ゆるこだわりズム。

ゆる~くこだわる趣味・生活

敦賀茶町台場物語 その17

2021年04月15日 | 小説

敦賀茶町台場物語 その17

 

 付記

 茶町台場は砲台場として築かれたが、そのものとしては直ぐに放棄された。三十数年後に測候所の土台として使用されるようになったが、人の目は土台には向かず、砲台場があったという記憶は消滅した。

 その後、昭和一八(一九四三)年になると、戦局悪化の状況下において民心を掌握するために、国は五十戸を単位とする町内会制度を実施した。川崎と松栄を併せて六つの町内会を設置することになった。池子、中洲、台場、荘山、茶山、秋葉、出村の六つである。由緒が有るような無いような名前だが、誰も覚えていない八十年後になって、「台場」が復活したのだった。

 戦時下という困難な非常時に与えられた町内会名及び地名としての「台場」は、当時の人々の記憶に焼き付けられた。川崎町では「台場」の地名は、同時に復活した「池子」と共に、戦後ずっと生き続けることとなった。池子は江戸時代の池子町という実態があったので、八十年後でも容易に復活しえた。「台場」は、幕末の茶町台場が建物の土台となって忘れられていたので、どこか浜辺りの地名だと思われて、不確かながらも記憶の中に維持されてきたのだった。

 江戸時代の二百数十年間、茶町及び池子(池須)町の名前と共に生きてきた人々が、明治になったからと両町を一つにされ、町名も川崎町という何の親しみもないものを押し付けられることとなった。それまで自分のよって立っていたところのものを取り上げられ、訳の分からない悪質なものを替わりに無理強いされたのだ。世の中が新しくなったと言われても、足元が悪く変わったのでは、この先期待は出来ないのではないか。

 町民の意に添わぬ合併や町名の変更は、その不満を上に対して訴える途が閉ざしていれば、町民内部にわだかまるしかない。そしてそれは旧茶町対旧池子町の争論として、さまざまな形で噴き出るしかない。

大正四(一九一五)年に川崎町が神輿を購入したのは、まさに「川崎町南北(旧茶町と旧池子町)の融和のため」だった。つまり、大正になってもまだ、神輿というシンボルが必要なほどに、町内の融和が求められていたのだ。

 町内融和のための神輿が導入されて百年が経過した。神輿は町内融和の役に立っただろうか? 特に表立って問題があるようには見えないので、神輿はその役割を果たしたと言えるだろう。だが、町民の高齢化が進み、少子化と相まって人口が減少し、もはや神輿を担げる者がほとんどいないという状況になっている。

 このままでは、町を維持することが出来るかどうか分からない、というところまで来ている。つまり最悪、町の記憶が無くなるかもしれないのだ。そのような中、百六十年も前の記憶を呼び覚まそうとするのは、無駄な悪あがきかも知れない。このような昔の記憶が、今更何かの役に立つとも思われないが、この土地の意思とでも言うようなものに求められている気がして書き始めたものの、まとまりのないままに終えることとする。

 


敦賀茶町台場物語 その16

2021年04月14日 | 小説

敦賀茶町台場物語 その16

 

歌も流行った。

例えば、加賀藩監軍永原甚七郎は武田耕雲斎と降伏の交渉をした男だが、永原は陣立てにおよんで戦死を覚悟し、袖印に『面白し頭も白き老いの身を越路の雪にかばねさらさん』と書いた。同じく医者の森良齋は『身を堅めこころをさだめ雪の山』と書いた紙を懐に入れていた。7

浪士たちが、加賀藩の手をはなれて小浜藩に移されると、その扱いが変わるであろうことが、足枷を作らされる職人たちにはわかった。と言って、何ができる訳ではない。なるべく痛くないようにと、鉋を当てるだけの又吉だった。

浪士たちの取り調べをするために、幕府の若年寄田沼玄蕃頭意尊(おきたか)が敦賀へ来ることになり、そのお触れが知らされた。

『今般若御年寄田沼様今浜永建寺え入られる手はずとなるにつき、御逗留中よりは永建寺門前、葬式通行相成らずは勿論、来迎寺野にて火葬も相成らず、町方一統左様心得るように言い付けられたので、右の通り町内漏らさずよう触れるものである。慶応元年一月ニ十五日 総代』

田沼一行二百人は、二月一日に敦賀に入った。そして、即日白州が開かれて、武田耕雲斎をはじめこの日には二十六名が取り調べを受けた。田沼は、時間が長引けば慶喜ばかりでなく朝廷までもが水戸浪士の助命に動くものとみて、形式だけの調べで直ぐに処刑しようとしていた。世情も水戸浪士に同情的だから、処刑の時期が遅れると、処罰ではなく大虐殺とも言われかねない。

田沼としては、この日の内に処刑をはじめてしまいたかった。せめて首領の武田耕雲斎の首だけでもはねてしまえば、もう誰に止められるものではないはずだから。

ところが この一日の夜、耕雲斎の斬首が行なわれるかもしれないとの噂が敦賀の町に流れると、しだいに町の者が庄橋近くに集まり、五十人ほどにもなった。町人たちは、即日斬首では勤皇の志士である耕雲斎らが哀れであるとして、処刑の延期を役所に願い出ることにした。

しかし、田沼のいる永建寺へは、警備が厳しくてとても行けない。だから、御陣屋へ押しかけることになった。だが、町人が武士の所業に口を出すことは禁じられている。それに、小浜藩は幕府の方針遵守の藩だから、加賀藩のように浪士に同情的ではない。へたをすれば、処刑延期を願い出ただけで、幕府に敵対する者と見なされて、処罰されるかもしれないのだ。

又吉も、この五十人の中にいた。せめて、この手で足枷を作った罪を、この行動で晴らしたいと思い、お絹のように敲きの刑になるのも覚悟で出かけたのだった。

御陣屋前の、庄橋の東詰めで一行は立ち止まった。橋には橋番がいる。理由を言わなければ橋を渡らせてもらえない。しかも、こんなに大人数である。不穏な動きだと見られると、御陣屋から同心たちが飛び出して来るだろう。

そこで町人一行は、代表を立てて願い出ることにした。代表には、西町の加賀屋三郎兵衛が推挙された。加賀藩の御用達の店だから、御陣屋としてもいきなり切り捨てる訳には行かないと判断をしたのだ。

三郎兵衛が一人で橋を渡った。橋の西詰めで番人に止められ、三郎兵衛が何かを言い、頭を下げて番人の脇を通り、御陣屋の門前へ行った。

御陣屋の大門横の通用口から、同心が一人出てきた。三郎兵衛が頭を下げ、

ついにはひれ伏して願い出た。話を聞いた同心は三郎兵衛を捕らえることなく、中へ姿を消し、通用口が閉ざされた。

三郎兵衛が戻ってきた。

「どうだった? うまくいったか?」

見守っていた町人たちが口々に三郎兵衛に聞いた。

「とにかく、 われわれ敦賀町人の願いとして、今晩のところは延命をお願いしたいと、申し入れてきたよ」

思いのほか三郎兵衛は落ち着いた声で言った。

「今晩のところだと。明日なら殺されてもええのか!」

「そうだ! そんな弱気でどうするんだ」

集まった者の中には水戸浪士に強く同情する者もいる。

「斬首はやめて、武士として切腹させてやれと、言うんじゃなかったのか?」

三郎兵衛への不満の声がわき起こった。

「待て待て。我ら町人には、加賀屋の申したことが精一杯じゃ。勝手なことを言うと、お前たちだけでなく、家や親兄弟、町の者にもお仕置きがあるぞ。我らに出来るのはここまでじゃ。さあみんな、おとなしく家に帰るとしよう。武田様も、我ら敦賀町人の気持ち、きっとわかって下さるじゃろう」

そう言ったのは、庄町肝煎の美濃屋嘉右衛門だった。もう誰も異を唱える者はいなかった。

町人一行はそこで散っていった。うなだれる者、こぶしを握りしめる者など、さまざまであった。又吉もおとなしく家に帰った。

敦賀町人の願いが通じたのか、処刑が行なわれたのは四日になってからのことだった。耕雲斎の辞世として、『咲く梅の花ははかなく散るとても香りは君が袖にうつらん』の歌が町内に伝わった。

その後、敦賀の町に流行った歌に、次のものがあった。

『武田家が梅の匂いにだまされて松の下にて散るぞかなしき』

水戸浪士処刑の翌年、慶応二(一八六六)年の六月、長州からの軍船が敦賀へ来襲するとの報があり、茶町台場に百十三人が配置され、浜辺には船も備えて水主(かこ)二百五十人が待機した。そのため、これらの人員への炊き出しが町内に命じられた。

金ヶ崎の台場には、鯖江藩から藩士が出動してきて、守りにあたった。

町内騷然としたが、長州からの軍船襲来はなかった。もしも実際に、長州の軍勢が敦賀に襲来して上陸したとなると、はじめから戦意のなかった水戸浪士の一件とは異なり、敦賀の湊と町は戦場になり、甚大な被害がでたものと思われる。台場は艦砲射撃を受け、茶町台場の裏にある茶町へも玉が撃ち込まれただろう。幸いにもそれは回避された。

八月には敦賀を大雨が襲った。五日六日と降り続き、七日には洪水となった。鳩原の茶屋の後ろの山が崩れ、茶屋は二軒とも埋まってしまった。家人六人が即死したが、被害はそれだけではなかった。その茶屋には、農兵の一隊が出張警備に来ていたのだ。農兵頭の関口平四郎が十五、六人の農兵を率いて茶屋におり、全員が圧死した。

九月十五日にはイギリス船が敦賀湾内に入り込み、常宮沖に停泊した。翌日になって船からイギリス人が上陸してきて、船の修理のための寄港だと判明した。そのイギリス船が米・鶏 卵・ねぎ・牛・小間物などを求めてきたため、牛以外のものは揃えてやり、代金も支払われた。いざ異国船の襲来かと騒がれたが、何事もなく去っていった。

長州軍への備えは続いたが、鳥羽伏見の戦いで小浜藩軍が敗れ降伏した。そして朝廷に謝罪した。これで敦賀の町は朝敵の地ではなくなり、長州軍の来襲の不安もなくなった。それに、外国船の襲撃もなかった。

茶町台場は、結局、一度も実戦に使用されることのないまま、台場としての役目を終えた。ほとんどの台場が壊されるなか、茶町台場はその広大さゆえ壊す手間を惜しまれたのか、明治政府よってそのまま残された。

その後茶町台場は陸軍省に移管され、明治三十(一八九七)年八月には、台場の上を整地し、福井測候所敦賀派出所が開所した。

そのニ年後の明治三十二(一八九九)年七月十三日には敦賀港が開港場(外国貿易港)に指定され、国内外の船舶が平和裏に出入りすることとなった。外国船と長州襲来に備えて建設された茶町台場は、砲台として一度も使用されることなく測候所の土台となっていたが、昭和一五年に測候所が松島町(現松栄町)へ移転した。その後、茶町台場跡地は民間に払い下げられ、上に民家が建てられ現在に至っている。

 


敦賀茶町台場物語 その15

2021年04月13日 | 小説

敦賀茶町台場物語 その15

 

二年後のニ月、前年十二月に敦賀で降伏した水戸天狗党の浪士が処刑された。斬首の刑である。四日に武田耕雲斎ら二十四人、十五日に百三十四人、十六日に百三人、十九日に七十六人、二十三日には十六人が、やはり衆人が見守る中で首をはねられた。戦争でもないのに、これだけの大人数が殺されるとは、目撃した敦賀の人でさえ信じられない思いだったにちがいない。世も末だと震え上がったことだろう。

お絹は命が助かっただけ拾い物なのだ。刑罰は見せしめとして行なわれる。お絹のような事をするなと見せつけられる。しかし世情は動揺している。お絹はあまりにもあくど過ぎただけで、もっと上手くやるべきだという教訓にしかならない。

上手くやれるのは、財カのあるものだけである。又吉のような普通の職人は、隠し持つ金銀も何もない。しかも、嫌な台場の仕事にかり出されて、いらいらするばかりだ。現場ではちょっとした事で喧嘩になる。監督の役人や肝煎がいなければ、すぐに殴り合いが始まって収拾がつかないことだろう。いつもは何でもない事なのに、自分でも不思議なほど腹が立ってしまう。

金ケ崎の台場は、茶町のとはまったく違う形のものになった。一方十間ばかりの方形である。前方は石を積んだが、残り三方は土手で囲んだ。砲台座は三つある。台座の脇には池を設けた。

この台場にかかる費用は、東町の大和田荘兵衛が一切を献金した。長州方面の政情が不安定で、西廻り航路が敬遠されて敦賀に入る船が増えたせいで商いが伸びてもいたが、半ば強制して藩が出させたのだと噂された。

不安の材料は後を絶たない。

この年六月には、敦賀に農兵の制度ができた。村から石高に応じて二百人を招集し、町中からその費用に充てるため年に米二百俵を出させた。農兵は十二隊に分けられて、各隊に農兵頭一人がおかれた。

農兵は銃砲隊の訓練をしたが、日常の帯刀を認められた。その上、弓馬以外の武芸に励めば藩の引き立てもあるとされた。秀吉による刀狩り以来、農民は武器の所持を禁止され、農民から武士になる道も固く閉ざされていた。それがこの制度で農民に帯刀を許し、その志があれば兵士として出世も可能となった。 武士の身分はわずか「弓馬」の芸で支えられると自らが認めた。身分制度の解体は、武士の手でなされたのだ。

翌元治元(一八六四)年五月、小浜から城代三浦帯刀が敦賀へ出張してきて、二十一日に松原で演習が行なわれた。この演習は本勝寺表門から繰り出して唐仁橋町通りを西浜から今橋を渡り、茶町を通って松原へと向かったものだった。

十九日には町奉行所からのお触れがあった。

『明後二十一日松原に於て三浦帯刀殿一手の調練有り、浜島寺町本勝寺表門より人数繰り出して、唐仁橋町通り西浜、それより今橋茶町通り松原へ押し出される。この行列の拝見は、町家軒下で見る分には構わないが、通りへ出ることは許されない。不敬の無いようにすること。松原御備場台場近辺への立ち寄りは禁止するが、遠方より拝見する分には構わない。』

この演習も含めて、台場や農兵など、何のための武装強化なのか分かりにくい。当時の人々は何と心得ていたのだろう。単純に、外国からの攻撃に備えるためだと思っていたのか? それは考えられない。勤皇か倒幕か、攘夷か開国か、当時の世論はいち速く敦賀へも伝わったはずだ。

しかしまさか この年の暮れに水戸浪士の事件が起こるとは、誰も思っていなかった。十一月に大子村を出発した天狗党が、陸路京を目指して進軍した。各所で行く手を遮られ、ついに八百人の浪士の部隊が敦賀の町へ入る手前で、加賀藩から派遣された藩士に降伏した。

水戸浪士の進軍で、敦賀の町は大騷ぎとなった。台場に据えるために製造した大砲を山に向け、農兵も差し向けられた。海の防御とばかりに思っていたものを、内陸に使うとされたのだ。しかも攻めてくるのは外国の軍隊ではない。動皇の志高き武士である。

敦賀の農兵や町人に、水戸浪士と戦う意思はない。異国から攻めて来たら戦おうとの漠然とした思いしかなかった。しかし、水戸浪士の部隊が敦賀の町に入って来たらどうするべきか。黙って見ているわけにも行かない。幸いなことに、水戸の浪士たちにも戦う意思は毛頭なかった。浪士たちはただ、京へ行きたい、慶喜に会いたいだけであった。それなのに道を逸れて、敦賀に入ってはどうしようもない。方向が反対になる。

加賀藩の武士たちは水戸の浪士に同情し、それならばと浪士たちは降伏を決めた。幕府の官僚ばかりが浪士を迎えたならば、必ずや一戦が開始されていただろう。そうなれば敦賀の町は破壊され、広く燃えてしまうところを、間一髪助かった。浪士の志を受け止めて、同じ武士として対峙した加賀藩士のおかげである。

温情ある加賀藩とは違って、小浜藩は浪士たちを苛酷に扱った。敦賀町内の寺に軟禁されていた浪士たちは、小浜藩の手に移されるとともに船町の荷蔵に収容された。その蔵の中では、浪士たちの足に足枷がはめられた。

一月の下旬になり、又吉は突如奉行所へ呼び出された。訳の分からないままに、又吉は御陣屋の塀の中に引き入れられた。そして、そこに敦賀中の大工や指物家具職人が集められたのを知った。そうして又吉たちは足枷を作らされたのである。幕吏に引き渡された水戸浪士八百二十余名にはめる足枷を、又吉たち敦賀の職人が作らされ、作り終えるまで帰宅を許されなかった。

又吉は複雑な心情だった。水戸の浪士と自分が関わりになるとは、思ってもみなかった。確かに、降伏前には水戸浪士を恐れもしたが、戦うつもりはなく潔く降伏したことを知ってからは、少なからず同情の思いまであった。しかし、しよせん身分違いの武士のこと、大工の自分とは住む世界が別なので、それ以上の考えは持たなかった。

酒屋や湯屋では、いろいろに言う者もいた。浪士が可哀相だと言うのは誰も同じで、武田耕雲斎がいかに立派な男であるのかを自分のことのように喋る者や、水戸の殿様が情けないとか、いやそれが大将たるべき者の道であるとか、さまざまに言い合った。

又吉もその中に加わり、知ったかぶりをしたこともある。

 


敦賀茶町台場物語 その14

2021年04月12日 | 小説

敦賀茶町台場物語 その14

 

そうだ、そんなことがあったのだ。なぜかすっかり忘れてしまっていた。自分の不人情さに驚く又吉だった。

松五郎を死なせたのはお絹ではない。しかし、お鈴を身売りさせるまでに追い込んだのはお絹だ。父親の葬式に借金取りが押し掛けて来るなんて、娘のお鈴にしてみれば、家のために自分の身を売り飛ばして金を作ることしか思いつかないではないか。何の力にもなれなかった又吉がお絹を責めるのは筋違いだが、お八重にしてみればお絹を恨むのはもっともなことだ。大事な大黒柱の亭主を亡くした時に、娘を追い込んで身売りさせたお絹は、地獄へ突き落したいほど憎い女だ。

そのお絹がお上に捕らわれて百敲きの刑を受けるのだ。お八重は手拭いの端を噛み締めて、睨みつけるようにお絹を見ている。娘のお鈴の姿は見えない。大きな船宿へ身売りすると聞いていたお鈴だったが、実はその船宿の裏手にある遊郭へ入ったのだと噂された。それが本当か、確かめてはいない。しかし、遊郭へ入ったのなら簡単には出歩けないだろう。

 

寒さに足踏みする者もいて、ざわつく見物衆だったが、寺の鐘が『ゴーーン!』と大きく一つ響くと、辺りはしーんとなった。

四肢を開いて地面に括り付けられているお絹に、百敲きの刑が始まった。敲き役の男二人が一発ずつ交互に、それぞれ五十ずつ、合わせて百回敲いていく。むき出しになったお絹の白い尻に最初の竹が振り下ろされた。パーンと冷気を切り裂く乾いた音とほとんど同時に、「あぁぁーっ」と細く湿った叫び声が聞こえた。敲かれたところには鮮やかな赤い筋がくっきりと走り、また一本と次々に増えていく。お絹の叫び声は次第に小さくなっていった。

少しは手加減がある筈だと又吉は思うが、敲きの数は正確に数えられている。このままでは、きっちり百回敲かれるかもしれない。お絹の実家からの賄賂は効き目が無いのだろうか。それとも、お絹は実家からも見放さられたというのか。確かにお絹は他人に対して傲慢であり、阿漕な商いをした。しかもそれを悪いとは思わず、他人を思い遣る心持ちに欠けていた。だが、家は大事にしていた。儲けた金を貯め込んだが、自分ための華美豪奢に使いはしていない。町の者からは嫌われたとしても、あくまで家のためだった。だからお絹が身内から見捨てられるようなことはないだろうと、又吉は思っていた。それなのに、敲きはきっちりと百回数えられた。

お絹の叫び声は、途中から次第に小さくなり、途切れてしまった。気を失ったのだろう。大の男でも最後まで持ち堪えられるのは稀なのだ。

敲き役の二人が五十ずつ敲き終えた。お絹の尻は、背中から太ももまで真っ赤になっている。血もにじんでいる。赤く染まったお絹の肌から、白い湯気が上がっている。微かに息づいているのが分かる。生きているようだ。

杭に括り付けられていた手足が解かれた。戒めを解かれたのに、お絹はピクリともしない。敲き役の二人がお絹から離れた。席についていた役人たちも立ち上がり、来迎寺内へと戻って行く。見守っていた町人たちがざわつき始めた。刑が終わり、家へ帰る時が来たのだ。

刑場を囲んでいた竹の柵の一枚が内側へ開くと、そこから一人の男と二人の子供が中に入り、敲かれた時のままじっと寝ているお絹のところへ駆け寄った。お絹の亭主と二人の子供だった。ぐったりと動けないお絹に亭主が着物をかけ、ゆっくりと抱き起した。亭主がお絹に何か言っているようだ。お絹の声は聞こえない。が、お絹は家族から見放されてはいなかった。娘は泣いている。暫くすると、お絹が何とか立ち上がった。亭主はお絹を背負った。お絹の着物の端を掴んだ男の子は顔を上げて、ぐっと前をにらんでいる。お絹の血を引いている顔付だ。女の子は泣き止んで兄の手を握り、うつむいていた。お絹の家族は刑場を後にした。

お絹はこれに懲りて改心するだろうか? あくどい商いは控えるだろうが、あの前向きなひたむきさで自分を押し出し、人をかけ分けて邁進するのは変わらないだろう。この鬱屈した、混沌とした世の中はやがて終わり、新しい時代がやって来る。その時にはお絹のような者が水を得るのか。お絹は生まれるのが早すぎたのかも知れない。

お絹は痛い目にあったが、死罪にならないだけましなのだ。

 


敦賀茶町台場物語 その13

2021年04月11日 | 小説

敦賀茶町台場物語 その13

 

奉行と肝煎が席に着くと、刑場役人二人に両側から腕を取られたお絹が、よろよろとした足取りで刑場の中程へと連れられてきた。背を屈め、下を向いたまま顔を上げようとせず、いまにも崩れ落ちそうな危うい歩き方だ。そんなお絹は見たことがない。お絹はいつも、自分の容姿に自信があるのか、顎を突き出すほど顔を上げて、人目を惹きつけるように思わせぶりに歩く。お絹のことを知らない者が見たなら、つい目を遣ってしまうこともあるようだ。年増だが、ちょっと気になる女といったところか。しかし、今朝のお絹にはそんな華やかさは微塵もない。過酷な拷問はお絹を生きたまま地獄に突き落とし、死んだ方がましだと思わせる責苦から逃れられるならば、たとえ刑場であっても極楽なのかもしれない。

刑場の周りは竹の柵で囲まれており、見届け衆は中へ入れない。それでも、思ったよりも近くに見えるものだなと、又吉は驚いた。知人だからそう思うのか。

厳しい取り調べにやつれたお絹は、小粋に結っていた髪が汚く解かれ、小生意気な顔は涙か汗か涎かが混ざり合ったもので濡れ、こけた頬にほつれた髪がへばり付いていた。三日三晩飯も食わされず、眠る間もなく拷問され続け、精根尽き果てて罪を認め、ようやく許されたのだ。近くに寄れば悪臭がするのではと思えるような、着物の汚れ具合だ。

お絹は両脇に立った男二人に、一枚しか着ていない薄い着物を剥がれ、うつ伏せに寝かせられた。地面に打ち込まれた四本の杭に、両手両足を拡げて括り付けられる。身動き一つもできないが、朦朧としているお絹には自分がどんな姿になっているのかすら分からないだろう。

敲き刑は、二人の敲き役が交互に五十ずつ、竹を割いて作った棒で背中や尻を敲く。もう一人、声に出して数を数える者がいるので、その声に合わせて敲く。賄賂をはずめば途中で数を飛び抜かしたり、敲く力加減を緩めたりと、融通が利いた。ただ、あまりにも世間から憎まれていると、金の力も通じないこともある。お絹の場合はどうだろうか。実家からかなりの賄賂が役人へ渡されているはずだが、はたしてどのくらい手加減があるだろうか。

お絹が敲かれるのが面白くて見に来た又吉ではない。お絹の亭主と顔を合わせるのは辛い。しかし、見に来なければ町内の隣人で作る五人組内で問題にされる。知り合いだからという理由でお上の仕置きを見に行かないと町役に密告でもされたら、今度は又吉が罰を受けることになる。それで、気が重いという妻のお美代と共に、子供三人を連れて歩いてきたのだ。上の子二人には、この咎人がどんな罪を犯したのかをきちんと教えるつもりだ。一番下の子はまだ幼いので、何が起きているのか分からないだろう。それでも、歩ける者は全員が見に来なければならないのだ。

又吉はふと、五、六人間を置いた右手に、船町に住む船大工の松五郎の女房、お八重が立っているのを見かけた。お八重は手拭いを頬かむりにし、端を銜えていた。強く噛み締めながら、睨みつけるようにお絹を見ていた。お八重にはお絹に大きな恨みがあることを、又吉は思い出した。

 

茶町台場の普請が始まって間もなく、石積みを進めていた時に、下の石のがたつきを直していた石工の重松の頭上で、左官の弟子たちがふざけて飛び跳ねていて、親方にどやされたことがある。ふざけていて石を落下させたら、下にいる者に当たって大怪我をする。その時も、左官の弟子たちが逃げようとして上の石を蹴ってしまった。「危ねえ!」と叫んで重松を突き飛ばしたのが松五郎だった。

重松は間一髪無事だったが、運悪く足を滑らせた松五郎のその足の上に石が落ちた。当たり具合も悪く、膝の下で骨が砕けて折れた。ぐにゃりと曲がって骨が突き出たところから血が噴き出した。その時、又吉は離れたところにいたが、騒ぎを聞いてすぐに駆け付けた。重松が松五郎の折れた足の膝の上をきつく縛り付けているところだった。直ぐに戸板が届き、松五郎を寝かせて一番近い茶町の玄庵という医者へ運んだ。

松五郎は奇跡的に一命をとりとめたものの、折れて裂けた傷口がなかなか塞がらず、砕けた骨の接合も難しかった。江戸や大坂では、手足を切断しても切口を腐らせずに治す蘭方医の新たな技が話題となったが、敦賀にそのような最先端の技術を持った医者はいない。重松は痛みに耐えて寝ている他に、どうしようもなかった。亭主が怪我で寝付いているだけで家計は逼迫する。松五郎の世話は上の娘のお鈴に任せて、お八重は造船場へ下働きに行った。それでもまだ足りなかった。お鈴の下には三人の兄弟がおり、さらに日頃から癪に苦しむ松五郎の母親が同居していたのだ。

お八重は、大家の紹介でお絹から金を借りた。高利だが背に腹は代えられなかった。

ひとまず医者への支払いは済ませてほっとしたが、松五郎の状態は好転しなかった。傷の化膿は治らず、痛みも続いていた。

一月ばかり治療で寝ていた松五郎だったが、痛みに耐えかねたのか、気弱になってもいただろう。大雨の夜、寝床から抜け出していなくなった。這って行ったらしい。

雨の上がった翌朝早く、近くの川に浮いている松五郎を見つけたが、もう息はなかった。葬式の日、お絹は使いの者を寄こしてお八重に借金の返済を迫った。払えないのなら娘のお鈴を身売りに出して金を作ればいいと、使いの男は冷酷に言い放って帰った。その夜、お鈴が唐仁橋町の船宿へ身売りすると、自分で言い出した。お八重は身を捩って泣いたが、お鈴は泣かなかった。父親の看病をしながら、ずっと考えていたのだろう。お鈴の立場では他に金を作る方法はなかった。お絹がお鈴の背を押したのではあるが、他に道は無かったのだ。