ケセランパサラン読書記 ー私の本棚ー

◇『北緯44度 浩太の夏 ぼくらは戦争を知らなかった』 有島希音 作  ゆの 絵  岩崎書店

有島希音さんの新刊『北緯44度 浩太の夏 ぼくらは戦争を知らなかった』を読む。

この物語の舞台は、私が幼い時、子ども時代を過ごした、場所である。
場所の記憶、がよみがえる。

第二次世界大戦、日本が無条件降伏のポツダム宣言受託後に於いても尚、旧ソ連(現在ウクライナを侵略侵攻しているロシアだけど)の侵攻があった史実に基づかれて書かれています。

1945年8月15日、日本が敗戦したことを天皇がラジオ放送し、日本国民は、戦争に負けたことに涙し、或いは戦争が終わったことに、ほっとしていたかも知れません。
でも、まだ、戦争が終わっていなかったことを、知っていますか。


1941年4月13日、日本はソ連と互いに不可侵とする中立条約を締結。
1945年4月1日に日ソ中立条約の延長をソ連が、当然の拒否。

当時のソ連は、独ソ戦の勝利が、もう目の前に来ていた。
ベルリンに、どの連合国より早く攻め込める状況。
それは連合国の中で主導権を握れることをも意味していた。


ベルリンが陥落し、ソ連に徹底的に敗北したドイツは45年5月にヒトラーの自殺をもって全面降伏。

連合軍の視線の先は(と言っても真珠湾攻撃されたアメリカと、日本占領を狙うソ連ですが)、日本に向かう。

この頃、すでに連合国の国家指導者たちは、戦後の日本占領問題がテーマになっていた。
ソ連は日本全土の占領を主張したが、アメリカの強い反対で頓挫。
しかし、北海道を留萌から釧路ライン北半分を占領するという構想は捨てなかった。
なんと言っても、ついちょっと前にドイツ東側を分捕った実績がありますから。

スターリンは、したたかにポツダム宣言にサインをしなかった。

その頃、日本は、ポツダム宣言の全面降伏を突きつけられ、国体護持つまり天皇の戦争責任回避と天皇制維持に向けて、なんと中立同盟の延長破棄をされていたソ連に、あろうことか連合国への仲介を依頼。

日本政府は、ポツダム宣言にスターリンが署名しなかったことを、中立を貫いていると判断した。
馬っ鹿じゃないか、である。

スターリンは、日本全土を占領するための打算で、他の国と足を揃えなかったのだ。
当然、日本全土を占領したいほどのソ連は、日本からの仲介依頼を無視する。

日本政府は、ポツダム宣言受諾を巡って、てんやわんやの真っ最中、アメリカによって、広島に8月6日に原爆投下、長崎に8月9日に原爆投下される。

その6日と9日の間の8月8日に、ソ連から日本への戦争布告がなされたが、日本政府は、実はそれどころではなかったというのが実情、史実である。

そもそも、ソ連の戦線布告の通達も届いていなかった。


ソ連の戦争布告の通達を受け、モスクワの日本大使が、日本政府へ伝える電信の機材使用を、なんと戦争相手国のソ連政府に依頼した。
当然、ソ連は、その電信を握りつぶした。

歴史にも軍事にも素人が私が考えても、とんまとしか言いようのない、あり得ない行動だ。


原爆投下は、日本の敗戦を認めさせる最後通牒のようなと、日本では受け止められている。

原爆の投下をめぐっては、トルーマン大統領の国内政治的事情(原爆開発へかけた莫大な経費への国民へのデモンストレーションと言われている)と、まさに重要だったのは、ドイツ割譲で改めて確認した共産党政権ソ連への、威嚇と牽制であった。

ソ連は、布告通り、8月9日の午前零時から開戦。
日本政府が、ソ連の侵攻を知ったのは、午前4時、タス通信によってである。

知ったところで、日本はポツダム宣言受託の紛糾さなかに原爆投下である。
政府に為す術はなく、ソ連侵攻は放置、黙殺され、現地のわずか生き残っていた兵士が、なんの指令も応援も兵器もなく、戦うはめになった。

ソ連は150万の兵士からなる軍隊を満州、樺太、千島列島、北海道へと派兵した。
とは言え、兵士の頭数はあったものの、空、海の軍事力は、すでにかなり疲弊していたとの記録がある。


日本はポツダム宣言受託を決定。
8月15日、日本は軍隊を解体。

ソ連の侵攻は、なされるままだった。

樺太から避難する民間人たちを乗せた船、三船が、ソ連の潜水艦によって撃沈された。
その三船について、書かれた物語が、有島希音さんの『北緯44度 浩太の夏 ぼくらは戦争を知らなかった』である。

留萌沿岸の一帯に、その三船に乗船していた方々の遺体が流れ着いた。
その時のようすは、私の年代までは、語り継がれていたけれど、この度、有島希音さんの本を読むと、すでの忘れ去られており、確かな資料さえもない状況だということを知った。

なんということだろう。

私は、今でも船名を言える。
非武装の民間船は、泰東丸、小笠原丸、第二新興丸である。
1700人以上の人が亡くなった。


副題の“ぼくら”は、“日本人”に替えてもいいぐらいだ。

留萌は私が、子どもの頃、父の転勤で住んでいた町である。
この物語に書かれている状況は、私ぐらいの年代では、まだ語り継がれていた。

留萌港から巡視船が、多くの遺族の方々を乗せて、沖まで出港し、花束やオ段号を投下していた。

ソ連が、樺太(サハリン)と千島列島の北方四島の占領だけで、北海道を計画通りに占領できなかったのは、アメリカとの力関係によったに過ぎない。

皮肉なことに、悲惨なことに、広島と長崎の投下された原爆が、ソ連の北海道侵攻を押しとどめたと言える。

実質的なソ連が侵攻を終わらせたのは8月22日。
避難民を乗せた民間船三船を撃沈させた2時間後である。

45年8月15日のポツダム宣言受諾の様子が、ドキュメンタリーや、ドラマなどで放映されるたびに、「いやいや、まだ、戦争、終わってないから」と私は、今でも思う。


戦争は、いつだって理不尽に始まり、理不尽な終わり方をする。

21世紀になって、また、世界には理不尽の風が吹き荒れている。




* * * * *

数年前、札幌を訪れた児童書の老舗出版社Fの編集者との会話で、日本では国境が実感できないと言ったので、「いや、北方四島の国後や歯舞群島は、知床半島と納沙布岬の間にあって、根室から目視できます」と、Coogleマップを示したら、絶句していた。

北方四島は、日本固有の領土ではありますが、戦後ずっとソ連、現ロシアに占領されており、今のところ、ロシア領です。

そんなもんなんだなぁーと、つくづく思った。

私も、対馬から釜山の花火が見えるのに、驚いたもねー。

















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