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昆布ロードと敦賀 その8

2021年01月20日 | 敦賀史

 

  3、敦賀

A)最初の昆布

 敦賀は古代から、畿内と日本海とを結ぶ交通の要所でした。文字の記録としては最古の昆布ロードが715年の蝦夷の酋長からの朝廷への昆布の貢献ですが、それには「先祖以来」となっており、それ以前から昆布が移入されていたと思われます。これは、阿部比羅夫の水軍による蝦夷平定を受けてのことです。
 しかも、この頃の蝦夷平定と言われるものは、蝦夷地のいくつかの浦を平定しただけのことです。
 坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命されたのが797年で、田村麻呂が蝦夷を平定して胆沢イザワ に城を築いたのが802年です。しかも、平定の地域は青森までに至っていません。北海道となると手付かずのままです。

 陸路ではこんな具合でしたが、海路では蝦夷地との交易が古くから行われていました。蝦夷地の昆布も、日本海沿岸の人には古くから知られていたと思われます。
 昆布が蝦夷地から海路南西へ運ばれていたとすれば、敦賀に入らないはずはありません。北陸一帯の沿岸は敦賀の湊を根拠にして交通がなされていて、敦賀からさらに西へ航路が伸び、大陸ともつながっていました。
 中国でも昆布の事が知られていたようです。紀元前219年、中国の斉セイの国の方士ホウシ (不老長寿の術士)である徐福ジョフクが秦の始皇帝の命を受けて、不老不死の天台烏薬の根テンダイウヤクノネ という薬を求めて日本にやって来たという伝説があります。徐福が求めたこの薬は昆布だと言われています。『史記』によれば、徐福は仙人の住む三つの島(蓬莱ホウライ・方丈ホウジョウ ・瀛州エイシュウ )へ行って仙人から不老不死の薬をもらってくると始皇帝に上奏し、神に使える童男童女数千人を請い請け、東海へ船を出してそのまま行方をくらましたそうです。この徐福伝説の伝わっている所が、日本全国に20ヵ所もあります。
 中国では採れない昆布を、中国の人が欲しがっているところから広まった伝説でしょう。中国では水質が悪く、昆布のヨードが甲状腺の病によく効くのと、塩の販売が制限されていたので、昆布の塩分が必要とされたと言われています。
 中国が日本の昆布を求めるのは、中国で昆布の促成栽培が成功するまで続きました。

 阿部比羅夫の蝦夷地への水軍による進出と同じ頃、百済が唐と新羅に攻められて、白村江ハクスキノエの戦いで日本軍が唐の水軍に破れ、結局百済が滅亡するという事件が起きています。大勢の百済人が新たな渡来人として移住してきました。
 また、727年9月、出羽国デワノクニ の海岸に渤海ボッカイからの使節団24名を乗せた船が漂着し、蝦夷エミシ と呼ばれていた人々によって16人が殺害されました。生き残った8人は奈良の都に入ることが出来、以後926年に渤海が契丹キッタンによって滅亡させられるまで、渤海船が日本海沿岸の湊に入港し、敦賀にも受入れました。
 松原客館もつくられ、もてなしました。渤海国はウラジオストクの辺りも含んでいましたから、昆布も採れたはずですが、大虫(虎)・熊・豹の毛皮や人参・蜜などの献上品が記録されていて、昆布はみえません。記録に残っているのは公式な使節団の来着だけですから、非公式な船がどれくらいやって来たのかは分かりません。
 渤海からの貴重品を目当てに豪族や商人が湊に殺到したのでしょう。唐船も往来し、政府は王臣家が私的な貿易をすることを禁止しました。
 995年には、宋の商人が敦賀に来ています。その後、宋商人が度々敦賀に来着し、唐人町のような場所も形成されました。この宋商人たちは、昆布を求めたと思われます。

 12世紀後半の頃、「山陰・北陸から東北にいたる日本海沿海諸国は、海上交通を通じて古くから緊密に結ばれていたが、とくに若狭と越前には南宋の船もしばしば来着し、ここから琵琶湖を通じて京都へいたる高通路は、列島を横断する当時の幹線的な水上交通路であり、若狭と越前は北陸側の窓口であった。延暦寺と日吉ヒエ社は、この琵琶湖から北陸にいたる水上交通を担う廻船人を神人として組織し、越前の気比社、加賀の白山社の神人も傘下に収め、北陸に多くの荘園を獲得し、強力な力をこの地方に及ぼしていた。賀茂社(上賀茂社)、鴨社(下賀茂社)も日吉社と競合しつつ廻船人の掌握につとめているがこうした北陸の廻船人の活動は、北は津軽、西は山陰・九州にまで伸びていた。/その九州には、海上の交易に非常に積極的であった南宋の商船が、膨大な陶磁器などの貨物や銭を積んで頻々と来航していた。その動きは沖縄諸島にも及び、沖縄には中国大陸の青白磁がもたらされ、南九州との交流を通じて、‥‥」(網野善彦『日本社会の歴史』(中))というような状況でした。
 そして、「山門(延暦寺)は早くも10世紀に、海藻等の海産物を貢進する日本海の窓口としての浦を確保していた。」(『小浜市史』232頁)とあるように、山門と結びつきを強めていた気比社の敦賀も、山門にとって昆布を確保する地となっていたと思われます。昆布は京を中心として、寺院で特に利用された食材だったからです。
 狂言「昆布売り」(作者の玄恵は1350年に没)には、毎年京都の北野の祭りに若狭小浜の昆布売りが来て昆布を売り歩いたことが描かれています。この頃、京都と若狭湾を結ぶ道は敦賀からと小浜からの二つの道があり、一時的には小浜の方が繁盛する時もありました。それは、敦賀が戦火に巻き込まれて、湊が危険であったからです。交通の要所であることは政治的にも重要な土地であることを意味しており、政変の時期には戦乱に巻き込まれ、湊としての発展が何度も阻害されました。その点、小浜は一貫して平穏な町であり、敦賀の港が混乱するたびに、船が小浜に入るようになります。
 港として発展を続けるには政治的に安定していることが前提となりますが、敦賀は海路だけでなく陸路でも要所の地であり、どうしても戦火が及びました。
 
 鎌倉幕府が成立する前、敦賀は平家の知行国でした。そして、平家軍と木曽義仲軍との戦いが敦賀で行われ、敦賀は木曽義仲軍に占領(1182年)されます。さらに、承久の乱(1221年)の軍勢に荒らされ、文永の役(1274年)の頃には異国襲来に備えて越中の武士団が敦賀津の警備に派遣されて来ました(『富山市史』)。
 南北朝の政変の時には、気比弥三郎太夫氏治が三百騎の軍勢で新田義貞を敦賀に迎え入れ(1336年)、翌年にかけて足利尊氏軍と戦い、気比社も含めて敦賀の町は焼き払われました。
 その後、斯波義敏と甲斐常治の戦い(1458年)や応仁の乱(1467年)が起こり、織田信長軍の朝倉討伐のための進攻(1570年、気比社が兵火で焼ける)が続き(1573年、1575年)、関ヶ原の戦いで敦賀城主大谷吉継が戦死し(1600年)敦賀城が焼かれるまで、戦乱が続きました。
 このような戦火の間を縫って、敦賀の廻船業者は事業を継続・拡大してきたのです。

 天野久一郎『敦賀経済発達史』によれば、「蝦夷松前の昆布、鯡、鮭、鱒などの土産が敦賀商人の着目する処となり、応仁、文明の乱の頃には所謂松前貿易が既に開始され平山氏道川ドノカワ氏の先代など敦賀に於ける有力業者として頭角を現わすに至ったものである。/松前貿易開始以前の敦賀に於ける相物アイノモノ (四十物)の移入先は越中、越後沿岸地方から特に塩鱈、塩鯖等多くこの方面から入荷し、江州相物商人の手によって京畿に売り捌かれていたのであるが海運の発達に従って、津軽十三湊が繁昌を示し延いて敦賀との交易が益々盛んに行はるるようになった。」とされています。

 慶長五年の、南部信濃守利直より道川氏に与えられた諸役免許状があります(山口徹『日本近世商業史の研究』)。
「其方船我等領内何れの津へ罷越候共、役儀一切有間敷もの也
  慶長五年七月二日            利直(花押)
   道川三郎左衛門とのへ」
 これによって、既に1600年に、敦賀の道川氏の船が津軽海峡を通って南部藩の湊に入り、荷を運んでいたことが分かります。藩内のどこの湊へも自由に入れ、その上諸役(税)も免除するというのですから、厚い信頼のあった事が窺えます。何年も前からの付き合いなのでしょう。
 津軽海峡まで通過して廻船していたということは、北海道との交易の経験を十分に積んでいたことも分かります。
 道川氏は、元々は越前若狭の領域で塩・相物の買集めをしており、また、気比社の神人かそれに準ずる人でもあり、能登や佐渡ともつながりがあり、次第に持船を蝦夷地にまで進出させたのでしょう。そして、文禄の役(1592年)と慶長の役(1597年)の朝鮮出兵に協力して船を出し、手柄をたてた事から、諸国海路の課役を免除される朱印を賜ったのです。それに、この時期には、秋田から伏見城用の板材を運漕しています。敦賀での住居は、茶町が出来るまでは茶町の西端辺りにあったと推定されます。

 この時期にはまだ、昆布は商品として位置づけられておらず、進物品として僅かな量が入って来ただけのようです。しかも、昆布は京の都で貴族が茶の湯の際に食べたりする以外は、一般的な商品ではなく、やはり神饌として扱われていました。
 気比社の神官平松家に朝倉義景が陣中見舞の礼状を送っています。
「就任陣之儀、蒲穂子竝昆布一折祝着之至候、委細幸乗坊可申候、上々謹言
 十月二十二日               義景 黒印」
 陣中見舞として、蒲鉾と昆布を進物したのでした。
 他にも、松前城主が敦賀船問屋川舟兵太郎に宛てた書状があります。
「尚々任見来、昆布拾駄、御音信計に候、船御下り候に付て大鉄砲送給候。萬々畏入候。(以下略)
 八月十九日            松前志摩守慶廣(花押)
 越後屋兵太郎殿」
 このように、産地からも昆布を進物として礼状に添えて送って来ています。越後屋兵太郎は、道川兵三郎(三郎左衛門)の兄だといわれ、この書状の時期は先の南部利直のものと同じ頃です。

 江戸時代に入り、西廻り航路が開発されるようになると、昆布の移送量が増加し、大坂で昆布が扱われるようになり、昆布が商品として出回ります。