浅草 伝法院どおりの古物商
どのような人が買い物をするのだろうか
ダンス会場でしか着られない衣装
カラオケ大会用のスーツ
あてぶりで踊る人のための衣装
暴力団関係者でないと興味を示さないど派手な三つ揃え
刷毛だけを商う店
つげの櫛専門店
そんな店が並んでいる。
本物と本物臭いものが一緒に並んでいる。
買い物する人はそんなこと承知なんだろう。
そんな通りの雰囲気を楽しめない自分は
心貧しい
そして一見真面目そうで
可愛げのないおっさんなのだろう。
・・・・・・・・・・・・
「たった一人になりきって夕暮れ」
尾崎放哉の自負心の強さは、きっと、周囲の人はいい迷惑だっただろう。
この句の透明感に心動かされるけれど「なりきって」という表現に示される
気負いと他と違った世界に入っていく自分
そこにちょっとした陶酔感があり
そんなものかなという自分の感想ですね。
でも作者の背景など考えずに
良寛さんの作だと思えば、感想は違っているかも・・・
それにしても、作品は正しく理解する学者だけのものではない。
そんなことを最近、思うようになります。
・・・・・・・・・・・・・・・・
今日の西行
年たけて また越ゆべしと 思ひきや いのちなりけり さ夜のなか山
若い頃この峠を越えた時、年をとってまた歌枕で有名な小夜の中山を越えることがあるだろうかと思ってもみなかったが、今また越えることができ、神仏の御蔭で、命が長らえているから、またできることだな
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
小夜の中山、確か静岡県の中部。今は高速や新幹線が山をぶち抜いているのでしょうが、昔は難所だったかもしれませんね。西行見返りの松とか、芭蕉腰掛の石とか立ち寄りの柳とかいっぱい残っていますね。そんなものを訪ねるのも面白いかも。でも、歌碑を調べ上げた人もいますから、とっくに調査されているのでしょう。まあ、いいか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
映画の愉しみ(NO1)
「ダ・ビンチ・コード」
監督:ロン・ハワード
原作:ダン・ブラウン
主演:トム・ハンクス
小説家から始まり、映画化され、
西欧の国では論議を呼び
日本でも、ずいぶん話題になりましたね。
この映画、キリスト教に関する予備地知識がないと
最初の段階で挫折してしまいます。
小説でも膨大な歴史的謎が登場しますし
その多くは聖書のなぞです。
まず、聖書の物語についての知識です。
聖書の中に四つの福音書があるのですが
その中で特に重要な軌跡が
十字架の軌跡であり
復活の軌跡です。
当然、そのような軌跡は証人が存在することで成り立つのですが
その証人となるのは誰と誰かという事実です。
聖書の中でキリストの受難に立ち会っているのは
マリアでも聖母ではなく
マグダラのマリアです。
そして、復活し姿を示すのも
マグダラのマリアです。
聖母マリア信仰がその後、大きく広がりますが
聖書物語の後半では登場しません。
また、その後の弟子のリーダーといわれるペトロの前にも
その後に姿を見せます。
そうなるとマグダラのマリアはイエスにとって特別の存在であった。
そのような世間に流れる伝説もこの映画では重要です。
また、マグダラのマリアの伝説の中にある
最後の晩餐で使用されたカップの伝説ですが
テンプル騎士団等の説話としてヨーロッパでは広がっています。
素人の私には分りませんが
日本の三種の神器の伝説のようなものなのでしょうね。
この伝説が重要な役割を果たしますが
(インデュージョーンズも同じですね。)
この伝説を単なる童話ではなく
ヨーロッパの裏側の歴史と読み取らないと
この映画はちっとも面白くありません。
また、教皇庁の教義とか
「オプスデイ」という現在も存在する教団のことも大切なことです。
ですから、この映画や小説は少しずつ知識を増やしながら見ています。
ダ・ビンチが残した記号とかダ・ビンチが総長を務めたといわれる秘密結社の存在も
注目すべきですし
キリスト教徒であったかどうか確かめようがないダ・ビンチの
人柄も謎ですし、ダ・ビンチの「手記」以外にも
何か残しているのではないかということも気になります。
そんな知識を背景にしてこの映画を見ていると
前半部分は相当に面白いのですが
後半は一気に謎解きに走ってしまい
物語を取りまとめに忙しくなってしまいます。
かなりヒットした映画ですが
満足した人は多くないでしょう。
でも、私はこの映画が好きです。
サスペンスの部分を除いた聖書の謎をいっぱい提供してくれたために
聖書を繰り返し読むようになります。
そんな読み方は失礼なのでしょうが
信仰としての聖書と興味としての聖書は違います。
それはそれ、自分なりの楽しみ方です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は詩人ではありません。
美しいものを受け取る器ではありません。
言霊を読み取る純な心もありません。
見えないものに憧れる心もありません。
響きあう言葉を並べる才覚も興味もありません。
分った顔をして語るなど恥かしくてできません。
ただ、「愛」という曖昧な言葉に翻弄さえている
今の私たちの「いかがわしさ」に
ちょっとだけ不満を持っているのです。
そして、確かなものなどないと言いながら
「空っぽの壷」を覗きたいのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どのような人が買い物をするのだろうか
ダンス会場でしか着られない衣装
カラオケ大会用のスーツ
あてぶりで踊る人のための衣装
暴力団関係者でないと興味を示さないど派手な三つ揃え
刷毛だけを商う店
つげの櫛専門店
そんな店が並んでいる。
本物と本物臭いものが一緒に並んでいる。
買い物する人はそんなこと承知なんだろう。
そんな通りの雰囲気を楽しめない自分は
心貧しい
そして一見真面目そうで
可愛げのないおっさんなのだろう。
・・・・・・・・・・・・
「たった一人になりきって夕暮れ」
尾崎放哉の自負心の強さは、きっと、周囲の人はいい迷惑だっただろう。
この句の透明感に心動かされるけれど「なりきって」という表現に示される
気負いと他と違った世界に入っていく自分
そこにちょっとした陶酔感があり
そんなものかなという自分の感想ですね。
でも作者の背景など考えずに
良寛さんの作だと思えば、感想は違っているかも・・・
それにしても、作品は正しく理解する学者だけのものではない。
そんなことを最近、思うようになります。
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今日の西行
年たけて また越ゆべしと 思ひきや いのちなりけり さ夜のなか山
若い頃この峠を越えた時、年をとってまた歌枕で有名な小夜の中山を越えることがあるだろうかと思ってもみなかったが、今また越えることができ、神仏の御蔭で、命が長らえているから、またできることだな
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
小夜の中山、確か静岡県の中部。今は高速や新幹線が山をぶち抜いているのでしょうが、昔は難所だったかもしれませんね。西行見返りの松とか、芭蕉腰掛の石とか立ち寄りの柳とかいっぱい残っていますね。そんなものを訪ねるのも面白いかも。でも、歌碑を調べ上げた人もいますから、とっくに調査されているのでしょう。まあ、いいか。
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映画の愉しみ(NO1)
「ダ・ビンチ・コード」
監督:ロン・ハワード
原作:ダン・ブラウン
主演:トム・ハンクス
小説家から始まり、映画化され、
西欧の国では論議を呼び
日本でも、ずいぶん話題になりましたね。
この映画、キリスト教に関する予備地知識がないと
最初の段階で挫折してしまいます。
小説でも膨大な歴史的謎が登場しますし
その多くは聖書のなぞです。
まず、聖書の物語についての知識です。
聖書の中に四つの福音書があるのですが
その中で特に重要な軌跡が
十字架の軌跡であり
復活の軌跡です。
当然、そのような軌跡は証人が存在することで成り立つのですが
その証人となるのは誰と誰かという事実です。
聖書の中でキリストの受難に立ち会っているのは
マリアでも聖母ではなく
マグダラのマリアです。
そして、復活し姿を示すのも
マグダラのマリアです。
聖母マリア信仰がその後、大きく広がりますが
聖書物語の後半では登場しません。
また、その後の弟子のリーダーといわれるペトロの前にも
その後に姿を見せます。
そうなるとマグダラのマリアはイエスにとって特別の存在であった。
そのような世間に流れる伝説もこの映画では重要です。
また、マグダラのマリアの伝説の中にある
最後の晩餐で使用されたカップの伝説ですが
テンプル騎士団等の説話としてヨーロッパでは広がっています。
素人の私には分りませんが
日本の三種の神器の伝説のようなものなのでしょうね。
この伝説が重要な役割を果たしますが
(インデュージョーンズも同じですね。)
この伝説を単なる童話ではなく
ヨーロッパの裏側の歴史と読み取らないと
この映画はちっとも面白くありません。
また、教皇庁の教義とか
「オプスデイ」という現在も存在する教団のことも大切なことです。
ですから、この映画や小説は少しずつ知識を増やしながら見ています。
ダ・ビンチが残した記号とかダ・ビンチが総長を務めたといわれる秘密結社の存在も
注目すべきですし
キリスト教徒であったかどうか確かめようがないダ・ビンチの
人柄も謎ですし、ダ・ビンチの「手記」以外にも
何か残しているのではないかということも気になります。
そんな知識を背景にしてこの映画を見ていると
前半部分は相当に面白いのですが
後半は一気に謎解きに走ってしまい
物語を取りまとめに忙しくなってしまいます。
かなりヒットした映画ですが
満足した人は多くないでしょう。
でも、私はこの映画が好きです。
サスペンスの部分を除いた聖書の謎をいっぱい提供してくれたために
聖書を繰り返し読むようになります。
そんな読み方は失礼なのでしょうが
信仰としての聖書と興味としての聖書は違います。
それはそれ、自分なりの楽しみ方です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は詩人ではありません。
美しいものを受け取る器ではありません。
言霊を読み取る純な心もありません。
見えないものに憧れる心もありません。
響きあう言葉を並べる才覚も興味もありません。
分った顔をして語るなど恥かしくてできません。
ただ、「愛」という曖昧な言葉に翻弄さえている
今の私たちの「いかがわしさ」に
ちょっとだけ不満を持っているのです。
そして、確かなものなどないと言いながら
「空っぽの壷」を覗きたいのです。
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