有島希音さんの
『北緯44度 浩太の夏 ぼくらは戦争を知らなかった』を読んで、つくづく思ったことは、日常のなかで、ふと感じる違和感、それこそが重要なんだということだ。
『北緯44度 浩太の夏 ぼくらは戦争を知らなかった』を読んで、つくづく思ったことは、日常のなかで、ふと感じる違和感、それこそが重要なんだということだ。
先日読了した、いとうみくさんの
『真実の口』も、そうだったけれど、主人公たちが、ふと感じた「これ、なんか変じゃないか」という違和感を、どうでもいいことにしなかったことから始まる物語だ。
違和感というもは、つくづく大切にすべき感性だと、私は思う。
そうなのです。
有島さんの主人公、浩太も、その違和感を、どうでもいいことにしなかった。
浜辺で貝を拾い集めている浩太に「お盆過ぎに海へはいったら、ひっぱられるぞ」と、すれ違い様におじいさんが言った言葉。
この言葉が、浩太の心には、「どういうことだ?」という、ちょっとした違和感を残す。
その違和感が、なんであるのか、調べはじめて、知って、考え始める。
そのデティールが、描写されている。
その違和感が、ポツダム宣言受託後に、北海道の日本海に面するの海の沖で、樺太(サハリン)からの避難民を乗せた日本の非武装の民間の船、三船が、ソ連の潜水艦に撃沈されたということに依るものだと知っていく。
撃沈されたとき、地元の救助が間に合わずに、溺れて亡くなった人たちが浜辺に流れ着いたこと。
その撃沈された船も、乗船していた人のなかには、いまだに海の底に沈んだままなこと。
80年前、樺太や、千島列島が、ソ連に侵略され、そして、北海道の日本海に面した小さな町、留萌や小平や増毛で、起きたこと。
実は、これは、私たちにとって、“忘れてはいけない歴史” なのではなく、同じ事が、今、ウクライナで起きているという現実に気付くことではないか。
小学校5年生の浩太が、調べる行程は、作家自身の調べる行程だったのだろう。
例えば、戦争もそうだけれど、東日本大震災など、“忘れないように伝えて行こう” と、よく言われるけれど、「伝える」ってどういうことなんだろう、と私はいつも考える。
本気で「伝える」と考えるなら、かかわった人たちが正確な資料をたくさん、残すことだと思う。
後世に「これは、なんだ?」と、感じた人が、調べられるように。
私は、どんなことでもいいから、ちょっと「これは、なんだ?」と思ったその違和感を大事にして欲しいと思う。
違和感に拘ることって、大事なんじゃないかなと、思う。
そして「伝えたい」と思うなら、正確な資料を、しっかりと残すことである。