先日,中国語の講座が終了した。
私は正直,いろいろナメていた。
冷やかしだと言われても仕方がないくらいナメてた。
(いや,言われてないけどね)
最終日,講座の生徒さんの一人(50過ぎくらいかな)が,
彼の会社に来ている中国人研修生を三人連れてきてくれて,
実際に生の中国語会話を体験した。
改めて書くまでもないけれど,言語を学ぶというのは,
その言語を使う人々と意思の疎通を図ることが目的なんだよね。
私はそのことを,すっかり忘れてた。
言葉がなかなかでてこないんだ。
というか,言葉以前に,意思疎通への意欲や興味がわかないっていうか,
要は,私は自分が思っている以上に,人間嫌いになっているらしい。
一対一とかならそこそこ話ができるけれど,
多数になると,無意識的に自分を埋没させてしまう。
誰かが話をつないでくれるだろうという甘えがでる。
いわば,究極の面倒くさがりだ。
言語を言語のままに,知識として学ぶのは,間違っている。
発音はほめられたけどね,
そんなものはオウム返しにしているだけであって,
耳さえよけりゃ誰にでもできる。
言語の向こう側には,その言語を使う人々がいる。
その人々に興味がなければ,言語なんて学ぶ意味がないかもしれない。
当たり前のことだよな。
なんか最近,内省的だねえ。
ま,とりあえず,まずは中国語と中国人への興味を高める方法を探そうと思う。
とにかく,アプローチを変えてみよう。
私は正直,いろいろナメていた。
冷やかしだと言われても仕方がないくらいナメてた。
(いや,言われてないけどね)
最終日,講座の生徒さんの一人(50過ぎくらいかな)が,
彼の会社に来ている中国人研修生を三人連れてきてくれて,
実際に生の中国語会話を体験した。
改めて書くまでもないけれど,言語を学ぶというのは,
その言語を使う人々と意思の疎通を図ることが目的なんだよね。
私はそのことを,すっかり忘れてた。
言葉がなかなかでてこないんだ。
というか,言葉以前に,意思疎通への意欲や興味がわかないっていうか,
要は,私は自分が思っている以上に,人間嫌いになっているらしい。
一対一とかならそこそこ話ができるけれど,
多数になると,無意識的に自分を埋没させてしまう。
誰かが話をつないでくれるだろうという甘えがでる。
いわば,究極の面倒くさがりだ。
言語を言語のままに,知識として学ぶのは,間違っている。
発音はほめられたけどね,
そんなものはオウム返しにしているだけであって,
耳さえよけりゃ誰にでもできる。
言語の向こう側には,その言語を使う人々がいる。
その人々に興味がなければ,言語なんて学ぶ意味がないかもしれない。
当たり前のことだよな。
なんか最近,内省的だねえ。
ま,とりあえず,まずは中国語と中国人への興味を高める方法を探そうと思う。
とにかく,アプローチを変えてみよう。