C)昆布加工の町
敦賀に於ける昆布加工のはじまりは、諸文献ともほぼ同じです。
『敦賀市史』・「敦賀における細工昆布は、宝暦年間(1751~64)に、米屋善兵衛によって初めて製造されたと伝えられている。文政七年(1824)この敦賀の細工昆布が小浜藩御用となり、これによって、同年九月に細工昆布仲間の免許があり、同年十月には看板を掲げ営業を始めた。さらにこのころより、福井および越前各藩から、各城下における御口銭免除の得点が与えられた。また、加賀・越中・美濃・尾張・伊勢・近江・山城・若狭など八か国三〇余の城下、ならびに、江戸に支店を設けるなどして、販路を拡張していった。細工昆布の名声が上がるに従い、細工昆布仲間以外にもこれを製造する者が現われたので、文政十三年三月二十九日には、敦賀町奉行からその製造停止の触が流された。しかし、それでもなおやまず、天保二年(1831)二月に、丸屋六兵衛・水口弥五郎・米屋善兵衛・椀屋太兵衛・目薬屋治郎兵衛などの細工昆布仲間が、井川浪人千田半右衛門などの違法な製造に対し、その差し止めを役所に願い出ている。弘化二年(1845)細工昆布仲間から、細工昆布の献上を小浜藩に出願して許され、米屋善兵衛が翌年一月から毎年献上するようになった。/細工昆布の一種と考えられる刻み昆布は、宝暦年間(1751~64)、遅くとも明和年間(1764~72)のころには作り始められたようである。それから三十年ほどのち、伊藤半右衛門が長崎から伝習してきた製法によって、刻み昆布を改良して生産した。これにより、刻み昆布の業者や生産量は次第に増加していった。」
『敦賀市通史』では米屋善兵衛が高木善兵衛となっていますが、内容は同じです(248頁)。
宮下章『海藻』でも、高木善兵衛が宝暦年間に細工昆布の製造を始めたとされています。
『大阪昆布の八十年』には、「小浜と敦賀では寛政三年(1791)ごろ長崎から製造を伝承し、」とあります。また、同書には、昭和24、5年ごろから堺の職人が敦賀へ移動して行った、とあります。
敦賀の細工昆布のはじまりが諸書で一致しているのは、元になっている資料が同じで、一つしかないからでしょう。その古文書は次のものです。
「乍恐口上書ヲ以奉願上候
一御免御用細工昆布屋仲間之儀ハ、去ル文政七甲申八月従御上様細工昆布御用□仰付難有、早速奉調達候所、追々御用□□□□誠ニ冥加身ニ余り難有仕合と奉恐入候、□□□□御奉行様江願書ヲ以細工昆布屋□□□□儀願出候処御聞済被為有、同九月四日ニ奉蒙御免許、同十月五日ニ屋根看板御免被為下置候、尚此上諸国江広ク売捌敦賀産物ニ可相成様被為仰付候、夫より仲間一統相励、広ク売捌渡世仕候折から、所々ニ昆布細工仕候者有之ニ付、差留候得共聞入不申ニ付、無処 御上様江御苦労ヲ奉備恐入候、文政十三庚寅三月二十九日ニ町内一統御触流被下置難有仕合ニ奉存候、其後も所々ニ細工昆布□□□□候者も有之候得共、吟味仕差留申候所、此節一向猥□ニ相成所々ニ細工昆布内職ニ手広ク仕候故、度々差留申処、井川之浪人千田半左衛門と申仁、是悲共内職細工昆布仕差留聞入不申故歟、外々ニも細工昆布内職仕、仲間之差支に相成、甚以因り入申候、然ハ先達而従御上様之厚キ御慈悲ニテ細工昆布屋仲間御免許被為仰付被下置候規矩相立不申、打捨置候而ハ、御上様江奉恐入候事歎ケハ敷奉存候、何卒御憐愍之御慈悲ヲ以町中一統細工昆布職仲間之外不成之趣□□□□出被下置候ハヽ難有仕合ニ可奉存候、
右之趣被為聞召分、御憐愍之御慈悲ヲ以、願之通被為仰付被下置候ハヽ、難有仕合ニ可奉存候、
天保二乙巳年 丸屋六兵衛
十一月 水口弥五郎
米屋善兵衛
椀屋太兵衛
目薬屋治郎兵衛
御奉行所様」
この他には、寛政2年(1790)中山次郎左衛門が福井役所へ赴く際に、勝手吟味役に扇子箱とともに刻み昆布一袋を贈るとか、寛政13年(1801)中山弥七郎が初御目見えのため越前府中へ向かう節に、下役人の勘定元締や道中筋の知人などに刻み昆布を進物として贈るというものがあり、刻み昆布が敦賀の名産品になっていたことが分かります。
社団法人日本昆布協会10周年記念誌『昆布』の福井の項には次のように書かれています。
「豊富に入荷して来る昆布を原料とする加工業が、早くから行われていたのも当然であろう。既に江戸時代末期には、長崎から刻み昆布の製法が伝えられ、敦賀でも製造されていたというが、何といっても京都と古くから往来のみられた敦賀は、早くから諸事、京風、雅(みやび)風が色濃く影響を受けているため、京都の茶道、料理などに喜ばれる菓子昆布、りゅうひ昆布といろいろな昆布加工法が工夫され、独特の製品が創案されて来た。/昭和34~38年ごろには、ドイツ製の優秀な染料が輸入され、敦賀の特産である青染・青板、青刻み昆布などが生産され、大変な隆盛であった。」
敦賀の奇祭「牛腸祭」の献立に昆布があったかどうかを見てみましょう。
嘉永4年(1851)の牛腸番当家諸事帳の献立の中に、「水引こんふ」の名が見えます。そして、御菓子の欄に「昆布二枚敷て」と書いてあります。昆布が使われていたのが分かります。
明治33年(1900)に、敦賀の昆布卸売18軒、小売11軒と記録にあります。大阪の例ですが、明治・大正・昭和の昆布屋の生活実態を描いた小説に、山崎豊子『暖簾』があります。
昭和8年に敦賀昆布商業組合が結成され、昭和17年に福井県昆布工業組合に名称変更し、昭和19年には福井県昆布工業統制組合となりました。そして、昭和24年に福井県昆布商工業協同組合が設立されます。
この頃から、昆布加工全国一の町を誇っていた堺の業界が税金攻勢をうけて凋落し、この年に40数軒の業者が一度に廃業することもあり、職人の多くが敦賀に移動してきました。昭和34年には敦賀の加工業者は82軒、機械とろろ業者4軒、昆布従事者580名となり、年間生産高は50万貫(2千トン)でした。昭和38年9月には、敦賀若海会が設立されました。
参考文献
『敦賀市史』通史編・資料編
『敦賀市通史』
天野久一郎『敦賀経済発達史』
『小浜市史』通史編
網野善彦『日本社会の歴史』(中)
『箱館市史』
『富山市史』
社団法人日本昆布協会十周年記念誌『昆布』
大阪昆布商工同業会『大阪昆布の八〇年』
大石圭一編『海藻の科学』
宮下章『海藻』
高鋭一編『日本製品圖説』
大林雄也『大日本産業事蹟』
塩照夫『昆布を運んだ北前船』
山口徹『日本近世商業史の研究』
吉田伸之・高村直助編『商人と流通』
読売新聞北陸支社編『日本海こんぶロード北前船』
他。