B)コンブロードの中核地
先に述べたように、松前の昆布取引は場所請負人によって独占されていました。この場所請負人が自らの手船で荷を運ぶのと、北前船商人が荷を運ぶのとの、二つの形態がありました。先ずは、場所請負人手船について見てみましょう(中西聡「場所請負商人と北前船」、『商人と流通』山川出版社)。
「柏屋は近江国愛知エチ郡下枝村の出身で、寛政11年(1799)に福山に出店を設けて蝦夷地産物の取引を始め、文化3年(1806)に余市場所を請負ったのを初めに、文化・文政期(1804~30) につぎつぎと奥蝦夷地各場所を請負い、天保期(1830~44) には最大の運上金を納める場所請人に成長した。柏屋は近江に本家を構えていたが、両浜組を形成した八幡町・柳川・薩摩村とは出身地が異なるため、北海道への進出も両浜組商人より遅く両浜組に参加しなかった。
柏屋が手船経営を始めた時期は不明だが、弘化四年(1847)には17隻の手船を所有して」いた。
弘化4年柏屋手船運航状況。★は太平洋航路、〔〕は請負場所
住吉丸(敦賀で建造)福山→大坂→福山→兵庫→敦賀→福山→〔国 後〕→福山→兵庫
三宝丸(敦賀で建造)大坂→箱館→大坂→福山→〔利尻〕→福山→ 〔国後〕
常昌丸(大坂で建造)大坂→敦賀→福山→〔国後〕→福山→小樽内 →福山→忍路→福山→兵庫
二見丸(敦賀で建造)〔国後〕★江戸→大坂→敦賀→福山→〔国後〕 →福山→〔宗谷〕→福山→兵庫
これで分かるように、敦賀では造船業も盛んであったようです。
両浜組の住吉屋の場合、西蝦夷にしか請負場所がなかった。「敦賀が主要寄港地であったことは柏屋と同様で、近江出身の場所請負商人にとって、旧来の取引上のつながりや本店との距離の近さからみて、敦賀を運航上の拠点とすることは有利だったのであろう。」
住吉屋手船運航状況
金袋丸(天保14年)大坂→敦賀→福山→〔忍路〕→福山→下関
同 (万延元年)大坂→福山→〔高島〕→福山→敦賀→兵庫→大 坂
同 (明治3年)大阪→敦賀→福山→〔高島〕→福山→上方
「柏屋手船は主に大坂・兵庫・下関で塩を積み入れ、敦賀で筵・縄を積み入れて蝦夷地へ運び、蝦夷地の漁獲物を大坂・兵庫へ運んでいたとまとめることができよう。」(198頁)
このような寄港地が固定している場所請負商人の手船と比べると、北前船商人の船は寄港地が多くて変動しており、取扱い商品の種類も多様でした。
敦賀への着船数を10年毎に一年間平均すると次のようになります。
慶安1(1648)~明暦3(1657) 1、344
万治1(1658)~寛文7(1667) 1、692
寛文8(1668)~延宝5(1677) 1、868
延宝6(1678)~貞享4(1687) 1、251
元禄1(1688)~元禄10(1697) 890
元禄11(1698)~宝永4(1707) 874
宝永5(1708)~享保2(1717) 787
享保3(1718)~享保12(1727) 668(『敦賀市史』)
これを見ると、西廻り航路となって敦賀への寄港が急激に減少しているのが分かります。これは主に、米を積んだ船でした。
『遠眼鏡』(1682年)によれば、松前物問屋として、岐阜屋六兵衛・越後屋市右衛門・網屋傳兵衛の名前があります。そして、昆布屋として、濱嶋寺の市兵衛・太郎兵衛・喜兵衛とあり、昆布屋が濱嶋寺に集まっているのが分かります。
濱嶋寺町の位置は、蓬莱と大島の間辺りになります。『敦賀志』の濱嶋寺町の項に「上嶋寺町の下の浜に建し故の町名なり、支町狐ケ辻子・土器カワラケケ辻子・鵜殿辻子あり」と書かれていて、寺院の多い町で、その中で浄蓮寺の寺地は稲荷明神の社地跡で、当寺はもと樫曲村にあり、その後洲崎に移り、寛文末にこの地に移ったとされます。稲荷社の跡なので狐が出たそうです。
寺院の多い所に昆布屋があるのは、昆布が主に寺院で使用されたからでしょうか? カワラケという地名が気になりますが、その由来は不明です。
安政4年(1854)3月、箱館が開港されて箱館奉行が置かれ、蝦夷地産物は各地の物産会所で統括することになりました。江戸・大坂・兵庫・堺に続き、敦賀にも出張会所が1862年(文久2)に設置されました。文久元年敦賀入津蝦夷地産物箇(本)数は次の通りです(『敦賀市史』)。
鯡 37、073箇
白 子 16、553本
〆 粕 2、744本
身 欠 4、275本
撰数子 997本
棒 鱈 321箇
元揃昆布 1、028箇
平昆布 7、818箇
元揃昆布の1箇は20貫、平昆布の1箇は15貫です。500トン以上の昆布が敦賀に入って来ていたことが分かります。明治3年の日本の昆布総生産が5千トンなので、総生産量の一割以上が敦賀に集まったのです。そして、その昆布は主に、京都方面に送られました。