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後醍醐の昆布 その8

2021年01月30日 | 小説

 

  三、二皇子敦賀へ

 

 延元元年(一三三六)十月初め、還幸を決意した後醍醐は、文観と練った計画を実行に移した。

 まずは、義貞の耳に届かないように還幸の準備を進め、そして準備が整ってからわざと義貞に知られるように仕向けた。

 京を奪回できず、尊氏に敗れ続けた新田一族の武将の中には、陣から姿を消す者が増えた。それは、後醍醐天皇が京へ還幸するという噂が広がったからである。

 その噂は義貞の耳にも届いた。義貞とて、後醍醐を全面的に信頼して戦って来たのではない。鎌倉を落としたのも、執権北条が余りにも悪どく、武将たちに怒りの輪が広まり、幕府の主力軍が京へ派遣された好機を逃せば、他の武将が必ず鎌倉を攻める状況にあったからである。その時には、天皇をどうするとかの考えはなかった。

 義貞が実際に天皇に会ってみると、後醍醐は自分を神だと思っているような男で、義貞の瞳の奥を射るような目で睨まれた時には、背筋に凍った何かが走る気がして、思わず顔を伏せた。そうしないと体内から大事なものを掴み出されるような恐怖を感じ、その場に座っているのが精一杯であった。

 後醍醐は人であって人ではない。義貞は第一印象でそう思った。その思いは日々強くなった。

 後醍醐自身が法服を着て護摩壇の前で祈祷を修する姿を見た事がある。後醍醐の膝の上には黒光りする髑髏が載っており、それはそれは異様な光景だった。

 人の首や髑髏に臆する義貞ではないが、日本一高貴で、この八州を造った神々の血を引く天皇が、朝敵調伏の秘儀密教の祈祷を自ら行うなどとは、自分の目で見なければ信じなかっただろう。炎に照らし出される後醍醐の顔は、まさに明王か鬼神であった。

 尊氏を取るか義貞を取るかの決断の時、後醍醐は義貞を選んだ。それは義貞にとって光栄であったが、その喜びとは別の所で、得体の知れない畏れを感じた。生きながらにして命の根を掴まれたような、言い様の無い恐怖であった。

 命を惜しむ義貞ではない。武士としてこの世に生まれた以上、強い敵に首をはねられるか、奉ずる主上のために自らの腹を掻っ切るのは、定められた運命である。その運命に従う事でのみ、往生が得られる。だからこそ、武士としての役割を果たして来たのである。

 命など惜しくは無い。人は生まれに応じて生き、命運が燃え尽きれば死して、次にまた生まれ変わる。命は死してこそ改まるのである。だから、死とは怖れるものではなく、全うするものであるに過ぎない。

 義貞のこの信念に揺らぎは無い。

 しかし後醍醐は、義貞の命どころか、その根本までをも吸い尽くすのではないか。義貞の輪廻は断ち切られ、常世にあるはずの、義貞を義貞として生み出す根本の証までもが微塵として消されてしまう、そんな怖ろしい予感がする。

 それは根源的な恐怖である。

 この世の事なら、義貞にも対処ができる。戦って敗れても、諦めがつく。しかし、あの世の事には手出しが出来ない。それをするのは人ではない。人でありながら、それをする力を持つ者がいる。そんな者には太刀打ち出来ない。自分が無力である事の恐怖というものを、義貞は初めて知った。後醍醐に出会う事によってである。

 義貞は後醍醐還幸の噂を聞き、部下の堀口貞満に命じて天皇の動きを確かめさせた。

 堀口が天皇の居住する塔へ出向くと、表に輿の用意がしてあり、まさに後醍醐が乗り込む寸前だった。慌てた堀口は、義貞に知らせる余裕も無い状況なので、自ら天皇の前に進み、これまでの新田一族の働きと義貞の忠臣ぶりを切々と訴え、義貞を孤立させる事の無いようにと、涙ながらに頼んだ。

 これはまさに後醍醐にとっては計画通りの事だったが、いかにも堀口の訴えに心打たれたような顔をして出発を取りやめ、改めて義貞と面談する事となった。

 



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