あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

どうでにもなれと叫びし母がいて  あきオジ

2008-03-23 17:21:09 | 日記
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日曜日になると家族連れがスーパーに集まります
その賑わいは縁日のようで楽しい
そこでは、
日ごろ接客商売をしている人も
コンピューターを操作している人も
荷物を配達している人も
工場で自動車を組み立てている人も
レッドソックスのジャージを着たり
ジーンズに無精ひげのまま
下駄履き、サンダル履き
どこかで日常生活をむき出しにしている。
半ズボンになって
妻と手を握り合っても
子と手を握り合うのはまだまだ
ぎこちない若夫婦が多いけれど
それでいいじゃないの?
そんな気がします。

こんな風景を見ていると
金を得るということはどこかで日常性を切り離している
日常生活を切り売りしている。
そんな気がします。
それが仕事の一面だと思うのです。
子がギャーギャーわめき
おねだりし
父親の手を握って離さない
それが日常だとすれば
仕事をすることは
金を得るために日常を売りに出しているようなものでしょう。
そんなことを考えると
仕事とは残酷なものなのだと思う。
生活と仕事が交じり合った時代が過ぎて
職場が遠くなり
どこかで日常生活がぎこちなくなっている
父親を見ることができない子が
どうして、父親を尊敬できようか
何となくそんなことを考えながら
店内を歩いていた。
わめき散らす子を殴り倒している母親がいた。
その周辺には父親はいない。
そうするしかできない母親が気の毒だと思っても
どうにもならない。
それで間に合っているならそれでいい
そうでない方向に進んでいったら
そのつけは自分立ちで負っていくしかないだろう。
仕事で得るものもあるけれど
失うものだって同時にあるのだと思う。

人のお役に立つように、そして、報いを求めぬように。

2008-03-23 06:14:46 | 日記
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偉くならなくてもいい
立派にならなくてもいい
人の役に立つ人になること

「こころの時代」で語っていた言葉です。

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「人の役に立たなくてもいいじゃないかな」
最近、そんな切捨ても考えています。

「利他」というけれど、それもちょっと違う。
役に立っているかどうか、自分で決めることではない
そんな気がします。

信仰があれば、神様、仏様が決めること
神様の意に適っているかどうか、そのように考えることなのでしょうね。

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やはり、「阿弥陀堂だより」のおうめばあさん
あれですね。

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「剣と十字架」という映画を見ていたら
ボロをまとうフランチェスコに接見する
カソリックの総本山の法皇は
煌びやかな衣装にごてごての宝石
まさに世俗の象徴
このギャップ
現代の宗教家はどのように説明するのでしょうか。
きっと、上手な説明があり
周囲の人はみな納得しているのでしょうね。

「こころの時代」という宗教番組を見ていたら
禅宗の坊さんにインタビューしていた。
屏風が飾られた大きな座敷に鎮座して
清貧の思想を説いていた
それはそれ
それにしても立派な茶碗で
余裕のある顔
最近の宗教家はみな同じですね。

それはそれ、清濁併せ呑む
時代に生き、日常をこなさなければならない
そんな事情を受け入れなければ生きられない
そんなことなのでしょうかね。

宗教は日常を生きる上にあるものなのですね。
私のようなぼんやりおやじには理解できない世界です。