みなさん、こんにちは
今朝、平島交差点近く250号線で人だかりが出来てました。
車もゆっくりしか進まず、事故?思ってたら・・・なんと間 寛平さんが
目の前を走っているではありませんか
昨日、倉敷で講演会をしていたというのは新聞で読みましたが、
まさか走っていく姿が見れるとは思いませんでした
事前に分かっていれば写真が撮れたんでしょうが、でも沿道で声援を
おくってた方たちは、よく把握してるものだと感心してしまいました。
寛平さんに励まされ、私もお仕事ガンバロ~
みなさん、こんにちは
今朝、平島交差点近く250号線で人だかりが出来てました。
車もゆっくりしか進まず、事故?思ってたら・・・なんと間 寛平さんが
目の前を走っているではありませんか
昨日、倉敷で講演会をしていたというのは新聞で読みましたが、
まさか走っていく姿が見れるとは思いませんでした
事前に分かっていれば写真が撮れたんでしょうが、でも沿道で声援を
おくってた方たちは、よく把握してるものだと感心してしまいました。
寛平さんに励まされ、私もお仕事ガンバロ~
鶴崎神社の次に磯崎眠亀記念館に向かいました。早島町の鶴崎神社を発ってから
約5分南に向かって車を走らせて、途中左折して街路を2ブロックも進むと左前方に
磯崎眠亀記念館が視野に入ってきます。
建物は贅を凝らして建築されたと思いますが豪奢と言うよりも寧ろ質朴な印象をうけ
ました。それでも当時近隣の住家と比べれば、その存在感は他を圧倒するものが有ったと
おもわれます。
この館の主であった磯崎眠亀は天保5年(1834)倉敷市茶屋町に生まれました。
元々家業は小倉織をしていたが、先祖から受け継いだフロンティアスピリットと創造力に
より、次々と機械の改造や発明をし、新しいものを生みだしました。
そして苦心惨憺の末、錦莞筵織機を発明しました。その苦闘の様子を明治末期の
国定教科書には以下のように記述しております。
「寝食を忘れ狂奔苦闘、赤貧洗うが如し」と著わしているそうです。この文章から如何に
彼が肉体的にも経済的にも困窮状態にあり、辛酸を嘗めてきたかが窺えます。
本当に心から敬服せずにはおられません。
さてその新しい織機から産み出された花筵はその美しさ故に、後に錦莞筵と名付けられ、
其の織機も錦莞筵織機と呼ばれ、上方写真のように今もその優美な姿を留めております。
錦莞筵は他に比類ないほど巧緻美麗に出来ていて、アメリカ・イギリス等海外からも
高い評価をうけ一世を風靡するように成りましたが、余りにも評判が良くて他国の市場を
席捲し、侵蝕するように成りました。それが原因で貿易規制をされるようになって錦莞筵は
海外の販路をほぼ失い、昭和の初期には生産を終えその終焉を迎えることになりました。
磯崎眠亀はその偉大な功績により明治30年に緑綬褒章を授与されました。それを機に
第一線から退きました。
その花筵を上方写真におさめましたので心ゆくまでご鑑賞下さい。
磯崎眠亀記念館を退出し、そこから車で数分のところにある妻方の親戚を
訪ね、外が暗くなるまで何時間も世間話に花を咲かせました。
楽しい一日ではありましたが、少々疲労をかんじました。
次なる行く先は鶴崎神社です。
ここは長寿、安産育児、産業、学業の神様として地元民から崇敬されている神社で、
所謂パワースポットに該当するのでしょうか。
お参りを終えて何だかパワーを戴いたような気がします。
多分気の所為だと思いますが、物事は良いように解釈すれば幸せです。
写真のように境内に今年の干支である巨大な兎の絵馬ならぬ折り紙を飾っています。
赤白一対の兎で、赤が高さ2・6m、白が高さ1・8mとなっています。
一度ご覧になるのも一興かとぞんじます。
有りがたく頂戴したパワーを追い風にして鶴崎神社を発ちました。
次は早島公民館の敷地内にある歴史民俗資料館に行きましが、扉が固く施錠され
閉じられていて、公民館の事務所に問い合わせるよう貼り紙で指示していました。
そこで事務所の職員に資料館の解錠を願いでましたが通常はアポイントがないと
開ける事が出来ませんとの返事でした。仕方なくパンフレットだけ頂戴して帰ろうと
していたところ、当該職員の方がどこかに電話をしてOKを取ってくれました。
当然喜んで資料館内部を見学させていただきました。そして皆様がたご存知のように
早島といえば藺草(いぐさ)があまりにも有名ですが、至極当然の如く資料館内部は
藺草関連の展示物で埋めつくされていました。
早島の藺草で織られた畳表は既に江戸時代から有名で、当時代を代表する作家である
滝沢馬琴の著書「夢相兵衛胡蝶物語」の一節にその名が登場しますが、早島表の愛称で
全国のファンに親しまれていたそうです。
上方に花筵織機と、その作品群を写しています。ゆっくりご鑑賞ください。
尚花筵といえば磯崎眠亀が有名ですが、彼については後ほど詳述することにいたします。
資料館をわざわざ開けて下さった職員の方にお礼を述べて、そこを発ちました。
戸川家記念館を出て次に直ぐ近くのいかしのや(五十橿舎)に行きました。
この建物は畳表,経糸の問屋として栄華を誇った寺山家が明治末期に建築した代表的町家を
改修しています。
五十橿舎(いかしのや)の名前の由来ですが、明治期の歌人で岡山市に在住した
岡直廬(おかなおり)がここを訪れた際命名したそうです。意味は「盛りに足りて厳か」と
言う事ですが、その解釈は皆様にして戴きたいとおもいます。
上方写真に全体の模型を写していますがその広大さというかスケールの大きさに
目を奪われるのではないでしょうか。
目を奪われるといえば、二階に上がると目の前に太い柱と梁が忽然と姿を現します。
特にその梁の太さには吃驚するとともに、当時の栄耀と繁栄ぶりを見せ付けられる
おもいがしました。そして畳はといえば豊後(大分県)の藺草(いぐさ)を使っており、
24・5畳の大広間を形成しています。そして見る者を剥き出しの小屋組みと畳が織りなす
野生味溢れる情緒的空間へと誘(いざな)うような気がし、そこには自ずから感動している
自分自身を発見するのではないでしょうか。
中に往時を偲ばせる電話機が有ったので写真に収めています。ご覧下さい。
其の他喫茶店や茶室そしてミニ音楽ホール、街角美術館等があり早島町の
多目的文化ホールとして町民に利用されているそうです。