敦賀茶町台場物語 その16
歌も流行った。
例えば、加賀藩監軍永原甚七郎は武田耕雲斎と降伏の交渉をした男だが、永原は陣立てにおよんで戦死を覚悟し、袖印に『面白し頭も白き老いの身を越路の雪にかばねさらさん』と書いた。同じく医者の森良齋は『身を堅めこころをさだめ雪の山』と書いた紙を懐に入れていた。7
浪士たちが、加賀藩の手をはなれて小浜藩に移されると、その扱いが変わるであろうことが、足枷を作らされる職人たちにはわかった。と言って、何ができる訳ではない。なるべく痛くないようにと、鉋を当てるだけの又吉だった。
浪士たちの取り調べをするために、幕府の若年寄田沼玄蕃頭意尊(おきたか)が敦賀へ来ることになり、そのお触れが知らされた。
『今般若御年寄田沼様今浜永建寺え入られる手はずとなるにつき、御逗留中よりは永建寺門前、葬式通行相成らずは勿論、来迎寺野にて火葬も相成らず、町方一統左様心得るように言い付けられたので、右の通り町内漏らさずよう触れるものである。慶応元年一月ニ十五日 総代』
田沼一行二百人は、二月一日に敦賀に入った。そして、即日白州が開かれて、武田耕雲斎をはじめこの日には二十六名が取り調べを受けた。田沼は、時間が長引けば慶喜ばかりでなく朝廷までもが水戸浪士の助命に動くものとみて、形式だけの調べで直ぐに処刑しようとしていた。世情も水戸浪士に同情的だから、処刑の時期が遅れると、処罰ではなく大虐殺とも言われかねない。
田沼としては、この日の内に処刑をはじめてしまいたかった。せめて首領の武田耕雲斎の首だけでもはねてしまえば、もう誰に止められるものではないはずだから。
ところが この一日の夜、耕雲斎の斬首が行なわれるかもしれないとの噂が敦賀の町に流れると、しだいに町の者が庄橋近くに集まり、五十人ほどにもなった。町人たちは、即日斬首では勤皇の志士である耕雲斎らが哀れであるとして、処刑の延期を役所に願い出ることにした。
しかし、田沼のいる永建寺へは、警備が厳しくてとても行けない。だから、御陣屋へ押しかけることになった。だが、町人が武士の所業に口を出すことは禁じられている。それに、小浜藩は幕府の方針遵守の藩だから、加賀藩のように浪士に同情的ではない。へたをすれば、処刑延期を願い出ただけで、幕府に敵対する者と見なされて、処罰されるかもしれないのだ。
又吉も、この五十人の中にいた。せめて、この手で足枷を作った罪を、この行動で晴らしたいと思い、お絹のように敲きの刑になるのも覚悟で出かけたのだった。
御陣屋前の、庄橋の東詰めで一行は立ち止まった。橋には橋番がいる。理由を言わなければ橋を渡らせてもらえない。しかも、こんなに大人数である。不穏な動きだと見られると、御陣屋から同心たちが飛び出して来るだろう。
そこで町人一行は、代表を立てて願い出ることにした。代表には、西町の加賀屋三郎兵衛が推挙された。加賀藩の御用達の店だから、御陣屋としてもいきなり切り捨てる訳には行かないと判断をしたのだ。
三郎兵衛が一人で橋を渡った。橋の西詰めで番人に止められ、三郎兵衛が何かを言い、頭を下げて番人の脇を通り、御陣屋の門前へ行った。
御陣屋の大門横の通用口から、同心が一人出てきた。三郎兵衛が頭を下げ、
ついにはひれ伏して願い出た。話を聞いた同心は三郎兵衛を捕らえることなく、中へ姿を消し、通用口が閉ざされた。
三郎兵衛が戻ってきた。
「どうだった? うまくいったか?」
見守っていた町人たちが口々に三郎兵衛に聞いた。
「とにかく、 われわれ敦賀町人の願いとして、今晩のところは延命をお願いしたいと、申し入れてきたよ」
思いのほか三郎兵衛は落ち着いた声で言った。
「今晩のところだと。明日なら殺されてもええのか!」
「そうだ! そんな弱気でどうするんだ」
集まった者の中には水戸浪士に強く同情する者もいる。
「斬首はやめて、武士として切腹させてやれと、言うんじゃなかったのか?」
三郎兵衛への不満の声がわき起こった。
「待て待て。我ら町人には、加賀屋の申したことが精一杯じゃ。勝手なことを言うと、お前たちだけでなく、家や親兄弟、町の者にもお仕置きがあるぞ。我らに出来るのはここまでじゃ。さあみんな、おとなしく家に帰るとしよう。武田様も、我ら敦賀町人の気持ち、きっとわかって下さるじゃろう」
そう言ったのは、庄町肝煎の美濃屋嘉右衛門だった。もう誰も異を唱える者はいなかった。
町人一行はそこで散っていった。うなだれる者、こぶしを握りしめる者など、さまざまであった。又吉もおとなしく家に帰った。
敦賀町人の願いが通じたのか、処刑が行なわれたのは四日になってからのことだった。耕雲斎の辞世として、『咲く梅の花ははかなく散るとても香りは君が袖にうつらん』の歌が町内に伝わった。
その後、敦賀の町に流行った歌に、次のものがあった。
『武田家が梅の匂いにだまされて松の下にて散るぞかなしき』
水戸浪士処刑の翌年、慶応二(一八六六)年の六月、長州からの軍船が敦賀へ来襲するとの報があり、茶町台場に百十三人が配置され、浜辺には船も備えて水主(かこ)二百五十人が待機した。そのため、これらの人員への炊き出しが町内に命じられた。
金ヶ崎の台場には、鯖江藩から藩士が出動してきて、守りにあたった。
町内騷然としたが、長州からの軍船襲来はなかった。もしも実際に、長州の軍勢が敦賀に襲来して上陸したとなると、はじめから戦意のなかった水戸浪士の一件とは異なり、敦賀の湊と町は戦場になり、甚大な被害がでたものと思われる。台場は艦砲射撃を受け、茶町台場の裏にある茶町へも玉が撃ち込まれただろう。幸いにもそれは回避された。
八月には敦賀を大雨が襲った。五日六日と降り続き、七日には洪水となった。鳩原の茶屋の後ろの山が崩れ、茶屋は二軒とも埋まってしまった。家人六人が即死したが、被害はそれだけではなかった。その茶屋には、農兵の一隊が出張警備に来ていたのだ。農兵頭の関口平四郎が十五、六人の農兵を率いて茶屋におり、全員が圧死した。
九月十五日にはイギリス船が敦賀湾内に入り込み、常宮沖に停泊した。翌日になって船からイギリス人が上陸してきて、船の修理のための寄港だと判明した。そのイギリス船が米・鶏 卵・ねぎ・牛・小間物などを求めてきたため、牛以外のものは揃えてやり、代金も支払われた。いざ異国船の襲来かと騒がれたが、何事もなく去っていった。
長州軍への備えは続いたが、鳥羽伏見の戦いで小浜藩軍が敗れ降伏した。そして朝廷に謝罪した。これで敦賀の町は朝敵の地ではなくなり、長州軍の来襲の不安もなくなった。それに、外国船の襲撃もなかった。
茶町台場は、結局、一度も実戦に使用されることのないまま、台場としての役目を終えた。ほとんどの台場が壊されるなか、茶町台場はその広大さゆえ壊す手間を惜しまれたのか、明治政府よってそのまま残された。
その後茶町台場は陸軍省に移管され、明治三十(一八九七)年八月には、台場の上を整地し、福井測候所敦賀派出所が開所した。
そのニ年後の明治三十二(一八九九)年七月十三日には敦賀港が開港場(外国貿易港)に指定され、国内外の船舶が平和裏に出入りすることとなった。外国船と長州襲来に備えて建設された茶町台場は、砲台として一度も使用されることなく測候所の土台となっていたが、昭和一五年に測候所が松島町(現松栄町)へ移転した。その後、茶町台場跡地は民間に払い下げられ、上に民家が建てられ現在に至っている。