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後醍醐の昆布 その5

2021年01月27日 | 小説

 弘安六年(一二八三)には、天皇家の巨大荘園の一つである八条院領を持っていた安嘉門院が、相続人を指定しないで亡くなった。すぐさま亀山院が鎌倉へ使者を送り、安嘉門院領を相続したいと申し入れると、すんなりと認められた。更に亀山院は、生後一年半の後宇多天皇の皇子を親王とし、自分の直系で皇位を継承させようとした。

 後宇多天皇は後に嵯峨の大覚寺を再興し、大覚寺殿と呼ばれ、子孫も大覚寺と深い関係にあった。それで、この亀山院の系統を大覚寺統という。

 天皇家の分裂は、それに従う公家の分裂でもある。幕府は中立の立場であるから、亀山院の系統だけが優遇されるのに危惧する公家からの上申を聞き入れ、後宇多天皇を廃し、後深草上皇の息子を皇位に就かせ、伏見天皇とした。弘安十年(一二八七)の事である。

 その翌年に生まれた伏見天皇の皇子を、早くも次の年に皇太子に立てた。亀山院がしたように、後深草院も自分の直系で皇位を独占しようとしたのである。

 そしてそれは実現された。永仁六年(一二九八)に、皇太子胤仁親王が後伏見天皇となったのである。

 伏見上皇や子孫は持明院の御所に住んだので、後深草院の系統を持明院統という。

 皇位を兄弟二系統の家で奪い合い、領地・財産も二分され、幕府も両統迭立を天皇家操作の基本として取り入れると、分裂で生じた系統でさらに分裂が生まれる。

 その後の皇位を見ると、持明院統の後伏見天皇の次は大覚寺統の後二条天皇で、これは後醍醐の兄である。次は持明院統に戻って後伏見の弟の花園天皇。そして次が、大覚寺統の後醍醐天皇となる。

 その間、八条院領は大覚寺統に、長講堂領は持明院統に受け継がれたが、別に室町院疇子の所有する室町院領があり、室町院は正安二年(一三〇〇)に遺領を指定せずに死んでしまった。幕府は、室町院の生前の事情を考慮して、この室町院領を、亀山と後深草の兄弟である宗尊親王の娘、瑞子に伝えると決定した。

 ところが亀山院は、この傍系の姫君を准三宮にして永嘉門院という女院号を与え、後宇多上皇の妃にした。もちろん、室町院領を大覚寺統に取り込むためである。

 当然ながら、持明院統からの異議が幕府に申し立てられた。

 幕府は折衷案を出し、室町院領を両統で折半する事となった。

 後醍醐天皇は、このように半分の室町院領を受け継いだのである。

 

 三十代で天皇となった後醍醐は、天皇家の衰退が二家分立にあり、財産分割が天皇家を一つに集中させない原因だと考えた。遅れて天皇となった後醍醐には、それだけの思慮が備わっていた。後醍醐に皇位を譲る前、花園天皇は日記に「東宮(後醍醐)は和漢の才を兼ね、年歯父の如し」と書いている。この時、花園天皇は二十歳であった。二十歳の天皇が後醍醐へ譲位したのである。

 大覚寺統の惣領であった後宇多法皇から惣領を引き継いだ後醍醐天皇は、持明院統と折半となった室町院領を取り戻そうとした。元享三年(一三二三)に永嘉門院の名で、正安四年(一三〇二)の室町院領折半の決定は不当であると幕府へ言上したのである。