ビジネスに性善説は通用しない。何故なら、人の善意を信じていては、何時になったら所期の目的を達成出来るか分からないからである。もし、その目的が重要であるなら、遅滞が生じた時点で、騙されているのではないかと一応疑ってみる事が必要である。
人生、中年に達し改善の余地ある者など殆どいない。しかし、中には稀に自ら改善し更に成長する人もいるのであるが、その様な人は本当に優れた人だけである。
気持ちよい生活を作ろうと思ったら、済んだことをくよくよせぬこと、めったに腹を立てぬこと、いつも現在を楽しむこと、とりわけ、人を憎まぬこと、未来を神にまかせること。(ゲーテ) meigennavi.net/tb/word/036/03…
適応し過ぎる事も善し悪しである。何故なら、或る適応形態はその環境の最適生存形態であり、その環境に於いてのみ最も優れているだけだからである。従って、また違った環境では、その優秀性は全く存在しなかったかの様に無力となり、生存上役に立たないばかりか不利になる事さえあるのである。
駄馬でも乗らねば自分の脚で歩いて行く事になる。従って、駄馬を料理して肉として食うか、駄馬に餌を与えて乗り物として生かすかの判断は、時として極めて難しい判断となるのである。
「山に躓かず蟻塚に躓く」という諺がある。山は大きいので人は用心するが蟻塚は小さいので人は侮るからだ。刑罰を軽くすれば民衆はそれをきっと侮り、犯罪を犯すようになるだろう。人々を犯罪に走らせながらそれを罰するのは民衆に落とし穴を仕掛けるようなものだ。
見切り千両の判断は大体いつも間違うが、奇貨置くべし、の判断は大体いつも正しい。故に、奇貨と思しきは、措いて置いて、まず間違いないのである。
人間だけが価値を生む。物質をどう弄っても価値を生まない、物質の儘である。即ち、価値の源泉は人間そのものなのである。
商業的問題解決能力は、商業的価値の一部であるが、人類の価値の全てではない。然るに、重商主義ではそれは価値の全てである。
人の評価は本来神に属する。何故なら、神には人を存在させる何らかの理由があるからだ。然るに、人が人の価値を勝手に判断する事で様々な祟りが生じるのである。
耕作人を雇うとき主人がうまい食事でもてなしたり、金をかけて道具を揃えるのは耕作人を愛しているからではない。そうすれば耕作人は深く耕し丁寧に刈り取るからで、反対に耕作人がせっせと働くのも主人を慕っているからでなくそうすれば食べ物も上等になり給料もよくなると思っているからだ
【松下幸之助】大衆はきわめて賢明であり、きわめて公正である。われわれはつねにこの賢明にして公正な大衆の期待にいかに応え、いかに奉仕するかという点に、経営の根本をおいて仕事を進めなければならない。
万事如意は、あどけない願望に過ぎない。さもなくば、何かの罠である。人生万事不如意が常であると心得えた方が安全で落胆が少ない。
あんたのその根性の汚さだけで吐き気がしますよ。あんたは髪をきちっと分けて、薄手のシャツを着て、フランス人の仕立てた服を着てるけど、そんなものはみんな―不潔ったらありゃしない! 一体誰の金でそんな服を作ったの、誰に食わせてもらってるの、誰にルーレットをやる金をせびってるの?―未成年