”じてんしゃ組合”の会議の帰り久しぶりに仙台ヨドバシカメラに寄りました。、
久しぶりなもんですから人ごみに酔いつつも....ザワめく店内のカメラ売り場を右往左往するのですが、
でも最初に顔を出すところはペンタックスの展示してるコーナーなんです、
なぜか気持ちが落ち着くし...安心するし 嬉しくなるところ、
もしかするとペンタックスのカメラを愛用する自分の心を支えてくれるところだから...かも(^^)
初めて買ったデジカメ1眼レフ ”ist,DS" 2台目”k-7”と、この売場でした。
とにかく1眼レフカメラと出会ってから約7年が経ちました。
さいきん思うことがあります、
常用してきたレンズ”TAmRON AF28-200"が...くたびれてる様子で心が痛む自分でした。
彼の老体を案じながらのヨドバシだったのかもしれません、
案ずるとは、.
”あれこれと考えをめぐらす”意味と思うし。自分としては「買い替える」と理解しました。
長い言い訳文章となりましたが^^結局は新品のレンズに買い替えました(TAmRON AF18-200)。
こんどのレンズは
広角側がAF18とワイドになった分、スナップ写真の巾が広がる思いです
下の写真はレンズ買換え記念に新品レンズで一等最初に撮った仙台ヨドバシカメラの新店舗です。
※ 仙台ヨドバシカメラ 新店舗4月26日仙台東口移転開業。
まえに、ブログで4月頃開店と言ってた店舗なのですが、
諸般の事情で5月後半となりました。
別に焦りはしないし...嬉しさの先走りだけが気持ち躍ります。
国道398号線を並行した旧道沿いです。
写真で分かるように国道からは150㍍ほどでこの場所に到着です(^^)
高速道路”三陸自動車道”終点...登米東和から約10分程です。
菅原接骨院が旧道沿いでクレーン車の向こう側で基礎工事が始まったところ、
写真手前右側が 工藤商会(農業機械)、目の前が私の店舗の基礎工事模様です。
3店舗は震災前は街の中心部で店舗を構えていました。
.私たち”駅前商店振興会”は、
南三陸志津川町内で唯一頑張っていた商店会(30店舗)でもあり、
駅があり、町役場、総合病院、警察、スーパー、大型薬店等と利便性に富んだ地域でした。
私の店舗です(^^)
長さ10㍍×幅7㍍=70㎡(21坪)・、わくわくドキドキ”私とあなたここに生まれて”って...感じ^^
ボランティアさんから支援して頂いたテーブルとイス。童子下1期仮設駐車場に凄くマッチしてました。
天気もイイし気分もイイし...の昼ちょっと前...桃の花を添えたテーブルに、
.
もう...6年前に撮影した夏祭り模様の写真です、...私の元へ戻ってきました。
当時、初めて買ったデジカメ一眼レフカメラ^^....”.喜び勇んで”やたら撮りまくりました。
そしてCDに焼いては、行政区内の皆さんに配ったことを思い出します。
でも、押しつけがましく行政区のみなさんに配った写真でしたが、
しかし津波の難を逃れ私の元に戻った写真はかけがえがない後世に伝え得る貴重な写真となりました。
6年前の写真とはいえ...少しボカ ↓ しました。
でも”あのころ”...私たち八幡町行政区の結束力は多方面から評価され盤石な時でもありました。
行政区の連帯感は祭りを通し力強く育みました。
喜びは”老若”はとわず,.....今流で言うと ”絆”って事です。
私たち八幡町行政区は...震災後の状況をもとに表現すると、
いろいろと取沙汰された”防災庁舎”を中心とした300㍍圏内を指します。
勿論我が家は防災庁舎の隣です。
志津川駅に自転車で30秒、公立病院、民間病院(歯科含む)5施設、郵便局に銀行と、大変利便性に富んだイイ環境でした。
コンビニは走って1分、.晩酌が足りなくなると^^よく走りました。
.
私たち八幡町行政区の合言葉は ”伝承”です。
震災後...1年が経ちました。
八幡町行政区の人々は特にチリジリバラバラになりました、とくに町外に生活を求めた人が多いようです。
なぜなら私たちの行政区は、将来まで....住んではならない危険区域と指定されたのです。
因みに私の家の周辺は緑地公園だそうです。
私たちが頑張ってきた伝承は、たぶん一人一人の気持ちの中の思いとして”受け継がれて行くと”思っています。
.
もう、二度と戻らぬことだから、
南三陸 志津川八幡町
もう...6年前に撮影した夏祭り模様の写真です、...私の元へ戻ってきました。
当時、初めて買ったデジカメ一眼レフカメラ^^....”.喜び勇んで”やたら撮りまくりました。
そしてCDに焼いては、行政区内の皆さんに配ったことを思い出します。
でも、押しつけがましく行政区のみなさんに配った写真でしたが、
しかし津波の難を逃れ私の元に戻った写真はかけがえがない後世に伝え得る貴重な写真となりました。
6年前の写真とはいえ...少しボカ ↓ しました。
でも”あのころ”...私たち八幡町行政区の結束力は多方面から評価され盤石な時でもありました。
行政区の連帯感は祭りを通し力強く育みました。
喜びは”老若”はとわず,.....今流で言うと ”絆”って事です。
私たち八幡町行政区は...震災後の状況をもとに表現すると、
いろいろと取沙汰された”防災庁舎”を中心とした300㍍圏内を指します。
勿論我が家は防災庁舎の隣です。
志津川駅に自転車で30秒、公立病院、民間病院(歯科含む)5施設、郵便局に銀行と、大変利便性に富んだイイ環境でした。
コンビニは走って1分、.晩酌が足りなくなると^^よく走りました。
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私たち八幡町行政区の合言葉は ”伝承”です。
震災後...1年が経ちました。
八幡町行政区の人々は特にチリジリバラバラになりました、とくに町外に生活を求めた人が多いようです。
なぜなら私たちの行政区は、将来まで....住んではならない危険区域と指定されたのです。
因みに私の家の周辺は緑地公園だそうです。
私たちが頑張ってきた伝承は、たぶん一人一人の気持ちの中の思いとして”受け継がれて行くと”思っています。
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もう、二度と戻らぬことだから、
南三陸 志津川八幡町