明治元年(1868)の神仏分離令
神仏習合を否定して、寺院と神社を切り離す政策に続き、明治5年には修験道廃止令が出され、
神仏習合(仏教が日本の神と交わり融合し、寺院には鎮守社が神社には神宮寺が建てらりした)
の修験道は壊滅的な打撃を受けた。
金峰山の蔵王権現は神とされ、吉野山や出羽三山、全国の霊山では神社となるところが
続出した、いったん解体の憂き目にあった旧本山・当山両派も戦後までに復興、独立し
金峰山では山上の本堂が大峯山寺としてまた下山の蔵王堂が金峯山寺となる。
本山派の聖護院は本山修験宗総本山、当山派の醍醐寺は真言宗醍醐派総本山
金峯山寺は金峯山修験本宗として天台宗から独立した。
神仏習合の名残として、仏教護法の阿吽の仁王像と神社の象徴、鳥居が並び立つ
様子が今でも残っています。
仏教は六世紀半ばに日本に伝来します。
当時素朴な民俗信仰であった神社に対して仏教はすでに確立・完成された組織でした。
仏・法・僧と言う三宝だけにとどまらず、仏教美術、建築技術、医療知識等と、ともに
日本に渡ってきました。
神社境内の一隅に仏教寺院を建てる、この寺を「神宮寺」と言う、「軒先を借りて
母屋を乗っ取る」神社には扉はありません、常に門戸が開放されているのが神社です。
神社は自然崇拝や自然信仰から発祥し、神社の思想または考え方には古来、拠り所と
なる明確な教義や経典がありません。
千年を超える神仏習合という時代を経て、仏教の影響を受けたにもかかわらず、
その基本は今も変わっていません。”おおらかな世界”だといえます。
寺院の入口には扉があります、総本山から末寺まで縦割りに組織される仏教寺院
仏教寺院は無用のものが無断で立ち入ることを許しません。
永平寺開山・道元は中国から帰り京都に曹洞宗最初の寺を開いたが比叡山(天台宗)
からの激しい弾圧をうけて、越前に移住することになる。
また、臨済宗開祖・栄西は中国から帰って京都で活動を始めたら比叡山(天台宗)
からの激しい弾圧をうけて、比叡山(天台宗)に配慮して、純粋な禅でなく
天台・真言・禅の三宗を兼ねる寺とした。
栄西は天台僧の立場を隠れ蓑にしながら禅の発展に努めた。
宮中に「真言院」
空海(弘法大師)は承和元年(834)宮中に「真言院」という密教の道場を
建てる勅許を得た、ついに宮廷の心臓部に真言院を建立することに成功し、
天皇加持のシステムを安出した。
空海この時61歳、そして翌年、悲願の達成を目前にしてこの世を去る
空海(弘法大師)の晩年は、まさにその実現のために捧げられた。