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昆布ロードと敦賀 その2

2021年01月14日 | 敦賀史

 

  1、昆布

A)昆布の産地

 昆布の特色の一つは、その産地が限定されていることです。しかもその地域は、政治的に辺境の地であった、北方に位置しています。したがって、昆布が太古よりその地(海)に繁茂していたとしても、それを採取して利用するようになるのには、その地方への意識的な進出が前提となります。古代には、その地は蝦夷エミシ・エゾの地で、畿内から蝦夷への最初の進出は『日本書紀』の崇峻スシュン天皇の二年(589)に、阿部臣アベノオミ を越コシの国境へ派遣して視察させたとあります。そしてその頃には、北陸沿岸や佐渡の要所に部下を配していたともされます。
 その後、斉明サイメイ天皇の時代に、阿部引田臣比羅夫アベノヒケタノオミヒラフが越国守コシノクニノカミに任じられて、水軍を派遣して越の蝦夷を討ち、更に東北から北海道の蝦夷を征服した(658~660年)と伝えています。しかし、畿内の政権が成立するのは大宝律令の制定(701年)以降のことですから、この時代に北陸の日本海沿岸を支配していたのは、敦賀に根拠を置く角鹿海直ツヌガノアマノアタイの一族でした。水軍を組織できたのも畿内の豪族ではなく、新羅シラギ・シンラ などから一族を引き連れて移住してきた、海に生き、船を操る人々であったはずです。
 新羅からやって来て敦賀(角鹿、thun-ga,tsun-ra)に住み着いた一族のこの時代を、天野久一郎『敦賀経済発達史』(昭和18年)では「天日槍アメノヒボコ植民時代」としています。
 新羅などから一族で渡来してきた指導者については、天日槍の他に都怒我阿羅斯等ツヌガアラシト が有名です。しかしこれらは個人の名前ではなく、天日槍の天は海(どちらもアメ・アマ)のことですから、金属製の武器を装備して海を渡って来た者の総称です。
 都怒我阿羅斯等も別名于斯岐阿利叱智干岐ウシキアリシチカンキと言い、新羅国内の海軍族の一族の長を指し、その一族が角鹿に到着したので都怒我の名を名乗ったのでしょう。敦賀に住み着いたこの一族は、敦賀の地を根拠として日本海沿岸の要津を行き来し、北へは能登・佐渡や、さらに蝦夷地へと、船で進出したことが伝説化し、それを『日本書紀』編纂期(720年)に取り入れられたのです。
 敦賀の海人族が北方へ進出した痕跡は、能登羽咋郡の久麻加布都阿羅加志彦神社や能登郡の加布都彦神社阿羅加志彦神社、鳳至郡の任那彦任那姫神社などに、角額の兜を着た人がやって来た話が伝わっていることで証明されるだろうと、吉田東伍『大日本地名辞書』1860頁にあります。

 昆布の文字が日本の文献にあらわれる最初の記録は『続日本紀ショクニホンギ 』(797年)の中の記録です。そこには霊亀レイキ 元年(715)の記録として、「蝦夷須賀君古麻比留スガノキミコマヒル (蝦夷の族長)等言う。先祖以来、昆布を貢献す。常に此の地に採る。年時、闕カカサ ず」とあります。
 この昆布はホソメコンブ(細布昆布)と言われる種類で、昆布のなかで一番暖かい所を好む種類とされます。北海道南部の箱館(函館)より西の狭い地域で採取されました。この昆布が蝦夷からの貢献品として日本海沿岸を敦賀まで船で運ばれ、山を越えて琵琶湖に出て、水運で琵琶湖を渡り(琵琶湖の水運を制していたのも天日槍系の一族でした)、朝廷へと運ばれたのです。
 これがコンブロードのはじまり(縄紋時代を除いて)です。コンブは、アイヌ語のcombu(水の中の石に生えるもの)を語源とする説が有力ですが、中国では紀元300年頃から昆布の文字が使われています。しかし、中国の「昆布」は海藻全般を含む文字だったようです。
 
 食用の昆布は植物学的には、コンブ目コンブ科コンブ亜科のコンブ属とトロロコンブ属に分類されます。コンブ属にはマコンブ・リシリコンブ・ホソメコンブ・チヂミコンブ・ミツイシコンブ・ナガコンブ・ゴヘイコンブなどがあります。文献の記録として最初にあらわれた昆布がホソメコンブです。
 奈良・平安時代がホソメコンブの時代です。続いて、宇賀コンブの時代になります。
 
 鎌倉時代になると、安東氏が蝦夷地の管領となり(1195年)、松前物産の交易が飛躍的に拡大します。
 宇賀昆布は函館の湯の川温泉あたり、津軽海峡に面した所で採れます。マコンブの中でも最も幅が広く、一番大きい種類です。この昆布の時代が江戸初期まで続きます。そして、箱館近辺や津軽の十三湊トサミナト から、やはり北陸地方を経て敦賀・若狭に運ばれ、昆布の加工も行われるようになりました。
 この時代には、敦賀が戦乱に巻き込まれて、港の機能が停止し、船が小浜に集中するといった事もありました。また、唐船に昆布を売ったという記録(1306年『東日琉ツガル 外三郡誌』)もあります。京都「松前屋」の創業は1392年です。
 
 江戸時代初期に、松前から下関を廻って大坂までの西廻り航路が開かれると、昆布の漁場もさらに東へ進み、元揃モトゾロイ 昆布と三石ミツイシ昆布の時代に入ります。元揃昆布は噴火湾で、三石昆布は日高で採れます。大坂で、昆布の佃煮が開発されました。
 北海道の開拓が襟裳岬を越えて北方に及ぶ幕末になると、長昆布の時代になります。昆布は琉球(沖縄)を経て清国(中国)へ大量に輸出され、函館が開港されると清国の商人が駐留して、直接に中国へ送られました。長昆布は煮食シャクショクに適し、沖縄での昆布食が根付くことになります。
 
 その後、昆布の需要が増え続き、天然のままを採取していたのでは追いつかず、増殖・促成の方法が開発され、中国でも輸入を止めて、昆布を日本に輸出(1972年)するようになりました。