ゆるこだわりズム。

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後醍醐の昆布 その9

2021年01月31日 | 小説

 堀口の報告を聞いて、義貞は弟と息子と共に三千騎の兵を引き連れて天皇を取り囲み、覚悟を決めて会見に臨んだ。天皇がどうしても自分を捨てて叡山を降りるのなら、刺し違えて死するつもりの義貞であった。誰の目にも、他に道は無いと思われた。

 義貞は後醍醐への恐怖も忘れ、ただ怒りに沸き立つ腹を堪えて、後醍醐を睨みつけた。その手は何の迷いもなく、刀に伸びようとしている。

 義貞の憤慨を目の当たりにして、後醍醐は内心、笑いが込み上げた。それを何とか涙に変えて、さも悩み煩うような演技をした。

「貞満が我を恨み訴えたのはもっともな事だと思うぞ。しかし我の話も聞いてくれ。このままではどうしようも無いから、我は尊氏の懐に入る振りをしようと思うのじゃ。そして、機を待って軍勢を建て直すのじゃ。そのために我は、尊氏の還幸の誘いに乗る事にした。お前たちはその間に疲れを休めて、北国で大軍を起こして天下を救ってくれ。これしか手は無いのじゃ。分かってくれ」

 いつもなら武士を虫けらのように眺める後醍醐が、涙を流さんばかりに切々と訴えるので、義貞一同は息をするのも忘れ、しんとして聞き入った。

「還幸は一大事じゃから、最後まで身内にも伏せるよう申し付けて事を進めて来たが、それがこんな事になろうとはのぅ。せめて義貞だけには打ち明けておくべきだった。我の考えが浅かったのじゃ。許せよ、義貞」

 後醍醐が武士に謝るとは、義貞にとって夢にも思わない出来事だった。それだけで義貞の怒りは背中からすーっと抜けて行き、体温が下がった気がした。

 妙に落ち着いて神妙になった一同は、後醍醐の次の言葉を待った。

「そこでじゃ。知っての通り、陸奥からの援軍も時間がかかりそうじゃ。伊勢へも手を打つが、お前たちには何としても北を固めて欲しいのじゃ。これからは北じゃ。北にこそ、待ち望んだものがある。我には見えるのじゃ」

 義貞一同は後醍醐への身を捩るような怒りから逆転して、何とも甘美なる感激に酔っていた。後醍醐の術中に嵌っていたのである。

 後醍醐の声は天から聞こえる神の声だった。

「北国の入り口、敦賀へ行ってくれ。敦賀では、気比の社の神官等が城を拵えて味方してくれるそうじゃ。敦賀で軍勢を整えて北へ伸ばせば、越後は義貞が国ではないか。陸奥からの軍勢と合流すれば、我を尊氏から助け出すことも叶う。そうしてくれ」

 なるほど、後醍醐の言う策しか今は無いかも知れないと一同は思った。敦賀へ行き、北に軍勢を張り、陸奥軍と合流するのだ。

 しかしそれでもなお、問題が残る。

 感激して言葉の無い義貞に代わり、弟の脇屋義助が口を開いた。

「主上のお考えに異存はありませんが、主上が還幸されれば、残された我ら一族が朝敵とされまする。天皇あってこその我らの戦なのに、時間稼ぎと申しても、朝敵となっては軍勢が集まりませぬ」

 義助の疑問に、義貞は初めて気づいたような眼をした。しかし後醍醐は、義助の問いを待っていたのだった。

「なに、心配するな。お前たち一族を朝敵にすれば、天は我を罰するであろう。ならばこそ、一大決心をしたのじゃ。春宮に天子の位を譲る。その上で義貞に同行させる。したがってこれからは、天下の事は義貞に任せるので、全力を挙げて尊氏を成敗するのじゃ」

 


後醍醐の昆布 その8

2021年01月30日 | 小説

 

  三、二皇子敦賀へ

 

 延元元年(一三三六)十月初め、還幸を決意した後醍醐は、文観と練った計画を実行に移した。

 まずは、義貞の耳に届かないように還幸の準備を進め、そして準備が整ってからわざと義貞に知られるように仕向けた。

 京を奪回できず、尊氏に敗れ続けた新田一族の武将の中には、陣から姿を消す者が増えた。それは、後醍醐天皇が京へ還幸するという噂が広がったからである。

 その噂は義貞の耳にも届いた。義貞とて、後醍醐を全面的に信頼して戦って来たのではない。鎌倉を落としたのも、執権北条が余りにも悪どく、武将たちに怒りの輪が広まり、幕府の主力軍が京へ派遣された好機を逃せば、他の武将が必ず鎌倉を攻める状況にあったからである。その時には、天皇をどうするとかの考えはなかった。

 義貞が実際に天皇に会ってみると、後醍醐は自分を神だと思っているような男で、義貞の瞳の奥を射るような目で睨まれた時には、背筋に凍った何かが走る気がして、思わず顔を伏せた。そうしないと体内から大事なものを掴み出されるような恐怖を感じ、その場に座っているのが精一杯であった。

 後醍醐は人であって人ではない。義貞は第一印象でそう思った。その思いは日々強くなった。

 後醍醐自身が法服を着て護摩壇の前で祈祷を修する姿を見た事がある。後醍醐の膝の上には黒光りする髑髏が載っており、それはそれは異様な光景だった。

 人の首や髑髏に臆する義貞ではないが、日本一高貴で、この八州を造った神々の血を引く天皇が、朝敵調伏の秘儀密教の祈祷を自ら行うなどとは、自分の目で見なければ信じなかっただろう。炎に照らし出される後醍醐の顔は、まさに明王か鬼神であった。

 尊氏を取るか義貞を取るかの決断の時、後醍醐は義貞を選んだ。それは義貞にとって光栄であったが、その喜びとは別の所で、得体の知れない畏れを感じた。生きながらにして命の根を掴まれたような、言い様の無い恐怖であった。

 命を惜しむ義貞ではない。武士としてこの世に生まれた以上、強い敵に首をはねられるか、奉ずる主上のために自らの腹を掻っ切るのは、定められた運命である。その運命に従う事でのみ、往生が得られる。だからこそ、武士としての役割を果たして来たのである。

 命など惜しくは無い。人は生まれに応じて生き、命運が燃え尽きれば死して、次にまた生まれ変わる。命は死してこそ改まるのである。だから、死とは怖れるものではなく、全うするものであるに過ぎない。

 義貞のこの信念に揺らぎは無い。

 しかし後醍醐は、義貞の命どころか、その根本までをも吸い尽くすのではないか。義貞の輪廻は断ち切られ、常世にあるはずの、義貞を義貞として生み出す根本の証までもが微塵として消されてしまう、そんな怖ろしい予感がする。

 それは根源的な恐怖である。

 この世の事なら、義貞にも対処ができる。戦って敗れても、諦めがつく。しかし、あの世の事には手出しが出来ない。それをするのは人ではない。人でありながら、それをする力を持つ者がいる。そんな者には太刀打ち出来ない。自分が無力である事の恐怖というものを、義貞は初めて知った。後醍醐に出会う事によってである。

 義貞は後醍醐還幸の噂を聞き、部下の堀口貞満に命じて天皇の動きを確かめさせた。

 堀口が天皇の居住する塔へ出向くと、表に輿の用意がしてあり、まさに後醍醐が乗り込む寸前だった。慌てた堀口は、義貞に知らせる余裕も無い状況なので、自ら天皇の前に進み、これまでの新田一族の働きと義貞の忠臣ぶりを切々と訴え、義貞を孤立させる事の無いようにと、涙ながらに頼んだ。

 これはまさに後醍醐にとっては計画通りの事だったが、いかにも堀口の訴えに心打たれたような顔をして出発を取りやめ、改めて義貞と面談する事となった。

 


後醍醐の昆布 その7

2021年01月29日 | 小説

 自身への難を逃れた後醍醐は、持明院統の皇子が即位の動きを強める中、着々と次なる手を打ち続けた。後醍醐の密教護持僧文観を権僧正に抜擢し、翌年(一三二七)には息子の尊雲法親王を天台座主に就かせ、元徳二年(一三三〇)には南都北嶺に行幸して、また延暦寺大講堂の修造供養を行った。

 そしてこの間、嘉歴元年(一三二六)から元徳三年(一三三一)の春に幕府に知られるまで、中宮の平産と称して、幕府調伏の祈祷を文観・円観・忠円・知教・教円らに行わせ、天皇自らも、大聖歓喜天浴油供の祈祷を為した。日本の神を身に帯びた天皇が、密教の神の呪力で幕府を呪うのであるから、これを耳にした幕府の高官たちは恐れ戦き、血の気を失ったのである。

 密告により捕まった文観らは鎌倉へ送られ、この年(一三三一)六月に流罪となる。

 しかし幕府は、天皇を逮捕する動きは見せなかった。

 ところが八月二十四日の夜、ついに幕府の軍勢が天皇捕縛に向かったと、叡山の護良親王から知らせが入った。天皇は皇居を脱出して笠置寺に籠り、ついに初めて倒幕の挙兵の旗を掲げたのである。

 笠置山へは数万の六波羅軍が押し寄せたが、僧兵や、天皇挙兵を聞いて集まった軍兵の応戦手強く、容易に落ちそうもなかった。その内に、赤城山に楠木正成が、備後に桜山四郎入道がと、笠置に呼応して建つ武士が出現し始めた。

 幕府は二十万の大軍を関東から派遣し、その総大将に足利高氏もいた。更に、幕府は持明院統の皇太子を践祚させた。九月二十日、後醍醐が持ち出していた神器の剣と璽が無いままの儀式で、光厳天皇が即位したのである。

 幕府の大軍によってついに笠置山の城が落ち、僅かの供と逃げた後醍醐も、三十日に捕らえられた。翌年三月、後醍醐は隠岐へ流される事となる。この時、花園上皇は「王家の恥じ、一朝の恥辱」と嘆いたが、武士の下に甘んじるよりはと挙兵した天皇後醍醐を、先の天皇は同情するでもなく侮辱したのであった。

 隠岐へ流された翌年の元弘三年(一三三三)閏二月、後醍醐は隠岐を脱出し、改めて倒幕に立ち上がった。すでに天台座主であった護良親王が還俗し、高野山など全国に令旨を発して出兵を促しており、幕府は親王の首に褒賞をかけた。楠木正成も別個に戦を開始していた。

 後醍醐の脱出を知り、幕府は軍を京へ派遣するが、その軍中の足利高氏が後醍醐方へ寝返り、六波羅軍が敗れてしまう。後醍醐は、光厳天皇を廃して全てを元に戻す詔を発した。この動乱に乗じて新田義貞が鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡した。

 しかし足利も新田も、後醍醐を首領として信奉したのではなかった。後醍醐の名を借り、執権北条を倒して、自分が政権を握ろうとしたのである。

 帰京した後醍醐は、高氏を鎮守府将軍に、護良を征夷大将軍に任命し、諸国の守護に寵臣を配置した。しかし、後醍醐が信頼出来るのは僅かな寵臣たちであり、武力は持っていない。高氏と義貞は武力で勢力を争い、息子の護良までもが後醍醐の言うことを聞かずに高氏に対抗する姿勢を見せていた。

 そんな中、政権を握った後醍醐は次々と新たな政策を発して意欲を見せた。建武と改元(一三三四)し、貨幣を作るとの詔・徳政令・官社解放令など、天皇の領地を増やすだけではなく、商業を支配して銭貨を握ろうとする方向を見せた。土地の支配だけではなく、貨幣の支配の重要性が高まっていたのである。

 武士への恩賞は領地であるが、領主が替わる事への農民や旧領主配下の者たちの抵抗もあり、手続きが繁雑な上に時間もかかる。特に後醍醐の軍隊は寄せ集めだから、恩賞が銭貨ならばやり易い。僧兵や商人の目当ても銭貨である。

 ところが、それらの政策が軌道に乗る前に問題が起こった。護良の尊氏(高氏から改名)へのテロ計画が発覚して鎌倉に拘禁され、翌年には一時鎌倉を旧幕府方に奪回され、その混乱の中で護良親王は尊氏方によって斬られてしまうのである。

 その後何とか鎌倉を取り戻したものの、尊氏と義貞の政権争いが表面化することになった。

 尊氏をより恐れた後醍醐は、義貞を官軍として尊氏を討たせるが、逆に義貞軍が敗れてしまい、後醍醐は正月に叡山へ逃れた。まもなく奥州からの援軍によって京に還幸出来たが、西へ逃げた尊氏が東上してきて、またもや義貞が敗れたため、後醍醐は五月に再び叡山へ逃れて来たのである。

 


後醍醐の昆布 その6

2021年01月28日 | 小説

 これに対して幕府は翌年二月、今更変更できないと退けた。

 天皇家が幕府の下にあるのは、天皇家が分裂して力が纏まらないからである。天皇家を一つにするためには、天皇家の財産を一つに集中しなければならない。しかし、幕府がそれを邪魔する‥‥。

 このまま天皇の分立が続けば天皇家は幾つにも家系が細分され、両統が四統にも八統にもなる恐れがある。そうなれば小さな天皇家が幾つも出来てしまい、その間を皇位がたらい回しにされ、権威も何もかもが失われてしまい、そこらの公家でさえ天皇になる日が来てしまう。あるいは公家たちはそれを目論んで幕府に両統迭立を進言しているのかも知れない。幕府にしても、天皇家が小さく分立し、自然消滅するならばそれでいいのだ。

 それを防ぐには、幕府を廃して、天皇自らが政権を握るしか手はない。後醍醐はそう考えた。

 幕府の言いなりに皇位を両統で受け渡し、財産の分割縮小を放置して、天皇家を一公家並みに没落させてしまうのを、黙って見ている後醍醐ではなかった。

 政治的な駆け引きは幕府に通じない。幕府にも、天皇家の事情に通じる公家どもが付いており、大覚寺統の後醍醐が動けば持明院統が反発して幕府に泣き付く。

 後醍醐にしか出来ない事。それは、幕府を倒す事である。

 幕府を倒すには、幕府に匹敵し、それを上回る武力が必要となる。

 幸いにも、武士の中には幕府を嫌う者も多く、それらの武士は悪党と呼ばれて暴れていた。また、高利貸しとして銭儲けに走る僧兵や、乱暴狼藉を働く悪僧がおり、異形異類の者と呼ばれた賊もいた。彼らの政治的立場は一様ではなく、後醍醐天皇と一致する訳ではないが、幕府に反する点では共通する。

 正規の武力を持ちえない後醍醐にとって、倒幕のための武力としては、そんな彼らを味方に引き寄せる他はない。後醍醐はこの不敵な目論見を推進した。

 後醍醐の敵は幕府御家人であり、公式の武士である。それと共に、天皇家の権力を衰退させても幕府に庇護されて生き延びようとする公家貴族も、幕府と同じく後醍醐の敵である。また、そのような幕府や公家と結びついた僧侶も、やはり後醍醐の敵である。

 つまり、後醍醐天皇が自らの権力を打ち立てようとする限り、既成の権力やイデオロギーと全面対決しなければならない状況にあった。それだけに、誰も後醍醐のような事をする者はいなかった。遅れてやって来た天皇であり、一家の惣領であった後醍醐だからこそ、全ての権威に反する事で天皇の権威を再興しようという、きわめてアナーキーな思想と行動をとれたのである。

 

 後醍醐は、反幕府の武士たちに手を伸ばし、若い廷臣を登用し、僧界に息子を送り込み、密教の新たな教義を採用して、自らが法服姿で護摩を焚いて祈祷するといった、全方位攻撃を展開した。

 後醍醐の父である後宇多法皇が死去した直後、後醍醐の倒幕計画が発覚し、六波羅の軍勢によって後醍醐方の武士が倒され、廷臣が拘置された。正中(一三二四)の変と言い、主上の御謀叛と呼ばれたものである。

 この時に自刃して果てた武士は、無礼講と呼ばれる会合に、後醍醐の廷臣の誘いで参加していた。この無礼講が、後醍醐の倒幕計画の謀議の場であった。

 花園院はこの無礼講を「結衆会合し乱遊す。或は衣冠を着せず、ほとんど裸形にして、飲茶の会ありと。これ、達士の風を学ぶか」と記している。参加者は武士も僧侶も衣冠を脱ぎ捨て、裸形の女たちに酌をとらせて、遊戯に耽るのである。まさに公天下を敵に廻した、闇の大王たらんとする後醍醐らしい振舞いである。

 


後醍醐の昆布 その5

2021年01月27日 | 小説

 弘安六年(一二八三)には、天皇家の巨大荘園の一つである八条院領を持っていた安嘉門院が、相続人を指定しないで亡くなった。すぐさま亀山院が鎌倉へ使者を送り、安嘉門院領を相続したいと申し入れると、すんなりと認められた。更に亀山院は、生後一年半の後宇多天皇の皇子を親王とし、自分の直系で皇位を継承させようとした。

 後宇多天皇は後に嵯峨の大覚寺を再興し、大覚寺殿と呼ばれ、子孫も大覚寺と深い関係にあった。それで、この亀山院の系統を大覚寺統という。

 天皇家の分裂は、それに従う公家の分裂でもある。幕府は中立の立場であるから、亀山院の系統だけが優遇されるのに危惧する公家からの上申を聞き入れ、後宇多天皇を廃し、後深草上皇の息子を皇位に就かせ、伏見天皇とした。弘安十年(一二八七)の事である。

 その翌年に生まれた伏見天皇の皇子を、早くも次の年に皇太子に立てた。亀山院がしたように、後深草院も自分の直系で皇位を独占しようとしたのである。

 そしてそれは実現された。永仁六年(一二九八)に、皇太子胤仁親王が後伏見天皇となったのである。

 伏見上皇や子孫は持明院の御所に住んだので、後深草院の系統を持明院統という。

 皇位を兄弟二系統の家で奪い合い、領地・財産も二分され、幕府も両統迭立を天皇家操作の基本として取り入れると、分裂で生じた系統でさらに分裂が生まれる。

 その後の皇位を見ると、持明院統の後伏見天皇の次は大覚寺統の後二条天皇で、これは後醍醐の兄である。次は持明院統に戻って後伏見の弟の花園天皇。そして次が、大覚寺統の後醍醐天皇となる。

 その間、八条院領は大覚寺統に、長講堂領は持明院統に受け継がれたが、別に室町院疇子の所有する室町院領があり、室町院は正安二年(一三〇〇)に遺領を指定せずに死んでしまった。幕府は、室町院の生前の事情を考慮して、この室町院領を、亀山と後深草の兄弟である宗尊親王の娘、瑞子に伝えると決定した。

 ところが亀山院は、この傍系の姫君を准三宮にして永嘉門院という女院号を与え、後宇多上皇の妃にした。もちろん、室町院領を大覚寺統に取り込むためである。

 当然ながら、持明院統からの異議が幕府に申し立てられた。

 幕府は折衷案を出し、室町院領を両統で折半する事となった。

 後醍醐天皇は、このように半分の室町院領を受け継いだのである。

 

 三十代で天皇となった後醍醐は、天皇家の衰退が二家分立にあり、財産分割が天皇家を一つに集中させない原因だと考えた。遅れて天皇となった後醍醐には、それだけの思慮が備わっていた。後醍醐に皇位を譲る前、花園天皇は日記に「東宮(後醍醐)は和漢の才を兼ね、年歯父の如し」と書いている。この時、花園天皇は二十歳であった。二十歳の天皇が後醍醐へ譲位したのである。

 大覚寺統の惣領であった後宇多法皇から惣領を引き継いだ後醍醐天皇は、持明院統と折半となった室町院領を取り戻そうとした。元享三年(一三二三)に永嘉門院の名で、正安四年(一三〇二)の室町院領折半の決定は不当であると幕府へ言上したのである。