ケセランパサラン読書記 ーそして私の日々ー

◇『いちかちゃん』   いとうみく 作  中田いくみ 絵   くもん出版

この本を、読んだ時、「なんか、わかるなー」と思った。
なにが、「わかるなー」と思ったのか、ずっと考えていた。

一応、読み手として、その「わかるなー」と、思ったことを、ちゃんと言葉にしなきゃ、だめでしょって思った。



直感的に、この本『いちかちゃん』は、書評やレビューを書くには、難しいと本だと、思った。

それは、“子ども”を、その固定概念で、ポジティブに語ってしまうことができるから、である。

シックスセンス的にもアプローチできるし、子どもの心的世界(あるいは脳内世界)の可能性、その方向性についてもアプローチできるし。

ファンタジーという視点でも、いける。

遠野的な佐々木喜善のような視点からも、いける。

先日、私がこのblogに綴ったように、自分の思い出や経験からもアプローチできる。(それは、作品から喚起された記憶、というだけのことだけど。)

それらは、すべて、有り得る既成の概念というか、想像の範囲内というか、想定内? っていうのか……。

だから、
そうじゃないでしょ、そうじゃないでしょ、と、私が、私に言っているのだ。

なんというか私の感じた「わかるなー」とは、ちょっと、ずれているように思えたし、違ってるというふうに、思えてならなかった。

もっと、考えろ、もっと考えろ、と私が、私に言うのだ。

それで、ずっと、考えていた。
私が「わかるなー」と感じた、その感じは、いったい、なんなのかと。


いちかちゃんの目が捉えている、もの、あれかも知れないと、ひょっとして。

例えば、窓から見える風で揺れる電線。
例えば、地吹雪の青空。
例えば、早春、雪が土に面しているところから溶け出して、ちょろちょろと流れている水。
例えば、ポプラの葉擦れの音。
例えば、電気釜から噴き出す湯気。
例えば、ベランダの柵に止まって、目と目があってしまったカラス。
例えば、屋根にのぼって見た、水平線のかなたの稲妻。
例えば、青い空に、爪のような月。
例えば、空き地に原生林のように茂っているイタドリ。
例えば、
そこかしこにある普通の風景。
でもその風景の、むこう。

ああ、それらの、むこうに、なにがあるんだろうと、目を凝らしていたのです。
そういう、ことなんだと、ようやく、気付いた。

かちかち山のタヌキに、鍋ものされる寸前だったぜー、思った。

省みるなら、いつの間にか、私の時間軸は、せいぜい24時間、かなり頑張って1ヶ月ぐらい先?
場所の視野軸では、ウォーキングしていても、よそ様の庭か、街路樹。
なにもかもが、至近距離もいいとこだ。
視界は、ほぼほぼ目先。

私は、ようやく、「わかるなー」と、感じたことが、なんだったのか、そういうことかも知れないと、思い出し、認識できた深夜でした。

自分の感性の、源泉というか、そういうところに分け入って、じーっと観察(あるいは考察)してしまった『いちかちゃん』でした。


<追記>
書評を書くとき、いつもがいつも、このように逡巡し自分と対峙するわけではない。
サービス精神で書く書評もある。

ただ、時に、それが許されないと思う作品と出会う時がある。
作品の力を、思い知らされる、時がある。































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