所詮、農水省のお役人の自己満足法だよな。
法律、政令、施行規則、要綱、要領、云々なんちゃらかんちゃら、微に入り細に入りがんじがらめになるように出来てい
る。
つまるところ、お役人の手の上でしか踊れない。
何が独自性か何が自発性か。
肝心要のところががんじがらめだ。
補助金行政デジャブ―
補助金行政がいかに地方再生に役に立たないか。
その原理を理解しない限り、おんなじことの繰り返しだ。
所詮官僚の自己満足やってる感の上塗りでしかない。
さむしい
所詮、農水省のお役人の自己満足法だよな。
法律、政令、施行規則、要綱、要領、云々なんちゃらかんちゃら、微に入り細に入りがんじがらめになるように出来てい
る。
つまるところ、お役人の手の上でしか踊れない。
何が独自性か何が自発性か。
肝心要のところががんじがらめだ。
補助金行政デジャブ―
補助金行政がいかに地方再生に役に立たないか。
その原理を理解しない限り、おんなじことの繰り返しだ。
所詮官僚の自己満足やってる感の上塗りでしかない。
さむしい
ついこの間まで、(多分ざっと20~30年くらい前まで)、農地や山林は確かに財産としての価値を有していた。農地を持っているだけで、山林を持っているだけで、それだけで財産だったのだ。
弥生時代ごろからのことなんだろうなと思う。二千年来この方、稲作開始とともに計画的な農地開発が始まり、農耕が始まり、農民が出来、農村が出来た。米作りはよほど我が民族と相性が良かったと見えて、米作りはどんどん文化を生み出し、発展させた。人口もどんどん増え、たくさんの外来移住者、帰化人や知識・文明をも迎え入れて立派な日本国を形成した。ざっくりと言ってそういうことなんだろう。
定住農耕社会はいつの間にか我が国の当たり前の社会是となり、米本位制国家を作り上げた。家屋敷田畑山林の財産価値とそれに基づく社会秩序が出来上がった。
第2次大戦後は地主制が我が国の間違いの元だと農地解放があり、ただでさえ細分化されていた農地がさらに細分化され、全国津々浦々、小土地持ちによる土地の分割所有体制が出来上がった。土地を財産とみなして小口に分割して民衆にばらまいたのだ。
戦後80年近いときが経った。今、農村では農地≠財産ではない。
少なくとも私が住む農村では、この農地制度に基づく田畑を、田畑として子孫に積極的に相続させようという姿勢は見られない。この80年の間に、世の中は大きく変化した。80年前に現役で農家だった世代はほぼ絶えた。今はその次の世代の70歳から~80歳の世代が高齢者ながら農業を続ける家は続ける、現在農業の主流世代だ。
その次の40歳~50歳の世代になるともはや現役農業世帯は希少価値となる。
その次の20歳~30歳になると、もはや戦後の農地解放という考え方がとおの昔に通用しない世代となっている。農村で農地持ちの農家でも、元農家とでも表現すべき世代となっている。彼らに農家という意識はない。職業を尋ねれば、普通にサラリーマン、教師、会社員、工員などという回答になるに決まっている。
農地はそうした元農家の手元にたくさん残されている。
この農地は、維持管理に大きな負担を伴う。農業の、のの字もやったことがない子供たちに、ただ元農家であるというだけで農地を相続させることは、固定資産税の負担もさることながら、さらに農地としての適正な維持管理を求めることは多大なる負担を強いることにほかならないという現実がある。
ここ数十年続く農政の現実離れした惨状~口当たりの良い場当たり的な政策の終始~は、上記のような現状に基づく確実な分析と見直し、地に足の着いた政策を行っていかない限り、不毛の連鎖の繰り返しとなって行かざるを得ない。
そう考えている。
都会には選択肢がたくさんある。それは生きる自由度が高いということだろう。
田舎も都会と同様、基本は自由な世界だ。自由な世界であると言いながら、実際の選択肢は極めて限られてしまう。いろいろな旧弊やしがらみ、近所づきあいや親せきづきあい、町内会や農村集落付き合いなど、さらに職業選択の自由度や買い物の選択肢の制約など都会と比較した場合に比べ物にならないくらいに個人の自由選択に対する制約因子が多い。
そうしたことが田舎からの若者の流出につながっているのだろう。
人口減少の我が国で若者が都会でなく地方に住むことを選択するためには、若者に選択肢の幅を広げる工夫をしなければならない。
その有力な手段の一つが土地利用の自由度を高めるということだと考えている。
もちろん、そこにはデメリットもついてくるだろう。だが空き家だけが増え続ける現状から脱却するために、田舎の持つ資源を有効に活用することは必要なことだ。
ただ農地として塩漬けにしておくだけではいかにも勿体ない。荒地化が進み人も住めない原野と化すよりは叡智を絞って有効活用する方策を考えだすべきだ。
自由経済農業とは文字通り自由主義世界でのグローバル競争環境下でしのぎを削る農業である。
本来はそんな農業は好ましいものではないように思うが、現今世界情勢を見ていると自由主義経済圏での資本主義丸出しの弱肉強食論理の農業生産活動が最も人間の本性にあったやり方であることは残念ながら認めるしかない。
人間は所詮欲望の塊だからだ。
一方、戦略的農業とは突き詰めればやっぱり人間の欲望に行き着くのだが、そこをオブラートに包んで別の角度、もっとヒューマニズム的視点からのアプローチとするところに分けるべき必然性がある。
そのうちの一つはズバリ食糧安全保障、自給率の確保だ。昨今の世界の食糧情勢は実に危うい。毎日毎日ひやひやしてニュースを眺めている。70%もの食糧を輸入に頼る現状は、早急に改めるべきだ。日常の風景は一夜にしてころっとひっくり返る。手遅れになる前に是非やってほしい。
そして戦略的農業の今一つは伝統文化の保存継承だ。文化のありようは民族のありようの基本中の基本だ。その風景を農村はたっぷりと持っている。古き良き日本民族の伝統の継承と発展のために、ぜひ農村の余利用保存継承策をつくるべきだ。
サルは困る。
サルは見境なく農作物を食い荒らす。
秋以降、柑橘や柿など山の畑に実る農作物のほかに、いろいろな自然の果実類が豊富に実るので、
サルたちは里から去り、山に帰っていたが、そろそろ山にも食い物が底をついて来たようで、里に下りて来た。
これは今日猟友会の会員から得た情報だ。
既に奥の方の集落ではサル罠に数匹がかかったということだ。
という話を午前中にして、午後、何となく我が家の裏山に気を配りながら畑仕事をしていたら、
突然、バリバリ、という木の枝を割く音が響いて来た。
アレッ?と音のした方を見やると、裂けた枝がぶらぶらと揺れている。
あれあれ、なんということだ。早々とサルが現れた。
その裂けた枝のすぐ先には夏ミカンの樹があって、黄色い実が人目(サル目)を引いたに違いない。
こりゃあかん、うっかりしているとこちらの畑まで侵入されてしまう。
それは避けなければならない。
すぐに龍勢という花火を持ち出して、威嚇のために一発発射してやった。
ガサッと音がして直ぐに静寂が支配した。
やれやれ、今日のところは退散したらしい。
しかし本格的なサルとの戦いはこれからだ。
気を引き締めて、やって行くぞい。
サル候なんかにゃ負けられん。
こっちは生活がかかっているんだぞい。