二、後醍醐の執念
後醍醐天皇の政権への執念は凄まじいものであった。
後醍醐は正応元年(一二八八)に生まれたが、皇太子となったのは延慶元年(一三〇八)と遅く、既に二十一歳になっていた。そして更に十年を待ち、三十一歳で漸く天皇の位に就くことが出来た。しかし父である後宇多上皇の院政が続いており、後醍醐が実施的に天皇家(大覚寺統)の惣領となったのは元享元年(一三二一)、三十四歳の時だった。
その頃天皇家は、大覚寺統と持明院統の二つに分裂していた。この天皇系の分裂は政治的な分裂ではなく、経済的な分裂に基づくものだった。
天皇家は日本最大の領地を所有するが故に、天皇の地位を一家で独占し続けて来た。摂政・関白などに実質的な政権を奪われた時にも、天皇家の経済的な地盤は揺るがずに受け継がれて来たのだが、領地・財産は天皇家の独身の皇女に次々と伝えられる形式を取り、天皇が直接に所有関係の前面に立つことはなかった。これは、天皇の在位期間が短期であり、しかも天皇は嫡流一系に引き継がれるのでもないから、天皇位と天皇家の領地・財産とは別物となっている事と、政治的な絡みで財産が分散されるのを防ぐためだろうと思われる。
つまり、天皇家には家長権と言うべき、当時の言葉で惣領の地位が主軸にあり、一方には官職としての形式的な天皇の位があって、天皇家の実権は惣領によって受け継がれて来たのである。
これを実際に、後醍醐へと連なる系譜を見れば分かり易い。
第七十二代白河天皇から、天皇家分裂の切っ掛けとなる第八十八代後嵯峨天皇まで、天皇は十七人もいるが、惣領は八人である。中には後高倉院のように、天皇位に就かずに惣領となった者までいる。惣領の地位は天皇位よりも長く、政治的実権の伴わない天皇位よりも、家督権を持つ惣領の方が重要であった。
後嵯峨上皇は天皇在位の初めから惣領の地位に就き、三十一年余りもその地位にあったが、死に臨んで荘園の一部については譲状をしたためたものの、次の惣領については鎌倉幕府に委ねて死去してしまった。そしてここに天皇家の本格的な分裂が始まったのである。
惣領の地位を継ぐのは後深草上皇か、それとも亀山天皇か。二人はともに後嵯峨の息子である。
幕府は、故法皇の中宮(先の二人の母)であった大宮院姑子の証言により、亀山天皇を惣領と決めた。
しかし、天皇家の所有する荘園群の内でも最大級のものの一つに長講堂領があり、それは後深草上皇の手にあったのである。
長講堂領とは、後白河法皇が自分の法華長講弥陀三昧堂に多くの荘園を寄進して築いた荘園領地で、法皇の皇女宣陽門院が十三歳で譲り受け、七十二歳の死まで守った。そして宣陽門院の猶子となった後深草天皇に引き継がれたのである。
このように天皇家の荘園は、名義上はほとんど女院領や寺院領となっているが、統括の権限は天皇家の惣領にある。
亀山天皇は文永十一年(一二七四)に皇位を息子の後宇多天皇に譲った。