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後醍醐の昆布 その7

2021年01月29日 | 小説

 自身への難を逃れた後醍醐は、持明院統の皇子が即位の動きを強める中、着々と次なる手を打ち続けた。後醍醐の密教護持僧文観を権僧正に抜擢し、翌年(一三二七)には息子の尊雲法親王を天台座主に就かせ、元徳二年(一三三〇)には南都北嶺に行幸して、また延暦寺大講堂の修造供養を行った。

 そしてこの間、嘉歴元年(一三二六)から元徳三年(一三三一)の春に幕府に知られるまで、中宮の平産と称して、幕府調伏の祈祷を文観・円観・忠円・知教・教円らに行わせ、天皇自らも、大聖歓喜天浴油供の祈祷を為した。日本の神を身に帯びた天皇が、密教の神の呪力で幕府を呪うのであるから、これを耳にした幕府の高官たちは恐れ戦き、血の気を失ったのである。

 密告により捕まった文観らは鎌倉へ送られ、この年(一三三一)六月に流罪となる。

 しかし幕府は、天皇を逮捕する動きは見せなかった。

 ところが八月二十四日の夜、ついに幕府の軍勢が天皇捕縛に向かったと、叡山の護良親王から知らせが入った。天皇は皇居を脱出して笠置寺に籠り、ついに初めて倒幕の挙兵の旗を掲げたのである。

 笠置山へは数万の六波羅軍が押し寄せたが、僧兵や、天皇挙兵を聞いて集まった軍兵の応戦手強く、容易に落ちそうもなかった。その内に、赤城山に楠木正成が、備後に桜山四郎入道がと、笠置に呼応して建つ武士が出現し始めた。

 幕府は二十万の大軍を関東から派遣し、その総大将に足利高氏もいた。更に、幕府は持明院統の皇太子を践祚させた。九月二十日、後醍醐が持ち出していた神器の剣と璽が無いままの儀式で、光厳天皇が即位したのである。

 幕府の大軍によってついに笠置山の城が落ち、僅かの供と逃げた後醍醐も、三十日に捕らえられた。翌年三月、後醍醐は隠岐へ流される事となる。この時、花園上皇は「王家の恥じ、一朝の恥辱」と嘆いたが、武士の下に甘んじるよりはと挙兵した天皇後醍醐を、先の天皇は同情するでもなく侮辱したのであった。

 隠岐へ流された翌年の元弘三年(一三三三)閏二月、後醍醐は隠岐を脱出し、改めて倒幕に立ち上がった。すでに天台座主であった護良親王が還俗し、高野山など全国に令旨を発して出兵を促しており、幕府は親王の首に褒賞をかけた。楠木正成も別個に戦を開始していた。

 後醍醐の脱出を知り、幕府は軍を京へ派遣するが、その軍中の足利高氏が後醍醐方へ寝返り、六波羅軍が敗れてしまう。後醍醐は、光厳天皇を廃して全てを元に戻す詔を発した。この動乱に乗じて新田義貞が鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡した。

 しかし足利も新田も、後醍醐を首領として信奉したのではなかった。後醍醐の名を借り、執権北条を倒して、自分が政権を握ろうとしたのである。

 帰京した後醍醐は、高氏を鎮守府将軍に、護良を征夷大将軍に任命し、諸国の守護に寵臣を配置した。しかし、後醍醐が信頼出来るのは僅かな寵臣たちであり、武力は持っていない。高氏と義貞は武力で勢力を争い、息子の護良までもが後醍醐の言うことを聞かずに高氏に対抗する姿勢を見せていた。

 そんな中、政権を握った後醍醐は次々と新たな政策を発して意欲を見せた。建武と改元(一三三四)し、貨幣を作るとの詔・徳政令・官社解放令など、天皇の領地を増やすだけではなく、商業を支配して銭貨を握ろうとする方向を見せた。土地の支配だけではなく、貨幣の支配の重要性が高まっていたのである。

 武士への恩賞は領地であるが、領主が替わる事への農民や旧領主配下の者たちの抵抗もあり、手続きが繁雑な上に時間もかかる。特に後醍醐の軍隊は寄せ集めだから、恩賞が銭貨ならばやり易い。僧兵や商人の目当ても銭貨である。

 ところが、それらの政策が軌道に乗る前に問題が起こった。護良の尊氏(高氏から改名)へのテロ計画が発覚して鎌倉に拘禁され、翌年には一時鎌倉を旧幕府方に奪回され、その混乱の中で護良親王は尊氏方によって斬られてしまうのである。

 その後何とか鎌倉を取り戻したものの、尊氏と義貞の政権争いが表面化することになった。

 尊氏をより恐れた後醍醐は、義貞を官軍として尊氏を討たせるが、逆に義貞軍が敗れてしまい、後醍醐は正月に叡山へ逃れた。まもなく奥州からの援軍によって京に還幸出来たが、西へ逃げた尊氏が東上してきて、またもや義貞が敗れたため、後醍醐は五月に再び叡山へ逃れて来たのである。