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マルクス剰余価値論批判序説 その37

2021年03月28日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その37

 

(17)同上、五九三頁。

(18)貨幤(商品)との関係による階級規定は、便宜的なものでしかない。このような階級規定は、ドゥルプラス(『「政治経済学」とマルクス主義』岩波書店)に見ることができる。「現存社会は商品所持者間の一般的関係という視角からではなく、所持する商品の性質によって定義される個人の二つの階級のあいだの特殊な関係という視角から、者義小することができ、また、この関係は搾取関係として理解することができる。」(同書、三一六頁)。ドゥルプラスは「商品は《交換される物》ではない(二四七頁)」という正しい視点から出発しているのだが、貨幤と引き換えられるもの全てを商品であるとして、労働力もまた商品の一種にしてしまう。労働(カ)と貨幤との引換を、商品交換と同列に理解するのである。したがって剰余価値は、資本家が労働者に与える一般的商品と、労働者が資本家に与える特殊的商品との、商品の性質の違いから発生させられる。ここから、階級は上記のように規定されるのだが、商品も貨幤も、労働の取得の物的形式であるから、階級は労働との関係で規定されなければならない。労働が他者(他個人ではない)に取得される関係が、固定的に構造化されるときに階級が生するのである。

(19)同、五四二頁。

(20)「彼が交換するものは、交換価値とか富ではなく、生活手段であり、彼の生命力を維持し、肉体的、ゾツィアールな欲求など、彼の諸欲求一般を充足するための諸対象である。それは、生活手段という対象化された労働のかたちをとった、一定の等価物であり、彼の労働の生産費用によって測られる。彼が引き渡すものは、彼の労働にたいする処分権である。」(『資本論草稿集』第一巻、三四一頁)。「彼が資本と交換するものは、彼がたとえば二〇年間に支出する彼の全労働能力なのである。彼にこの二〇年分を一度に支払うかわりに、資本は、彼が労働能力を資本の処分にゆだねるに応じて、小刻みに区切って、たとえば週ごとに、それの支払いをする。」(同、三五〇~三五一頁)。

(21)「この全体の過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現われる。(MEW二三、一九六頁)。マルクスの「労働」が「生産」であるという批判は、多くの論者によってなされている。廣松渉氏は穏やかな表現で、次のように述べている。「概して言えば、マルクスは『労働』という概念を『生産活動』とほほ等置できる広義に用いている。」(『現代思想』一九九〇年四月、一三四~一三五頁)。

(22)この、商品交換の始まりをゲマインヴェーゼンの外部に見るマルクスの説明は、それを歴史事実的な、実態的なものと想定してのことではない。事実的な説明ならば、マルクスはゲマインヴェーゼンではなく、ゲマインデなどの実在の共同体を指す言葉を使うはずである。この説明で、マルクスがゲマインヴェーゼン(共同制度・共同組織・共同本質・共同存在・共同生命・原生的完結

態など)を使っていることは、それが実態的説明ではなく、概念的説明であることを示している。また、『経済学批判』では、世界市場に対する国内市場を、ゲマインヴェーゼンと呼んでいる。マルクスが、商品交換の発生の点をゲマインヴェーゼンの外部に観たことを、「共同体と共同体の間」というように図形的に理解すると、価値形式論をも読み違えることになる。

 

 


マルクス剰余価値論批判序説 その36

2021年03月27日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その36

 

(1)「労働がどのようにして使用価値を増加させることができるか、ということを理解するのは、容易である。むずかしいのは、労働がどのようにして前提されたもの以上の諸交換価値をつくりだすことができるか、という点である。」(『資本論草稿集』第一巻、三八七頁)。

(2) MEW二三、九〇頁。

(3)同、六一三頁。

(4)同、六一二頁。

(5)岩井克人氏(『ヴェニスの商人の資本論』ちくま学芸文庫、七九、一〇三頁)が主張している剰余価値論は、その内実としては平田清明氏の言う「増加価値」(『社会形成の経験と概念』岩波書店、九八頁)の説明でしかない。日常的概念としての企業利潤をマルクスの剰余価値だとしてしまうのでは、マルクスの問題意識を無視することになる。マルクスは、個々の資本家の価値が増加するのは・どのようにしてなされるのかという、常識的問題を設定したのではない。新たな価値が、どのようにして産み出されるのかを、問うたのである。差異がどのようにして産み出されるのかという問いに対して、岩井氏はそこに差異があるからだと答える。差異は産み出されるのではなく、別の差異が転化するのだと言うのである。たしかに、個別資本家の価値増加の一部分の説明にはなっているが、マルクスは価値の移動を問題にしたのではない。価値が、ある所から別の所に移動するには、すでに価値の存在が前提される。交換でも盗みでも、価値の移動を行なうには、価値が存在していなければならないのである。その価値は、どのようにして産み出されたのか。価値が新たな価値を産み出す(自己増殖)とは、どのようなことなのかが問われているのである。しかし、労働力商品(労働力と貨幤との交換)を自明の前提にしておいて労働価値説を否定しようとする非論理への無自覚さは、論理的すぎるマルクスの剰余価値論の問題設定の高みにすら、届かないのである。

(6)「その純粋な形態では、商品交換は等価どうしの交換であり、したがって、価値を増やす手段ではない。」( MEW二三、一七三頁)。

(7)「剰余価値の形成、したがってまた貨帑の資本への転化は、売り手が商品をその価値よりも高く売るということによっても、また、買い手が商品をその価値よりも安く買うということによっても、説明することはできない。」(同、一七五頁)。

(8)「等価どうしが交換されるとすれば剰余価値は生まれないし、非等価どうしが交換されるとしてもやはり剰余価値は生まれない。流通または商品交換は価値を創造しない。」(同、一七七~一七八頁)。

(9)同、一七九~一八〇頁。

(10) 同、一八〇~一八一頁。

(11)「売るために買うこと、または、もっと完全に言えば、より高く売るために買うこと、G―W―‘Gは、たしかに、ただ資本の一つの種類だけに、商人資本だけに、特有な形式のように見える。しかし、産業的資本もまた、商品に転化し商品の販売によってより多くの貨幤に再転化する貨幤である。買いと売りとの中間で、すなわち流通部面の外部で、行なわれるかもしれない行為は、この運動の形式を少しも変えるものではない。」(同、一七〇頁)。

(12)「労働過程は、資本家が買った物と物とのあいだの、彼に属する物と物とのあいだの、一過程である。それゆえ、この過程の生産物が彼のものであるのは、ちょうど、彼のぶどう酒ぐらのなかの発酵過程の産物が彼のものであるようなものである。」(同、二〇〇頁)。

(13)同、二〇九頁。

(14) 「古典派経済学は、日常的生活からこれという批判もなしに『労働の価格』という範疇を借りてきて、それからあとで、どのようにこの価格が規定されるか? を問題にした。……他の諸商品の場合と同じに、この価値も次にはさらに生産費によって規定された。だが、生産費ーー労働者の生産費。すなわち、労働者そのものを生産または再生産するための費用とはなにか? ……経済学が労働の価値と呼ぶものは、じつは労働力の価値なのであり、……」(同、五六〇ー五六一頁)。このようにマルクスは、プルジョア経済学が「自分自身の分析の成果を意識していなかった」のに対して、プルジョア経済学に代わって自分がその成果を意識しただけだと、言っている。労働の価値とは、じつは労働力の価値なのだというマルクスの発見は、労働とは労働する行為という労働者の流動的存在状態なのだから、それを労働者とは別の対象として提えるには、労働者が持っている労働能力(可能性)として把握するしかない、というものである。これは、観点の切り替えであって、労働を価値(商品)と見なすプルジョア経済学の立場を離れるものではない。たしかに、労働の価値規定は科学的になった。が、同時に、労働力価値規定は、賃金を労働力の価格として、労働を商品とみなして、労働の取得が商品交換という合理的なものであるとするプルジョア経済学の地平に、マルクスを縛り付けることになるのである。したがって、労働から労働力という言葉の切り替えを分析しているアルチュセール(『資本論を読む』合同出版、二二 ー三二頁)が見出している「地盤の変更」とは、「科学的」なーープルジョア的なーー認識の進展にすぎないのである。

(15)同、一八四ー一八五頁。

(16)同、一八五~一八七頁。「こうしてこの独特な商品所持者の種族が商品市場で永久化される。」のであり、そのための費用が賃金である。労働者階級の維持の最低限が賃金額の原則であり、それを不変数(ラサールの賃金鉄則)とするか、それとも変数(マルクスの階級闘争論)とするかの違いがあるが、両者とも、賃金が労働の対価ではないとするところでは一致している。しかしマルクスは、ラサール批判の行き過ぎか、あるいは自分の商品交換法則にもとづく賃金論の整合性に酔っていたためか、賃金を労働力の(必然的に不払の部分を含む)対価であるとする。これは、資本制生産を奴隷制であるとする一方で、近代合理的なものとして捉えようとするプルジョア啓蒙家としてのマルクスの現われである。

 


マルクス剰余価値論批判序説 その35

2021年03月26日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その35

6、外部としての社会

 

資本家は労働者に労働させる。労働時間は、習慣的にあるいは法的に(あるいは暴力的に)決まっている。生産された商品は、全て資本家のものである。生産された商品の価値は、それに要する労働時間で規定される。それは、商品が労働生産物であり、労働の媒介によってしか生産されないからである。

労働は価値ではないから労働生産物も価値ではない。ただ、私的交換の労働生産物だけが価値になる。問題は、労働生産物を私的に交換させるシステムの存立構造である。その構造の根幹の物的なものを「貨幣」、精神的なものを「価値」であると、マルクスは考えたのである。

構造を問う場合には、その構造の成立と崩壊についての諸問題とともに、その構造の維持(再生産)としての構造自体の運動法則が問われる。『資本論』第一巻の大半が、この連動法則の叙述に充てられているが、マルクスの自意識は、自分が見出したこの運動法則が論理的に自律的なものであると、思い込んでしまったのである。

運動法則が論理的に自律的なものならば、その崩壊はこの運動そのものの展開にある。貨幣の自己増殖、資本の運動そのものが、この構造を崩壊させると、マルクスは考えたのである。

しかし、資本は資本家であり、考える人である。資本家間および労働者間との競争を、資本家は無際限に行なうものではない。自分の存立を危うくするような、構造を崩壊させるところまでの競争や闘争は、それを回避することを習得する。マルクスの予測は、資本家たちの知恵によって外れてしまった。

マルクスが見出した運動法則の展開によっては、資本制生産様式は崩壊しない。それは、マルクスの運動法則が、論理的に自律的な法則ではないからである。資本の連動は、自己運動・自律運動ではないのである。

マルクスの連動法則(資本の運動)には、その運動法則には関わりのない外部が内包されている。マルクスはその外部を隠して、運動法則を仕上げたのである。そして、資本もまた、その外部を隠蔽することによって、増殖するのである。

資本制生産様式は、マルクスが隠した外部によって発展し、崩壊する。

賃金形式は、外部を内部であるかのように見せるのだが、しかもそれを、平等原則に訴える形で、その演技を行なうのである。労働賃金という形式は、賃金が労働に対して支払われているように見せる。しかも、それが全部について支払われていないということをも同時に見せるので、全部を支払えという意識を生じさせ、それによって労働が支払われるものであるという意識を、ますます強固にするのである。

マルクスが批判すべきだったのは、労働が貨幣で買われることそれ自体だったはずである。労働という人間的ゲマインヴェーゼンが、貨幣という物的ゲマインヴェーゼンによって支配され、しかもそれを隷属とは意識しないという宗教信仰的転倒について、他の誰よりもマルクスこそが完璧な理解を持っていたはずである。商品や貨幣についての論述では、マルクスがたしかにこのことを理解していたことが、読み取れるのである。

ところがマルクスは、労働については読み違いを犯している。それはマルクスが、労働に生産を見ていたからである。マルクスの言う労働とは、生産である。生産力・生産関係・生産様式・生産形式などは、労働力・労働関係・労働様式・労働形式を、労働の成果としての生産物の立場から見た場合の規定である。(21)

労働の交換はゲマインヴェーゼンである。そして、生産物の交換は「ゲマインヴェーゼンの果てるところで、ゲマインヴェーゼンが他のゲマインヴェーゼンと接触する点で始まる(22)のである。

つまり、商品交換者たちの相互連関である社会は、ゲマインヴェーゼンの外部にあるのである。社会はゲマインヴェーゼンの外部で始まり、ゲマインヴェーゼンを解体して成長して行くのである。ただし、ゲマインヴェーゼンを物に転化しながらである。

したがって、これまで「社会の外部」という言い方で、人間的ゲマインヴェーゼンである労働を表現してきたのは、適切ではなかった。労働が本源部であり、社会が外部なのである。社会の立場に立ち、社会を視軸に捉えた場合にのみ、労働を「社会の外部」と呼ぶことが許されるのである。

マルクスは、社会(ゲゼルシャフト)に導かれて、その構造と運動法則とを抽出しえた。しかしマルクスは、社会(ゲゼルシャフト)を超えることは目指さなかった。社会がゲマインヴェーゼンの外部で生まれたものであることを理解しつつも、外部としての社会が本源部を浸食し飲み込んで発展して、ついには外部であった社会がそれ自体ゲマインヴェーゼンに転化したと、マルクスは考えたのである。そして、社会自身が社会を完成させるだろうと、マルクスは期待したのである。社会を自律的なものだと捉えたからである。

だが、社会の完成は社会でしかない。現実的には株式社会の集中・連合であり、理想的に見ても唯一資本による全社会の支配という社会である。

社会の外部を見ない、あるいは社会を外部として見ないことは、社会を絶対化することにつながる。ゲマインヴェーゼンの外部としての社会の始まりを捉えたマルクスですら、社会の外部性を消滅させてしまったのである。

 

以上、マルクスの社会概念という視角から、その剰余価値

論の批判の端緒について考察した。マルクス剰余価値論批判の本論は、社会の外部としての労働が、いかにして、社会を外部として消滅させるのかという問いの展開として、論じられなければならないだろう。

 

 


マルクス剰余価値論批判序説 その34

2021年03月25日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その34

5、労働賃金

 

労働賃金という形式は、賃金が、行なわれた労働に対して支払われているかのような外観を植えつける。それは、賃金が個別資本家から個別労働者に支払われ、個々の労働者の労働種、技術、労働時間、資本への貢献度などによって様々に異なり、 いかにも賃金がその個別労働者の個別労働に対して支払われているように見えるからである。労働者も資本家もそのイデオロギーに捕らわれるのである。

マルクスは、階級的観点からはこのようなイデオロギーは簡単に見抜くことができると言う。

 

貨幣形式が生み出す幻想は、個別資本家や個別労働者に代わって資本家階級と労働者階級とが考察されるならば、たちまち消え去ってしまう。資本家階級は労働者階級に、後者によって生産されて前者によって取得される生産物の一部分を指示する証文を、絶えず貨幣形式で与える。この証文を労働者は同様に絶えず資本家階級に返し、これによって、彼自身の生産物のうちの彼自身のものになる部分を資本家階級から引き収る。生産物の商品形式と商品の貨幣形式とがこの取引を変装させるのである。(17)

 

しかし、マルクスが見抜いたものは、商品の全ては労働者が生産したものであり、労働者は自分が生産した商品の一部を貨幣の形で資本家から与えられる、ということである。資本家は、自分の資本の投下によって得た利益で、労働者に賃金を支払うとともに自分も貨幣を得るというように、労働者の労働によって得た利益を労働者にだけではなく資本家も取得しているように見える。しかし実際は、資本家が投下する資本そのものが、すでに労働者から資本家が奪ったものなのだ、と。このようなことは、マルクス以前に社会主義者たちが唱えたことである。マルクスはそれを、商品と貨幣との同一本質と形態の転化という、新たな視点で繰り返したにすぎない。

賃金も資本も共に貨幣であり、しかも同じ貨幣である。違いはその役割にあると、マルクスは言う。賃金は、生活手段である商品を取得するために、労働を提供して得た貨幣である。資本は、売る商品を作るために必要なものを取得するためのものである。労働者は買うために売り、資本家は売るために買う。両者の決定的な違いは、貨幣との関わりである。交換手段として貨幣と関わる者と、増殖手段として貨幣と関わる者との区別は、人が入れ代わっても、階級として固定される。階級とは、貨幣との関わりによって規定されるのである。(18)

ところが、階級は貨幣との関わりによって規定されるのだが、その貨幣は同じ貨幤であり、貨幣を見ても階級の区別は分からない。貨幣形式が人を欺くのは、諸個人の階級区別なのである。個人が、自立・独立した個人ではなく、階級に属し階級に規定された個人であることを、貨幣という形式が誤魔化してしまうのである。

 

賃金は、労働力の価値にたいする支払いではない。労働力の価値は、平均労働者の習慣的に必要な生活手段の価値によって規定されている。(19)

 

「労働」を「労働力」に置き換えたことによって生ずる違いは、労働の処分権の取得を交換関係(社会関係)と見なすか、それとも支配隷属関係(階級関係)と見なすか、という違いである。

労働と賃金との交換は、強制されたものである。労働者は、自分の労働を賃金と引き換えることを、強制されている。そうしなければ、生きられないからである。だからマルクスは、資本制を新たな奴隷制として、捉えたのである。

ところがマルクスは、奴隷維持費としての賃金を、商品の価格の一種として説明する。経済学者が労働の価値と呼ぶものは、実は労働力の価値なのであるとマルクスは言い、労働力の価値はその労働力の再生産に必要な生活手段の価値によって規定されていると言う。

マルクスの価値規定によれば、価値の大きさは労働時間よって規定されている。したがって、労働力の再生産に必要な労働時問と、その労働力が実際に発現される時間との差異が、剰余労働時間であり、剰余価値であるとされる。

マルクスは、剰余価値論を、徹底して弁証法的に書いている。それは、きわめて危険な叙述であると言わなければならない。実際の分析は、全く逆に行われている。

まず、賃金の総額、すなわち、労働者階級に与えられている貨幣の総額がある。それは、労働者およびその種族の再生産に必要な額であり、その額は、資本家階級が必要とする労働者の質量が労働者階級から供給されることを条件に、一定の幅を持っている。

労働者の再生産に必要な生活手段は、その殆どが(全てではない)商品として存在している。したがって、その必要な商品を買えるだけの貨幣額が、賃金として労働者に与えられていることになる。資本家階級から労働者階級に、それぞれ何らかの理由をつけて、個別労働者に違った量の貨幣が与えられる。その貨幣によって、労働者は自己と家族とを再生産する。そして、労働者の労働によって生産された全商品の貨幣額から、賃金と生産手段に要した貨幣額を差し引いたものが、増殖した貨幣の量である。

確実に言えることは、貨幣の増殖は、商品生産を間に置いて、支出した貨幣額と入手した貨幣額との差額だということである。支出は、労働と労働手段の買入れに区別できる。収入は、生産した商品の販売による。労働手段は商品であり、販売する商品と同様に、その価格は決まっている。それらは等価交換されるのだから、剰余価値を生み出すことはできない。

商品の価格は、その生産に要する労働時間によって、規定されている。つまり、直接的規定である。しかし、賃金の価格は、労働者階級を再生産するのに必要な生活条件の価格によって規定されると、マルクスは言う。間接的規定である。しかも、「労働者階級を再生産するのに必要な生活(生命)条件」には、無価格あるいは不価格である自然的および文化的なもの(男と女、あるいは家事労働など)が含まれている。それらの全てが価値物であり、全てを価格に換算できるとするのは、全てが商品であるとする貨幣意識の賜物でしかない。

資本家が賃金によって買うものは、労働でも労働力でもなく、労働者に労働させる権利である。資本家は賃金で、労働者の労働の使用権(処分権を)買うのである。労働者を、どのような労働の質で、どれだけの量だけ労働させるのかという、労働者の労働能力の消費権を手に入れるのである。(20)

労働させる権利を労働する者から取得する方法には、暴力的な方法がまず存在する。しかし、それはコストが高く生産力も低い。歴史的経験から、労働を収奪する者が採用した最も合理的な方法が、資本制生産様式である。このような、労働の取得の形式によって歴史の諸段階の形成を理解したのがマルクスである。マルクスは、全て解っていたはずである。

しかし、マルクスの叙述は、資本制生産様式における労働の収奪を、労働時間の取得として、論理的・合理的・合法的なものとして表わしている。

労働時間とは抽象的人問的労働の時間であり、直接的に社会的な労働の時間、すなわちゲマインヴェーゼンとしての労働の時間である。しかし、労働のゲマインヴェーゼンは社会によって隠蔽されており、それは貨幣によってしか現わされない。貨幣が価値を規定するのである。

労働の価値を規定するのは、貨幣である。労働の価値(労働力の価値)も、労働の結果の価値(商品の価値)も、それらが貨幣によって取得されるから価値として現われるのである。労働力の価値が貨幣(賃金)を規定するのではない。

 

 


マルクス剰余価値論批判序説 その33

2021年03月24日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その33

 

 4、労働力商品

 

 マルクスは、労働を価値と結びつけるために、労働の価格を労働者の生活費に求めたブルジョア経済学と同じ立場に立って、その商品既定の矛盾だけを解決する。(14)このようにして、賃金は労働ではなく労働力の価格とされ、労働力が商品であるとされる。

 労働力の価値は、他の商品と同様に規定される。(15)

 商品の価値は、その再生産に必要な労働の量によって規定される。そして、労働力もまた同じであるとマルクスは言うのだが、労働力の再生産は直接に労働によって行なわれるのではない。したがって、マルクスも、「言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である」というように、規定の仕方を変えている。さらに、「労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充人員すなわち労働者の子供の生活手段を含んでいる」とされる。(16)

 しかし、ここまで労働力の価値規定が拡大されると、それが商品の価値規定と異なるのは、一目瞭然である。労働力の所持者が、その労働力を再生産するために必要とするものは、生産力の上昇につれて多岐に及ぶ。それらの全てが商品として、賃金として受け取る貨幣によって買われ、したがって回り道を経てその商品を生産する労働の量で規定されると言い切れるのだろうか。

労働力の再生産(労働者の再生産)は、労働者本人の労働能力の再生産だけではなく、労働者種族、労働者階級の再生産でもある。商品の価値はその再生産に必要な労働時間によって規定されるのだが、労働力商品の価値はそれ自体の再生産と共にその将来的存在のための再生産に要する労働時間よっても規定される。このように言うことで、マルクスは何を言っているのだろうか。

労働力の価値に、労働者の子孫の生産に要する商品の価値まで含めておいて、それで労働力の商品規定を完成させたとするのは、今の労働者だけではなく将来の労働者の確保も必要だとする資本家の立場に他ならない。奴隷にされる種族が多数存在し、必要になれば捕らえて奴隷にすればよい場合には、奴隷主は奴隷を使い捨てにする。しかし、捕獲する対象や手段がなくなると、奴隷主は奴隷の再生産を行なうようになる。労働者は商品がなければ生きられないし、商品がなければ子孫の再生産ができない。そして、商品は貨幣がなければ手に入らないのである。資本家は、生産関係を再生産するために、賃金に労働者種族の再生産の価格をも含めるのである。つまり、賃金は、労働力の価格ではなく、労働者階級の生存費用として資本家が支出する資金である。

このことは、マルクスの言うのとは全く逆に、階級ではなく個別労働者の賃金を見れば判る。個別労働者の賃金は、その養育する子供の数によって、明確に異なっているだろうか。

僅かの手当の違いでしかないのが、現状である。それとともに、税金の扶養控除制度などに見られるように、労働者種族の再生産は、個別労働者の賃金によってではなく、労働者階級全体によって賄うようにされている。

個別労働者の個別的労働賃金を見れば、それが労働者本人とその子孫(家族)の個別的な再生産に要する価値によって、規定されてはいないことが判る。逆に、再生産の量的及び質的内実が、賃金によって規制されているのである。賃金は、労働者階級全体の再生産の費用が、個別労働者間の競争を煽る形で、個別的に分割されて支出されている、資本家階級による労働者階級の生存資金である。

労働(労働力)は商品ではない。それに対して貨幣が与えられているように見えるから、商品であるかのように見えるのである。労働賃金という貨幣形式は、それが個別的労働に対して個別的に支出されるので、その個別的労働(労働力)を商品に見せるのである。言い換えれば、労働賃金という形式は、労働(労働力)が商品ではないことを、隠してしまうのである。