵で迎え討ちましたが、兵力の差は歴然、翌日の戦いでは、敗走となったのです。

滝川一益が、伊勢国へ戻る道中にあった6月27日、尾張国の「清洲城」では、織田家の重臣達が集まり、新たな当主と遺領の配分を決定する「清洲会議」が開かれていました。
後継者を巡っては、織田信長の三男「織田信孝」を推す柴田勝家と、織田信忠の子「三法師」を推す「豊臣秀吉」が対立。そして、織田信長の仇を討ったことで主導権を握った豊臣秀吉の案が、採用されることになったのです。

この会議によって滝川一益に認められたのは、旧領である伊勢国・長島50,000石の現状維持のみ
不満を募らせた滝川一益は、柴田勝家と豊臣秀吉が争った1583年の「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)に、柴田側の一員として参戦。豊臣秀吉率いる70,000の大軍を相手に善戦します。しかし、主戦場の近江国で豊臣側の勝利が決まり、柴田勝家は自害。孤軍奮闘を続けていた滝川一益でしたが、豊臣秀吉の軍門に降るのです。

滝川一益は出家し、越前国(現在の福井県北東部)に蟄居。1584年、織田信長の次男・織田信雄が徳川家康と共に、反秀吉の兵を挙げた「小牧・長久手の戦い」が起こると、滝川一益は、豊臣秀吉から呼び戻されます。
賤ヶ岳の戦いのあと、織田信雄の所領となっていた北伊勢での戦いに、この地をよく知る滝川一益の力が必要とされたのです。
旧臣達を招集して出陣した滝川一益は、織田信雄方であった戦友の九鬼嘉隆を内応により味方に引き入れ、かつて所有していた蟹江城を奪います
織田・徳川連合軍は、20,000人の大軍を投じて蟹江城を急襲。滝川軍は、水陸両面から包囲されながらも半月以上持ちこたえます。しかし、豊臣秀吉の援軍が遅れたことで戦力は尽き、蟹江城は明け渡されることになりました。
滝川一益は、豊臣秀吉から3,000石のわずかな所領を与えられましたが、再び越前国で蟄居の身となります。その後、滝川一益は、合戦に明け暮れた62年の生涯を終えました。

 

「清州同盟の成立」が天下取りの指針となった。新田源氏の後裔・淨慶、酒井忠次、石川数正、服部半蔵、伊賀・甲賀忍者群団、大窪党、一向宗傭兵、滝川一益、成瀬正一、大久保長安、明智光秀、春日局、本多正信ら秦氏の後裔たる「志能備」の調略である。

 

「志能備」が忍びのルーツで、聖徳大使の時代からの諜報活動をしていた。

聖徳太子にまつわる伝承として、「聖徳太子が情報収集に使った」とされる三人の人物とその配下の事が載っている。大和朝廷の正規軍と陰陽修験の諜報工作組織の存在である。

聖徳太子の大伴氏族・大伴細人(おおとものさひと)に対する要請で「大伴氏から発生した」とされる甲賀郷士忍術者群団。

正徳太子が有力部族・秦氏族へ要請されたとする、秦河勝(秦河勝・香具師・神農行商の祖)とする郡団。

伊賀の国人・秦氏流服部氏族(伊賀流忍術の祖)の伊賀流忍術者群団の三集団である。

 

陰陽修験者の「志能備」としての組織は、賀茂氏・役小角(えんのおずぬ)流れで組織化されていく。

賀茂氏・役小角は、陰陽修験は(村落部では)守備範囲の役割を分けていたと思われる。
甲賀郷士忍術者群団と、服部氏と河勝氏の率いる三集団とは町場の氏族を相手とする諜報活動群団と、活動範囲を分けていたようだ。
武術の発祥は陰陽修験道からであるから、甲賀郷士忍術者群団と、服部氏と河勝氏の群団も、修験武術の習得を通して接点があったと思われる。武官から特殊諜報員と武士が生まれた。等々の「志能備」に関する情報を得ることができた。

滝川一益は、「志能備」
伊賀・服部流と双璧を為すと評価される「大伴氏から発生した」甲賀郷士忍術者群団の一員である。

 

明智光秀の謀反による「本能寺の変」

「志能備」が忍びのルーツで、聖徳大使の時代からの諜報活動をしていた。明智光秀は天皇家の武官

「聖徳太子が情報収集に使った」とされる「志能備」、武官。大和朝廷の正規軍と陰陽修験の諜報工作組織の存在が天皇制を守った。

「時は今 天命が下った 五月かな」  天皇家、公家社会の為に、信長を殺す時(チャンス)が来た!



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