風の向くまま気の向くまま

気まぐれに愚直にいきましょう

人の死ということについて

2005-11-14 07:13:45 | 私信
「人の砂漠」を始めた一つの理由は、普段口にすることの無い思考や、感傷や、想いを文字に露出することである。
ここにきて人の「死」というところに心が留まってしまっていてなかなか整理できずにいる。
僕はどちらかというと唯物的な考え方をするので、死後の世界には興味が無いし宗教観も傾倒しないまま生きてきてしまっているために、宿命である「死」ということを「生」の側からしかとらえられない。
死生観というにはあまりに不平衡なことをあらためて思い知り、積極的に「死」を思考することは、しばらく自己の大きなテーマになる。

僕は中学、高専と軟式のテニス部に所属していたが当時のパートナーは二人とも亡くなっている。
高専時代のパートナーはオートバイによる交通事故、中学時代のパートナーは自ら命を絶った。
二人の訃報は、会社に友人が気を利かせて連絡をくれた。
特に中学時代のパートナーの死は突然であったことよりも死に方が特別だったことで長野に向かう列車の中でも事実をなかなか受け止められなかった。
まだ、20代前半ではないか。
それぞれの人生が違うのは当たり前だとしても、いつか会える日を、一緒に酒を飲める日がくることを僅かでも楽しみにしていてくれたら...
告別式には間に合わなかったが自宅で焼香させていただき、その晩は、連絡をくれた友人と近くの居酒屋で追悼会をやった。
大の男が二人、声を出して泣きながら酒を飲んだ。

ブログテーマでもある沢木耕太郎著の「人の砂漠」に「おばあさんが死んだ」という1編が収められている。
生き様が人それぞれであるように、死に様も人それぞれである。
ただ、生き様は自身でも見つめることが出来るのに、死に様は残されたものにしか見ることができないというところに、人の「死」は「生」よりも人に与えるものが大きいのかもしれない。

 
※2006.2.25 著作権保護のため写真削除しました