南新宿に近い古びたビルの二階に酒場・海燕があった。
カウンターだけの小さな店
和服姿の凛とした老婦人がオーナー、いつも一人でカウンター内にいた。
酒はラガーの瓶ビールだけしか置いてなく、
栓は客が自分で抜き、手酌で飲むのが店の流儀。
料理は2~3品を盛り合わせた1皿のみ。
客はレントゲン技師長、外科医、私立探偵、芸能プロダクション社長、
等々が常連で普通のサラリーマンを見かけることはなかった。
カラオケなどあるわけなく、ギターが一つ壁にかけてあった。
いつもギターでつぶやくように"早春賦"を弾き語る男がいた。
夏でも秋でも早春賦を唄う、
春は名のみの風の寒さや・・・
時にあらずと声もたてず
いつの日か表舞台に出るのを夢見て、今はまだ時にあらずと
自身に言い聞かせているかの如く聞こえてならなかった。
今は老婦人もいなくなり、海燕もない。