戸川家記念館を出て次に直ぐ近くのいかしのや(五十橿舎)に行きました。
この建物は畳表,経糸の問屋として栄華を誇った寺山家が明治末期に建築した代表的町家を
改修しています。
五十橿舎(いかしのや)の名前の由来ですが、明治期の歌人で岡山市に在住した
岡直廬(おかなおり)がここを訪れた際命名したそうです。意味は「盛りに足りて厳か」と
言う事ですが、その解釈は皆様にして戴きたいとおもいます。
上方写真に全体の模型を写していますがその広大さというかスケールの大きさに
目を奪われるのではないでしょうか。
目を奪われるといえば、二階に上がると目の前に太い柱と梁が忽然と姿を現します。
特にその梁の太さには吃驚するとともに、当時の栄耀と繁栄ぶりを見せ付けられる
おもいがしました。そして畳はといえば豊後(大分県)の藺草(いぐさ)を使っており、
24・5畳の大広間を形成しています。そして見る者を剥き出しの小屋組みと畳が織りなす
野生味溢れる情緒的空間へと誘(いざな)うような気がし、そこには自ずから感動している
自分自身を発見するのではないでしょうか。
中に往時を偲ばせる電話機が有ったので写真に収めています。ご覧下さい。
其の他喫茶店や茶室そしてミニ音楽ホール、街角美術館等があり早島町の
多目的文化ホールとして町民に利用されているそうです。