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平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

徒然なるままに行き当たりばったりの旅2 豊橋~彦根

2007年07月04日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

はい、昨日の続きです。



(↑昨日、外観を載せてました伊東東海館120畳の大広間です。つわものどもが夢の跡・・・ですかね。私も、こんなところで、宴会してみたい・・・(笑)。ちなみに、数えたら、本当に120畳くらいありましたよ。)
で、豊橋を出て、まず、岡崎に行き、岡崎城を見て、その後、彦根城に行こうと、JR特別快速に乗ったところ、岡崎城に行くためにはJRではなく、名鉄に乗らないと、でっら遠いだがね・・・ということを知ったワタクシ・・・。
車中で初めて、ガイドブックを出して、しばし、沈思黙考・・・。

で、この日、愛知県は31℃晴れ暑くてたまらなかったのに対し、北陸地方は、滋賀県はその中間で曇り・・・と、朝のニュースが言っていたのを思い出しました。
で、考えました。
「雨降りも嫌だけど、この猛暑も困る・・・。でも、北陸地方も雨が上がりつつあると言っていたし、であれば、乗っている電車は米原(滋賀県)行きだし、切符はそこまで持っている・・・」と。
であれば、そのまま、岡崎はスルーして、直接、滋賀県は彦根に行こうと決定。



で、毎回、この辺りを通るたびに思うんですけど、静岡から愛知にかけての東海地方は、温暖で非常に風光明媚・・・なのですが、これが、名古屋を出て、岐阜地方に入ると、いきなり、一変・・・。
前回行ったときも、名古屋までは、ぽかぽか陽気だったのが、岐阜の大垣ではジャンパーがいるようになり、さらに、関ヶ原一帯では雪が降っていたという。
しかも、その調子でたくさん着こんで博多に着いたら、これまた、ぽかぽか日よりで、なんぼも歩かないうちに、汗びっしょり・・・になったという。

思えば、名古屋から、岐阜、滋賀、京都天下獲りの歩を進めた織田信長に率いられた尾張兵も、このわずかな距離での気候の変動にはとまどったのでは・・・と。
でも、よく考えたら、彼らは皆、「歩き」でのスピードですから、関ヶ原に着いたときに名古屋の天気がどうなっているか・・・などということは知るよしもなかったわけですよね。

はい、この続きはまた、明日のココロだーの巻。

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徒然なるままに行き当たりばったりの旅1 伊豆~豊橋

2007年07月03日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

先週末、訳あって、羽田から伊豆~豊橋~彦根・・・という旅をして参りました。
お世話になりました関係者各位様には、この場を借りて、改めまして御礼申し上げます(笑)。

で、まず、博多からの伊豆(静岡県)に行こうと思ったのですが、乗り継ぎが面倒だから、時間かかっても新幹線こだまで、直接、熱海まで行こうかな・・・と思っていたら、すべて、新大阪で乗り換え・・・になっており、であれば、「同じ乗り換えなら、飛行機で羽田まで行って、戻ってきた方が・・・」と思い、一旦、飛行機で羽田まで行き、そこから、京急横浜まで行ったところ、目的地までは、鈍行2時間半と言われ、しかも、待ち時間たっぷり・・・。
さらに、荷物がむちゃくちゃ重く、 これでは体がもたない・・・ということで、とりあえず、一旦、快速で小田原まで行き、そこで、別の快速か何かがあることを期待したのですが、結局、中途半端な待ち時間が出来ただけで、駅前を10分ほどぶらぶらして、やっと、本来乗るべき鈍行に乗り・・・。
結局、目的地到着まで、まるまる、半日かかってしまったという。



で、ひとかたならぬ歓待を受けた後、翌日、浄蓮の滝へいってきました。
といっても、私も、石川さゆり「天城越え」という歌でしか知りませんでしたけどね。
あの、「つづらおり~じょうれんのた~き~♪舞い上がり~ 揺れ堕ちる~♪」っていうやつ(笑)。
ちなみに、小説で「天城越え」というのは、福岡県北九州市出身・松本清張の作で、私も、それぞれ、田中美佐子版、田中裕子版、大谷直子版などで映像化されたものを見た記憶があります。

で、さすがに伊豆は温泉どころ、岩盤浴行って、ようやく、二日酔いが一段落した後、寿司をごちそうになり、伊東で観光名所、東海館 趣ありましたねぇ・・・。)に連れて行ってもらい、ここで、伊豆を辞去。


熱海で新幹線に乗り換え、一路、愛知県は豊橋へ。
友人と旧交を温めた後、翌日、今度はJR岡崎に行こうとしたら、こちらは名鉄でないと、どえりゃあ遠いことに気づき、どうしたものかとしばし、車中で熟慮・・・。

で、以降のことと、車窓より徒然なるままに思ったことは、また、明日の項といたしませう。

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なぜ福岡市?という提言。

2007年06月08日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

今から10年ほど前でしょうか、ひょんなことから、ある提言書を書いてくれと言われたことがあります。
結局、この提言書は、日の目は見なかったのですが、先日、別の資料を探していたら、たまたま、その提言書が出てきました。
私も、この存在は、すっかり、忘れていたのですが、当時は、まだ、パソコンではなく、下書きを手書きで書いて、清書ワープロでやるような感じだったようで、手書きでB5のレポート用紙に表紙も含めて19枚書かれていました。
改めて、我ながら、よう、書いたよな・・・と。
無論、内容に・・・ではなく、手書きで・・・という意味ですね(笑)。

で、スキャンして、ここに張り出そうかなと思ったら、手書きゆえにまるで機能しない・・・。
(まあ、ちゃんと設定すれば手書きでも対応できるのでしょうが、元来、それが、面倒くさい人間なもんで・・・(笑)。)
そこで、仕方ないので、要旨だけを書き出そうとしましたが、まあ、内容的に思わず、何度も、「これは書かない方がいいんじゃないか・・・」と思い、キーボードを打つ手を止め・・・の繰り返しで、結局、ずーーーっと、ネタ帳に置いたままになってました。

そう言えば、当時、それを書いているときも、その暴論的な論旨に何度も筆を止め、「やっぱ、やめておこうか・・・」と思い、人からも、「そんな論点、無理だよ」と言われ・・・だったのを思い出しました。

そこまで、私を躊躇させるその内容・・・。
それが、「なぜ、福岡市なのか?」という提言なのです。

まず、「福岡市」というのは、以前、平太郎独白録 「博多祇園山笠に見る、福岡・博多、三都物語・その1。」の中で、ご説明申し上げましたとおり、古来からの商人の町「博多」と、江戸時代以降に成立した武士の町「福岡」とが併存していた町であり、それが、明治21年の市制発足時に、県知事(当時は官選知事)により、「福岡市」と命名されたのですが、それに納得できない博多人たちは、その翌年、「市名変更」の動議市議会に提出。
結果、福岡士族らの妨害工作などもあり、市議会での開票結果は同数となり、ついには福岡側議長の一票で「福岡市」となり、その反動で、国鉄の駅は「博多駅」となったという経緯があります。

しかし、私が学生の頃、県内の他の市町村から来たやつらから、「家どこ?」と問われ、「福岡」と答えると、相手は、一瞬、怪訝な顔をして、「ああ、博多ね」ということがままありました。
私にしてみれば、住所は「福岡市」となっているわけですから、「家はどこなの?」と尋ねられれば、「福岡」と答えるのですが、向こうも、「福岡県」在住者であることから、「福岡?そりゃ、ここは福岡なんだから福岡だろうよ。何を当たり前のことを言ってるんだ・・・」みたいな微妙なとまどいがあったわけですね。
つまり、これは、福岡以外の県でもそういうところが多いのでしょうが、「福岡」と言ったときに、それが、「福岡市」を表しているのか、「福岡県」を表しているかが、瞬時にわからないということです。
(この点では、わかりやすくと言うと、「神戸」と言えば「神戸市」のことであり、誰も、「兵庫県」とは間違えませんよね。)

また、今日、全国的に認知されている名前は、「福岡」よりは、圧倒的に、「博多」なんですよね。
昔、これまた学生時代、名古屋で、ある女性から、「どこから来たの?」と聞かれ、「福岡」と答えたところ、「は?それどこ?」と言われたことがありました。
私が機転を利かせて、「博多ですよ」と言うと、「ああ、博多ね」と・・・。

実際、これに限らず、「出張で来福した人が混乱した」などという話は枚挙にいとまがないようで、まあ、それらを考慮すれば、本当は「博多市」・・・、もしくは、「福博市」にでも変えるべきだと思うんですよね。
明治の市名制定から、すでに、100年が経っているわけですから、もう、いい加減、いいでしょう・・・みたいな。

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関門海峡からこちら側の世界、福岡北九州比較・後編。

2007年01月27日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

昨日は、ここ(←)に居ました。
ここで飲んだわけではないのですが、結果的に今日も二日酔いです(笑)。

先週、木下恵介監督作品、「陸軍」について触れましたが、この映画は、舞台が現北九州市である豊前小倉(当時は小倉市?)だと申し上げましたよね。
でも、この映画・・・、確かに、舞台は豊前小倉なんですが、実際にロケが行われたのは福岡市なんですよ。
でも、私は、この映画を見たときは、小倉の風景だとばかり思って見ていました。
(もちろん、小倉でのロケも相当数、あったでしょうが・・・。)

その意味では、やはり、福岡も小倉も、所詮は、関門海峡からこちら側の街なんでしょうね(笑)。

でも、当時の福岡の町並みを見て、私が懐かしいと思うことはないですよ。
昭和31年に放映された映画に、「大怪獣ラドン」というのがあるのですが(総天然色だそうです。若い人には、何のことか、わかりませんよね(笑)。)、ラドンは、熊本は阿蘇から飛び立ち、なぜか、当時、人気の観光スポットだった西海橋を破壊し、福岡市の中心部に襲来しました。
中学生くらいの時に、その映画を見たときは、「あ!これは、うちの近所のあの建物だ!」と思いったのですが、今見たら、どこがどこやら、さっぱり、わかりません。

同様に、昭和53年頃に放映された「高校大パニック」という映画も、福岡市が舞台なのですが、今見たら、殆ど、「ここどこ?」って感じです。
ましてや、戦時中の映画ですよ。
同時代の他都市の古写真とどこが違うの?って感じです。

で、話を元に戻しますと、ロケは福岡だけど、舞台設定は小倉なのですから、東京の方がみれば、何の違和感もないのでしょうが、やはり、地元の人が見れば、違和感があったと思われます。
なぜなら、ある意味、博多弁北九州弁は、「日本でもっとも違う方言」と言ってもいいくらい言葉が違う・・・からです。
ですから、福岡人は、出ている人たちの話し方を見て、そう思ったのではないかと。
(北九州の中の門司には、「門司に方言なし」という言葉があるくらいで、北九州弁というものは、語尾に、「ちゃ」が付くくらいのもので、博多弁から比べると、殆ど、方言色がありません。それに対して、博多弁は武田鉄矢さんなどでお馴染みのように、かなり、方言色が強いです。博多人同士の普通の会話が、東京の人にはケンカしているように聞こえるとか。)
まあ、元々、出演している役者さんたちは、必ずしも、小倉出身者ばかりでもなかったでしょうから、いずれにしても、違和感があったでしょうが・・・。

以前、大河ドラマで、「飛ぶが如く」というのがあっていたとき、主演の西田敏行さんが演じた西郷盛に対して、「イントネーションが違う」というクレームが多々、寄せられたやに聞いております。
まあ、鹿児島県民にとっては、今でも、思い入れが強い西郷さんですから、やむを得ないといえばそうなのでしょうが、西田さんは、鹿児島県の仇敵、福島県出身だと聞いております。
その意味では、よく受けたな・・・と。
非国民扱いされたのでは・・・(笑)。

でも、私は、以前、テレビで、福島県の人と鹿児島県の人がお見合いするという企画の番組を見たのですが、男性の方が、立派な鹿児島弁を話してましたので、「ああ、男が鹿児島か」と思ってみていたら、何と、女性の方が鹿児島人でした・・・。
つまり、福岡県出身の私の耳には、福島弁鹿児島弁も、そっくりに聞こえたというわけです。

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関門海峡からこちら側の世界、福岡北九州比較・前編。

2007年01月20日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

今日の福岡県地方は、大寒にも関わらず、まるでを思わせるような好天で、ウォーキングしている人たちは、汗だくでした。
で、こんな天気の時に、こんな画像(←)で恐縮なのですが、この絵、実は、うちの子供が単に、段ボール箱に落書きしていただけの物・・・です(笑)。
何だか、思わず、どこかの絵本に出てきそうな絵のように思え・・・、見入ってしまいました。
あ、いえ、決して、某都知事のように、我が子の偉業に自分を見失っているわけではありませんから(笑)。

そう言えば、先日、ある雑誌に、4歳の子供が「僕ねぇ、は・・・。」と2年前の出来事について述べていたという記事が載ってました。
まあ、確かに4歳の子供にとって2年前というのは人生の半分ですから、確かに「昔」だな・・・と(笑)。
今年、46歳の私が23歳の頃を思い出すような物なのでしょうから。
「昭和」なんて言ったら、「紀元前」なんでしょうね(笑)。

で、本題です。
以前、どこかで言ったかもしれませんが、日本で唯一、一つの県で日銀の支店が二つある県があります。
どこかおわかりでしょうか。
そうです、我が福岡県です。
ちなみに、一つの県で新幹線の特急が二つ止まるのは、福岡県と東京都。
(今回、品川駅に止まることになる前は、これも福岡県だけでした。)
ついでに言うと、一つの県で百万都市が二つあるのも、福岡県と神奈川県(横浜川崎)だけですね。
で、この福岡県の特徴である「二つ」というものこそ、言うまでもなく、福岡市北九州市です。

この二つの百万都市は、福岡県内で1位と2位の大都市ではありますが、同時に九州全体での1位と2位の都市でもあります。
(ちなみに、3位熊本市、4位鹿児島市、5位長崎市・・・だったかと。)
ただ、静岡浜松新潟長岡長崎佐世保のように、両雄並び立たず・・・で、あまり、仲が良いとはいえないようです。
まあ、あまり、この件をこれ以上、深く掘り下げると、また、色々と問題になる向きもあるようですから、これには触れないとして、木下恵介監督作品に、「陸軍」というのがあるのですが、ご存じでしょうか?
タイトルの通り、戦局悪化著しい昭和19年(1944年)、旧陸軍省の肝いりで「大東亜戦争3周年記念映画」として製作された国威発揚映画です。
それだけに、出ている面々もそうそうたる顔ぶれで、 主演は、日本映画史に残る大女優、田中絹代、共演者には、笠 智衆、杉村春子、東野英二といった、後の大御所が顔を並べていたのですが、この映画は、舞台が現北九州市である豊前小倉(当時は小倉市?)なんですね。

続きは、また、来週ですかね(笑)。

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博多駅前史 その20 博多駅地区区画整理想い出編 Ⅶ

2006年12月30日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

つらつらと述べて参りました自己満足シリーズ、博多駅前史ですが、奇しくも、年の終わりの土曜日であり、また、20回目というきりの良さからも、とりあえず、ここで、打ち止めにしたいと思います。

で、その博多駅前地区土地区画整理によって、大きく変わった物に道路がありました。
区画整理での換地処分直後は、まだ、アスファルトも敷説されてなく、しばらくは、砂利道でした。
当時、自転車で、その砂利道を走るとハンドルを取られて、すぐに転んでましたが、転ぶと、当然、下は尖った砂利ですからケガだらけになってましたね。

さらに、昭和44年、実は、私、小学校二年のとき、その通学途中、区画整理によって新たに出来た大通りを渡っていて、タクシーにはねられました。
当時は、信号自体はもう、付いていたのですが、早朝は、節電の為か、信号灯りはともっていませんで、おまけに、朝、博多駅に客を拾いに向かうタクシーは、我先にと急いでいたようで、歩行者が立っていたからと言って、止まって、渡らせてくれたり・・・というのは少なかったです。
ところが、子供というのは、さすがに、順応性が早いというか、強引に渡ったら車の方が止まる・・・ということを学習したんですね。
だから、我々は、車が来ていても、「車の方が止まるさ」と言って、平然と渡ってましたよ。
ところが、ある日、私に気づかなかったタクシーがドカン・・・・。
あっ!と思ったら、見事に宙に舞って、地面にドスン・・・。
息が出来なかったのは覚えていますね。

で、私はそのまま、病院に担ぎ込まれたのですが、幸運にか、あるいは、咄嗟に自分でそうしたのかはわかりませんが、直接当たったところが、ちょうど、ランドセルでして、つまり、ランドセルがクッションの役目を果たしたおかげで、その後、意外に後遺症などもなく済んだのですが、この事件は、後日、聞いたところでは、単なる小学生の一事故ではすまなかったようです。
(でも、この頃を境にして、優秀だった私の成績は、見事に凋落の一途を辿りましたので、私としては、この際とばかり、成績低下は、すべて事故のせい・・・ということで(笑)。)

まず、慌てたタクシーの運転手さんが、私を抱いて、病院に駆け込んだようですが、一緒にいた友達が、そのまま戻って、うちに、私がはねられたことを告げたようですが、うちの両親としては、まず、私がどこに連れて行かれたかがわからない。
で、どこからか、相手が地場の鉄道会社が運営する西鉄タクシーだったということがわかったようで、当時、西鉄に勤めていた私の伯父に電話をしたところ、伯父さんが駆けつけてきてくれたようですが、うちの隣の自治会長さんが、駆けつけてきた私の伯父を、西鉄の人間ということで、(伯父と知らず)こっぴどく絞り上げたようで、さらに、早朝とは言え、小学生が通学する時間に信号が付いてなかったということが問題になったようで、それから、福岡(日本?)の信号は24時間付くようになったのだそうです。
ちなみに、それから、35年後、うちの次男が車にはねられ、それ以来、そこにも信号が付くようになりました。
当家は二代に渡って、体を張って、日本の信号に明かりをともしたということで、日本信号史に名を刻んだということでご理解ください(笑)。

でも、そんなこんなで出来た現在の博多駅前の道路ですが、区画整理から、早、40年・・・。
当時とは、自動車保有台数交通量も比べものにならないほどに多くなっており、また、人々の考え方も当時とは違ってきており、様々な部分で不都合が出てきているように思えます。
実際、向こう岸へ渡るのに横断歩道がないところもあり、そういうところは、おそらく、皆、地下道を通っていくということを前提にしていたと思われますが、現在では、わざわざ、下に降りるのが面倒くさいと言う人もおります。
また、小さな信号が幾つも連なっているところもあり、おまけに信号同士の連携もよろしくなく、一度に渡り切れればいいのですが、一つ渡ると、次の信号は赤信号・・・の繰り返しという融通の利かなさで、その都度、ストップしなければならないと言うところもあります。
スクランブル交差点の導入も含め、一度、駅前の道路行政を見直さねばならない時期に来ていると思います。

という、提言でこの博多駅前史の稿を締めさせて頂きます。
お付き合い感謝!

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博多駅前史 その19 博多駅地区区画整理想い出編 Ⅵ

2006年12月22日 | 地域
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すっかり、年も押し詰まりましたね。
(↑拙宅に残る下人参町の提灯です。昔は、ちょうど今頃の季節になると、町内会の役員がこの提灯を持って、「火の用心!」と声を掛けながら町内を練り歩いたわけですね。やはり、暖房といえば「火」だった時代ですから・・・。夏もやっていたのかもしれませんが、夏は余り聞いた記憶がありませんねぇ・・・。ちなみに、当然、「火の用心」と言えば、これにツキモノの拍子木もありました。ていうか、何で、うちにこんなものがあるんだと・・・(笑)。)

19回を迎えた、この自己満足シリーズも、ちょうど、年内20回でキリが良いので、そこを以て、終わりにしようと思います。
もうしばらく、お付き合いの程を(笑)。

当時、子供ながらに、私が一番参ったのは、友達が減っていくことでした。
そうそう、私は、昔も今も、性格が不自由な人ですから・・・・・・って、オイ!(笑)。(←ココ、思いっきり声を出して突っ込んで下さい。大事なところです。)

そうじゃなくって、以前も言いましたが、区画整理前までは典型的な下町で、住民の数も多かった現博多駅前地区ですが、区画整理以後は、オフィス街化の波に呑まれ、急速に人口が減っていったこともあり、子供の数も激減しました。
当然、私の仲の良かった友達も次々と転校していき、特に、私の住んでいた博多駅前三丁目地区は、中でももっともオフィス街化されたこともあり、同町内で、私と同学年の子供は幼なじみの女の子一人だけ・・・。
当然、「男女七歳にして席を同じうせず」の時代ですから(←ここ、突っ込むところね。よろしく(笑)。)、その女の子と遊ぶわけはないし、完全に一人でしたよ。
こうやって、私の屈折した性格が形作られていったわけですね。

あ、屈折した性格と言えば、そういうわけで、拙宅は見事なまでにビルの谷間にあったもので、毎日、昼間でも真っ暗で朝起きても晴れているかどうかわからない・・・。
20歳くらいのとき、朝起きて、「いくら何でも、こんなに暗いんだから、今日は寒いよな・・・」と思って、一杯着込んで、玄関を開けたら、思いっきり晴れてた・・・なんてことがありましたね。
こんな環境で、性格が屈折しないわけがない・・・という(笑)。

ちなみに、そんな私の唯一の憩いの場所だったのが、うちの前のビルの屋上でした。
よく、ここの屋上に上がって、空を見てましたよ(笑)。
昔は、今からは信じられないくらい眺望が利きましたね。
それが、平成になって、久方ぶりにここに上がったら、その、あまりの景色の変わりようにびっくりしました。
博多と言うところは、元々、空港が近い為に高いビルが建てられません。
従って、20階建て、30階建てなどというのは、片手で数える程度で、多くが高くて12~13階建て程度のビルばかりです。
となれば、上に上げられない以上、有効に利用しようと思えば横に拡がるしかなく・・・。
私が久々に、そこで見た風景は、10階建て程度のビルが、まるで、屏風を幾重にも重ねて立てたように林立しているものでした。
元々、昔から、ビルは多かったけど、昔はもう少し、隙間があったよな・・・と。
嗚呼無情・・・。

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博多駅前史 その18 博多駅地区区画整理想い出編 Ⅴ

2006年12月16日 | 地域
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先週の続きで、ビルの屋上から・・・シリーズです(笑)。

この現博多駅前地区においては、革命にも等しい出来事であった博多駅前地区土地区画整理ですが、それから2年後・・・、当時、子供心に「日本の未来は明るい!」と思わせる出来事がもうひとつありました。
それが、万国博覧会・・・、つまり、「大阪万博」です。
万博自体は、当時、国中を沸き立たせたものであり、別に博多とは関係ないんですが、まあ、国中が万博一色だったわけですから、万博開催以前から、「万博」という物は、少年誌にも紹介されてましたし、テレビでも連日、特集が組まれてましたから、万博開催以前から、子供でも知っていたわけですね。
区画整理以降は私の記憶はカラーになったと言うことを申し上げたと思いますが、その点では、この大阪万博でより鮮明なカラーになったと感があります。
いわゆる、「くいんとりっくす」です(笑)。
(ここで笑えるのは、40代以上でしょうか・・・。)

で、小学校二年のあるとき、いつものように、近所のビルの屋上にあるブランコから、一人で周囲の風景を見ていたとき、ふと、ビルが林立し始めた博多駅前という町の風景が、大阪万博のように思えてきたことがありました。
当時、それを、一編の詩にしたのですが、うろ覚えですが、ちょっとだけ披露しますと、

  万国博 ~ビルの上から~

   ビルの上から 辺りを見ていると 
     みんな 万国博のパビリオンに見えてくる

   **ビルは 松下電器館
    ##ビルは 日立館
     ◎◎ビルは 住友館

   博多駅は 太陽の塔だ
      まるで 形は違うけど 
    みんな 万国博のパビリオンに見えてくる


・・・とか何とか、まあ、こんな感じの物でした(汗!)。
実際には、この三倍くらい長かったんですけどね。

ちなみに、このとき、この詩を見た担任が感心し、それをまた、校長先生が感心し、特別に校内報に載せられました(笑)。
ちなみに、それを見た父は、一言、「バカタレ!こんなもん上手でも大工には何の足しにもならん!算数でも勉強しろ!」と宣いました・・・(泣)。

で、くだらない自虐ネタはさておき、本題です。
福岡市は、ご承知の方も多いかとは存じますが、市街地空港との距離が近く、そのため、日本一便利な空港として知られていますが、その反面、その為、規制により高いビルが建てられず、それでなくとも、狭隘な福岡平野ですから、「この利便性を崩すべきではない」という意見があると共に、「発展を阻害している」という意見もあるようです。

で、最近でこそ20階、30階などというのがちらほら在るようですが、かつては12~3階建てばかりであり、となれば当然、有効利用しようと思えば縦に伸ばせない以上、横に拡げるしかなく・・・。
これは福岡の景観上の特徴として、よく言われることですが・・・。



で、平成になって、久しぶりに、うちの前のビルの屋上に上がってみたところ、その風景にびっくり!
元々、ビル街ではありましたが、バブルを経て、ビル街は、林立から乱立へと様相を変えており・・・、つまり、ビルとビルの間のわずかな隙間を惜しむように、同じような横広のビルがびっしりと「敷き詰める」という表現が的確かどうかはわかりませんが、そういう感じになってました。
何じゃこりゃ・・・と、結構、啞然としたのを覚えています。

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現存する日本最古の戸籍 中編

2006年12月14日 | 地域
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昨日の続きです。

その日本最古の戸籍、「筑前国嶋郡戸籍川邊里」についてですが、先日、その資料、岡本顕實著、「筑前国嶋郡の『川邊里』戸籍」という書を引っ張り出してきたのですが、そこに記載されている嶋郡とは、現在の福岡県糸島郡に当たり、「里」というのは、現代で言うところの「村」に相当するらしく、現代風に言うならば、川邊里というのは「川辺村」と言った意味だとか。
即ち、現在の糸島郡志摩町、前原市、福岡市西区元岡(すべて、旧糸島郡)に跨る地域だそうですが、この戸籍を見ると、この村には、28家族438人が暮らしていたことがわかるそうです。
もちろん、各家族ごとに、大小ばらつきはあるにせよ、平均すると一戸当たり25人の大家族であったと言います。

で、戸籍は、一人一行ずつで、戸主から始まり、姓名、年齢、税の区分、続柄が記され、配列は血縁順、最後に口分田総面積が明記されているとか。
同著曰く、
「川邊里の最大家族は肥君猪手が戸主の124人で、口分田は全体で13町6反120歩(約14ha)であり、さらに郡長官の身分であり、別途に手当、6町(ha)が支給された」と。

で、その肥君猪手の戸籍を見ると、同著曰く、
「戸主の肥君猪手はこの年(702年) 53歳、朝廷から正八位上勲十等という位を受け=地方の有力者としては相当な高位である=嶋郡を治める長官の「大領」の位」にあったことがわかるそうで、つまり、ここに「志摩郡郡役所があったことを物語っている」そうです。

さらに、続けて、「庶母 宅蘇古志 須弥豆賣 年陸拾伍歳 老女」とあるそうで、つまり、65歳の義母の存在が書いてあると。
その次には、「妻 寄多奈賣 年伍拾武歳 丁妻」。
52歳正妻だそうです。
続けて、「妾 宅蘇古志 摘賣」 47歳、「妾 黒賣」 42歳、「妾 刀自賣」 35歳とあり、一夫多妻制であったことがわかるとか。
一夫多妻制自体は、日本でも江戸時代くらいまではそうだったのですから、まあ、驚くほどのことではないのでしょうが、ここで、注目すべきは、正妻の欄にが書かれてないことだそうです。
(ちなみに、古代の戸籍は夫婦別姓だったそうですね。1300年が経った現代、「夫婦別姓」が論議されていることを聞くと、この人たちはどう思うのでしょうか・・・。)

同著曰く、「この時代、奴碑 (奴隷) には姓がなかったが、れっきとした正妻が奴碑であることは考えられないから、正妻も庶母と同様、宅蘇古志氏の一族と見てよかろう」ということなのですが、となれば、妾1号(2号?(笑)。)に続けて書いてある2号、3号共(実は4号もいた形跡があるとか・・・。)に同姓ということになり、となればつまり、この猪手という人物は、四姉妹を全部妻にした・・・とも考えられるのだそうです。
まことにもって、うらやま・・・、いえ、何でもありません。
失礼しました(笑)。

まあ、単に書き漏らしただけかも知らず、私としても、同姓にしても妻の姓は無くて、妾1号の姓だけが記載されていたのは、イマイチ、理解に苦しみます。
同書でも、この点は、可能性として、
①庶母と正妻が姉妹であり、妾3人は別の姉妹である
②年齢からみて、正妻と3人の妾が姉妹である。
ということも指摘してありました。

で、これ以降には、この妻妾が産んだ子供、さらには、孫たちの記載に移り、一族縁者、そして、奴隷になるそうです。
ちなみに、当時の奴隷は、大体、人口の5%くらいはいたそうで、奈良時代の日本の人口が500万人として、つまり、25万人くらいが奴隷だったとか。
現代日本人から見ると、何とも酷い話に聞こえますが、近代以前は世界史的に見ても取り立てて珍しいことではなかったようです。

続きは、また明日。

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博多駅前史 その17 博多駅地区区画整理想い出編 Ⅳ

2006年12月09日 | 地域
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これまでも述べて参りましたとおり、昭和43年4月区画整理換地処分が施行され、それまでの下町から、一転して、現在のオフィス街へと変わっていった現博多駅前地区ですが、それに伴って、周囲には、ビルがどんどん建ちだし、それらのビルには、それまで、デパートに行かなければ乗れなかった「エレベーター」なる物まで付いてました。
これにより、私たちの遊び場所も変わっていきました。
で、新たな私たちの遊び場所となった物・・・、それが「ビルの屋上」でした。

空き地に変わって、新たに登場してきた公園でしたが、馴れてみると、意外に使い勝手が悪く・・・。
その一番の理由は、下が砂利だったことです。
運動場や空き地と違って、転べばケガするし、野球すればバウンドが変わるし、第一、公園には「ここでキャッチボールなどをしてはいけません」などと書いてある始末で・・・。
それに対して、ビルの屋上というのは、基本的に自分だけの世界なわけです。
公園や、空き地だと、誰が通りかかるかもわからないわけで、子供には結構、危険な世界でした。
一人で、ぼーっとベンチにでも座って居ようものなら、博多駅に行った数人が通りかかり、取り囲まれて、「おまえ、どこのモンや?」と・・・(汗)。
元々は、こちらもお世辞にも、あまり、ガラが良いとはいえない地域だったのでしょうが、区画整理以降は急速にオフィス街化が進んだこともあり、住民の数が激減してましたから、絶対数で、もう、歯が立たないわけで・・・。
(小学校入学時は、町内で同学年の男子は4人いたのですが、四年生になったときは私一人でした。こんな状態じゃぁ・・・。この当時の経験から、「負ける戦はしない」という、私の鉄則が形作られていったわけですね(笑)。)
それに対し、ビルの屋上というのは、安全でしたね。
通りがかりの奴は、まず、そこに、そんな空間があることを知りませんから・・・。

また、その当時から新しくできたビルの中には、入居者の子供向けに遊具なども据え付けてあるところもあり・・・、となれば、これはもう、それまで有り得なかった世界であり、あっちのビル、こっちのビルと、エレベーターを自在に操り、来る日も来る日も探検して廻りましたね(笑)。



ちなみに、当時は、屋上への出入りも、まだ、そんなにうるさくはなく、我々子供も割と自由に出入り出来たのですが、弟たちと、あるビルの屋上へ上がったところ、特にその屋上には何もなく、見ると、隣のビルの屋上との隙間が50cmくらいしかなかったので、「ここを乗り越えて、隣のビルに移ろう」という話になりました。
幅的には、子供でも、簡単に乗り越えられる幅でしたが、高さは10階くらいはありますから、落ちたら、真っ逆さまです。
で、そこを乗り越えて、首尾良く、隣のビルへ移ったものの、今度は、そちらのビルには扉が2つあり、どちらが降り口なのかがわからない・・・。
ドアに耳を付けても、何も聞こえないので、思い切って、その片方を、こっそりと開けてみたところ・・・、そこは管理人さんの自宅で、今まさに夫婦ゲンカの真っ最中・・・。
一瞬、夫婦ゲンカが中断して、けげんな顔で、「何ね?」と。
「階段はどちらですか?」と私。
「階段はそっちのドアだけど、あんたたちはどこから入ってきたとね?」と。
「隣のビルから・・・」とだけ言うと、一目散退散・・・。
我々が、夫婦ゲンカを収めてあげたという、少しいい話ですね。(←違うか!(笑)。)

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博多駅前史 その16 博多駅地区区画整理想い出編 Ⅲ

2006年12月02日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

私が子供の頃、毎年、ちょうど、今頃の季節になると、とても、困ったことがありました。
年賀状「住所」です。
昭和43年博多駅地区土地区画整理以降、それまでの慣れ親しんだ「福岡市下人参町」から、長ったらしい「福岡市博多駅前三丁目O番地」となったわけですが、住所変更はこれで終わったわけではなく、その後も、やっと覚えたと思った住居表示がコロコロ変わり、しかも、短くなるならまだしも、やたらと長くなっていきました。
小学校入学時は、福岡市下人参町だった住所が、区画整理と共に上述した住所になり、その後、翌昭和44年に、福岡市博多駅前三丁目O番O号となり、昭和47年には、今度は福岡市博多区博多駅前三丁目O番O号となり、さらに、今度は、それに、「郵便番号」という数字まで付けなければならず・・・。
当時は、私も小・中学生でしたから、当然ながら、年賀状を出す相手も同じ校区内にいることが多く、となれば、これまた同じような住所のやつばっかりであり・・・。
「福岡市博多区博多駅前O丁目*番△△号」と自分も相手も住所を書かねばならないわけですから住所を書くだけで、手がもの凄く疲れました(泣)。
(当時は、まだ、ワープロプリントゴッコなどは有りませんでしたから、すべて、手書きです。)
おまけに、それに、「何とかマンション」だとか、「OO様方」などと書かねばならないときもあり・・・。
(おまけに、つい最近まで、何か住所を書く用紙には、役所でも郵便局でも、すべて、OO市OO町という具合に、用紙には最初から市と町・村が表記してあり、従って、町でも村でもないうちは、そのたびに、係の人を呼んで、説明しなくてはならなかったという・・・。)

つまり、元々、下人参町(正式名称、大字春吉。何とも、ややこしい・・・。)だったものが、博多駅地区土地区画整理の実施により、周辺の町(中人参町、平松町、松田町、末広町、明治町etc)と合併して町界町名変更し、博多駅前3丁目になり、さらに、福岡市政令指定都市になったことで、それに「博多区」を入れなければならないようになり、最後は郵便番号なる物まで(当時は3桁。)入れなければならなくなったというわけです。
まあ、福岡市の発展そのままに住所も変わってきたということが言えるのかもしれませんが、私たち子供も年賀状を書くのが大変だったのですが、大人はもっと、大変だったでしょう。

当時、下人参町で、もっとも多かった人種は職人でしたが、次に多かったのが自営業者の人たちでした。
私の周辺でも・・・、ざっと思いつくままに挙げるだけで、鍛冶屋、自転車屋、寿司屋、定食屋、駄菓子屋、建築屋、下駄屋、酒屋、米屋、こんにゃく屋、不動産屋、たばこ屋、床屋・・・、それに、お寺、神社、保育園・・・etc。
子供心に、すぐにこれだけ思いつくわけですから、如何に自営業者が多かったかと言うことでしょう。
ということは、この人たちは、印鑑はまだしも、社判(ゴム印)や印刷物、登記から、バイクや車、免許証、果ては銀行口座の住所まで変えねばならなかったわけで、まあ、猶予期間はあったでしょうが、それにしても、その費用、手間は大変だったでしょう。
ただ、当時、時代は高度経済成長へと向かっていたこともあり、そんな中で、これらの物が特需を作り出したという側面もあったわけですから、子供心にも、皆、表情は明るかったですね。


(↑当時の下人参町にあった唯一のアーケード市場は、ちょうど、こんな感じでした。時々、夢に見ます(笑)。ちなみに、ここは、博多駅町区ではありませんが、今や、数少ない昭和30年代を感じさせてくれる場所です。)

あ、そう言えば、私の愚弟が、OO屋の息子をボコボコに殴ったことがあったのですが、聞けば、うちの親父も、そこの父親を子供の頃、ボコボコに殴って、大けがをおわせていたのだとか・・・。
そのOO屋だけは、表情が明るくなかったのは気のせいでしょうか?(笑)。

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博多駅前史 その15 博多駅地区区画整理想い出編 Ⅱ

2006年11月25日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

ついに、11月最後の土曜日となりました。

ということで、これまでも、色々と述べてきました博多駅地区土地区画整理ですが、現博多駅昭和38年12月1日に無事、開業に至りました。

(←現博多駅前広場です。)

ちなみに、当時、私は2歳半ですから、当然ながら、このときのことはまったく覚えておりません。
つまり、物心着いたときには、もう現博多駅ビルがあったということですね。

ただ、駅自体の移転は完了しても、周辺市街地の整備はまだ進行途中だったようで、現博多駅前一帯にあたる上人参町、中人参町、下人参町、末広町、平松町、松田町、明治町などに換地処分が施行されたのは昭和43年春4月のことでした。
この日は、結構、鮮明に覚えています。
なぜなら、拙宅が換地処分により転居したのが、ちょうど、私が小学校一年に上がった日だったからです。
つまり、幼稚園までは旧宅から通い、小学校は新居から通ったと・・・。
ちなみに、この昭和43年4月を境に私の記憶はカラーになっております。

で、一夜にして町が変わったと言っていいほどに、この区画整理というのは革命にも匹敵するような大事件だったわけですが、当時、私が子供心にも印象に残っているのが、この区画整理に伴って、新たに登場してきた公園という物の存在でした。
それまでは、まあ、区画整理が進行中と言うこともあったのでしょう、下人参町時代の私の周りにあったのは、「公園」ではなく、「空き地」でした。
でも、「公園」という新時代の空間は、空き地のように、でこぼこでもなく、水たまりもなく、草むらもない。
そこは、樹木はきれいに整備され、トイレはある、は出る、そして何より、ピカピカの遊具施設がありました。
「日本の未来は明るい!」と・・・(笑)。
もっとも、今となっては空き地が恋しい限りですけどね・・・。

そんな子供の心を沸き立たせた公園ですが、日本の近代公園の歴史は、明治6年太政官布告まで遡るそうですが、この区画整理でも、地区内に新たに14の公園が設置されました。
これは、区画整理法により、「域内面積の3%を公園に宛てなければならない」となっていたからだそうですが、結果的に、3%は確保出来なかったようで、やむなく、近くに神社などの森林があるからいいか・・・ということになったと言います。
結構、いいかげんな物ですね(笑)。
で、それら新公園の名称をつけるに当たっては、当時、区画整理と鉄道後退のために「町界町名の整理変更」が行われることになっており、従って、今まで親しまれてきた町名、字名が消えるのは、やはり、「一面さびしさも湧いてくるのは、人情のしからしむるところ」でもあり・・・。
で、これら旧地名を公園名として残そうということになったそうで、公園設置個所の町名、字名を取って公園の名称とすることとなったとか。
「ただ町の文字はできる限り付けないようにし名前の釣合い上落せないものに限り付ける」ということになったそうで、これにより、拙宅付近の公園は明治町にあったから「明治公園」となり、現博多駅前4丁目にある公園は「人参公園」という名前になりました。
ただ、ここを人参公園とすることには、私としては多少、違和感があります。
なぜなら、この人参公園がある場所は、上人参町・中人参町・下人参町とあった中で、上人参町の、それも、かなり町界の端にある、言うならば、人参町地区の中では、一番、端っこと言って良い場所で、であれば、ここをして、「昔、この辺は人参町と言ったんだよ」と言われるのは、「ちょっと待てよ」と言いたくもなろうというものでして・・・。
まあ、今となっては、このこだわりを持っているのは私だけなんでしょうが・・・(泣)。

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博多駅前史 その14 博多駅移転区画整理想い出編 Ⅰ

2006年11月18日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

ここしばらく、この自己満足シリーズを休んでおりました。
決して、終わったわけではなかったという・・・。

なぜ、飛ばしたのか・・・。
そうです。
ご賢察の通り、またまた、せっかく書いたのが消えちゃいました。
それも、想い出編ⅠとⅡの2つも・・・。
いいモノ書き上げてたんですけどねぇ・・・(泣)。

で、ご承知の通り、なーんか、モチベーションあがんない時期でしたから、記憶も甦らないし、面倒くせえなぁ・・・で、翌週・・・。
でもって、また、空いちゃうと、もう、なんだかなぁ・・・って感じで、また翌週・・・で、それが、二回、三回、四回と・・・(汗)。
ま、どうせ、自己満足シリーズですから・・・。

で、ぼちぼち、気を取り直して、今日からは、私が実際に見てきた博多駅地区土地区画整理事業というものについて、触れてみたいと思います。

まず、この区画整理について、私が語らなければならないのが床下浸水です。
元々、この地方は、平太郎独白録 「博多駅前史 その9 昭和 博多駅移転区画整理編 Ⅱ」の中で触れましたように、中世以前は那珂川・四十川(現、薬院新川)という二本の川が注ぎ込む入江だったようで、その後、陸地となってからも、すり鉢の底状の地形であることは変わらなかったようで、私が子供の頃などは、ちょっと、大雨が降ると、すぐに床下浸水になっていました。
床下に、ゴウゴウと流れ込んでいく水量は、子供心には、とても、魅力的で、中に入りたい!と思うのですが、そのたびに、大人から叱られてました。


↑現在の博多駅前の地層
明らかに上の方は、砂利石が入れられているのがおわかり頂けると思います。
それから、少しわかりにくいのですが、下の方には割れた陶器片などが見えるかと思います。
底までの深さは、80cmだそうですから、つまり、場所にも寄りますが、かつての下人参町時代の地盤は、現在の地面より、80cm下にあるということで、逆に言えば、これだけの高さ、土を入れた・・・つまり、盛り土をしたということですね。

先年、博多駅水没した映像は記憶に新しいと思いますが、あのとき、幸いにして、うちは浸かりませんでしたが、それは、元々、これだけ、盛り土を入れ、嵩上げした部分だからのようです。
その辺を、端的に表す数字があります。
区画整理区域内で、その最も低かったところが、西部に位置する鉢の底川(今のキャナルシティ脇)付近で標高約2.5m
域内で最も高い南東部が約5.5mですから、高低差は3mもあったわけで、降雨出水のたびに浸水を見ていたのもむべなるかな・・・という感じですね。
うちの辺りは、床下浸水で済んでいたからいいようなものの、もっとも低い、河口付近は生命の危険さえあったでしょう。

その為、この低地をどうするかということになったとき、全面盛土して嵩上げする方法と、現況のままにしてポンプ排水する方法とが検討されたようです。
さすがに、河口から離れた当家付近では、「盛り土」ということになったのでしょうが、河口付近では、このとき、既に区画整理に先立つ昭和29年向島ポンプ場が設置されており、これを強化することで、十分、将来の都市排水には対応出来るという判断が下されたことから、これを利用する案が一番、有力となったとか。
ところが、このポンプ場は、区画整理の区域外であった為、区画整理の一環としてのポンプ施設の改良強化可能かと言うことが問題として浮上してきたとかで、実際、建設省区画整理課からは「都市改造の範囲を逸脱している」という指摘も出たと言います。
結局、色々と福岡市側が働きかけた結果、建設省も折れ、このポンプ場が強化されることになったとか。
ちなみに、このポンプ場は、私も何度か仕事で立ち入ったことがありますが、現在でも、立派に稼働しておりますです。

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博多駅前史 その13 博多駅移転区画整理編 Ⅶ

2006年10月14日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

北朝鮮の核実験福岡ソフトバンクのプレーオフ敗退と、世上騒然としてますが、それでも、敢えて、今週の自己満足シリーズです。

これまで、6回に渡って触れて参りました「福岡市始まって以来の大事業」である博多駅地区土地区画整理事業ですが、ここで、その後の動きを時系列的に述べておきますと、
昭和38年(1963年)12月 西日本一の民衆駅としての新・博多駅開業。
   39年(1964年) 5月 博多ステーションビル竣工。
              11月 地下街完成。
   40年(1965年) 7月 市内電車の軌道変更が完了し、新駅前に乗り入れ。
   41年(1966年) 9月 博多郵便局竣工。
   42年(1967年)11月 博多電話局設置開局。
   43年(1668年) 3月 市水道局博多営業所竣工。
              11月 博多警察署、福岡地方合同庁舎竣工。  
   44年(1969年) 7月 町界町名変更、ぼぼ現在の住居表示に。
   45年(1970年) 2月 駅前の朝日ビル竣工。
               5月 土地区画整理事業工事完了式典が執り行われる。
   48年(1973年) 6月 換地処分公告。最後の土地区画整理審議会が開催。
とまあ、こんな具合です。

で、これを、私の自分史と重ね合わせるなら、私は昭和36年生まれですので、まさしく、博多駅地区土地区画整理事業が推進される中で生を受け、昭和43年、ちょうど、小学校1年に進学するときに当家付近に区画整理が施行され一夜にして街が変わり、昭和48年、区画整理が完全に終わるのと同時に、小学校を卒業したという・・・、まさに、区画整理と共にあった子供時代だったわけです。
従って、私が物心付いて、一番始めに覚えた難しい言葉は「区画整理」「固定資産税」でした(笑)。
如何に、当時、私の頭の上で、これらの言葉が飛び交っていたかがおわかり頂けると思います。

で、これらの一連の出来事の中で、私が一番印象に残っているのは・・・と言えば、それは、昭和44年町界町名変更でした。
それまで、当家の住所は、福岡市下人参町だったのが、以後は、福岡市博多駅前三丁目になったわけで、当時、「今度から、福岡市博多駅前三丁目て書かんといかんとげなばい。面倒くさくなったなぁ。」と言っていた父の言葉を覚えております。
それから、3年後には、今度は、福岡市が政令指定都市に昇格したことから、福岡市博多区博多駅前三丁目となり、また、数年後には今度は郵便番号を書かなくてはならないということになり・・・。             
おかげで、友達に年賀状を書くのに、住所を書くだけで腕が疲れるという事態になってしまったわけです。
(当時は、相手先の多くが、同級生などであり、となれば、当然、似たような住所ばかりでしたから、倍疲れました。)
今のように、パソコンプリンターなければ、プリントゴッコもなかったわけですから・・・。  
 

(↑現在の博多駅前夜景、私のお気に入り一枚です。博多駅方向を写した物です。一番左奥のビルの後が博多駅です。ちなみに、私が立っているこのビルは、昭和47年完成ですから、上の年表の時はすでに存在してましたね。はい、私にとっては、子供の頃の遊び場所ですね。)
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博多駅前史 その11 博多駅移転区画整理編 Ⅳ

2006年09月30日 | 地域
親愛なるアッティクスへ

これは、博多駅と博多港を結ぶ大博通りという大通り沿いに設置されている、通称、「おポンプ様」です(笑)。
元々、この辺には民家があり、その庭先に設置されていたのでしょうが、道路拡張により撤去された際に、この手動ポンプだけが残されたようです。
ちなみに、今でも、しっかりと水が出ます・・・。

で、また、今週も、この自己満足シリーズの回がやって参りました。
今週は、博多駅土地区画整理における「選挙戦」のお話です(笑)。
昭和33年6月13日・・・、この日の新聞には以下のような記事があります。
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博多駅周辺80万余坪にわたる土地区画整理事業の審議会委員の選挙がきたる15日に実施される。
すでに去る3日立候補を締切ったが、公職選挙法が適用されない選挙だけに、ちよっと毛色の異なった選挙模様をえがき出している。

土地区画整理審議会委員というのは市長諮問機関で、土地評価員の選任議決保留地の処分を決める権限を与えられている。
博多駅周辺の場合は土地所有者から15名、借地権者から1名を選ぶことになっているが、立候補者は土地所有者22名、借地権者3名となっている。
一方、有権者は所有者3,133名、借地権者231名だが、福岡市外に住む土地所有者も5%あり、なかにはアメリカ在住、北海道の札幌、根室に住む人もいて、15日の投票日には「棄権確実」とうわさされている。

「審議会委員に当選しても世間でいうようにモウケがあるわけではない。換地問題にしても一定基準で減歩率を算定、公開で移転先を決めるので、委員の肩書を利用し個人的にモウケをたくらむことはとうてい不可能だ」と福岡市博多駅土地区画整理事務局は説明している。
にもかかわらずこれほどの立候補者が出たのは、やはり「自分たちの財産が処分されるのだから大いに監視してやろう」とか「肩書がほしい」というのが真意らしい

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「・・・真意らしい」って、でも、「世間でいうようにモウケがあるわけではない」ってことは、しっかり、当時から、そういうがあったってところが・・・(笑)。
で、その翌々日の選挙当日の記事には、以下のようにあります。

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博多駅土地区画整理審議会委員選挙が15日午前9時から行われた。
公職選挙法の適用もうけず選挙運動気まま勝手の選挙とあって投票所の前にはズラリと候補者の氏名を書いた立看板がならび、青空にナワをはりめぐらして、それにまで名前のビラをすきまなくぶら下げ、さては各候補者を応援するために出身区からテントを持出して即製の選挙事務所を造る有様。
有権者のかり出しにも乗用車、トラック、タクシー、オート三輪車と思い思いに使い放題。
車が投票所の前までさっと乗りつけると、待っていた候補者がドアを開けてニッコリ「ダメおし」の微笑をしてみせるといった工合で、日ごろはさびしいこの地区もきょうばかりはもう博多駅ができたときのような混雑ぶりだった。
また名義が土地所有者になっておればだれでも有権者の資格があるため、2オの子供もりっばな有権者として投票所に姿をみせ、お父さんが代理投票をすませた。
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日頃はさびしい・・・というところが、正直ですね(笑)。
ちなみに、オート三輪・・・という辺りに時代を感じます。
ちなみに、このとき、私の祖父は、下人参町自治会長として、歴史に名を刻んでおります(笑)。

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