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田舎はよろし

本当に田舎暮らしが良い。お日様に合わせ、日がな一日中暮らす。気ままなものだ、

弁天さんに魅せられて<5>

2007-10-31 21:05:51 | 歴史
 <上 古代の志太地域の推定図 藤枝市の資料から借用し、加筆>

志太平野にカエルが入ってきたのは、イヤッ=モトイ!!=志太平野に、(カエルの生息環境として好適な)稲作が伝わったのは、全国的に見ても、遅い時期にあたる。

 全国的な視点でみると、稲作が伝わったのは志太平野よりも、むしろ日本海方面から青森方面や、信州から関東方面へ伝わった時期のほうが、早かったようだ。

 縄文時代の人々も、志太平野では生活がしにくかったように =一時的に滞在したような形跡はあるものの、縄文時代に志太平野で本格的に生活したような形跡がほとんど見つかっていない=、稲作も西からすんなりと志太平野に伝わってきたわけではないようだ。

 稲作に伴う土器などは、志太平野を迂回するように、川根の奥の方から先に静岡県東部や伊豆方面に伝来していっているようである。

 とにかく、そういう状況の中で、遅ればせながらようやく志太平野に稲作が入ってくるわけであるが、その志太平野で、一番初めに稲作が行われたのが、焼津と岡部の境あたり、朝比奈川と葉梨川の合流点辺りであった。ということである。

 それが“清水遺跡”といわれているところである。

下に清水遺跡付近の俯瞰写真を示す。



 志太平野に稲作が入ってきた時期は、紀元0年頃、今から約2000年前くらいのことらしい。

 どっちから入ってきたかというと、やっぱり焼津の弁天さんの方から、川を遡って入ってきたのではないか、という気がする。



上の写真は、瀬戸川が駿河湾に注ぐ焼津港近く、瀬戸川と朝比奈川合流点付近の写真である。

 ここから瀬戸川はぐっと高度を上げてゆく。かなりの急流となってゆく。それに比べて朝比奈川のほうは、殆ど高度を上げない。非常に緩やかな流れである。藤枝市の市街地に入るとその標高差は歴然としてくる。鬼岩寺山を挟んで東側の葉梨川の流れる谷筋と、西側の瀬戸川が流れる谷筋では、標高差が20m~30mくらい生じている。瀬戸川筋のほうがよほど高くなっている。

 結局稲作を伝えた初期の人々も、そのことを当然感じたからこそ、流れがきつくない朝比奈川筋~葉梨川筋に入って行ったに違いない。

 清水遺跡のあたりは、そういった意味で、初期稲作の民人には一番適地と見えたに違いない。

 そしてさらに遡って行き、薮田に行き着いた。<続く>

弁天さんに魅せられて<4>

2007-10-30 22:16:09 | 歴史
 弁天さんは瀬戸川河口にある。一方、お高嶺(たかね)さんは、藤枝市の最高峰で、藤枝市の一番奥にある。位置から言うと、上の図のような関係になる。

 瀬戸川は、そのお高嶺さんの源流部から発生し、志太平野を流れ下って
駿河湾に至る。
写真で見ると下のような風景になる。



距離にすればせいぜい20kmもあるだろうか。

お高嶺さんは高くて平べったくて、目立つ山だから、太古の人々の絶好の目印の山となったに違いない。

 志太平野に入ってきて、最初に稲作を始めた人々は上の図の清水遺跡と言うところに住み着いた。瀬戸川筋ではなく、支流筋にあたる朝比奈川と葉梨川の合流点付近である。

 それから前後して、次に人々が稲作を始めたのはやはり瀬戸川筋ではなく、葉梨川の上流部にあたる薮田遺跡付近だった。

 これは何を意味しているのだろうか。
 (次回へ続く)

田舎もんのひさかた上京

2007-10-29 21:15:05 | 自然を感じて


 この土日、東京の大学に通う長女の引越しで、久しぶりに上京した。

 日曜日は台風一過、朝から爽やかな秋晴れだった。多摩川にかかる“まるこばし”界隈もご覧のとおり、朝からスポーツに親しむ人々が大勢出ていた。

 渋谷などの繁華街に行くと、田舎もんの自分たちは、湧くようにあふれ出てくる人波に、毒気を抜かれてしまう。
 ある種の新鮮な感動をまず、覚える。

 どこにこんなに大勢の人々が居るのか。その人々の群れが止むことなく無数のあふれ出る銀河星雲のようにいずこからか現れて、あちこちに群れをつくり、いずこかへ流れ去ってゆく。絶えることなく繰り返す人の渦。

 その人波にもまれながら、自分たちも酔ったようにその流れに身を任せて、人ごみの一員と成りきる。熱に浮かされた夢遊病者のように、足が地についていないような不思議な高揚感…

 たまに出かける大都会が好きなのは、そんな高揚感に浸れるからなのかな、と自己心理を分析する。

 なに、ただ単に、お祭りが好きなミーハーだけなんだよ、と言われれば、そうなんだろうね、きっと。

 都会に出かけたときに、必ず感じる便利さ、華やかさ。手に取るように身近に転がるさまざまな、麻薬のような快適さ、また便益。

 人々が都会に集まるわけが分かるような気がする。都会の持つ強烈な吸引力。

 一方、残念ながら、その裏返しとして、田舎がさびれるわけが…

 多摩川の自然の中でアウトドアスポーツを楽しんでいた人々の数も、絶対数からすれば、繁華街にあふれ出てくる人々の数からすれば、物の数ではない。
 田舎対都会は、言い換えれば自然対都会である。
 都会には、田舎(自然)にはない人を惹きつけて止まない魔力(魅力)がある。

 私でさえ、先祖伝来の田舎生まれの長男でなければ、田舎を捨てて都会で暮らす一員になっていたかもしれない、という気が、冗談ではなく、する。

 私の長女は、既に都会の毒に染まっていて、帰る気はないということを平気で言う。就職は絶対東京でするからね、だと。

 田舎で就職し、結婚して、早く親に孫の顔を見せてくれ、などという、親が理想とする妄想などは、かけらも考えていない。

 父は、複雑だ。 

 それでも、遠い将来には、静岡に帰って、川根のような田舎で暮らすのも良いね、と言ってくれたのが、何となくホッとする一言だった。


弁天さんに魅せられて<3>

2007-10-26 22:12:27 | 歴史
  <上の写真は焼津の弁天さん(宗像神社)だよ>
 私の住む藤枝市や隣の焼津市のあるところは、通称志太地域といわれるところである。
 万葉集などで、「志太浦」と言われる地名がでてくるように、もともと沼沢地が多かったようだ。

 ただ、どうした訳か、この志太地域には、他所の地域に比べると、縄文時代の痕跡が非常に少ない。住んでいた形跡となると、皆無に近いようだ。

 よほど住みにくいところだったのか。
 沼沢地が多く、また海に出れば魚湧く駿河湾があったにもかかわらず、である。

 そんな縄文人であるが、弁天さんの浜辺までやって来て、石棒(昨日既述)を立てて祈りを捧げたりしたのは、どういう理由であるか。

 この浜に、彼らを招きよせるどういう力があったんだろうか。
 
 彼らは、この地にやって来て、カツオを捕って食糧にするような技術を持っていたんだろうか。
 また、舟を作って大海原に漕ぎ出すような技量を備えていたんだろうか。

 伊豆半島の縄文人は、舟で伊豆の島々と行き来をしていたことは、黒曜石の流れから明らかだが、焼津の縄文人は残念ながらそのあたりのことは不明と言うほかはないようだ。

 逆に、ヤイヅが「ヤ」+「イズ」であれば、伊豆半島の住人のほうが焼津や志太の縄文人より優越性が高い。

 いずれにしても、焼津と伊豆半島は、駿河湾を直で40km、天気さえ良ければ伊豆の山々は良く望める。

 虚空蔵さんという特徴ある山は、海上からは当て山として良い目標になっただろう。またその後ろには、高草山と言う高い山がそびえている。

 太平洋を流れる黒潮の流れからすれば、駿河湾内の焼津などは、本流から外れた訪れにくい傍流の1っ箇所にしか過ぎず、丸木舟ひとつで大海原を行き来する海洋民族からすれば、偶然でもなければ訪れることのない地域だったのかもしれない。

 縄文人も住みにくく、そうかといって海洋民族もなかなか訪れにくい、どちらかというと忘れられた地域であったのが、この志太という地域だったのかもしれない。

 そういう中で、焼津の弁天浜に、縄文の痕跡が残っていたということは、やはり
ただ単に偶然ではなくて、それなりの人を惹きつける力があったんだと言うふうに考えたい。 
 

弁天さんに魅せられて<2>

2007-10-25 20:44:50 | 歴史
上の絵図は昭和15年の焼津弁天浜付近の拡大絵図である。今ではこの景色は跡形もなくなって、全て焼津漁港の水面と岸壁と関連街区になっている。
 下に現在の写真を再掲する。



昔の風景は

 (弁天浜)
こんな風景だったり、


 (弁天公園付近)
こんな風景だったり、


(これは上の絵図中、松月とある茶屋)
こんな風景だったりする。

<写真はいずれも『懐かしの焼津』から借用>

 全くの良き浜だった。


 この浜は、太古の昔から人々を集めていたようである。

①最初の痕跡は縄文晩期(2千数百年前くらいか)の石棒の時代

 この頃は焼津の浜は、噴出す天然ガスによって燃えていたんだろうなあ。
 前に、焼津では今でも天然ガスを採掘していると書いたが、その後いろいろ調べたら、なんと、元々の弁天神社のすぐ近くで、昭和の時代に、漁港となってしまうまで、天然ガスを採掘していたことが判明した。上の図に記載のとおり。
 
 これは、やっぱり焼津の地名起源に迫る事実だと思っているがいかがなものだろうか。

②次は、おそらく弥生中期、稲作技術を伴って、人々がやって来たに違いない。その人々は、焼津からさらに、稲作適地である焼津岡部の境界付近、さらに遡って藤枝市の薮田付近に住み着いた。

③さらに時代ははっきりしないが、カツオのナブラを求めて、海洋・漁労の民もやってきたに違いない。

 私が尊敬する静大の某名誉教授は、ヤイヅは「ヤ」+「イヅ」だと非公式ながら見解を持っていた。
 「ヤ」はほめ言葉の「弥栄」の「ヤ」、冠頭詞の「ヤ」。「イヅ」は文字通り伊豆半島の伊豆で、伊豆から海洋の民がやってきて、この地に着けた名前が「ヤイヅ」だと…

④それから浜当目に居ついたと思われる物部(もののべ)の一族

⑤やがて、そうした人々を征服しにやってきたのが大和朝廷から派遣された日本武尊…

⑥そうした征服の民が築いたのが焼津神社である。

⑦時代は下り、中世になる。建武の乱の頃、後醍醐天皇の皇子、宗良親王・興良親王の御船が着したのがこの弁天浜付近だという。

  ………

なかなか弁天浜は面白い。

弁天さんに魅せられて<1>

2007-10-24 22:04:48 | 歴史
焼津の弁天さん(今の宗像神社)は、歴史的に非常に興味があるところだ。

なんといっても焼津の海からの入り口と、瀬戸川の河口の接点にあったというのが、興味深い。
 今では上の写真で見るように、元々弁天さんのあったところは焼津漁港の港の中になってしまっている。
 その現在の景色を下の写真に示す。




しかし、これは戦後の急速な焼津漁港の発展の中で、この景色のようになったもので、終戦直後の漁港が出来るまではまるで違う景色だった。
それを次に示す。



この写真を見れば一目瞭然のように、昭和21年の段階では、焼津漁港はまだ影も形もなかった。その代わり、のどかな松林の中に弁天さんがあって、その隣には前にも書いた「松月」という茶屋があって、白砂青松のなかなか風光明媚な地であった。
 たとえばそれは次のような写真であった。




ちょうど時代劇に出てくるような、のどかな風景の時代だった。向こうに見えるのは、浜当目の北側の山筋だ。
弁天さんはもともとはこんな風景の一角にあったんだ。

瀬戸川と海との接点。そこに弁天さんは祀られていた。
そこが大事なところだ。(続く)

冬鳥がやって来た

2007-10-23 22:01:34 | 自然を感じて
 はやくも冬鳥がやってきたようですね。

 今日の昼休みに、瀬戸川べりを歩いていたら、写真のようにカモが群れていた。

カモメやカラス、青サギも小サギもいたが、今日はカモが主役だった。
一番生き生きと、群れで存在感がありました。

ヒドリガモのようです。

一応狩猟鳥獣ということになっていて、一日一人5羽まで捕って良いようです。但し、狩猟免許がないと駄目ですがね。

狩猟免許もなかなかうるさくて、免許を取っただけでは狩猟が出来ない。さらに狩猟登録をしないといけない。

まあそうやって、極力野鳥を守ってるってことでしょうね。

猪や鹿などは、増えすぎて困っているようですが。

何事も過ぎたるは及ばざるがごとし、とか。

スタスタってどれくらい?

2007-10-22 21:59:42 | 自然を感じて

 江戸時代、街道交通の主要手段は歩くことだった。人間の2本の足以外に頼るものがない。金持ちや特別な人は、籠や馬に乗ったんだろうが、たいていは歩きが相場だったんだろうね。
 そんな時代、たとえば参勤交代について、大大名であった加賀藩は、江戸までのおよそ4百kmを10日~11日くらいであるいたという。
 お殿様をはじめ、駕籠かきから荷物持ち、お付の者からお女中衆まで、押しなべてその日数で街道を進むわけだから、1日におよそ40kmは歩く勘定になる。天気の悪い日や、山道、川越や峠越えなど、道のりも今と違って難所といわれるところもあったりしたことを考えれば、相当苦難なものであったに違いない。
時速4kmにすると10時間、5kmにして8時間、6kmにして7時間弱、とにかく歩き詰めで歩いたということである。しかも10日間(ないし11日間)連続で。

 現代人から見ると、アンビリバボー!!である。
 年中行事の中で、行きと帰り、それを毎年毎年繰り返す。日常茶飯事の中で、とにかく歩く、歩く。

 いや。全くその速度やタフネスぶりは、ちょっと想像がつかないね。
 スタスタ歩く、っていうけど、そのスタスタっていうのはどのくらいの速度を言うんだろうね。

 現代では、通勤ラッシュ時に血相を変えて行き交う人々を、もっとゆったりと歩けないものか、というニュアンスを込めて、セカセカと歩く、という風に揶揄的に表現するが、昔の人の歩き振りはそんなもんじゃないんじゃないか、と思う。

 スタスタと歩く、というのは、今のセカセカと歩くというのとは、よほどニュアンスは違うが、相当な速度で、しかも力強く、歩んだものではないだろうか。

 下半身が、現代人では信じられないくらいにがっちりと発達していたに違いない。

 それほど日常的に歩くことによって鍛え上げられた人々には、昨今の現代病、あるいは成人病といわれるような、さまざまなどちらかというと贅沢病的な病、あるいは精神的な(ひ弱な)病というものは、考えられなかったに違いない。

 歩くことは良きことかな、健全なる精神は健全なるウォーキングに宿る、に違いない、とわが身を振り返り、つくづく思い、わが身に言い聞かせる今日この頃であります。
 (少しは歩く努力をしているつもりの無精者)地球にも優しいよ。

冬支度の始まりです

2007-10-21 19:32:14 | 自然を感じて
天気は良いのに、馬鹿に寒い日が続くよね。
ついこの間まで、地球温暖化、最高気温更新、などと騒いでいたのが嘘のようですね。

実は昨日、草刈をやったときに、草が青々と、またみずみずしく、1年生雑草のくせに、今になっても枯れないで成長してる、ということに、内心焦りを感じていたんですよ。
エーっ、これってこのままで良いのかよぉってね。
一夜明けて今朝になってみれば、例年通り、寒さが訪れてくれたことに、ホッとしています。草も本当はホッとしてるんじゃないですかね。ああ、これで役目を終えて枯れることが出来るってね。

巡り行く4季の移ろいは、何といっても日本が世界に誇る、最高級の自然ですものね。失われて欲しくない、と思います。

てな訳で、今年も本格的に冬が来てくれることが何となく期待できそうなので、いそいそと?冬支度を始めました。
それが、写真のとおり、ストーブに使う薪作り、なんですねぇ。

切り倒したのは9月始めだったけれど、ずーっと暑い日が続いていたので、とても薪に加工する気がおきなくて、ずっとそのまんまでほっておいたんだ。

寒いことは、嬉しきことかな、なんてね。
雪が降ったときの犬ころみたいなもんだ。
無邪気にはしゃぎまわってる。

これだけでは、まだ一冬持たないので、もう少しみつくろって切り倒す必要がある。
なにしろ、戦後(って言い方で、若い衆に通じるのかな)、薪炭林の更新が滞っているんで、山の木がでかくなり過ぎていて、私のような、にわか百姓じゃあ、切り倒すのが恐いような巨木?が一杯ある。

里山は、ちゃんと手入れをせんと荒れるばっかりだ。

生物多様性国家戦略とタニマチ体質

2007-10-20 21:20:19 | 自然を感じて
第三次生物多様性国家戦略案を斜め読みした。

タイトルはなかなか気になるタイトルであり、“国民からのご意見募集”をしていたから、とりあえず目を通してみた。なんせ、大部、大作であるから、とても片手間で読み遂せるようなものではない。

私にとって関心のある分野に限ってであるが、問題意識のところまでは、大同小異、まあそんなもんだろうな、と思う。<生意気言ってすいません。>

問題は、そうして共有された課題の解決を、いかに国民に分かりやすく、目に見える形で図っていくか、ということだ、と思う。<再び、生意気言ってすいません>

亀の歩みでもいい。確かな解決法の実践。

一番肝心なそこのところになると、やっぱりなかなか一筋縄ではいかない難しさを感じる。

中でも、申し訳ないけれど、やはり官僚の作文だなあ、と思ったところがある。それは、省ごとの縦割り回答、縦割り解決策の提示だ。

環境省、国交省、農水省、等等、省ごとに分けて順番に解決策を提示する。縄張りごとに、課題を割り振り、その回答を集積して解決策とする。万遺漏のない、総花回答。また、省ごとの温度差が感じとれる作文。

環境省は、自分のところの事業であるから、当然個々の対応に対しても熱く、丁寧に書いているが、その他の省は、どちらかというと素っ気無さが目立つか。

“~に対して補助金を交付する。”式の書き方も目立つ。
お付き合いだから、仕方ない。書かないわけにもいかないし、という感じ?かな。

さすが、昔から、省あって国なし、といわれている日本国である。いささかも揺るぎはない。たいしたもんだ、カエルのションベン、というのは下衆のかんぐりか?

各論における総花回答を読んでいるうちに、私のように、頭の悪い人間は、環境対策でトップを走っていたはずの日本であるが、このざまでは、いつの間にか環境後進国に堕すに違いない、という思いがだんだん膨らんできて、暗澹たる気持ちになってしまった。

今だって、新聞のいろいろな記事を拾い読みしていると、ええぇーっ、日本てこんなことも出来てないの、とか、何だかだいぶ遅れちまってるなあ、というような、がっかりするような記事をみかけることが、少なくない。

私は優秀な国家官僚の方々に言いたい。<ムニャムニャ>
環境問題に関しては、日本がひとつにならなければならない。ひとつになって、世界をリードする力を持って欲しい。

官僚の政策も、“補助金”で田舎や地方を動かすという間接的・かつ時代遅れなことでは、もはや地方には、あるいは田舎には通用しない。

官僚の意識や政策が既に現実に追いついていない。
官僚が、そうしたタニマチでいる限り、地方や田舎の実情は、絶対に分かりっこないし、タニマチ体質補助金では、官僚の言いなりになるしかないので、地方や田舎は絶対に良くならない。

現場では日々刻々、事態が古今未曾有のゾーンで突き進んでいる。毎日毎日現場で現実と向き合っている作業員や百姓や地方役場の職員が、その場で解決できる体制に政策の実行手段を変えていかないと、もう通用しない。

メリット、デメリット、いろいろあるだろう。
田舎は日本中に現場がある。その現場の一つ一つに、それぞれの解決策があるはずだから、そのメリットを生かすべきだ。<ムニャムニャ>

何だかそういう妄想をした


秋にイモリの求愛!?

2007-10-19 22:09:36 | 自然を感じて

秋、10月も半ばを過ぎ、夜も肌寒く感じる今日この頃なのに、夜、耳を澄ましていると、“ケロロロッ”、“ケロロロッ”とカエルのような鳴き声が、侘しげに聞こえてくる。

 すると、それに応えるように、少しキーの高めの音声で“キェロロロッ”、“キェロロロッ”と鳴き返す声がする。

 あれえ、これは何かオスメスの求愛行動だなあ、と気がついた。
 そうした応答を何回か繰り返している。

 どうもカエルにしては季節がおかしいなあ、と思って、動物の本を調べた。
 心当たりがあるのは、2~3年前から復活しつつあるアカハライモリだ。カエルと同じ両生類だが、鳴き声というのを聞いたことがない。
 本には、イモリは春だけでなく、秋にも雌に懸命に求愛活動をする、と書いてあった。

 ああそうか、この鳴き声はカエルではなくて、イモリなんだな、と思った。

 イモリの鳴き声って、カエルに似た“ケロロロッ”という鳴き声で良いんだよね。!?

カラスの行水

2007-10-18 19:48:37 | 自然を感じて
川べりを散歩していたら、カラスがのんびり?行水をしてました。
よほど気持ちが良いんでしょうね。入れ替わり立ち替わり、何羽も行水を楽しんでおりました。
 普段は毛嫌いされることの多いカラスですが、よく観察すると、なかなか頭は良さそうだし、腐肉や死んだ魚は処分してくれるし、良いところもあるんですよね。

 こちらが敵意を持っていない時は、向こうも敏感に感じ取るようで、そういう時は至近距離で、何となく会話が出来そうです。

 でも、悪さは良くやりますね、カラスは。人間を人間とも思わない傍若無人な振る舞いが、シャっ面憎くなります。

 また、他の鳥を良く追い掛け回していじめています。鳶なんか、可哀相なもんです。良いようにカラスに追い掛け回されてます。
 河原で、セキレイなんかも追い掛け回してますね。

 この間は、隼の後を突いて滑空しようとしてました。
 あれは始めてみるシーンでした。隼って、飛ぶ姿はとても格好良く、獲物を求めて風に乗って斜めにスーッと流れていく様は、誠に絵になって美しい。

 どうした具合か、カラスがその隼の真似をしようとして、風に乗って流れようとして飛ぶんだが、ぜんぜん駄目だね。格好が無様。
 隼のように風に乗れない。羽をばたばたして、バランスが悪く、見苦しい。

 隼は全く眼中にない風情で、スーッとカラスを置いてけぼりにして行ってしまいました。

 やっぱ違うねえ。

 神様は良くしたもんだ。良く考えて、一種類ずつ才能を与えている。
 自然はやっぱり眺めていて飽きないな。

あ~あ、やだなぁ、バリバリ音が…

2007-10-17 19:51:54 | 自然を感じて
あ~あ、やだなぁ、裏山で、バリバリと、枯れ枝を踏み荒らす音がしてる。夜中になると、この頃良く聞こえてくるんだ。
あれは猪に間違いない。
夜のしじまを破って、突然響いてくるのだから、心臓に悪い。

猪は走るのが結構速い。山の斜面をあっという間に駆け上がっていくのを見たことがある。とても人間ではかなわない。

あんなのに、いきなり飛び出してきて当たられたら、人間の体は無事ではいられない。
恐い恐い。

猪はなかなかグルメで、おいしいものを良く知っている。
自然薯など、どうして探り当てるのか、器用に掘り出して食べつくす。

サトイモの類も、普通のサトイモは目もくれず、おいしい“アカメ”という種類を選んで食べるという。

栗は木に体当たりしてふるい落とし、器用に実を食べるという。

幸いなことに、まだ我が家では猪の被害にあっていないが、我が家以外の近所の家の話や、近くの集落の話を聞くと、だいぶ猪の被害にあっているようだ。
田んぼでも、人家からちょっと離れたところでは、猪に荒らされたという。

山に作った作物は、猪囲いをして、守らなくてはならないから大変だ。
人によっては、カーバイトで猪脅しの空砲を大音響で破裂させて猪を追い払う装置を仕掛けているので、実りの秋が深まってくると、このあたりの山にはこの猪脅しの大音響が、夜中中、あちこちで響き渡っている。

昔は、山の焼畑などでは、家族総出で、一晩中吼え声を上げたり、鳴子を鳴らしたりして、猪追いをしていたというが、なんとも大変なものだったろうな、と実感できるような今日この頃である。

もうひとつの海亀の碑(弁天さんの番外)

2007-10-16 21:03:00 | 自然を感じて
海亀さんの碑がもうひとつ。前にも海亀のお墓を紹介しましたが、また別の碑がありました。こちらは亀の形をした置物がありました。

みんな海亀に航海の無事を祈ったんでしょうね。この碑が立つのは、浜当目の砂丘の中でも最も高い位置で、良く駿河湾が望めます。

たまたま訪ねた日はとても天気が良かったので、とても気持ちが良かったです。でも、近所の御婆さんに、海亀の碑(墓)がどこにあるか知っているか、と尋ねたら、おばあさんは暫く首をかしげて、「知らない」と返事を返してよこした。

もう浜当目の浜では、海亀そのものを見た人がいないのかもしれない。

この碑も、良く見るとお稲荷さんの祠の形をしている。
でも祈る気持ちがあるならば、何でも良いんだよね。きっと。
やさしい気持ちがきっと伝わるよ。

もしもし亀よ、亀さんよ。いつかきっとこの浜にも帰っておいで。
この浜が、君たちが上陸して産卵できるように、何とかして戻しておいて上げるから。
みなさん。ご協力をお願いします。

秋祭り

2007-10-15 20:51:37 | 自然を感じて
田舎では、秋本番。

あちこちで秋祭りが賑やかに行われていますぞい。

というわけで、我が集落でも、賑やかに子供みこしが繰り出した。
リヤカーにくくりつけて、町内一周。
雨が上がって良かったねえ。

少子高齢化で、貴重な未来の担い手たちですぞい。  

元気いっぱい、ワッショイワッショイ。

袋に入れてご祝儀を弾みました。

ところで、我が家の犬は、花火が大の苦手で、どんなに遠くでも、少しでも花火の音が聞こえると、たちまち尻尾を巻いて犬小屋の一番奥にすっこんでしまいます。
犬って、みんな花火が嫌いなんですかねえ?