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昆布ロードと敦賀 その3

2021年01月15日 | 敦賀史

 

B)昆布の採取

 昆布の実際の採取の模様を、宇賀昆布(現在の志苔昆布)の採取地で見てみましょう。『函館市史・銭亀沢地区編』を要約します。

 まず、マコンブは採取時期や成長段階、それに生育場所によって細かく分類され、厚さや色沢、泥などの付着物の有無などによって等級分けがされています。
 採取時期と成長段階による分類基準
1、走り昆布  9月までに採ったもので、柔らかいため煮物などの食用に向く。
2、後採り昆布 10月以降に採ったもので、「走り昆布」より色が黒く、厚い。最高のだしがとれ、甘みが強いので伝統的加工品の原料とされる。
3、水昆布  細くて短く薄い一年目のマコンブを呼び、本来は禁漁であるが、二年コンブとともに混獲されたものだけが出荷される。極めて柔らかく食用に最適。「ほそめ」よりも価格が高い。

 生育場所による分類基準
1、岸昆布   海岸線近くの水深約5メートル(3尋)までの浅い岩礁に成育し、「ねじり」と呼ばれる棹先にラセン状の鉄棒が2本ついた漁具で収穫される。色が最も黒いので「黒昆布」、60枚の1束8キログラムを越えるので「8キロ昆布」とも呼ばれる。重量当たりの価格は最も高い。根元の最大幅9センチメートル以上が1等級で、平成8年度の価格はキログラム当たり2、800円であったが生産量は多くない。
2、中間昆布  水深約5メートルから15メートルのやや深い岩礁あるいは礫底に育成するもので、底質が岩礁では「ねじり」、礫では「かぎ」と呼ばれる2本の鉄爪のついたアンカー状のマッケで収穫される。コンブの幅は「岸昆布」よりもやや広いが、厚さと色はより薄い。価格も「岸昆布」よりやや低く、根元の最大幅12センチメートル以上が1等級で、キロ当たり2、700円であった。
3、沖昆布   水深が15メートル以上の深い礫の海底に成育する。もっぱら「かぎ」をロープで引き、海底の礫に成育するコンブを礫ごと引っかけて収穫する。最も幅が広く、生の状態では幅40センチメートル、長さ10メートル以上にも達するが、厚さおよび色はマコンブ中で最も薄い。価格は天然コンブで最も低いが、1本あたりの重量が大きいため、漁獲効率と製品の歩留りが高く、マコンブ生産量の中では最大である。価格は、根元からの最大幅15センチメートル以上が1等級でキログラムあたり2、530円であった。(186頁)

 昆布漁
 コンブ漁に出る資格は、戦後では漁業協同組合に加入していることが条件で、組合員一人あたり一艘の漁船を出すことができる。コンブ漁に直接携わる(コンブをとる漁具を扱う)のは一艘当たり一人に限定されるが、補助する者の乗船は認められている。
 コンブ漁の解禁日は7月20日と定められており、この日をアラキという。アラキが開けてからのコンブ漁はクチアケといい、その日の天候や海の状況をみてクチアケするかどうかを決定した。
 コンブ漁に使用する船は、モジップといわれるイソブネよりも大型の漁船で、これを二人乗りで使用した。昔はモジップもイソブネ同様ムダマの船で、ムダマの口(幅)は四尺から四尺五寸あった。イソブネのムダマは三尺二、三寸のものが多かった。
 最初に「岸コンブ」採り、それから「中間コンブ」を採る。「沖コンブ」は藻体が大きく歩留まりもよいが、広い干場を要し価格も安いため小漁家では採らないことが多い。
 採取したコンブは陸揚げし、その日のうちに砂利を敷き詰めた干場で天日乾燥し、一日で干し上げるのが普通である。干場に敷く小石や砂利はかつて近郊の海岸や河原から人力で運んだものであるが、近年では黒色の採石をトラックで運び、敷き詰める例が多い。これは黒色の石が太陽光線をよく吸収し、コンブの乾燥に優れているためと思われる。
 完全に乾燥したコンブは夕方納屋に取り入れる。これを根元から90センチメートルに切ると「長切り昆布」として出荷できるが、人手の多い漁家では、伝統的な「本場折り昆布」に仕上げる。これは極めて手間のかかる処理で、その工程は15段階以上ともいわれる。(189、263頁)

 ここに出てくるイソブネ(ムダマ)の構造は、出雲から越前海岸辺りで使用された「ソリコ舟」によく似ています。出雲の方からソリコ舟にのって、越前に移住してきた漁民がいて、その集落は「そり子」・「反子」と呼ばれて、先住民とは区別され、漁業権でも差別されたそうです。(谷川健一『古代海人の世界』)
 その他にも、若狭から能登へ移住した例や、立石からの移住もあった事が、同書に岡田孝雄氏の研究を引いて述べられています。若狭や敦賀の立石からの移住がソリコ舟に乗ったものだったかは分かりませんが、越前海岸からは丹後半島がよく見える地勢ですから、その間の若狭や敦賀の漁民もそれほど違った舟に乗っていたとは思えません。
 ソリコ舟は、元来一本の丸木舟だったものを縦に二つに割って切離し、船底に板を挟んだ構造をしています。したがって、丸木舟よりも幅が広く、船底は平たくなっています。ソリコ舟に帆を張って、かなり遠方まで航海ができたと言われます。
 そんなソリコ舟で北上し、蝦夷地まで往来したとしても不思議ではありません。先のムダマ舟がソリコ舟と同じ構造ですから、若狭周辺の漁民・海人から伝わったものかも知れません。
 
 丸木舟が昔からあった事は、三方町の鳥浜貝塚から全長6メートル以上の丸木舟(約5500年前のもの)が発見されていることで証明されています(『日本の古代』第4巻)。縄紋人は丸木舟にのって漁や交易をしていました。
 若狭から越前海岸に沿って能登へ、能登からは佐渡が島がすぐ目の前です。糸魚川辺りでしか採れないヒスイや、北海道の黒曜石が、青森の山内丸山遺跡から出土しています。広い範囲での交易があったと思われます。