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後醍醐の昆布 その1

2021年01月23日 | 小説

 

  一、京への還幸を画す

 

 延元元年(一三三六)五月、後醍醐(ごだいご)天皇は再び比叡山へ逃げ込んだ。

 そして直ちに京を奪回せんと、新田義貞(よしさだ)を大将として攻め込ませたが、二度も三度も敗れて逃げ戻るばかり。しかも糧道を絶たれており、約束した南都の援軍も足利尊氏(たかうじ)の奸計で寝がえり、官軍・山門共に飢えを凌ぐ毎日となった。

 そこへ窮状を見透かしたかのように、尊氏からの甘い誘いが後醍醐のもとへ届いた。

 尊氏は、自分の敵は義貞だけで、天皇である後醍醐に弓引く気は毛頭無く、後醍醐が京へ還幸してくれれば供奉の公家や降参の武士は無罪とし、本官・本領に復すとした。更には、天下の成敗を公家に任すとまで伝えて来たのである。

 尊氏の余りにも低姿勢の申し入れを、後醍醐は当然疑った。

 しかし、尊氏の本心がどれ程であろうとも、捕らえられていきなり殺される事は無いと思える。先に後醍醐方が光厳天皇や上皇を捕らえた時にも殺しはしなかったし、光厳天皇は尊氏のもとで返り咲いて、次の持明院統の天皇へ譲位も済ませている。

 このまま叡山に籠城するのではあまりにも策がない。それに貞義の器量では尊氏に勝てないだろう。降参して無様に捕まるよりは、還幸として京に戻る方がまだ先が有りそうだ。

 後醍醐は、義貞と命運を共にする気は更々なかった。元はと言えば、尊氏が西上中で手薄となった鎌倉を攻めた卑怯者ではないか。それが、一時の勝ちを驕って武士の棟梁に成り上がろうと欲し、尊氏との争いとなった。自分はそれに巻き込まれたようなものだと、後醍醐は自分勝手にそう思った。

 戦は運だと義貞はいつも言う。それならば、これだけ負け続けている義貞に運は無い。そんな運の無い男に、天皇たる自分がいつまでも付いている訳にはいかない。天がそう告げているから、尊氏からの誘いもあるのだと後醍醐は肝を決めた。