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田舎はよろし

本当に田舎暮らしが良い。お日様に合わせ、日がな一日中暮らす。気ままなものだ、

衣原は実に興味深い

2024-07-21 17:12:00 | 歴史
藤枝市葉梨地区に通称"衣原(コロンバラ)"と呼ばれている地域がある。このコロンバラは、新東名高速道路が出来るまではなだらかな丘陵上に一面にお茶畑が広がるのどかな田舎の風景だった。それが新東名の建設工事による発掘調査で歴史的に実に興味深い地域であることが分かってしまったのです。弥生時代から現代まで、連綿と歴史が刻みこまれて来た地域であることが、分かったのです。残念ながらその確たる記録史料はほとんど残されていない。にもかかわらず、新東名高速道路の建設に伴う発掘調査により、水田跡や住居跡、古墳や古窯祉などが層厚く出てきたのである。知られざるコロンバラの歴史が突如現代に現れて来たのである。
コロンバラの歴史がどういうふうになっているのか、読み解いていくという作業が必要な場所であることも分かった。とても楽しみなところ
です。

4つの延喜式内社

2024-02-18 20:35:00 | 歴史
志太平野には4つの延喜式内社がある。志太地域は先史時代の日本列島の中では米作りが始まったのが遅い部類に入る。弥生時代中期後半だそうだかペースで開発が進められたようだ。その分布が、延期式内社のそれで良く理解出来るように思う。
物部氏の那閇神社、日本部尊を祀る焼津神社、志太地区最古という飽波神社、そして岡部にある三輪神社。これらの神社はいづれも中央の紐付きであることがすぐに連想出来る神社ばかりだ。中央の出来事に合わせた地域の成り立ちをそれなりに読み解きやすいように考えられる。
もちろんそれ以外の地域のいろんなことがらを考え合わせながらの上ではあるが。

今日は清水寺の縁日だった

2024-02-17 20:18:00 | 歴史
今日は藤枝市原にある市内きっての古刹、音羽山清水寺の縁日でした。この通称きよみずさんは、神亀三年(726年)行基菩薩の開創と伝えられている由。
写真にもあるとおり、昔から必ず焼津の業者がマグロを奉納する慣わしが有るようだ。この志太・益津地区では焼津浜遠目にあるこくぞうさんと並び、昔からのこの時期に善男善女がお参りする古い祭典だ。

衣原は高霊原(その2)

2019-02-22 17:34:10 | 歴史
衣原遺跡の発掘によって、6世紀後半の須恵器窯が発掘された。何でもこの時期の須恵器窯は珍しいのだそうで、全国展開も初期の頃にあたるということらしい。そんなに極端に珍しいということでもないが、県内では他に一例か二例か、そんな程度ではあるようだ。
またこの地区の古墳(円墳)の発掘も同時に行われ、その副葬品からやはり6世紀後半の古墳であることが分かっている。
6世紀後半と言えば、国内では蘇我氏が絶頂を極め、また任那日本府が滅亡し、大勢の帰化人が発生していた時期でもある。

衣原は高霊原(その1)

2019-02-21 20:13:59 | 歴史
我が住む藤枝の葉梨には衣原(ころんばら)という地区がある。この地区を通った新東名高速道路の工事に伴い、衣原遺跡の発掘調査が行われた。詳細は省くが、その発掘により、これまで分かっていなかった様々な新しいことが分かってきた。おいおいと説明していこう。

旧い母屋をつぶすことにした

2014-08-12 20:49:01 | 歴史
安政2年に移築されたと言い伝えられてきた旧い母屋を、いよいよつぶすことに決めた。

大決断だ。

けれど決断の根拠は至って単純明快。

根太の傷みが激しく、上屋が大分傾いで来たからだ。

このまま放っておくと、よたって新しい住まいのほうに倒れ掛かってきてしまう。

台風でも来れば一発だ。

危機感は日に日につのり、とうとうつぶす決心をした。

しかし、旧い母屋の歴史は古い。

相当の重みを持っているようだ。

なんせ、太平洋戦争に負けたときに、満州や台湾に出張っていたわが家族の一統が大挙して引き上げてきて、

我が家には一時5家族が住みこんでいたというから、すごい。

その大家族を全て飲み込んで、泰然と建っていたのがこの古い母屋だ。

元々は何ということもないただの平屋の田の字型の農家住宅だ。

中二階に蚕部屋があったようであるが、

大正14年、その農家住宅に総二階を増築したのだった。

現在我々が目にする姿は、その増築された総2階建ての古家なのです。

見るからにどっしりとしているが、なんせ傷みが激しい。

大変に惜しいことは惜しいが、やむを得ない。

9月10日から解体に入ります。

無能無策の官僚では日本は再生不可

2010-08-15 21:56:04 | 歴史
再生では語弊があるかな

未来に希望が持てるかどうかの方が良いのかな

法解釈と前例踏襲の統治が国家目的である官僚では、

現状の未曾有の事態に立ち向かうことは不可能であることは、残念ながら目に見えている

現状打開をいかに図るか

~~~

隅々まで

ものすごく繊細に

あらゆる方面、仕組みに、からくり細工のように汲み上げられた日本の

現状を、正すのは容易ではない。

どこかを
壊すしかないね

思い切って

堰を切ったようにという言葉があるが、

1か所、たった1箇所でいい。

確実に、現状突破が出来れば、後は成り行きが事を決める。

~~~~
そういった意味では、腰砕けの民主には無理だ

肝が据わっていない、分かっていない

~~~~~
みんなの党がどこまで戦略的にやれるか

局地戦では所詮何事もなしえない

胆力と知力が試される

~~~~

今求められているのは

反戦でも平和でもない

閉塞感の反語

破壊

ではないか

"優等”民族の幻想

2010-08-14 21:52:53 | 歴史
世界に冠たる“優等”民族

JAPONICA JAPON

“してはならない”足かせ ex:戦争!!

“してはならない”ことはない

体で覚え、体で考える

体験しなければ分からないこともある
  ↓
空理空論の押し付け ⇒ 教条主義の平和
  ↓
日本の閉塞感の源泉

何もしない、何も出来ない、教条主義の申し子、成績優秀エリート、国家官僚

向かってくる全ての未曾有の新規事象に勇気と英知を振り絞って、敢えて立ち向かおうとせず、その覚悟さえ持たず、

困難問題は座視し、手をこまねき、

内向きの、経験上許される範囲内でしか解答を求めようとしない安全主義者、国家官僚

内(地方)には強く、ごっつあん体質だが、

海外や、こわもてが通用しないやからには、なすすべが無い国家官僚

彼らが支配する教条主義国家 日本

終わりの始まりを悟る 2010

暑さはもはや限界を越えた

日本の官僚って、時代遅れや

2010-08-08 19:07:40 | 歴史
日本の官僚って、公務員試験に受かった途端に思考停止してしまう。

そこからは、ただの公務員貴族に成り下がってしまうようだ。

かくいう私もかつて、30数年前に国家公務員上級甲種○○職、8番で合格した経験があります。

この8番というのが曲者ですな。

今にして思うと。

この順位が一生付いて回る。

幸か不幸か、私はたまたま国家官僚にはなりませんでしたが。


所詮公務員にも関わらず、天下国家を預かる身となる。

この仕組みって、もう一工夫ないと、おかしい。

公務員は、所詮 公僕、指図されるままに動く能力に優れているに過ぎない。

天下国家を論じ、動かすのは、そうした訓練を受けていなければ、おかしい。

文部科学省に飾ってあるという、『自警』という、森有禮の明治19年の書

その最終節にこう書いてあるそうな。

「…省務ノ整理上進ムヲ謀リ

若シ其進ミタルモイササカモ之ニ安ンゼズ

愈々謀リ

愈々進メ

終ニ以テ其職ニ死スル精神 覚悟アルヲ要ス」

これって、葉隠れの精神

 『武士道トハ死ヌコトト見ツケタリ』

に通ずる潔さを感じる言葉である。

公務員試験の合格者は所詮雇用人にしか過ぎない。

それって、国を託すには全く不十分ではありませんか。

東大法学部を出た国家公務員に何人か使えたことがあるが、中には事務次官を勤めた人もいたが、

1998年から2002年まで、

上級公務員の駄目さ加減を肌を持って知りました。

旧帝国陸軍と今の官僚制度が重なって見えてしょうがありません。

この国はカタストロフィまでいくしかないんでしょうかね。


竜神さんの池祭り

2009-10-05 19:26:07 | 歴史
昨日の日曜日は我が集落の池の竜神さんのお祭りでごんした。

むかあし むかし、もう亡くなった お婆さんが、池に向かって小便をひったげな。

昔は女衆だって、平気で着物の裾をまくり上げて、尻を突き出して、道端で小便をひったもんだっちゃ。

私も小さい頃に、うちの婆さんや、近所の婆さん達が、道端でそうして小便をひるのを普段の景色として何の違和感もなく、感じてたもんだったが。

で、そのとき池に向かって小便をひった婆さんがな、その日に家に帰って熱を出して寝込んでしまったんだと。

そうしたらそれは きっと池の竜神さんの祟りに違いない ということで

その祟りを鎮めるために それからお祭りをするようになったんだと。

お祭りの日は10月1日でした。

でも、もともと竜神さんとは 稲作の神様のことだったんじゃあないかな、と思うので、小便をひろうがひるまいが 

池の神様としてお祭りをしていたんではないかな とおもっているのでありまする

虚空蔵さんの縁日

2008-02-23 21:47:13 | 歴史
2月23日は焼津の虚空蔵さんの縁日の日だ。

子供の頃から、とても楽しみな日だった。沿道の、すぐ登り口の脇にある酒屋を何故かよく覚えている。

今では其処によって、一杯暖かいのを引っ掛けて帰るのが、とても楽しみになっているが。

と言うわけで、まず、虚空蔵山の下にある広徳院の奉納の様子から↓



大きな達磨と共に、マグロが奉納されているのが目に付いた。

マグロは、先週の藤枝清水さんの縁日に清水寺に奉納されていたが、こちらも同じように奉納されていた。

ただ、清水山の奉納マグロのほうが大きかったような気がする。

達磨は、さすがに、ここの売りだけあって、大きなものが飾られていたし、沿道に出ている達磨売りの店の数もたくさんあった。



達磨売りの姉ちゃんも張り切って可愛かったよ。

今日は変な天気で、晴れていたにもかかわらず、朝から雨がぱらぱら降ってきたり、天気予報晴れだったのにも関わらず、である。

昼には強い風が吹いて、横殴りの雨が降った。

しかし、それも一時雨で、雨が去ってからはそこそこ天気はよくなったが、一気に寒い空気が流れ込んできた。

それでも、虚空蔵山の山頂に登って、お参りしてきた。

以下に登り口から山頂までの様子数枚写真を並べる。

まず登り口



4町目付近




途中の香集寺山門(この山門は今にも倒れそうで、立ち入り禁止となっている)



やったあ山頂や



山頂で6町目というのも変な話だが、ここ虚空蔵山はどういうわけか、6町目で山頂となっている。
ここのお堂の中に虚空蔵尊が安置されている。

以下、由来記↓



と言うわけで、山頂までの往復を含め、今日は結構ハードな歩きの一日でありました。

虚空蔵さん

2008-02-20 20:32:06 | 歴史
虚空蔵さんについて

昨日は清水さんについて書いたから、今日は虚空蔵さんだ。

虚空蔵さんの縁日は2月23日だ。

ちょうど今週末の土曜日にあたる。

虚空蔵さんは、23日と火を決めているので、平日に行われることも多い。

これも、清水さんの縁日と同じように、とても寒い時期にある。

それでも、志太地区の善男善女が、大挙して参詣にやってくる。

私も物心つく頃から、母親に連れられてよく行ったもんだ。

母親の在所が藤枝市の西益津地内にあり、よく泊まりに行ったもんだが、虚空蔵さんのときも必ず泊まりに行った。

母親の在所は、西益津の平島と言う地区にあった。(今もあるが)

平島と言うところは、とても古い歴史のあるところだ。

それこそ、弥生時代に最初に志太地区で米作の始まった地域のひとつだろう。

同じ西益津地区には、益津郡の郡衙跡が出土している。

また、徳川家康と武田信玄が激しい争奪戦を繰り広げた田中城跡もある。

そんな西益津の平島にある、オフクロの在所から虚空蔵さんに行くには、子供の頃には車もなく、バスの便も大して良くなかったから、瀬戸川沿いに歩いて行った記憶がある。

寒い風に吹かれながら、それでも元気に歩きとおした記憶がある。

おもちゃやたんきり飴、たい焼きなどを買って帰って、囲炉裏端でわいわい言いながら、楽しく過ごしたものだった。

それもせいぜい小学生くらいまでの記憶だなあ。

成長するにつれ、記憶がだんだんつまらなく、なってしまっているのは、どうしてなんだろう。

実際、オフクロの在所も、その周囲の景色も、交通社会も近代化も、社会環境も、なにもかもが子供の頃とはまるきり異なってしまったということがとても大きいように思う。

とてもさびしい、浦島太郎のような気分だ。

清水さんと虚空蔵さん

2008-02-19 22:14:59 | 歴史
清水(きよみず)さんと虚空蔵(こくぞう)さん

共に、志太地域にある古いお寺さんだ。

もっとも、虚空蔵さんのほうは、今は山の上のお堂しか残っていないが。

共に、2月の寒い時期に縁日があって、志太地域の全域から善男善女が参詣に集まって来る。

清水さんは2月の17日、虚空蔵さんは2月23日だ。

清水さんに焼津の漁師が参詣するように、虚空蔵さんにも藤枝からはるばる参詣に出かける風習は、昔から続いている。

清水さんへの参詣について言えば、葉梨の我が家からだと、昔(私が子供の頃)は原の清水さんへは下之郷横見の集落から、横見山をまっすぐ登り、山頂を抜けて向こう側に下り、原山の中腹にある清水さんを目指したものだ。

登りの道には、途中に観音さまが置いてあって、目印になった。

小さい頃に登った道で、1年に一回しか通らない道なのに、何となく記憶に残っていて、次の年に通るときに、ああ、この道だ、と何となく懐かしく確認しながら登っていったことを覚えている。

苦労してその道をよじ登っていると、ああ、清水さんなんだな、と実感がわいてきた。

山頂を過ぎて下りに入り、だんだん下って行って、疲れたなあ、と思う頃、ひょっと清水さんの裏ヤブに当たる。

本当に突然行き当たる。

あれ、と意外に思う。

遠い遠いと思っていたけれど、なんだかとても近かったんだなあと、妙な感じで、突然賑やかなお祭りの世界に入り込んでゆく。

そんな清水さんの境内では、昔はいろんな芸ごとがかかっていたような気がする。

オートバイの宙返りや、蛇使いの蛇飲みなどが記憶に残っている。

お参りして、露店で駄菓子やおもちゃを買ってとても嬉しかったことを覚えている。

帰りは、暗くならないうちに、、また山を越えて帰ってきたんだろうな、きっと。

けりの記憶は全く残っていない。不思議なものだ。

うちに帰れば、昔の農家に特有の、自家製のご馳走が待っていた。

手作りお寿司(今のおすしと違って、ひとつひとつを出来合いの型で抜くのだが、この型が昔はすこぶる大きく出来ていた。ご飯の固まりが大きなものだった。具は逆に小さく、醤油をたっぷりつけて、しょっぱくして食べなければ、ご飯があまってしまった)、白和え、煮物。

今から見れば、素朴なものだったが、とてもご馳走だった。
お祭りは嬉しいものだった。

そんな、素直にお祭りが楽しめたのも、せいぜい小学生くらいまでかな。

横見山を抜ける参詣路は、何時の間にか、通らなくなってしまった

志太平野の式内社

2007-11-19 20:07:58 | 歴史
<薀蓄>まあ、ちょっと我慢して聞いてください。

 志太平野には、延喜式内社と呼ばれる、由緒正しい古社が4座あります。

 それが、上の図に示した4社です。

 古いほうから順番に

 1 飽波神社(藤枝市) 仁徳天皇の時代 (5世紀前半?)
 2 焼津神社(焼津市) 反正天皇の時代 (5世紀中ごろ?)
 3 那閇神社(焼津市) 継体天皇の時代 (6世紀初期?)
 4 三輪神社(岡部町) 皇極天皇の時代 (7世紀半ば)

 です。

 いづれも昔の益津郡といわれるところにあります。

 今でこそ、志太郡、あるいは志太平野と言って、“志太”という名前だけが優勢で残っていますが、昔昔の大昔は、志太平野はかなりの部分が益津(ましづ)郡と呼ばれる地域だったんですね。

 益津郡大体瀬戸川下流部一帯は益津郡だった。飽波神社のあるあたりも益津郡だったようですね。瀬戸川にかかる勝草橋あたりが境界だったんでしょうか。
そのあたりから西側、瀬戸川右岸はもう“志太”と呼ばれる地域になってしまうので、だいたいその辺が境だったようですね。

 今の藤枝市役所のある辺りも、蓮花寺池、から鬼岩寺あたりまで益津郡だったようですね。

 で、昔々の大昔は焼津港から瀬戸川を遡り、朝比奈川流域、葉梨川流域、瀬戸川流域が益津郡だった。

 独断と偏見、勝手な解釈で言うと、弥生時代中期に、初期の稲作の民が清水遺跡や薮田遺跡に住み着いた後、三々五々とそうした3つの河川の流域の低湿地に稲作の民が居つき、だんだん北上して開発を進めた。

 志太平野でも古くから開発が進んだのが益津郡で、低湿地のある3つの河川の下流域部だった。とりわけ、葉梨川流域は、低湿地で排水が悪く、今でもイカルミ(怒る海)、潮、薮田、中田、沖田などという地名が残るくらい、低湿地だった。それが朝比奈川と合流するあたりも低く湿地で、そこから八楠あたりまでも、ずっと低湿地だった。

 それは、暴れ河川といわれる大井川が、大量の土砂を吐き出して、金谷あたりから東に向かって広大な扇状地を形作っていたからであり、その土砂に押されて瀬戸川が東に曲げられ、またそのために葉梨川が東に曲げられてしまった。で、結局葉梨川は朝比奈川と合わさって、辛うじて高草山の山裾を流れていた、というわけであります。
 大井川の本流は、焼津の石津あたりまで、ずっとその大量の土砂を吐き出していたようでありますな。

 あまりに大井川が暴れ河川過ぎて、当時の稲作の民の力では、とても太刀打ちできなかった。最初から大井川など稲を作る地としては眼中になかったわけでありますな。

 そこで、彼らの力で太刀打ちできる河川である瀬戸川筋のうちでも、もっとも優しい低湿地である清水遺跡あたりから手を付け、だんだん定着を進めて行った。

 3百年も4百年もかけて開発し、飽波神社のあたりまで開発を進め、水を取り入れるための装置を作り、稲作の民の象徴として水を制御する神、瀬織津姫を祀り、飽波神社とした。瀬戸川からの水の取り入れ口辺りに当たるんでしょうな、きっと。飽波神社は。

 益津郡の最上流部、益津郡の命の守り神として祀られたものが、志太平野の最も古い神社、飽波神社だったんでしょうな、きっと。

<最後までお付き合い、

  

縄文が1万年、稲作が2千年

2007-11-05 20:40:44 | 歴史
 鶴は千年、亀は万年。
 弥生時代は2千年、縄文時代は1万年。

 まあ、せいぜい鶴の年くらいだったんだね。稲作文化は。

 でも、その2千年という長い時を、ずっと支えてきたのが稲作文化だとすると、これはやっぱり侮れないでしょう。

 志太平野にある飽波神社は、仁徳天皇6年(4世紀?)創建と伝えられ、志太平野で一番古い延喜式内社といわれている。湧波(わくなみ)神社とも、川関(かわせぎ)神社とも伝えられ、いずれにしても水を制御する神様、稲作のための神様だったようだ。

 この頃になると、志太平野初期の稲作り遺跡、清水遺跡と違って、もっと高度に稲作のための水利を図る技術集団が入ってきていたんだろう。急流の暴れ河川である瀬戸川を制御し、関を作り、水を引き、というようなことを行っていたんだろうね、きっと。

 飽波神社は、ちょうど益津郡と志太郡の境辺りの益津郡内で、瀬戸川の一番上流部に当たるあたりで祀られており、飽波神社から下流部にあたる益津郡といわれた一帯をコントロールしたものと思われます。
(推測ですがね)

 以来約2千年弱、志太平野では連綿と稲作が行われ、それに伴う風土、歴史、文化、全てがそこから作り出される米のエネルギーの元で形作られてきたわけですね。

 米の力は偉大でありましたな。やっぱり神様ですよ。これは。

 全てが米に始まり、米に終わる…

 天皇陛下もだてに天皇家を伝えているわけではない。
 それなりにちゃんと根拠がある。

 人文風景だけでなく、自然風景だって稲作を中心に作られて伝えられてきた。
 カエルだって、オケラだって、アメンボだって、

 稲を作るための水利の流れの中で、育まれてきた。

 でもその技術や水利は、つい先ごろまでは、今の新しい技術に比べてはるかに自然調和的で、自然の生き物に優しかった。
 自然の生き物を絶やす、あるいは寄せ付けない、現代技術は彼らにとって見れば悪魔か魔物に見えるでしょうね、きっと。

 土木の技術のみを取り入れた農業技術は、農業環境を滅ぼしてしまった。

 お百姓さんは嬉々としてコンクリで水路を固め、畦を作り、「ああ、草刈の手間がなくなって助かる。」と喜んでいる。

 自然の生物には救いがない。

 かくして、昨日まではお友達だったお百姓さんに見放されて、自然の生き物たちは滅んでいった。