行為の善悪は、それを神が許すかどうかにある。或いは、イエスでもゴータマでも、彼らがどう判断するだろうか、良く考えた上での言動や行動でないと、後悔するばかりでなく苦しむ事になる。
(二十六)紂王は日がな酒宴を行い日時を忘れた。側近の者に尋ねたが知らなかった。そこで箕子に尋ねたが箕子も知らないと答えた。箕子曰く「天下の主が日を忘れるようでは天下は危うい。国中の者が知らないのに自分だけ知っているのは我が身が危うい。」なので、自分も知らないと言ったのである。
行為の善悪は、それを神が許すかどうかにある。或いは、イエスでもゴータマでも、彼らがどう判断するだろうか、良く考えた上での言動や行動でないと、後悔するばかりでなく苦しむ事になる。
(二十六)紂王は日がな酒宴を行い日時を忘れた。側近の者に尋ねたが知らなかった。そこで箕子に尋ねたが箕子も知らないと答えた。箕子曰く「天下の主が日を忘れるようでは天下は危うい。国中の者が知らないのに自分だけ知っているのは我が身が危うい。」なので、自分も知らないと言ったのである。
烏合の衆は決して何もしない訳ではなくて、為す行動そのものが問題の解決にならないのである。だから決して座して死を待つ様には見えない。
理想と現実の乖離がベクトルの強さと方向を決める。但し、現実を理想に向って変えたいという欲求がなければ、このベクトルは抑々発生しないのである。
信仰する者たちよ、おまえたちが稼いだ良き物と、われらがおまえたちの為に大地から出でさせた物から施しをせよ。おまえたちが施す時に、その中から質の悪い物を選んではならない。おまえたちでも目を閉じてでもいなければ受け取らないような物を。アッラーは富裕で称賛されるべき御方と知れ。(雌牛)
若者は新しい考えに飛び付くが、老人は古い考えに固執する。故に、新しい思想が広まるのは、結局、古い思想の虜である老人達が死んで逝くからなのである。
前向きな姿勢で人生は開ける。後向きな姿勢では人生は終局を迎える。従って、後退する時でも前向きに後退すべきなのである。
俗人の涅槃は俗界にある。即ち、俗人の世界に徹する事が俗人の悟りである。故に、俗人は心を煩悩で満たさねば、この世への未練を捨てて彼岸へと旅立つ事は出来ないのである。
全ては過ぎ行くもの、人も死に逝くもの、人生は漂白である。故に、人生に固有の目的や特別の価値など何も無いのである。
人は好むものには美しさを見、嫌いなものには醜さを見る。故に、美醜と言えども単なる好き嫌いの反映である事が多いのである。