<上 古代の志太地域の推定図 藤枝市の資料から借用し、加筆>
志太平野にカエルが入ってきたのは、イヤッ=モトイ!!=志太平野に、(カエルの生息環境として好適な)稲作が伝わったのは、全国的に見ても、遅い時期にあたる。
全国的な視点でみると、稲作が伝わったのは志太平野よりも、むしろ日本海方面から青森方面や、信州から関東方面へ伝わった時期のほうが、早かったようだ。
縄文時代の人々も、志太平野では生活がしにくかったように =一時的に滞在したような形跡はあるものの、縄文時代に志太平野で本格的に生活したような形跡がほとんど見つかっていない=、稲作も西からすんなりと志太平野に伝わってきたわけではないようだ。
稲作に伴う土器などは、志太平野を迂回するように、川根の奥の方から先に静岡県東部や伊豆方面に伝来していっているようである。
とにかく、そういう状況の中で、遅ればせながらようやく志太平野に稲作が入ってくるわけであるが、その志太平野で、一番初めに稲作が行われたのが、焼津と岡部の境あたり、朝比奈川と葉梨川の合流点辺りであった。ということである。
それが“清水遺跡”といわれているところである。
下に清水遺跡付近の俯瞰写真を示す。

志太平野に稲作が入ってきた時期は、紀元0年頃、今から約2000年前くらいのことらしい。
どっちから入ってきたかというと、やっぱり焼津の弁天さんの方から、川を遡って入ってきたのではないか、という気がする。

上の写真は、瀬戸川が駿河湾に注ぐ焼津港近く、瀬戸川と朝比奈川合流点付近の写真である。
ここから瀬戸川はぐっと高度を上げてゆく。かなりの急流となってゆく。それに比べて朝比奈川のほうは、殆ど高度を上げない。非常に緩やかな流れである。藤枝市の市街地に入るとその標高差は歴然としてくる。鬼岩寺山を挟んで東側の葉梨川の流れる谷筋と、西側の瀬戸川が流れる谷筋では、標高差が20m~30mくらい生じている。瀬戸川筋のほうがよほど高くなっている。
結局稲作を伝えた初期の人々も、そのことを当然感じたからこそ、流れがきつくない朝比奈川筋~葉梨川筋に入って行ったに違いない。
清水遺跡のあたりは、そういった意味で、初期稲作の民人には一番適地と見えたに違いない。
そしてさらに遡って行き、薮田に行き着いた。<続く>

全国的な視点でみると、稲作が伝わったのは志太平野よりも、むしろ日本海方面から青森方面や、信州から関東方面へ伝わった時期のほうが、早かったようだ。

縄文時代の人々も、志太平野では生活がしにくかったように =一時的に滞在したような形跡はあるものの、縄文時代に志太平野で本格的に生活したような形跡がほとんど見つかっていない=、稲作も西からすんなりと志太平野に伝わってきたわけではないようだ。
稲作に伴う土器などは、志太平野を迂回するように、川根の奥の方から先に静岡県東部や伊豆方面に伝来していっているようである。
とにかく、そういう状況の中で、遅ればせながらようやく志太平野に稲作が入ってくるわけであるが、その志太平野で、一番初めに稲作が行われたのが、焼津と岡部の境あたり、朝比奈川と葉梨川の合流点辺りであった。ということである。

それが“清水遺跡”といわれているところである。
下に清水遺跡付近の俯瞰写真を示す。

志太平野に稲作が入ってきた時期は、紀元0年頃、今から約2000年前くらいのことらしい。

どっちから入ってきたかというと、やっぱり焼津の弁天さんの方から、川を遡って入ってきたのではないか、という気がする。

上の写真は、瀬戸川が駿河湾に注ぐ焼津港近く、瀬戸川と朝比奈川合流点付近の写真である。

ここから瀬戸川はぐっと高度を上げてゆく。かなりの急流となってゆく。それに比べて朝比奈川のほうは、殆ど高度を上げない。非常に緩やかな流れである。藤枝市の市街地に入るとその標高差は歴然としてくる。鬼岩寺山を挟んで東側の葉梨川の流れる谷筋と、西側の瀬戸川が流れる谷筋では、標高差が20m~30mくらい生じている。瀬戸川筋のほうがよほど高くなっている。

結局稲作を伝えた初期の人々も、そのことを当然感じたからこそ、流れがきつくない朝比奈川筋~葉梨川筋に入って行ったに違いない。
清水遺跡のあたりは、そういった意味で、初期稲作の民人には一番適地と見えたに違いない。
そしてさらに遡って行き、薮田に行き着いた。<続く>