ゆるこだわりズム。

ゆる~くこだわる趣味・生活

後醍醐の昆布 その4

2021年01月26日 | 小説

 

  二、後醍醐の執念

 

 後醍醐天皇の政権への執念は凄まじいものであった。

 後醍醐は正応元年(一二八八)に生まれたが、皇太子となったのは延慶元年(一三〇八)と遅く、既に二十一歳になっていた。そして更に十年を待ち、三十一歳で漸く天皇の位に就くことが出来た。しかし父である後宇多上皇の院政が続いており、後醍醐が実施的に天皇家(大覚寺統)の惣領となったのは元享元年(一三二一)、三十四歳の時だった。

 その頃天皇家は、大覚寺統と持明院統の二つに分裂していた。この天皇系の分裂は政治的な分裂ではなく、経済的な分裂に基づくものだった。

 天皇家は日本最大の領地を所有するが故に、天皇の地位を一家で独占し続けて来た。摂政・関白などに実質的な政権を奪われた時にも、天皇家の経済的な地盤は揺るがずに受け継がれて来たのだが、領地・財産は天皇家の独身の皇女に次々と伝えられる形式を取り、天皇が直接に所有関係の前面に立つことはなかった。これは、天皇の在位期間が短期であり、しかも天皇は嫡流一系に引き継がれるのでもないから、天皇位と天皇家の領地・財産とは別物となっている事と、政治的な絡みで財産が分散されるのを防ぐためだろうと思われる。

 つまり、天皇家には家長権と言うべき、当時の言葉で惣領の地位が主軸にあり、一方には官職としての形式的な天皇の位があって、天皇家の実権は惣領によって受け継がれて来たのである。

 これを実際に、後醍醐へと連なる系譜を見れば分かり易い。

 第七十二代白河天皇から、天皇家分裂の切っ掛けとなる第八十八代後嵯峨天皇まで、天皇は十七人もいるが、惣領は八人である。中には後高倉院のように、天皇位に就かずに惣領となった者までいる。惣領の地位は天皇位よりも長く、政治的実権の伴わない天皇位よりも、家督権を持つ惣領の方が重要であった。

 後嵯峨上皇は天皇在位の初めから惣領の地位に就き、三十一年余りもその地位にあったが、死に臨んで荘園の一部については譲状をしたためたものの、次の惣領については鎌倉幕府に委ねて死去してしまった。そしてここに天皇家の本格的な分裂が始まったのである。

 惣領の地位を継ぐのは後深草上皇か、それとも亀山天皇か。二人はともに後嵯峨の息子である。

 幕府は、故法皇の中宮(先の二人の母)であった大宮院姑子の証言により、亀山天皇を惣領と決めた。

 しかし、天皇家の所有する荘園群の内でも最大級のものの一つに長講堂領があり、それは後深草上皇の手にあったのである。

 長講堂領とは、後白河法皇が自分の法華長講弥陀三昧堂に多くの荘園を寄進して築いた荘園領地で、法皇の皇女宣陽門院が十三歳で譲り受け、七十二歳の死まで守った。そして宣陽門院の猶子となった後深草天皇に引き継がれたのである。

 このように天皇家の荘園は、名義上はほとんど女院領や寺院領となっているが、統括の権限は天皇家の惣領にある。

 亀山天皇は文永十一年(一二七四)に皇位を息子の後宇多天皇に譲った。

 


後醍醐の昆布 その3

2021年01月25日 | 小説

「見えたか?」

 文観の座るのも待たずに後醍醐は訊いた。

「はい‥‥」

 文観の鋭い眼光に自信のほどが表れている。

「それで、我の取るべき道とは?」

 籠城を続けるのか、それとも還幸か。

「御還幸を致されるべしと‥‥」

 口に出すまでもなく主上は既に心得ているとの確信がありながら、文観はそれでも厳かに奏上した。主上が求めているのは文観の意見ではない。主上の胸中にある思いを表に出す形式が必要となっており、言上げの装置としての文観の存在が重要なのである。

「ふむ。やはりそうか。それで、義貞めにはどうせよと?」

 還幸となると問題は、義貞への対処となる。

「義貞には伏せて行うようにと‥‥」

 義貞には内密に進めよと文観は言う。叡山の陣は広いが、天皇が動けば隠せるものではない。

「朕の輿を出せば、義貞にも知れようぞ」

 逃げ落ちるのではないから、輿に乗って供奉を従え、堂々と京へ入らなければならない。そうなれば、いかに疎い義貞と雖も、やはり気づくだろう。

「それについても、良い手が‥‥」

 文観は後醍醐の危惧を予想していたように、痩せた首を少しばかり前へ突き出した。

「ほう。良い手とは何じゃ?」

 勿体ぶった文観の言い様には慣れているので、後醍醐は焦ることなく文観の次の言葉を促した。

「恒良(つねよし)親王を義貞につけて、越前の敦賀へ‥‥」

やはり敦賀か、と後醍醐は思ったが、それは口に出さなかった。

「ふむ。それだけで義貞が納得すると出たのか?」

 皇子を大将につけて各地へ遣るのは常套手段となっている。皇子は人質であり、大将への信頼の証となる。天台へ入れた皇子は別としても、すでに義良(のりよし)親王を北畠親房父子に預けて陸奥へ送り、成良(なりよし)親王も一時は尊氏の弟直義(ただよし)が鎌倉へ連れて行っていた。

 恒良を義貞に渡したとしても、それで義貞が後醍醐の還幸を認めるとは思えない。天皇のために戦うとの、義貞の面目が失われるのに違いはないのだから。

「そこで、この際、春宮(とうぐう)践祚の儀を‥‥」

 文観の口元が僅かに歪んだ。

「ふーむ。その手を使うか」

 後醍醐は鋭い眼差しを文観に向けたが、表情には微かな笑みが浮かんでいた。

 これは、偽りの譲位をするという意味なのである。譲位をすれば、皇太子である春宮の恒良が天皇となる。そうすれば、義貞は天皇を奉じて北国へ向かう事になる。神器は常に偽物を用意してあるから、それを持たせれば義貞は信じるはずだ。随分と甘く見られた義貞であるが、負け戦ばかりで信用を失っていただけではなく、特に武士を下に見ようとする後醍醐の鬱屈した心情を、文観は心得ていたのだ。

「さらに、尊良(たかよし)親王も義貞につけます。春宮はまだお若いので、尊良殿に大事なお役目を任したく‥‥」

 後醍醐には子を産ませた妃だけでも二十人おり、男女あわせて三十六人の子があった。恒良は義良・成良と共に寵妃廉子(れんし)の子であるが、その中の長子の恒良でさえ十三歳と、まだ一人前ではない。尊良は恒良の異腹の兄であり、本来なら一宮である尊良が皇太子となっているはずだが、後醍醐は廉子の子を世継ぎにと決めていた。尊良の母は歌人御子左為世(御子左家の二条為世)の娘為子で、簾子は阿野公廉(あのさねかど)の娘で洞院公賢(とういんきんかた)の養女である。

「尊良に役目とは、何事じゃ?」

「実は‥‥」

 後醍醐と文観の密談は、叡山の夜が更けても長々と続いた。

 


後醍醐の昆布 その2

2021年01月24日 | 小説

 しかし、問題は二つある。

 隠岐へ流されても脱出して戻り、鎌倉幕府を倒して天皇自らの政権を打ち立て、尊氏の官位を剥奪して朝敵の罪名を被せた自分を、尊氏はどんな処遇で迎えるのかが一つ。

 次に、京へ帰るのを義貞にどう告げるのかが一つ。それを義貞が知ればどんな事態になるのか不安である。短慮で義憤に走る義貞の事だから、天皇が義貞を見放せば義貞の方が朝敵になり、その場で自分の腹を掻き切るかも知れない。それだけで済めば良いのだが、後醍醐憎しと逆上し、いきなり斬りかかって来て殺されることも有りうる。義貞への対処の方が難しいと、後醍醐は悩んだ。

 夜を待って、後醍醐は文観(もんかん)を呼び寄せた。対等な相談相手としては、この真言密教僧しかいない。

 文観は五鈷杵を手にして後醍醐の前に座した。

 後醍醐は文観を深く信頼している。文観を東寺の一長者に任じたのも、文観を使って僧界を支配するためである。それは、文観の真言立川流こそが天皇家の神祇や呪法と合致するからである。亀山・後宇多も共に真言密教の信奉者だったが、後醍醐の人格はそれを更に深く極めさせたものだったのだ。

 後醍醐は、文観に尊氏からの申し入れを聞かせた。

「うーむ」

 文観は苦戦の最中であるにもかかわらず、精力漲る顔色で考え込んだ。

「尊氏の本心はどうじゃ。我(わ)は首をはねられるかの?」

 後醍醐は文観の考えを探った。

「天皇の首をはねる者など、この世にはおりませぬ。護良(もりよし)親王殿は誅殺されましたが、尊氏とて主上のお命までは奪いますまい。拙僧はまた硫黄ヶ島へ流されましょうが、ご心配には及びませぬ」

 文観は後醍醐の命で鎌倉幕府調伏の祈祷を修した罪で硫黄ヶ島へ流され、後醍醐の政権奪取によって呼び戻されたのである。後醍醐は、幕府を倒せたのは自分と文観の呪力によるものと信じていた。

「ふむ。貴僧の呪法で、また何とかなるか?」

 後醍醐の問いに、文観は微かに頷いた。

「危惧あるとすれば、義貞の方かと‥‥」

 文観も同じ事を心配している。

「それで?」

 ここからが肝心だ。

 文観は後醍醐にも似た大きな鋭い眼をゆっくりと閉じ、暫し無言の後に眼を開いた。しかし、直ぐには答えが出ないらしい。

「拙僧はこれより、御本尊にお伺い申して参る。御免」

 文観は別室へ下がった。御本尊である髑髏の前で、荼吉尼天法や大聖歓喜天法を行うのである。

 これらの供養法は後醍醐も修しているが、今宵は文観にまかせようと思う。法力では文観にかなわないというのではなく、日本の神を受け継ぐ天皇家の惣領であると共に、文観から授かった真言密教立川流の呪法との合力により、神功皇后以上の法力を備えていると自負する後醍醐ではあるが、今は目立つ動きは控えなければならないのだ。

 

 夜が明ける頃に文観が戻って来た。修法の疲れが表情に浮かんで見える。


後醍醐の昆布 その1

2021年01月23日 | 小説

 

  一、京への還幸を画す

 

 延元元年(一三三六)五月、後醍醐(ごだいご)天皇は再び比叡山へ逃げ込んだ。

 そして直ちに京を奪回せんと、新田義貞(よしさだ)を大将として攻め込ませたが、二度も三度も敗れて逃げ戻るばかり。しかも糧道を絶たれており、約束した南都の援軍も足利尊氏(たかうじ)の奸計で寝がえり、官軍・山門共に飢えを凌ぐ毎日となった。

 そこへ窮状を見透かしたかのように、尊氏からの甘い誘いが後醍醐のもとへ届いた。

 尊氏は、自分の敵は義貞だけで、天皇である後醍醐に弓引く気は毛頭無く、後醍醐が京へ還幸してくれれば供奉の公家や降参の武士は無罪とし、本官・本領に復すとした。更には、天下の成敗を公家に任すとまで伝えて来たのである。

 尊氏の余りにも低姿勢の申し入れを、後醍醐は当然疑った。

 しかし、尊氏の本心がどれ程であろうとも、捕らえられていきなり殺される事は無いと思える。先に後醍醐方が光厳天皇や上皇を捕らえた時にも殺しはしなかったし、光厳天皇は尊氏のもとで返り咲いて、次の持明院統の天皇へ譲位も済ませている。

 このまま叡山に籠城するのではあまりにも策がない。それに貞義の器量では尊氏に勝てないだろう。降参して無様に捕まるよりは、還幸として京に戻る方がまだ先が有りそうだ。

 後醍醐は、義貞と命運を共にする気は更々なかった。元はと言えば、尊氏が西上中で手薄となった鎌倉を攻めた卑怯者ではないか。それが、一時の勝ちを驕って武士の棟梁に成り上がろうと欲し、尊氏との争いとなった。自分はそれに巻き込まれたようなものだと、後醍醐は自分勝手にそう思った。

 戦は運だと義貞はいつも言う。それならば、これだけ負け続けている義貞に運は無い。そんな運の無い男に、天皇たる自分がいつまでも付いている訳にはいかない。天がそう告げているから、尊氏からの誘いもあるのだと後醍醐は肝を決めた。

 


昆布ロードと敦賀 その10

2021年01月22日 | 敦賀史

 

C)昆布加工の町

 敦賀に於ける昆布加工のはじまりは、諸文献ともほぼ同じです。
 『敦賀市史』・「敦賀における細工昆布は、宝暦年間(1751~64)に、米屋善兵衛によって初めて製造されたと伝えられている。文政七年(1824)この敦賀の細工昆布が小浜藩御用となり、これによって、同年九月に細工昆布仲間の免許があり、同年十月には看板を掲げ営業を始めた。さらにこのころより、福井および越前各藩から、各城下における御口銭免除の得点が与えられた。また、加賀・越中・美濃・尾張・伊勢・近江・山城・若狭など八か国三〇余の城下、ならびに、江戸に支店を設けるなどして、販路を拡張していった。細工昆布の名声が上がるに従い、細工昆布仲間以外にもこれを製造する者が現われたので、文政十三年三月二十九日には、敦賀町奉行からその製造停止の触が流された。しかし、それでもなおやまず、天保二年(1831)二月に、丸屋六兵衛・水口弥五郎・米屋善兵衛・椀屋太兵衛・目薬屋治郎兵衛などの細工昆布仲間が、井川浪人千田半右衛門などの違法な製造に対し、その差し止めを役所に願い出ている。弘化二年(1845)細工昆布仲間から、細工昆布の献上を小浜藩に出願して許され、米屋善兵衛が翌年一月から毎年献上するようになった。/細工昆布の一種と考えられる刻み昆布は、宝暦年間(1751~64)、遅くとも明和年間(1764~72)のころには作り始められたようである。それから三十年ほどのち、伊藤半右衛門が長崎から伝習してきた製法によって、刻み昆布を改良して生産した。これにより、刻み昆布の業者や生産量は次第に増加していった。」

 『敦賀市通史』では米屋善兵衛が高木善兵衛となっていますが、内容は同じです(248頁)。
 宮下章『海藻』でも、高木善兵衛が宝暦年間に細工昆布の製造を始めたとされています。
 『大阪昆布の八十年』には、「小浜と敦賀では寛政三年(1791)ごろ長崎から製造を伝承し、」とあります。また、同書には、昭和24、5年ごろから堺の職人が敦賀へ移動して行った、とあります。

 敦賀の細工昆布のはじまりが諸書で一致しているのは、元になっている資料が同じで、一つしかないからでしょう。その古文書は次のものです。
「乍恐口上書ヲ以奉願上候
一御免御用細工昆布屋仲間之儀ハ、去ル文政七甲申八月従御上様細工昆布御用□仰付難有、早速奉調達候所、追々御用□□□□誠ニ冥加身ニ余り難有仕合と奉恐入候、□□□□御奉行様江願書ヲ以細工昆布屋□□□□儀願出候処御聞済被為有、同九月四日ニ奉蒙御免許、同十月五日ニ屋根看板御免被為下置候、尚此上諸国江広ク売捌敦賀産物ニ可相成様被為仰付候、夫より仲間一統相励、広ク売捌渡世仕候折から、所々ニ昆布細工仕候者有之ニ付、差留候得共聞入不申ニ付、無処 御上様江御苦労ヲ奉備恐入候、文政十三庚寅三月二十九日ニ町内一統御触流被下置難有仕合ニ奉存候、其後も所々ニ細工昆布□□□□候者も有之候得共、吟味仕差留申候所、此節一向猥□ニ相成所々ニ細工昆布内職ニ手広ク仕候故、度々差留申処、井川之浪人千田半左衛門と申仁、是悲共内職細工昆布仕差留聞入不申故歟、外々ニも細工昆布内職仕、仲間之差支に相成、甚以因り入申候、然ハ先達而従御上様之厚キ御慈悲ニテ細工昆布屋仲間御免許被為仰付被下置候規矩相立不申、打捨置候而ハ、御上様江奉恐入候事歎ケハ敷奉存候、何卒御憐愍之御慈悲ヲ以町中一統細工昆布職仲間之外不成之趣□□□□出被下置候ハヽ難有仕合ニ可奉存候、
右之趣被為聞召分、御憐愍之御慈悲ヲ以、願之通被為仰付被下置候ハヽ、難有仕合ニ可奉存候、
   天保二乙巳年        丸屋六兵衛
       十一月       水口弥五郎
                 米屋善兵衛
                 椀屋太兵衛
                 目薬屋治郎兵衛
 御奉行所様」

 この他には、寛政2年(1790)中山次郎左衛門が福井役所へ赴く際に、勝手吟味役に扇子箱とともに刻み昆布一袋を贈るとか、寛政13年(1801)中山弥七郎が初御目見えのため越前府中へ向かう節に、下役人の勘定元締や道中筋の知人などに刻み昆布を進物として贈るというものがあり、刻み昆布が敦賀の名産品になっていたことが分かります。

 社団法人日本昆布協会10周年記念誌『昆布』の福井の項には次のように書かれています。
「豊富に入荷して来る昆布を原料とする加工業が、早くから行われていたのも当然であろう。既に江戸時代末期には、長崎から刻み昆布の製法が伝えられ、敦賀でも製造されていたというが、何といっても京都と古くから往来のみられた敦賀は、早くから諸事、京風、雅(みやび)風が色濃く影響を受けているため、京都の茶道、料理などに喜ばれる菓子昆布、りゅうひ昆布といろいろな昆布加工法が工夫され、独特の製品が創案されて来た。/昭和34~38年ごろには、ドイツ製の優秀な染料が輸入され、敦賀の特産である青染・青板、青刻み昆布などが生産され、大変な隆盛であった。」

 敦賀の奇祭「牛腸祭」の献立に昆布があったかどうかを見てみましょう。
 嘉永4年(1851)の牛腸番当家諸事帳の献立の中に、「水引こんふ」の名が見えます。そして、御菓子の欄に「昆布二枚敷て」と書いてあります。昆布が使われていたのが分かります。

 明治33年(1900)に、敦賀の昆布卸売18軒、小売11軒と記録にあります。大阪の例ですが、明治・大正・昭和の昆布屋の生活実態を描いた小説に、山崎豊子『暖簾』があります。

 昭和8年に敦賀昆布商業組合が結成され、昭和17年に福井県昆布工業組合に名称変更し、昭和19年には福井県昆布工業統制組合となりました。そして、昭和24年に福井県昆布商工業協同組合が設立されます。
 この頃から、昆布加工全国一の町を誇っていた堺の業界が税金攻勢をうけて凋落し、この年に40数軒の業者が一度に廃業することもあり、職人の多くが敦賀に移動してきました。昭和34年には敦賀の加工業者は82軒、機械とろろ業者4軒、昆布従事者580名となり、年間生産高は50万貫(2千トン)でした。昭和38年9月には、敦賀若海会が設立されました。


 参考文献
『敦賀市史』通史編・資料編
『敦賀市通史』
天野久一郎『敦賀経済発達史』
『小浜市史』通史編
網野善彦『日本社会の歴史』(中)
『箱館市史』
『富山市史』
社団法人日本昆布協会十周年記念誌『昆布』
大阪昆布商工同業会『大阪昆布の八〇年』
大石圭一編『海藻の科学』
宮下章『海藻』
高鋭一編『日本製品圖説』
大林雄也『大日本産業事蹟』
塩照夫『昆布を運んだ北前船』
山口徹『日本近世商業史の研究』
吉田伸之・高村直助編『商人と流通』
読売新聞北陸支社編『日本海こんぶロード北前船』
他。